第7話 そうさ。傀儡の魔女って言やぁウチの事さ
さらに時は十年遡る。
一九九八年、三月三十一日。
「何やってんだ、お前」
深夜、
「おい、聞いてんのか」
女が寝ている。
いや、女というには幼い。
石ころを投げつける。上手く額に命中し、少女は不機嫌そうに唸って汚い頭をもたげた。
「うわっ、汚え。しかも臭えし」
グレー地の薄汚れたパーカーに、色褪せて穴の開いたジーンズ。どこかで拾ったであろうブランケットを体に巻いて震えていた。
少女は舌打ちして怜司を見上げた。
「ウッセエな。寝てんだよ、邪魔すんな」
齢は怜司よりも少し下か。小学生くらいに見える。
酷いくせ毛で、砂埃と汗で湿っていた。浮浪児か。
しかし丁寧に絨毯は敷いて寝ている。
「良いからどっか行け。お前みたいに汚い奴がいたら邪魔なんだよ」
「汚えのはアンタだろ、ボケ」
怜司は眉を寄せて自身の身体を見下ろす。
タンクトップの上に聖母マリアの刺繍の入ったスカジャンを羽織り、少女と同じく膝の破れたジーンズを履いている。足下は踵を潰したグレー(元はホワイト)のスニーカー。
そう言えば三日は風呂に入っていない。
「良いからどけ。ここは、俺が寝るんだ」
怜司も福岡へ来てから宿も金もなく、この数日は櫛田神社で寝泊まりしていた。
「知らねえよ。後から来たんだからアンタがどっか行けよ」
少女は舌打ちを混ぜて吐き捨て、再び毛布に包まった。固く目を閉じ、押しても蹴っても動こうとしない。
怜司は仕方なく、少女から少し離れた所に腰を下ろした。
三日も歩き回ったのに、手掛かりゼロか――。
怜司は夜空を見上げる。
腹が減った。昼過ぎにコンビニのパンを食べてから何も口にしていない。財布には百円にも満たない小銭しか入っていない。博多までの交通費が予想以上の痛手だった。
「おい、うっせえぞ」
少女が首をもたげて舌打ちする。怜司の腹の音が聞こえたらしい。
仕方ねえだろ何も食ってねえんだから、と怜司は言い返す。
少女は機嫌の悪い猫のように喉を鳴らして絨毯から這い出した。賽銭箱を覗き、その周りをじっくり調べる。あった、と少女は振り返る。賽銭箱の下から腕を引き抜いた。
「ちょうど良いや。メシ行かねえか?」
少女はにんまりと笑む。乾いた泥に汚れた千円札を握っていた。
「それ賽銭だろ。
馬鹿じゃねえの、と少女は鼻で笑う。
「神様なんていねえんだ。もしいるんだったら、ウチはこんな所にいねえよ」
少女は石畳を歩いてゆく。
その笑みは堪らなく悲しげだった気がする。
「ほう、これが博多豚骨ってやつか。思ったより濃いなあ」
ミトと名乗った少女はラーメンのスープを啜って頷いている。怜司は狂ったように麺を啜った。
博多の
中洲はその地名のとおり那珂川と博多川に挟まれた中の島。清流公園には屋台が集中し、多くの観光客やサラリーマンで賑わっていた。豚骨特有の腐臭に似た甘ったるい匂いが公園に充満している。
「しっかし、まあ都会だねえ福岡ってのは」
一九九五年一月十七日、
そのような状況の中で現在、大日本皇国で最大の都市は福岡だった。
「神堂組のお膝元って言われてるくらいだからな」
皇国各都市には政府から派遣された知事が執政するのが決まりだが、福岡を実質的に治めているのは神堂組。
いわばギャングだ。
神堂組の歴史は古い。
戦後の混乱期、九州各地で自衛組織が結成された。それが九州系ギャングの原形だ。
そんな中、大宰府で神堂組が結成。当時は地元の若者が集まった青年団に過ぎなかった。
九州各地の自衛組織が力を付けて巨大化し、政治経済とも癒着し始めた。利権を求める組織同士での抗争も増え、自治組織のギャング化の兆しが表れる。力を持った組織は表の社会と蜜月関係となった。
福岡博多でトップとなったのが神堂組だった。
日本国が分裂し、京都より西側が大日本皇国となったのを期に神堂組は急成長する。
今や警察も政治家も裁判所も神堂組には口出しできない。
「怜司サンよ。アンタも家出してきたのかい」
アンタも、という事はミトも家出してきたようだ。まあな、と怜司はスープを啜る。
「俺は平星京から来た」
「ふうん。どうせ親とケンカして出てきたってワケだろ」
「両親は、死んだ」
そう呟くと、ミトは口を噤んだ。
「祖父ちゃんと住んでたんだけどな。どうしても福岡でやらなきゃいけない事があって、それで家出した」
怜司は拾った千円札を店主に差出し、両手を合わせて小さく頭を下げた。
中洲と西中洲の間に掛かる橋――福博であい橋。鉄柵に肘を置いて那珂川沿いの歓楽街を眺める。ネオンの群れ。蝶や蛾が夜に飛び交い、毒の鱗粉を振り撒いているようだ。
おい待てよ、とミトが追ってきた。丸めた絨毯を大事そうに小脇に抱えている。
「アンタ。やらなきゃいけない事って何なんだよ」
「どうでも良いだろ」
そう突き放す怜司。ミトは不服そうに文句を垂れた。
「ラーメンおごったじゃんか」
しつけえな、と怜司は舌打ちした。
答えるまで食い下がられると察して諦めた。怜司は那珂川沿いのネオンの群れに右手を伸ばし、力強く拳を握った。
「俺、神堂組に入る」
おおっ、と嬉々とした声を漏らすミト。
「ギャングになろうってのか!」
これが蔵方怜司と宮内ミトの出会いだった。
神様なんて役に立たねえ――。
それがミトの口癖だ。
上手く売れば金になるぶん粗大ゴミの方が役に立つ、とも言っていた。確かにミトの言う事も尤もだ。
「つーかよ。いつまでついて来んだよ」
今夜もミトはついてきた。
中洲の歓楽街をゆく身なりの汚い子供たち。怜司が博多に来て一週間が経った。
この辺りの性風俗や水商売の店は全て神堂組が仕切っている。揉め事を収める(いわば用心棒業)代わりに、店の売り上げをファミリーに上納するシステムだ。営業時間やサービス内容も違法な店も少なくない。神堂組が警察と話を付けて黙認させているようだ。
「怜司サンよお。ギャングになるっつって、何かコネでもあんのかよ」
ない。
だから足で探すしかなかった。
この一週間、怜司は夜の店を渡り歩き、神堂組の構成員がどこにいるか聞き回っていた。
しかし収穫はゼロ。
神堂組の構成員はおよそ二百名。構成員の多くは傘下組織の組長を兼任している。いわばグループ企業の本社だ。
ギャングらしい男に聞いてみても、神堂組についての情報は口にしようとしない。それどころか話も聞かずに店を追い出される場合も多かった。
「やっぱ俺が未成年に見えるから追い出されんのか」
ちげーよ、とミトが鼻を鳴らした。
「臭えんだよ、アンタ」
一週間ぶりの風呂。シャンプーすると大量の髪が指に絡まり、体を洗うと灰色がかった泡が立った。湯船に浸かっていると、壁の向こうからミトの声が響いた。
「おーい、泳ぐんじゃねえぞ!」
「うっせえよ、馬鹿!」
呉服町の方面の住宅地まで来ると銭湯があった。幸い深夜でも営業していた。
大声で怒鳴った怜司を数人の男が睨む。
背中には龍や虎の刺青。怜司は肩をすぼめた。ギャングの一員だ。古臭い銭湯を利用しているという事は、神堂組の構成員ではない。傘下組織の部屋住みギャングだろう。新人ギャングだ。
そそくさと体を洗って風呂から上がる。脱衣所にもギャングらしき男たちがたむろしていたので、怜司は番台で二百円を払って足早に外へ出た。
十五分ほど待っていると、ミトも出てきた。ミトに聞きたい事があった。
「お前、金なんて持ってたのか」
「まあな。昼間にちょっと臨時収入があってさ」
ミトはリュックから財布を取り出した。男性物の長財布だ。ちょちょっとねえ、とミトは指先で摘む仕草をする。察した怜司は眉を寄せた。
「お前、人様の財布を盗んだってのか」
「ギャングになろうって野郎が、スリぐらいで騒いじゃって」
ミトは得意気に鼻の下を擦った。話によればスリが特技だという。ろくな女ではない。しかしミトの盗みによって生活が潤うのも事実。贅沢しなければ空腹で苦しむ事もない。
「別に神堂組にこだわらなくても良いんじゃね。ギャングなりたいんだったら、他にも小さい組織があるじゃんか」
「駄目だ。それじゃ意味がない」
怜司が福岡に来て二週間。
相変わらず神堂組所属のギャングは見つからない。
ある夜、事件が起こった。
「いたぞ。ぶっ殺せ!」
深夜の歓楽街に物騒な怒鳴り声が響く。チンピラ風の男が三人、怒声を上げて駆けてくる。
追われているのはミトだ。
やべえ事になった、とミトは怜司のスカジャンの袖を掴む。
「あいつらだ! 絶対に逃がすんじゃねえ!」
どうして俺まで……。
怜司まで巻き込まれてしまった。二人は酔客を掻き分けて歓楽街を逃げる。
ミトがチンピラのセカンドバッグを盗もうとして失敗したらしい。それでチンピラたちに追われる羽目になった。中洲から離れようと、祇園方面への橋を目指す。
「おい、あいつらだ!」
橋の向こう側からもガラの悪い男たちが駆けてきた。後ろからも追ってくる。挟まれた。
二人は橋の中央で立ち往生する。捕まったら博多湾に沈められるかもしれない。
どうする。いっそ那珂川に飛び込むか。覚悟を決め、怜司は橋の柵に足をかける。
すると――。
「怜司サン、こっちだ!」
ミトはリュックから絨毯を下ろし、橋の上に広げる。怜司が困惑していると、ミトが袖を無理に引っ張る。
「さっさと来いってば!」
怜司は絨毯を両足で踏んだ。
次の瞬間、ぐらりと足元が揺れる。
橋が動いた。
いや、違う。絨毯が動いている。
驚いた怜司は尻餅をついた。みるみる視線が上がってゆく。チンピラたちを見下ろす高さになった。
「どうなってんだ、これ……」
チンピラたちは目を丸くして怜司たちを見上げていた。ようやく怜司にも理解できた。
絨毯が宙に浮いている。
「しっかり掴まってな。振り落とされんじゃねえよ」
ミトが絨毯に両手を置くと、絨毯は一気に上昇する。
チンピラたちが遥か下方へ遠ざかった。酔客たちも顔を上げ、珍しそうに指差してくる。
振り落とされるなと言う割には大したスピードは出ていない。絨毯は自転車くらいの速さで祇園方面に進み出す。
怜司はミトのリュックを握り締めた、地上で喚き散らすチンピラたちを見下ろした。
「ミト。お前、まさか……」
「そうさ。
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