第52話 失言の代償
ダニューブ川の渓流地帯を抜け、暫く中流域を進むと隣国エスターライヒへと入って行った。ダウツと彼の国の友好状況は普通より少し悪い程度。しかし通常、隣国同士の仲が良い事などありえない。つまりは普通の国交状態であると言えた。
また、水量は増えたものの川幅は大きく広がり、流れは穏やかになる。遠距離ではあるが、他の船を見る事も増えるようになった。両国の間には水運における税関が無いため、呆気の無い出国となる。
「私、ダウツを出国するの初めて!」
エルマが目を輝かせて、岸辺を遠望した。この世界では個人所有のパスポートなど無い。身元確認票は本人が持つ公的身分や資産評価もしくは、今回渡された国王や領主が発行する割符が辛うじて存在するのみである。
それほど流通機関が発達していない世界であり、ハインリヒのように各国を股に掛ける人間は希少だった。通常は生まれた国から出る事なく生活し、一生を終える者が大多数である。
そして冒険者であるオットーとカタリーナ、そして教会に所属する
船縁にはニクセの代表者が浮かんでいた。金髪に緑の瞳を持つ、かなりの美女である。豊かな胸を剝き出しにして身体をクネらせた。そのたびにイルカのような鰭が、水面に浮かび上がる。ニクセは上半身が人型で、下半身が魚型の水怪であるらしい。
レオンは
「何じゃ、ユーキ。グリンディローの時とは偉い違いじゃな。作業者に挨拶するのじゃろ?」
「駄目。この人怖い……」
声をかけたケルピーは、苦笑する。それから人魚について説明を始めた。
ニクセは女性型の人魚で、男性型の個体は存在しない事。彼女たちは歌が得意で、歌声で人間を魅了できる事。不用意に川に近づく若くて健康な男性を魅了し、どこかへ攫ってしまう事。攫われた被害者は、ほとんど帰って来ない。しかし、まれに生還した男性の身体はミイラのように萎み、極度の女性恐怖症になってしまっている事。
「つ、つまり、コイツが怖がっているのは、自分が彼女の獲物になる事が分かっているって事だな」
レオンはしがみ付いてくる美青年を、引き剝がそうとするがガッチリ抱き付いて離れない。
「うむ、恐るべきはユーキの野生の勘じゃ」
ニクセの代表者はレオンとユーキに熱っぽい視線を飛ばした後、トプンっと川の中に消えて行った。
金縛りが解けたような表情を浮かべるレオン。そんな兄を見て、エルマが顔を顰める。
「まさか兄さんの、そんな顔を見る事になるとは思わなかったわ」
「……すまん。でもなぁ、あれは男である限り無理だぞ。大体お前らだってユーキに対して、俺と同じような物じゃないか」
と、小声でレオンは呟く。その瞬間、彼は三人の美女に取り囲まれていた。
「ちょっと兄さん! 誰がユーキに魅了されているって!」
「私の事を悪く言うのは構いません。ですが、その為に他の人を貶めるような事を仰るのは、ちょっと許せないです」
「なんじゃ、お前、ニクセに興味があるのかぇ。何なら今すぐ、川に突き落としてやろうかの。船の底には奴らの大群がおるから、溺れ死ぬ事は無いじゃろ」
レオンは直ちに甲板の上で、土下座をする羽目になる。しかし、それだけで失言は許されなかった。
「大体、二クセって何を食べるんだよ」
「大抵は草食じゃの。藻や水草を食べておるから、野菜をくれてやれば良い」
「別に飯を出さなくても良くないか? それに俺じゃなくても……」
「グリンディローに出して、ニクセに出さなければ後で揉めるぞぇ。それにどうせなら、若い男が給仕をした方が奴らも喜ぶ。お主を揶揄わん様には命じておくから、しっかり勤めろ」
溜息をついて、オットーの所へ食材を貰いに行こうとするレオン。そんな彼をシスターが呼び止める。
「レオンさん、これをどうぞ。魅了除けのアイテムとなります」
ゾフィアは銀色の腕輪を彼に渡した。礼を言って左腕にアイテムを装着する。
「シスター、助かります。これを付けておけば、大丈夫なんですね?」
「大丈夫というか、その…… その時になれば分かりますから」
そういうと彼女は、そそくさとレオンから離れて行った。小首を傾げるレオン。その内に休憩のニクセが水上に顔を出す。彼はオットーから
嬉しそうにレオンから野菜を受け取った彼女は、濡れた髪を掻き上げてウィンクする。
「グフッ!!!」
レオンは左腕を抱えて蹲った。腕輪が光り、高圧電流が流れたような激痛が走る。どうやら魅了除けのアイテムは、痛みで魔力を打ち消す効力があるようだ。
彼の悲鳴に驚いたニクセ。しかし彼女は腕に光る腕輪を見ると、ニタリと笑って水中に消える。
レオンの失言の代償は大きかった。この後、日没まで彼の悲鳴が途切れることは無かったのである。
銀の月に金の星。
新月直前の何かに刺さりそうな三日月が、川面に浮かんでいた。月の光が届かない夜空には、無数の星々が煌めいている。夜の帳を揺らす川風は日中に比べて、少し冷たいが透き通っていた。
暗くなりニクセの姿が肉眼でハッキリと見えなくなった所で、グッタリとしたレオンは忌々しい腕輪を外した。どうやら魅了の力が強いほど、腕輪の電撃も強くなる仕組みだったらしい。
それを知ってか知らずか二クセ達は、レオンが怒り出して職場放棄をしない程度の魅了を、チョクチョクかけてくるようになった。ひょっとしたら休憩の食事よりも、若い男を揶揄う方が彼女たちにとっては、良い気晴らしになっていたのかもしれない。
トイレの為に仕方なく船室を出たユーキが、恐々と川面を覗き込む。それから甲板に倒れこんでいたレオンに気が付き、申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「レオン、ゴメンね。僕が余計なことをしたばっかりに、酷い目に合わせちゃった」
「何、気にするな。これも人生経験。レオンも女性の恐ろしさが身に沁みたろう」
手に持っていた珈琲のカップをレオンに渡しながら、彼の代わりにオットーは鷹揚に答えた。
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