隻翼のドラゴンライダー

高田正人

第1話:灰色の空01


◆◆◆◆


 この世界から、本当の青空が失われて久しい。西方の海に囲まれた帝国『プランタジネット』。その首都『エグバート』。産業革命の後の工業の発達により、建ち並ぶ煙突からのばい煙にけむる大都市。文明は地球で言うところの十九世紀末から二十世紀初頭に近い。地下から採掘される『熱水』を動力とした工業により、国民の生活水準は大きく引き上げられると同時に、大気の汚染もまた深刻化していた。

 今や、清浄な青空ははるかかなたであり、地上は汚染されたばい煙に覆われた灰色の世界となっていた。この世界で唯一、清浄な青空を知る者たち。それはライダーと呼ばれる、『竜骨』から生成されて魂を燃料とする竜に乗り、空から冒険家を導く先導者たちだけだった。だがそのライダーもまた、ドラゴンライディングの選手として竜に乗り、金と名声に取り付かれた者の方が圧倒的に多い。人々の目は、変わり果てた空を見上げることさえなくなっていた……。


◆◆◆◆


「号外! 号外! 号外だよ! 今日のプリムローズ杯の結果が載ってるよ!」


 ブラックソーン通りで、新聞の売り子の少年が大声を上げている。すぐ側を最新のデザインの自動車が通り過ぎる。田舎から出てきたらしい若者たちが、自動車の走る姿を振り返って見ている。満員の市電が重苦しく線路の上を走り、労働者たちが地べたに座り込んで紅茶を飲んでいる。果物屋が店先に船便で届いたばかりの珍しい果物を並べ、ぴかぴかの制服を着た警官が警棒を手で弄びながら、威張った調子で周囲に目を配っている。どこを見ても、代わり映えのしないエグバートの光景だ。


「優勝したのは、公国出身の外国人ライダー、ルートヴィヒ・シュミットとその竜ザイドリッツだ! 俺たち期待のエミリア・スターリングはまたしても最下位! 最下位だ!」


 少年の言葉に、通りを行く人たちが互いに言葉を交わしているのが聞こえる。そのほとんどが、試合に勝った外国人ライダーを誉める言葉ではなくて、最下位になったライダーをさげすむ言葉だ。


「スターリング家の娘がまたも無様をさらしたか……」

「あの子、本当にドラゴンライディングのルールを分かってるのか?」

「ただの暴走機関車だな、あれは」

「情けない。スターリング家の恥さらしもいいところだ」


 身なりのいい紳士たちが、そう言いながら肩をすくめてため息をつく。プリムローズ杯は伝統あるドラゴンライディングの試合だ。非公式で開かれる野良のドラゴンライディングには賭け事に興じる連中ばかりが集まってくるが、プリムローズ杯のような格式の高い試合には、上流階級の紳士淑女も観戦に訪れる。噂好きの彼らや彼女らにああ言われるようでは、最下位のライダーの評判はどんどんと地に落ちていくことだろう。

 紳士たちのすぐ後ろを歩いていた、有名な学校の制服を着た女子生徒たちも顔を見合わせて笑っていた。


「知ってる? あの子のあだ名」

「知ってる知ってる。『ギャロッピングレディ』でしょ」

「お似合いよね」

「あーあ。あの子何回最下位になったら気が済むのかな?」


 疾走するお嬢さん(ギャロッピングレディ)。なんともでたらめで不名誉なあだ名だ。俺はツタの這う壁にもたれかかっていた体を起こして、ふらつく足取りで売り子の少年の方に向かう。さっきまで飲んでいた酒が安物だったせいで、悪酔いしていて吐き気がする。ただでさえばい煙で汚れた空気を吸い込んでいたせいで胸がむかむかしていたのに、安酒のアルコールが輪をかけて気分を悪くする。

 俺の隣をすり抜けながら、女子生徒たちが不審者を見る目で俺を見た。それもそうだろう。俺は昼間から酔っ払っているし、見た目は薄汚れた服を着て、髪もろくにとかしていないどう見ても怪しげな男だ。雑貨屋のショーウィンドーに、無精ひげが伸びて頬のこけた目つきの悪い男の顔が映っていた。情けないと思う気持ちも失われて久しい。


「――おじさん、一部どうだい? 号外だよ」


 俺が売り子の少年に近づくと、案の定少年は俺を「おじさん」呼ばわりして号外を突きつける。強引さと厚かましさが同居した仕草だ。少年の身なりは決していいものじゃない。家計を支えるためにこうやって働いているんだろう。けれども少年の態度には悲しそうな感じはなく、むしろたくましく元気な雰囲気を全身に漂わせている。こうやって日銭を稼ぎ、いつか一山当てる夢があるのかもしれない。俺は少年におじさんと呼ばれたことで、わずかに残ったプライドがうずいた。


「俺はまだお兄さんだ。おじさんはやめろ」


 そう言ったが、少年は心底どうでもいい顔で、さらに号外を俺に押し付けてきた。


「どっちでもいいよ。読むんだろ?」

「ああ、くれ」


 俺が無造作に右手を伸ばすと、少年の目が驚きで見開かれた。


「――うわ。どうしたんだそれ?」


 ぶしつけな質問にも、俺はなんとも感じない。少年の興味津々な目も当然だろう。俺の右腕は肩から先が精巧な義手だ。有名な老舗「エリック&エピック」製の義手で、定期的にメンテナンスをすれば、感覚が鈍いことさえ除けば本物の手の代わりは果たしてくれる。もちろん、燃料の熱水を定期的に補給する必要もあるが。最近はメンテナンスもいい加減になっているため、中指の動きが鈍くなってきた。関節にゴミやカスも溜まってきたが、いちいち分解して掃除するのが面倒だ。


「昔、事故でな」


 俺が適当に答えると、あっさりと少年の興味は満たされたらしい。


「ふーん。大変だな。気をつけろよ」


 そう言うと、すぐに少年はよそを向いてまた叫びだす。


「号外号外! 号外だよ――!」


 号外を受け取った以上、もう俺は少年にとって用済みのようだ。俺は足早にその場を離れつつ、空を見上げた。国中の家や工場の煙突から立ち上るばい煙に汚された、灰色の空。この国のどこにいても、たとえ晴れていても、ばい煙からは逃れられない。息の詰まるような空だ。でもそれにもようやく慣れてきた。もうしばらくすれば、俺は空を見上げることさえなくなるだろう。

 風が吹いて、はがれたポスターを空に巻き上げた。あちこちが破けて色あせたそこには、背後に竜を従えた大男が腕組みをしてポーズを取っている。「栄誉と興奮に満ちたドラゴンライディングが君を待っている!」と書かれていた。

 竜に乗りながら武器を使って互いに牽制しつつ、決められた空のコースを跳んでゴールを目指す競技、ドラゴンライディング。老いも若きも、帝国の人間はこの競技に熱狂している。おかげで俺は、公式ではなく野良のドラゴンライディングのコーチで生計を立てられていた。生活は厳しいが、飲み代くらいは稼げる。


「狭い空だな――――」


 俺はつぶやき、再び歩き始めた。もう長いこと、俺は空を飛んでいない。そして、飛びたくもなかった。

 俺――ジャック・グッドフェローが、著名なライダーを何人も輩出した名家、あの『オールドレディ』エリザベス・スターリングから手紙をもらったのは、それから三日後のことだった。


◆◆◆◆


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