風変

モミジ

一話完結

〝手の握り方さえも分からないくらい〟


 そんな言葉たちを光橘(みつき)は嬉しそうに話すものだから、二人だけの和やかな空間を犠牲にしてまで年相応の世間話を続ける。目の前には彼女がいて、その目には僕が映る。


 特段、互いの会社事情など聞きたくもないが、久しくと言うこともあって心情の探り合い。好意的な話題に繋がる線をゆっくりと探していくが、お互い大人になったという事もあって健康面や金銭の話ばかり。


 茶のレンガが互い違いに埋められた道、続く酷暑で干上がった地中の虫。


 視線を辺りに向けながら、次は互いの変わらぬ容姿について話を続ける。すると彼女は頬横の筋肉をゆっくりと収縮させ、白目をしまった。何か言いたげなこの表情はいつ見ても綺麗だ。


 うっすらと開いた目元、実寸では数ミリの世界だが僕はそこへ行きたい。そんな事を普段とは違う背伸びをした表現で伝えてみる。


 僕らの頭上にある白いモヤ。水色一色で薄く塗り伸ばされた画用紙に、強力な接着剤で取り付けられたかのように動じず居座り続ける。日を遮ることもせず、別に風を送る事もない。


 彼女は見上げながら目を閉じ、尖った顎先を僕に向けたまま数秒が過ぎる。


「光橘の目元にある宝石を一つ、狭い門を潜って取りに行きたい」


 そんな事を言った数秒後の僕は、僕らの上にドンと腰を下ろすソレが、次第に昭和の漫画でよく使われていたモヤに見えてきた。我に返ったというか、さっきの背伸びした言葉たちに対する返答なのだろう。


 咄嗟に話題を変えようと「出会ってもう……七年かぁ」と語尾に掠れを加え、無風の中に吐き出す。僕にとっては人生の三分の一、光橘にとっては四分の一くらいだが、感情的になるほど声を発しなくなる性格ゆえ、後には返答は無い事だって理解していた。


 それでもあの切長な目元と、花恥ずかしそうに微動する口元を見て、返って来るはずの言葉たちを寄せ集める。


 〝出会った頃なんて、手の握り方さえも分からないくらいだったのに〟


 ------なんて光橘は歳上ぶった事を考えているはずだ。


 そんな風変わりな彼女のポリシーをいくつか聞き出した事があった。そこには思わず首を傾げてしまうほどの内容や嘲笑、信じがたいもの。無理に記憶の奥底へと腕から指先を思い切り伸ばし、付き合いを始めた数年前を僕は無意識に取り戻し始める。

 綺麗好きな性格でありながら目の前でいきなり、塩辛く煮た他国料理を手づかみで食べ始めたこともある。親指と人差し指を伝って赤い汁は肘元へと到達。


 勿論、行き着く先は少しベタつく机上。様々な食材が一同に赤く染まり、円盤型レコードのような皿に無造作に盛り付けられていた。

 僕が目の前で見ているそんな光景、言葉を介さずとも伝わる嬉々な空間。


 会計は二人で四千五百円、拭いても中々落ち切ることのない光橘の口元の赤み。もう僕らにとっては何年も前の記憶だっていうのに、細かく残っている。


 そんな様子を見て店員は小走りで厨房から駆ける、手元には濡らしたおしぼり。彼女は後ろ髪を宙に浮かすほど勢いよく頭を下げ、そのままの姿勢でトイレへと向かう。


 ここには僕と店員しかいなかった。

 目線より少し下の画面に映し出された四桁の数字。視線を長財布に向け、一万円札をトレーの上に乗せた瞬間、後方から彼女の声が聞こえた。


 口元を何かで覆っているのか、やけに籠った声と洗面台に当たる水音。「すぐ洗い終わるから、そこで待ってて!」と、そんな言葉が聞こえて勢いよく振り向いたが、その隙に一万円札は姿を変える準備を始める。


 彼女は水飛沫を辺りに放りながら会計の場へと戻ってきたが、既に払い終わっていた。


 そんな光橘の生き方、ポリシーの一つに〝歳下の前では強くいる〟という一生付き纏う呪いのようなものがあった。


 僕は五歳年下、交際費とカテゴライズされた用途は今まで無い。それほどまでに光橘は自分に正直に生きていた。

 例年通りの動きをする台風。そんな決まり文句を空は嫌ったのか予報通りには行かず、その日は光橘が一人で暮らす家に泊まった。


 白い家具で大まかに統一された部屋中、横風に煽られる木々の音は止む事なくテレビの音に被さるが、窓外を見ずとも現状は理解ができると光橘は空色と反して明るく振る舞う。


 気丈な性格の彼女は普段からお酒を飲みすぎる事はなかったが、その日は違った。綺麗に尻の形に潰されたクッションへと座り、膝を立てて僕の側に。


 夕暮れ特有の大粒の雨に当たって紐くじのようになった後ろ髪を器用に結び、ふっと微笑む。


 彼女は服のポケットから水滴が周りを囲む缶チューハイを二つ取り出し、机上に置いて蓋を持ち上げるともう一つの缶をポケットにしまった。言葉を介さないからか、意味を持たない行動に僕は動揺を隠せない。


 「手の握り方も分からないようなあんたが、お酒はダメだなって思ったわ」

 首元にちょうど当たるソファの角に倒れ、彼女は真っ白な天井に笑みをぶつける。締め付けられた喉元から出た高笑いは上品さを醸すこの部屋には似合わない。

 「あと二ヶ月で二十歳になるらしいわ、世の中の基準では」

 「世の中の二十歳はもっと、大人っぽいんじゃないの? 私の時は少なくとも」

 彼女は缶チューハイを口元と垂直に傾け、一気に流し込む。


 「今更……急に大人っぽくなっても変、少しずつそういうのになっていくもんでしょ」

 「まぁ、私らが焦っても台風は過ぎないし、日も上らない。なんかこんな事言うと私がおばさんみたく思えない? 歳上ってだけでなんか、諭すように聞こえちゃうよね」


 実体の無い風は窓枠へ強く当たり、まるで人の手でガタガタと掴んで揺らしているかのような音を立てる。


 「気にした事ないな、光橘はそう言う人っていうフィルターが耳についてるし」

 「出会いが元々特殊だったんだから、一生私の側にいれると思わないでよ?」

 妙に甲高い声で彼女は話すが、手元の缶に視線を移せば理由は明確だった。


 「毎回毎回、なんで酒を飲むと将来や過去の話ばかりするんだ」


 彼女は再度ポケットから二本目の缶チューハイを取り出すが、蓋を持ち上げることなく目元を隠して僕の方に体重を預けた。


 見栄などでは防ぎきれない〝心音〟に僕らは左右される、そんな台風の夜を二人で過ごした。


〝嘘〟という事後事実を嫌う性格の光橘は台風の日から半年後、理由も知らされずに私用で街から出て行った。


 数日、数週間、数ヶ月待っても住んでいたマンションの三階、角部屋の明かりが灯る事はない。それからは流れるように郵便受けの名札が剥がされ、気がつけば彼女とは違う容姿をした長髪の女性が住み始めた。 


 大学への通学路だったマンション前の道、吹く風には匂いがあったことを覚えている。それも今では一階二階、三階と視線を移動させるも気配すら感じなくなった。


 言葉、匂い、感触、何一つ残さなかった光橘は、丁寧に連絡先も消している。


 いつしか見た水色の空に固く居座るソレのよう、台風の夜から時が止まって欲しいと願ったりしてみたもの。


 神社に行ってヒーローやスーパーマンになりたいと思って手を合わせる人はいない。〝時間を止める〟などはそれらの類い、あの時は本気で願った。誰に縋るわけでもなく、どんよりとした分厚い灰雲に向けて。

 それから二年。僕の側に彼女は帰ってきた。

 遠くの街、新たな出会い、空白の時間への色入れ。そんなものは何一つなく相変わらず冷めた表情で対面して、時折うっすらと微笑む。


 光橘は僕の手を握り、言葉の代わりにスキンシップで再会を喜んでいた。


 再会の場から少しずつ人が減っていくと彼女は頬辺りに数回手のひらを当て、服の擦れ音と同時に彼女が僕に添う。


 ここには僕らだけしかいない。


 時間を距離に、距離を時間に変換すれば、彼女と離れていた時をより鮮明に知れるだろうか。それとも、知らずに生きていたほうが口角を上げて暮らせるだろうか。

 そんな自問自答をしても浮かぶ答えは〝光橘の生き方〟だけ。


 出会った頃から最期まで何一つ変わらなかった。


 「手の握り方も分からないの?」と初めて出掛けた時に言われ、分かりやすく困り顔になった光橘は、両方の掌をぱんっと発砲音のような音を立てて合わせる。

 僕がしっかり視線を向けていることを手横から覗いて確認すると、細く伸びた小指から奥に向かって指先を合わせる。

 ゆっくりと閉じていく様をじっと見つめていたが、想像していた手繋ぎではなく、言ってしまえばそれは手合わせ。神社やお寺での作法だった。


 「大事なのはここからだから……私は小指を内側にしまう派だからね」

 スルッと小指を交差させ、それらに釣られるよう他の指も折り畳まれていく。

 「そう、こんな感じ」

 当時十七歳の僕にとっては手の握り方さえもスタートライン。彼女が手を合わせた時の発砲音に似た音はおそらく、この瞬間のために鳴らされたものだろう。

 この日を境に光橘は、僕に対して嬉しそうにこの話をしはじめた。

 一体どれくらいの年月を遡ったのだろう。


 自然と口角が上がって目尻を絞る。

 手の握り方を教えてもらった光橘の手を、離してしまった後悔が涙に姿を変えて薄い膜を張っていった。

 それらを堰き止めるために今、無理に笑っている。繋がれているはずだった右手、左手を思い切り目元に当てて。

 水色の空だと視認できるほどにツヤツヤに磨かれた墓石の反射。足元には彼女の名前と年齢が彫られていて、この先に時が動く事はない事の約束を意味するものだ。


 僕があの日、灰色の雲に願った通りだろう。

 〝享年二十六才〟

 その場で膝をたたみ、持ってきた線香に火をつける。伸びた前髪は涙で束を作り視界に現れては消えていく。

 思うように心音が落ち着かず、やがて手元もぶれはじめ、もう一度泣いた。彼女が側に帰ってきてから二年。ようやく歳を追い越し、また会いにきた。

 

 初めて出かけた時に教えてもらった手の繋ぎ方、対する墓石の表面へ映して僕は手のひらを合わせる。歳上の貴方に無理に合わせようとして背伸びしていた言動、行動。

 そんな不器用なことをする僕に対して、いつもこう言っていた。


 〝手の握り方も分からないくらいに幼い君が調子に乗るな〟


 それから財布を開け、僕を先に店外へ誘導する。それが彼女のポリシー、生き方だった。

 頭上の白いモヤ。水色一色で薄く塗り伸ばされた画用紙に、強力な接着剤で付けられたかのように動かず、僕の上で居座る。日を遮ることもせず、別に風を送る事もない。

 僕はそのまま目を閉じてそれを見上げ、鼻先に過ぎていく線香の煙たさを感じる。


 風のない日だというのに、煙は空へと登っていく。


  終

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風変 モミジ @mryz

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