第5話 ぼくはきみのそばを離れないよ
瑠璃はブレザーの襟を立てて呟く。
『
「もう安心よ、『逆十字の魔女』が来たんだから。それより私たちまで『冬』に巻き込まれないように避難しないと」
吹雪は魔女兵器を取り囲むよう集束する。吹雪の柱ができた。『逆十字の魔女』は銀の
「魔王サタンよ。洗礼を受けた血だ。受け取れ」
赤い唾液は土に吸収されてゆく。
さらに気温は下がり、吹雪の外にいる朱音も凍死してしまいそうだ。
朱音はアマをセーラー服の胸元に入れ、ユウグレに身を寄せて避難する。
庭は吹雪の筒に覆われ、夜空から次々と冷気が注ぎ込む。0℃を下回る突風に押し付けられ、魔女兵器たちは身動きが取れない。
魔女兵器たちは雪に覆われ、氷の彫像となった。
「あの『深緑の魔女』と『黒鋼の魔女』を五人も、しかも一度に、やっつけちゃった」
夜空を覆っていた雲は四散し、雪も止んでゆく。
庭には氷漬けの魔女兵器だけが残った。
魔女兵器が全滅している。
朱音の肩から力が抜けた。
周囲の林から他の魔女たちがぞろぞろと出てくる。皆『逆十字の魔女』を見上げて涙ぐんでいた。
二人も雪に覆われた庭へ出て行った。
魔女たちは肩を竦ませ、身を寄せ合っている。魔女兵器に惨殺された仲間を弔い、遺骸の目を閉じてやる者もいた。小さな躯に抱き付いて泣いているのは子供魔女の母親か。
庭を見下ろす『逆十字の魔女』。屋敷の下には魔女たちが集まり、口々に礼を言っていた。『逆十字の魔女』は冷たい表情のまま視線を横に流す。
「まだだ。列島には他にも魔女兵器が投入されているだろう。私はそれを狩りに行く」
下の魔女たちから感嘆の声が漏れた。
「問題はこれからだ。列島の主要都市が壊滅した。これから、列島の人間たちは何をするべきか、だ」
魔女たちの表情が沈んでゆく。住まいを失った者や、家族を奪われた者。朱音と瑠璃も同じだ。
しかし生き残れただけでも幸せと考えるべきかもしれない。
その時、周りの魔女たちから騒めきが起きる。魔女たちは一様に夜空を見上げた。
一人の魔女が浮かんでいる。
竹箒を水平にして柄に立っている。その姿を見て、魔女たちは息を飲む。
黒のロングコートにゴーグル状の機器。
新関東帝国の魔女兵器だ。
魔女たちはゆっくり距離を開けた。
こちらには『逆十字の魔女』がいる。
『逆十字の魔女』は魔女兵器の生き残りを凍てつくような瞳で睨んだ。
「まだ残っていたのね。危ないところだったわ」
「でも大丈夫だよ。だって『逆十字の魔女』が来てくれたんだから!」
瑠璃はゴーグルの魔女を見て顔をしかめる。
「あの魔女兵器、さっきまでのと違う」
朱音も木陰から目を凝らした。
日焼けした小麦色の頬。
赤みがかった髪。
『深緑の魔女』とも『黒鋼の魔女』とも違う姿だ。
再び『逆十字の魔女』は銀の
赤髪の魔女兵器はゴーグルに指を掛ける。おもむろにゴーグルを外した。
次の瞬間、焼けつくような熱風が襲い掛かった。
一瞬にして雪が解け、元の春の森に戻る。
「熱っ、何だったの今の」
気温も戻った。
最初より暑くなっている気さえする。
朱音はユウグレの背から顔を出し、庭に目を向けた。
洋館の屋根が無くなっている。
写真を切り取ったかのように、風景に穴が開いていた。
魔女兵器はゴーグルを装着し、平然と夜空に浮かんでいた。
しかし『逆十字の魔女』がいない。
林に隠れた魔女たちが空気を裂くような悲鳴を上げた。瑠璃も短い悲鳴を漏らし、洋館の前を指差し、ぽつりとこぼす。
「あ、あれ……」
白っぽい棒が落ちている。
腕だ。
か細く白い腕。
その指先に銀の
切断面には赤い炎がチロチロと燃えていた。
「そんな。『逆十字の魔女』が」
『逆十字の魔女』が腕だけを残して消滅した。
何事もなかったように立っている魔女兵器。
その姿を見て、瑠璃は震え出す。
赤い魔女は朱音たちの潜む林に目を向ける。その瞬間、瑠璃は立ち上がり、朱音の腕を掴んで駆け出す。
再びゴーグルを外す赤い魔女。
すると今まで朱音たちが隠れていた木々が消し飛び、クレーターのように地面が抉れた。周りの木々が激しく燃え上がり、燻り出された魔女たちが庭に飛び出した。
赤い魔女は逃げ惑う魔女に視線を向ける。すると地面にクレーターと影だけを残して魔女は消滅していった。
朱音たちはユウグレに飛び乗り、赤い魔女の後ろへ回り込むよう、燃える林を翔けた。
「『劫火の魔女』よ。信じられない。あんなのまで蘇らせるなんて!」
朱音も聞いた事のある名前だ。
「現在で最も力のある『逆十字の魔女』を越えるのは、史上最大の力を持った魔女しかいない。あれはまさしく『劫火の魔女』。視界に入った物を跡形もなく焼き消す魔術」
「じゃあ『逆十字の魔女』は……」
この世に残ったのは銀の
歴史に名を残すほどの魔女の最期は、あまりにも呆気ない幕切れだった。
二人と一羽はユウグレの背に乗り、洋館の陰に逃げ込んだ。
冷たい煉瓦に背を当て震える朱音。庭の方から魔女たちの悲鳴と、舌の上が乾涸びるほどの熱風が伝わる。
魔女兵器は逃げ惑う魔女を視界に入れると、一人ずつ消滅させてゆく。
蟻を踏み潰すように。
ぷちぷち、と。
「瑠璃さん。あれ」
朱音は夜空を見上げて凍りついた。
月明かりに何十、何百というシルエットが浮かぶ。夜空を埋め尽くす影。全て魔女兵器だ。
もう終わりだ。
その時、何者かが朱音の腕を掴んだ。
「朱音。こっちだよ」
温かい手、聞き心地の良い掠れ声。
その主を見て、朱音は泣きそうになった。
「お祖母ちゃん。生きてたんだ」
当たり前さ、と祖母は目尻にしわを寄せて微笑む。
祖母はほうきに腰掛け、木々を縫うように翔け出した。二人もユウグレに跨って祖母を追う。
「ここにいても、あの赤いのに殺されるだけさ。とにかく『外』に出るよ」
夜空から魔女兵器が飛来する。
『深緑の魔女』と『黒鋼の魔女』が合わせて五十体ほど。残りはさらに西の空へと向かった。
辺りには再び赤黒い蔦が蔓延り、朱音たちを捕まえようとうねり狂う。地面からは黒い矢が弾幕を成して襲い掛かった。朱音たちは紙一重でかわして出口の鳥居を目指す。
「あった、あそこから外へ出られる!」
林の奥に朱色の鳥居を見つけた。祖母に続き、朱音と瑠璃は全速力で翔け抜けた。
しかし鳥居に蔦が巻きつき、網を張られたように塞がる。急停止も間に合わず、三人は蔦の網にぶつかって墜落した。
すると地面に魔法円が出現する。
ダビデの星が紫の光を放ち、中から血の気のない真っ白な腕が現れる。雪のような白い髪をした女が這い出す。
魔女兵器『黒鋼の魔女』だ。
「そんな……。あと少しだったのに」
魔女兵器が
身の丈を超える大槍が次から次へと林立し、全ての矛先が朱音に向く。
白い魔女が櫂の柄で魔法円を叩くと、大槍が一斉に発射される。
朱音は頭を覆って丸まった。
金属がぶつかり合う重い音。
肉を貫く鈍い音が脳まで響く。
しかし朱音の身体に痛みはない。おそるおそる目を開くと、そこには祖母が立ちはだかっていた。
祖母が魔術で守ってくれたのだ。
「怪我はないかい。朱音」
祖母の姿を見て、朱音の息が止まる。
祖母は魔術など使っていない。
三本の大槍が祖母の身体を貫いている。貫通した矛先が朱音の鼻の前で血を滴らせていた。
「いやあ、困ったねえ。いくら祖母ちゃんが『
祖母は無理に笑顔を見せる。喋る度に口から血液が溢れた。祖母の薄く開かれた目が朱音の胸元に向く。
「アマ……。朱音を、よろしくね」
アマは祖母の声に反応したように耳を立てると、祖母は満足そうに頷いた。
「お祖母ちゃん、しっかりして。病院、行こうよぅ」
泣き顔になった朱音は祖母のローブを掴む。
ぐっしょりと血が染み込んでいた。
「それにしても、祖母ちゃんも『黒鋼の魔女』の魔術でやられちゃうとはねえ。まったく……お揃いですねぇ、
祖母は虚ろな瞳で夜空を見つめる。
「これでまた会えますねぇ。周次さん……。茜はお婆ちゃんになりましたけれど、天国で会った時に『お前は誰だ』なんて言わないでくださいよ」
その時、白い魔女兵器は屈んで魔法円に手を置き、小さな声で詠唱を始める。
すると土中から黒い粒が煙のように立ち昇っていった。
砂鉄だ。
穴だらけの祖母は瞳だけを動かし瑠璃を一瞥する。
「……佐倉瑠璃さん」
瑠璃は目を見開く。
「どうして、私の名前を知ってるの」
「久しぶりなんだから、もっと顔を見せておくれ。瑠璃さん」
祖母は瑠璃の頬にそっと手を伸ばす。白い頬に真っ赤な血が塗られた。
土中から舞い上がった砂鉄が空中で集まる。
それは巨大な鉄の塊となり、祖母の頭上を浮遊する。
「朱音と、良い友達になってあげてね」
白い魔女が櫂を持ち、魔法円に突き立てる。
空中を漂っていた鉄の塊はぴたりと静止し、さらに高くへ舞い上がった。
祖母は朱音の目をまっすぐ見据える。
「あとは、任せたよ……朱音」
朱音は激しく首を横に振り、涙を飛び散らせた。
木々より高く上がった鉄の塊は勢いをつけ、真っ逆さまに落ちてくる。
気付いた瑠璃が朱音の身体を突き飛ばす。
二人は落ち葉の上に転げた。
祖母は朱音に笑顔を向ける。
「それから、幸せになって――」
言葉を遮るように、巨大な鉄の塊が祖母の頭上に落ちる。
地面がひっくり返るほどの地響き。目の前に黒い鋼鉄の壁が現れたようだ。鉄の塊が祖母を押し潰した。
「お祖母ちゃん、そんな……」
朱音は祖母を下敷きにした鉄塊に両手を当てる。
冷たい。
生命感も感情もなく、ただ冷たいだけ。
朱音は「お祖母ちゃん!」と何度も呼んだ。返事はない。
止めどなく涙が溢れる。
朱音は鉄塊に額を当て、大声を上げて泣いた。
足元にほうきが落ちている。
祖母が使っていたほうきだ。ずっと大切に使っていたほうき、持ち主のいなくなったほうき。
朱音はほうきを抱き締めて泣き喚いた。
《泣いてる場合じゃないよ!》
どこかから声が聞こえた。小学生の少年のような甲高い声。
《ここだよ、ここ》
下の方から聞こえる。
胸元からアマが這い出し、地面に着地する。くるりと振り返り、苛立ったように後ろ足を踏み鳴らした。
《逃げなきゃ! 『黒鋼の魔女』が来るよっ!》
アマが喋った。
すると鉄塊の影から白い影がぬうっと現れる。魔女兵器だ。
ゴーグル越しに朱音と瑠璃をじっと見比べる。機器の右側のランプが緑色から赤色に変った。
《早く逃げるんだ。茜が命を懸けて守ったのを無駄にする気かいっ!》
アマは《こっちだ!》と叫んで林の奥へ駆けてゆく。朱音は深呼吸し、祖母のほうきを握り締める。
「朱音、私達も早く!」
瑠璃はユウグレに跨って飛び立とうとしている。
朱音はほうきを抱いて目を閉じた。お祖母ちゃん、必ず戻ってくるから。朱音はほうきを握って駆け出し、アマの灰色の背中を追った。
《この先に別の鳥居があるんだ。そっちなら外へ出られるかもしれない》
朱音とアマもユウグレの背に乗り林を翔けた。
「アマ、君はいったい何者なの」
《茜から聞いただろ。ぼくは魔女の使い魔さ》
アマはユウグレの頭に腹這いで乗り、耳を立てて振り返った。
《茜は使い魔のぼくをきみに譲渡した。今日からはきみがぼくの
本格的に頭が混乱してきた。脳の整理が追い付かない。
《きみも魔女の仲間入りだね。まあ、もともと素質は備わっていたんだけど》
背後から木々が薙ぎ倒される轟音が近付いて来る。
「……何か来る」
瑠璃はユウグレの背に逆向きに跨り、後方を確認した。
あの巨大鎌が林を蹂躙しながら突き進んでくる。
それも三つも同時に。
《マズい、止まるんだ!》
前方からも別の巨大鎌が二つ襲い掛かってきた。
ユウグレは地面すれすれまで下降し、樹の根に足を引っかけて転倒した。
朱音たちは地面に投げ出され、そのまま身を低くして蹲る。十数センチ頭上を巨大鎌が交差して通過していった。五つの巨大鎌は木々を破壊しながら飛び去ってゆく。近くに『黒鋼の魔女』の姿はない。
アマがユウグレの頭に立ち、鼻をひくひくさせる。
《待って、なんかマズい感じだぞぉ》
朱音と瑠璃の間に魔法円が現れた。
二重円に三角形。空間転移魔術の
すると何十もの魔法円が現れ、朱音たちを取り囲んでゆく。一面が薄ら白く輝き出した。その一つひとつから真っ白な髪の女が這い出す。
『黒鋼の魔女』だ。それも何十体も。
「そんな。一人でも、どうしようもなかったのに……」
朱音たちは背を寄せ合う。
白い魔女たちは一斉に
「もう、私がやるしかない」
瑠璃は首から提げた砂時計を外す。
アマは耳を立てて声を上げる。
《本当に使うのかい。魔術を使えば、代償として支払わなければならないモノがある。きみの場合、その代償はあまりに大きい》
地面に砂時計を置く。
砂は上に溜まって静止している状態だ。
《ここで魔術を使えば、きみは絶対に幸せになれない未来が待っているんだよ》
「ここで殺されるよりはマシ」
アマは寂しげに鼻を鳴らす。まるで前から瑠璃を知っていたような口ぶりだ。
「よく聞いて朱音。これから私は魔術を使う。けれども、どうなるか分からない。私だって魔術を使うのは初めてだから」
周囲の槍の群れがドリルのように回転し、二人を威嚇する。
「上手くいけば、こんな戦争を止められるかもしれない。みんなが助かるかもしれない」
「えっ、でも。もう」
都市は破壊し尽くされ、祖母も目の前で殺された。瑠璃は朱音を遮るように首を振る。
「それが出来るのは、きっと私たちだけ」
瑠璃は朱音を見据えて頷く。
アマも朱音を見上げた。
《分かった、もう止めない。朱音、きっとつらい旅になる。またきみは泣いちゃうかもしれない。でもぼくはきみのそばを離れないよ。ぼくは茜にきみを託されたんだから》
鼓膜を破るような激しい金属音。
四方八方から黒い槍が発射された。
それは雨のように朱音たちに襲い掛かる。
朱音とユウグレを引っ張り寄せる瑠璃。
アマも朱音にしがみ付いた。
「行くよ、朱音――」
瑠璃は砂時計を反した。
白い砂粒は泡のように昇ってゆく。
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