第2話:灰色の空02


◆◆◆◆


 立派な自動車に乗せられて俺が連れていかれた先は、郊外に建つ大きな屋敷だった。一応服装はクローゼットにある中で一番ましな奴を着て、靴の泥も落としてブラシをかけておいた。髪もとかしたし、ひげも剃った。剃刀が錆びていてあちこち傷がついたけど、まあ気にしないでくれるだろう。

 身だしなみを整えるのも、誰かに会う用意をするのも面倒くさいしどうでもいいと思っていたが、今回ばかりは違う。何しろ俺を招待した相手。それは――


「よく来てくれましたね、あなたを歓迎しましょう。ジャック・グッドフェロー」

「こちらこそ、お会いできて光栄だ。『オールドレディ』エリザベス・スターリング」


 執事が案内した一室で俺を待っていたのは、上品な服に身を包んだ老婦人だった。結構な高齢なのは見て取れるが、背筋はしっかりと伸びているし、弱々しい雰囲気は少しも感じない。顔には深いしわがいくつも刻まれているけど、それさえも彼女の品の良さを引き立てている。

 老婦人の名前はエリザベス・スターリング。俺がかつてライダーだったころ、誰よりも尊敬したライダーだ。優秀なライダーが何人も名を連ねるスターリング家の出身にふさわしく、彼女もまたとんでもなく優秀なライダーだった。ドラゴンライディングの選手としては、女性で約五十年ぶりの三冠を達成。冒険家としては、何本もの新空路を発見し、あのサーペンタイン群島への安全な航路を確立したことは何よりも有名だ。恐れを知らぬ優雅でありながら勇敢なその騎乗スタイルは、俺たちライダーにとってまさに高根の花だった。


「ふふふ、懐かしい名前ね」


 かつてのあだ名だったオールドレディ、という名前を聞いて、エリザベスは優雅な笑みを浮かべる。皮肉なことに、若い時から彼女はオールドレディと呼ばれていたらしい。相棒として乗りこなした竜、極東から来た『大鳳』が、数代にわたって受け継がれてきた老いた竜だったからだ。もともとは大鳳のあだ名だったオールドレディが、いつの間にかそれに乗るエリザベスのあだ名になったのはなんとも奇妙な話だ。


「俺たちの世代じゃ、オールドレディの名は国王陛下の名前よりも尊敬するべき名前だったんだ。今でも、あの時のことは思い出す。遠い昔の思い出だ」


 俺はつい昔を懐かしむ。あの頃――空の果てまで飛べるんじゃないかと勘違いしていたころが懐かしい。騎乗の技術を学び、ライバルと競い合い、相棒の竜とのつながりを深めていく。竜に魂を食われるその感覚でさえ愛おしかった。何よりも、あの時は俺の隣に無二の親友がいた。


「今はもう、オールドレディのスカートの後ろに隠れているだけなのかしら?」


 エリザベスはとげのある言い方をする。わざとそう言ってるのがよく分かる。


「いろいろあったんだ。今の俺は、ライダーとしては搾りカスもいいところなんでね」


 俺は曖昧に肩をすくめる。さげすまれても、怒る気力はとうの昔に俺の中から消えている。


「あなたのことは調べたわ、ジャック・グッドフェロー。第四十四回フォモール海調査隊を救助した救命ライダー。極東天覧試合三位入賞。アウレリウス賞一位。なかなかの実績ね。ただの三流ドラゴンライディングのコーチにしておくにはもったいない人材だわ」


 すらすらとエリザベスは俺の経歴を口にする。嵐で荒れ狂うフォモール海を飛び、調査隊を誰一人失わずに港まで送り届けたときの充実感。はるばる極東まで船に揺られ、着いた先で歴戦のライダーたちと繰り広げたドラゴンライディングと、貴賓席に座るミカドのすべてを見通すような目。そして、一位を取った時の最高の感覚。その瞬間だけは、自分こそが最速で最強だと実感できる、はかなくも血がたぎるあの刹那。

 なにもかも、手の中からすり抜けてしまったものばかりだ。空になった酒瓶をのぞき込んでも、すでに飲み干してしまったらしくもうどこにも見つからない。


「残念だがオールドレディ。俺は右手がこんなだし、たちの悪い幻肢痛まで抱えているんだ」


 俺はエリザベスに右手の五指をぎこちなく動かして見せた。俺の右腕は肩から失われている。そこにあるのは、作り物の腕と手だ。それなのに、突発的になくしたはずの腕が激しく痛むことがある。前触れもなく痛むこともあるが、大抵はこの手を失った時のことを思い出した時だ。行きつけのやぶ医者は幻肢痛だと言って、根本的な治療方法はないと首を左右に振っていた。そりゃそうだろう。存在しない手が痛むんだ。飲み薬も湿布も軟膏も意味がなくて当たり前だ。

 俺は何をするときも「今痛みが襲ってきたらどうしようか」と内心びくついている。まして、自分の竜に乗って空高く舞い上がるなんて無理な話だ。借り物の竜で低空をふらふら飛ぶ程度ならいいが、本気で飛んでいるときに幻肢痛が襲ってきたら、その先は考えたくもない。間違いなく制御を失い、手綱を離して地面へ真っ逆さまだ。


「あなたが何を考えているのかは知らないが、俺はもう自分の竜には乗らないんだ。これ以上魂を食われたくないからな」


 俺たちライダーと、相棒として心に決めた竜との間には深いつながりが生まれる。竜は乗り手の魂を食って燃料にする、とライダーたちは信じている。魂、と簡単に言っているが、それが何なのか分からない。俺たちの本質、記憶、生命、そう言ったものをひっくるめて雑に魂と言っている。俺はもう自分の竜『インディペンデンス』を竜骨から呼ぶことはしない。もしあいつを呼んだら、きっとあいつは俺の魂を食らうだろう。そうしたら、後に残ってるのは何もできない抜け殻だけだ。俺はそう根拠もなく思い込んでいる。


「あなたにとって、空は広すぎたようね、坊や」


 俺の見苦しい言い訳を、エリザベスは口を挟まずに聞いてからそう言ってわずかにため息をついた。失望されたのがよくわかる。だが悔しくはない。それは当然の評価だからだ。かつての俺は、尊敬するオールドレディに失望されたら死ぬほど悔しかったことだろう。でも、今の俺はわずかに胸が痛むだけだった。なくしたはずの右腕の痛みに比べれば、耐えられる痛みだ。


「でも安心しなさい。私はあなたに飛べとは言ってないわ。あなたにコーチをお願いしたいのよ」

「なんだって?」


 聞き間違いかと思うようなエリザベスの言葉に、俺は驚きで目を見開いた。


「私の不肖の孫。『ギャロッピングレディ』エミリア・スターリングのコーチを」


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