第74話 プィーサンカ



 最近イザールの貧民窟に吹く風が、柔らかくなってきたように感じる。道端に座り込む人間も減り、ゼロにはならないが強盗などの犯罪も少なくなっていた。ハインリヒは口笛を吹きながら、裏通りを歩く。

 今日の昼飯は、久しぶりにクルトと初めて会った、あの居酒屋へ行こうかなどと考えていた少年。裏通りの奥から打撃音と悲鳴に気が付いた。

「まだ馬鹿やっている連中が居るんだ。懲りないなぁ」


 建物の影からソッと奥を覗き込んだ。移民マフィアたちが一人の老人を取り囲んで、何か話している。時折マフィアは激高して、彼の近くに有る物を蹴飛ばしていた。その度に粗末な服装の老人が悲鳴をあげる。

「あんな金の無さそうなジーサン、どうするつもりだろう? でもなぁ、助けようにも人数が多すぎるよ」

 ハインリヒは小首を傾げて、建物の影から姿を消した。



「オラ、爺! 隠した物をとっと出せよ」

「何の事だか分からんと言っとるだろう。もう儂を帰してくれ」

「よぉ、この爺、本当に何も知らないんじゃないか?」

「じゃあお前がボスの右腕コンシリエーレに、そう説明しろよな。奴に盾突くなんて、俺は真っ平御免だからな」

「……こんな所で騒いでいたら目立ってしょうがない。只でさえ最近、やりにくんだからよ。面倒だからサラッちまうか」

「でもよぉ。死体を片付けるのも面倒なんだよな」

 とてつもなく不穏な内容の会話が続く。面倒臭そうに構成員の一人が老人の腕を掴んだ時、建物の影から派手な音が鳴り響いた。


 バババン!


 悪戯用の爆竹のような小さな花火が、至近距離で爆ぜる。辺りの人目が、路地裏に集まった。

「隊長さん! こっちこっち! この奥でバカたちが暴れているよ!」

 少年の大声と共に、遠くから馬蹄の音が響き始める。舌打ちする構成員たち。

「チッ、騎士団か。ズラかるぞ!」

「おい。爺は、どうする?」

「抱えて行ったら死んじまいそうだし、手間取って騎士団に俺たちの顔を見られたら不味い。爺なんか放っておけ」

 マフィアたちは風の様に姿を消した。


 カカララッ!


 彼らの姿が消えた後、老人の前に荷馬車を牽いたロバが現れた。人目を集めるために爆竹を投げ、存在しない騎士団隊長を呼んだのはハインリヒである。マフィアの構成員たちは少年の機転で、追い払われてしまったのだ。

「ジーサン、大丈夫?」

 荷台からハインリヒが降り立つ。老人は石畳の道に座り込み、腰を抜かしていた。少年はロバの手綱を握る男に声を掛ける。

「ゴメン。もう一仕事、頼んでいいかな。このジーサンを運ばなきゃ」

 ハインリヒはロバの御者と共に、老人の尻を押し荷台へ上げた。



 ロバの荷馬車は、マレーネの娼館裏口へ到着した。大ぶりな女性などの力を借りて、老人を娼館へと運び込む。

「ちょっと坊や、こんなジーサンじゃ、ウチらの客にならないんじゃないの?」

「マフィアに囲まれてた人で、お客さんじゃないよ。いきなり王宮に、連れて行けないでしょう? あそこに放り出していたら、またマフィアに捕まっちゃうだろうし」

 老人は通された娼館の一室を、興味深げにキョロキョロ見渡していた。


「ちょいと、ジーサン。何をキョロキョロしてるのよ」

「いや、恥ずかしながら、こんな場所に来るのは初めてでの。お前さんのような別嬪さんも、あまり見た事がないんじゃ」

「あらヤダ、お上手ねぇ。今、マレーネを呼んでくるわ」

 大ぶりな女は明らかに機嫌を良くして、店の奥に姿を消した。

「ジーサン、おべんちゃらが上手いなぁ」

 気難しい大ぶりな女を一瞬で味方に変えた、彼の口先にハインリヒは呆れ返る。


「儂は、おべんちゃらなんぞ言っとらんぞ。それより少年、窮地を救ってくれて感謝する」

 老人は生真面目な態度で、少年に頭を下げた。ハインリヒは片手をブンブンと振って、その礼を受け流す。

「気にするなって。そういえばどうしてマフィアに囲まれていたんだ?」

「あぁ、その事か。助けて貰った礼では無いが、これを受け取って貰えないかな?」

 そう言って懐から綺麗に装飾された、卵を取り出しハインリヒに手渡した。

「これなんだ? イースターエッグ(復活祭の卵)かな。模様や色が俺の知っているのと違うけど」

「うむ。儂の祖国であるルーシーに伝わる、プィーサンカという御守りじゃ。お前さんに良い事がありますように」


 それから老人は、貧民窟にある彼の住処の場所をハインリヒに伝えた。そこにいる住人に迎えを頼むように伝言される。その場所は娼館から、それほど離れた場所では無かったから、少年は気軽に、その場所に足を運ぶ。

 老人の住処は野戦病院のような有様だった。治療金の無い貧民が至る所に蹲っている。そこで独楽鼠のように動き回っていた、赤髪の少年に声をかけた。


「何ですって、お師匠様が!」


 ハインリヒは赤髪の少年に腕を引かれ、風の様に娼館へ戻る事になる。

「お師匠様! 大丈夫ですか?」

 娼館に戻ると、老人はマレーネと何やら話し込んでいた。少年は老人に飛びつく。どうやら老人は移民であり、祖国では医師であったらしい。クルトの施策により彼はイザールの貧民窟から、身体の弱っていた彼の弟子として選ばれたとの事だ。

「お師匠様を助けて頂いて、ありがとうございます!」


 少年は赤毛の頭を深々と下げ、老人と共に娼館を後にした。

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