第53話 三日月の妖精
「師匠、勘弁してください」
レオンは受け取った珈琲を口に運んだ。馥郁たる香りが強張った身体を解きほぐす。
「これでお前も世の中には、絶対に敵わない相手がいるという事を学んだろう。ユーキを見ろ。敵わないと思ったら、形振り構わず逃げ出した。正解とは言えないかもしれないが、これも彼の人生経験の賜物だ」
彼はヘラヘラと笑う美青年を見て、オットーと一緒に頷いた。これまでユーキは、どれだけ酷い道程を歩んできたのだろうか? 知りたいような知りたくないような気持ちを、レオンは珈琲と共に飲み下した。
頭上を見上げ、やっと夜空の美しさを感じる余裕が出来た彼は、船尾から艶々と潤いのある歌声が、流れてきたことに気が付く。見れば船尾に一人の人魚が腰かけ、三日月に向かって歌っていた。薄い月明かりに照らされ、黄金色に輝く髪。身体のそれ以外の部分は、シルエットとして霞んで見える。
「これが噂に聞いたニクセの歌声か。魅了がかかっていないという事は、彼女は歌いたくて謡っているのだろう。素晴らしいものだ」
オットーは、そういうと黙って目を閉じた。レオンの手の中の腕輪も反応していないので、確かに歌に魔力は含まれていないのだろう。
優しいハミング。母が子に囁くような曲調と旋律。残念ながら人間の言葉ではないので、歌の内容までは分からないが、聞く者の魂を優しく包み込むような歌声である。
レオンは船縁に寄りかかり、彼女の歌を大人しく聞いた。
トプン
水音に気が付き川面に目を走らせると、ニクセの少女が頭を浮かべていた。短い赤髪で痩せており、良く日に焼けていた。レオンに気が付かず、船上で歌う美女を必死に目で追っていた。
彼女の歌声に乗せて自分の歌声を乗せようとするが、ケロケロという蛙のような声しか出てこない。思わず吹き出すレオン。笑い声に気が付いた少女は、驚いて水の中に姿を消した。
「歌の練習の邪魔をしちまったかな?」
静かな夜である。彼は川面を眺めて肩を竦めた。船尾ではユーキに気づいた人魚の美女が、彼にちょっかいを掛けようとしている。美青年はオットーにしがみ付いて、大騒ぎを始めた。
翌朝、日の出と共に甲板上は騒がしくなる。船縁を二クセ達が取り囲み、バンバンと両手で叩き始めたのだ。ケルピーはヤレヤレと首を振る。
「夕べ現れた三日月の妖精を、全員に見せろとニクセ共は主張しておる。どうやら夕べ歌っておった個体が、仲間に吹聴しまくった様じゃな」
「……三日月の妖精。 どう考えてもユーキの事だよな」
レオンもため息をついた。しばらく考えてから、銀色の腕輪を左腕に付ける。諦めたような表情でケルピーに話しかけた。
「アンタの御威光で、ニクセ達を大人しくさせる事は出来ないのか?」
「出来ん事は無いが、後で拗れるぞぇ。女の嫉妬は恐ろしいでな。お主も昨日、学んだろう」
あぁ、そうだなと言いながら彼は、ユーキが立て籠った船倉の扉を開ける。狭い室内を見渡すが、美青年の姿は見えない。
「どこに隠れた? 甲板の話は聞こえていたろう。諦めて出てこい」
後ろを振り返って、レオンは頭を抱えた。
ユーキは船倉の扉に、しがみ付いていたのである。船倉に固定されたものが無い為か、隠れるつもりだったのかは分からない。ベリッと音を立てて扉からユーキを剥がすと、彼を担いで甲板に出た。
「裏切者! 売国奴!! 十三番目の使徒!!!」
罵られているようだが、レオンは気にしない。ケルピーの前に、ボトリと彼を落とす。ユーキは周りをキョロキョロと見渡し、銀髪の美女に話しかけた。
「アーチャンは僕を売ったりしないよね? ね?」
「当り前じゃ、私を誰だと思っておる。 ……ただ、チョットの」
ニンマリとケルピーは微笑む。悪い予感から美青年はジリジリと後退する。が、狭い甲板上では、どこへ移動しても人魚達の獲物を狙う視線から逃れる事が出来なかった。
「ほぉれ、ニクセ共! これが三日月の妖精じゃ」
ケルピーはユーキの片足を掴むと、誰が止める間もなく彼をダニューブ川に放り込んだ。盛大に上がる水しぶき。ユーキが頭を水面に出すと、人魚達が嬌声を上げて殺到する。
なぜか甲板でレオンも悲鳴を上げた。どうやら興奮しすぎたニクセの群れから、夥しい魔力が放出されているらしい。腕輪が強い光で輝いていた。とんだとばっちりである。
頃合いを見て銀髪の美女が、川に入り美青年を甲板へ引き上げた。
「これで満足じゃろ。良いか、三日月の妖精は私の稚児じゃ。労働の対価として下げ渡したが、今後は手出し無用! 妖精に何かあったら、私が相手だと思え!」
ケルピーは普通の口調で話しているが、人魚達は今までの嬌態が嘘のように緊張し、そそくさと水中へ戻って行った。さすがは高位の水妖である。締める所は、しっかり締めた。
労働の対価となったユーキは酷い有様だった。甲板に横たわっているがピクリともしない。流れるような黒髪は、何度も引っ張られてボサボサになっている。
オレンジのツナギのボタンが全てちぎり取られて、下着の一部も切り取られていた。靴も靴下も無い。ジャニーズのアイドルが女子高の卒業式に参加したら、こんな有様になるのであろうか?
銀髪の美女に掴みかかろうとしているエルマは、赤髪姫に羽交い絞めにされている。シスターはボロボロになったユーキを見つめて、何かブツブツ言っていた。回復魔法の詠唱かと思い、レオンが聞き耳を立てる。
「着衣を強引に引き裂かれた美青年。逃げ出そうにも体の自由が利かない状況で、少しずつ水妖に体力を奪われてゆく…… そしてついに水妖の愛を受け入れてあられのない姿を晒す。そうですか、分かります。それで周りの水妖を…… グフッ」
鼻と口を両手で抑えるゾフィアを見て、レオンは頭を抱えた。
ユーキの惨状を見て、船尾で短髪のニクセがケラケラ笑っていた。しかしレオンの視線を感じると、すぐさま水に飛び込んでしまう。
「嫌われちまったかな?」
彼は肩を竦めて、ユーキの介抱に戻った。
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