第77話 呪いのナイフ



 ボスはさり気なく壁側に移動し、窓の外を眺めた。クルトの言う通り建物の周りは、ギッシリと騎士団に囲まれている。ここにいる小男たちを皆殺しにしても、その先は無いだろう。両手を上げて降参の意思を示した。

「やれやれ、何かの勘違いだろう。領主の誤解を解かないとな。それから部屋の男は、俺が手を出した訳じゃ無いからな」


 彼にはまだ余裕があった。領主とは知らない仲ではない。金はかかるが、まだ取り返しは効く筈だ。賄賂として巻き上げられた金は、また弱い者から巻き上げれば良い。

「ふざけるな! 俺は納得してないからな!」

 見れば青い顔をしたコンシリエーレが、マレーネを左腕で抱き抱えナイフを突きつけていた。

「今まで俺が管理していた、組織の資金なんて端金じゃないか。俺がボスになったら、その小男が言ってた規模の金が手に入るんだろう? 人を馬鹿にしやって。どんな手を使ってもボスになってやる!」


 クルトが調査したボスの資産を聞いて、普段は冷静なコンシリエーレが逆上していた。実質的な組織の運営を取り仕切ってきたと自負する彼は、手も無くボスに騙されていたのである。ナイフを振る彼の手は、怒りと興奮でブルブルと震えていた。

「この女に傷を付けたくなければ、そこを退け。ここを切り抜けて、絶対にを見つけてやる」

「娼婦の私に、人質になる価値なんかないわよ」

 マレーネは鼻を鳴らして、コンシリエーレを揶揄する。それから目を見開いた。クルトが外へと続く道を開けたのだ。


「良いですか? ここを逃げ出せてもイザールに、居続ける事は出来ませんよ」

 小男は脅しに聞こえないような声色で、脅し言葉を呟いた。マレーネは天井を見上げて、溜息をつく。

「何馬鹿な事言っているのよ。私の事なんか気にしないで、さっさとこの馬鹿を捕まえなさいな」

「そんな訳には行きません。私たちは仲間でしょう?」

 クルトの返答を聞いて、コンシリエーレは耳障りな笑い声をあげた。


「イザールの家宰は切れ者だって聞いてたが、こんな甘ちゃんだったんだな。いいか、このナイフは特別製だ。触れただけでも呪われるからな! さぁ、そこを通して貰おう……」

「本当に甘ちゃんだよ! この私を足手まといにする心算かい」

 マレーネは男の右腕に飛び付いて、ナイフを素手で掴もうとする。

「このアマ、何しやがる!」

 コンシリエーレは反射的に右腕を動かした。


 パシッ!


 ナイフは彼女の右目から首筋までを、ザックリと切り裂いた。

「姐さん!」

 飛び散る鮮血とハインリヒの悲鳴。


「チッ、役立たずが!」

 コンシリエーレがマレーネを、蹴り倒そうと足を上げた。ハインリヒたちの前に彼女を蹴り倒し、そこに出来る隙に活路を見出そうとしたのである。しかしその瞬間、彼の前には、いつの間にか小男が立っていた。


「……やってくれたな」


 これまで聞いたことの無い様な、暗くて低い声。クルトは鬼のような形相になっていた。怯んだコンシリエーレはマレーネを手放し、ナイフを構えて防御の姿勢を取る。その瞬間ハインリヒが、彼女に飛び付いて二人から必死で離れた。


 グシッ!


 コンシリエーレの顔は構えたナイフごと、無造作に振るった小男の拳に撃ち抜かれた。細く整った鼻が潰され、パラパラと上顎の歯が零れ落ちる。

「こいつと同じようになりたくなければ、お前ら全員動くな」

 見たことも無いクルトの迫力に、その場の全員が凍り付いた。しばらくして小男は、ため息を一つ吐き肩の力を抜く。それだけで、いつもの彼に戻っていた。

「……ハインリヒ君。マレーネさんの具合はいかがですか?」

「今、ジーサンに診て貰ってます。顔の右側が血だらけで……」


「こりゃイカン! 眼球まで傷が行っとる。薬だけでは足らん。騎士団に治癒術の魔術師はおらんか!」

 老医師の叫び声と共に、狭い病院内に騎士団まで雪崩れ込んで来た。次々と逮捕される構成員たちを後目に、淡々と治療を進める老医師。しかしその表情は冴えない。血だらけの顔を壮絶に歪めて、マレーネが口を開く。

「あぁ、坊や。何故私がアンタたちの仲間になったかって、聞いていたわね」

「姐さん! 今、無理に喋らなくっていいから!」

「惚れちまったんだよぉ」

「え?」

「貧民窟で泣く、女子供を無くすんだって。馬鹿みたいな夢物語を、真剣な顔で話す小男にねぇ。でも所詮、私は娼婦で相手は家宰様だ。これで諦めが付くってもんさね」

 それだけ言うとコトリと首を倒した。身動き一つしなくなる。


「姐さん!」

 彼女に飛び付こうとした少年を老医師が押さえた。いつの間にか現れた治療師ヒーラーが呪文を唱え、薄らと輝く右手をマレーネの顔に添えた。瞬く間に出血が止まって行く。

「慌てなさんな、痛みで失神しただけじゃよ。それにしても、この姐さんは肝が据わっとるの」

「ジーサン、なに言ってんの?」

「普通、刃物に自分から向かっていく事はできない。しかもコンシリエーレが言っていた通り、あのナイフは呪具じゅぐじゃろう。あれだけ近くで見れば、彼女も嘘ではないと分った筈じゃ。それに向かって行くのじゃから、大した度胸じゃて。無謀とも言うがの」

「呪具って?」


 ハインリヒの疑問に、治療師が舌打ちしながら答えた。

「魔法による傷の治りが悪い。やっかいな呪いの掛かったナイフらしいな」

 老医師と治療師は小声で話し続ける。どうやら彼女の右目は治ったが、大分視力は落ちてしまうらしい。また顔の表面の傷は出血は止まったが、呪いの影響か跡が消える事が無いそうだ。

「こんなに器量良しなのに、勿体ない事じゃて」


 老医師は肩を竦めた。クルトは事態の収拾に追われている。構成員逮捕の陣頭指揮で振られる右手の出血は、いつまで経っても止まらなかった。

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