第8話 サクとサメゾウ

 サクの暮らす町に、春がやってきた。

 日中、太陽が顔を出している時間が増え、吹く風はほのかに暖かい。

 木々の枝には、蕾が膨らみ始めたり、品種によっては、花も咲いている。

 身も心も閉じこもり気味になる冬が過ぎ、人々の心は次第に浮足立っていく。

 しかし、こと町外れにある雑貨店は、浮足立つという言葉とはまるで無縁なのであった。


 時は遡る。

 その年の春の、柔らかい日差しが厚手のカーテンの隙間から漏れ、一筋の光となっていた。

 それは重苦しい暗闇の中での、唯一の光だった。

 しん、と静まり返った空気に、壁掛け時計が時を刻むカチコチという音だけが響く。

「お前も本当にもの好きよな……いつまで続けるんだ、こんなこと」

 低く呟く声が、ふいに部屋に湧いてくる。

 いつもはサクを始めとする客との折衝に使っているテーブルに、サメゾウは一人で席についていた。

「……日中にあなたが人前に姿を晒すとは、珍しいですね」

 サメゾウが、いつものように淡々とした口調で言った。しかし、その声音はいつもより低いものだ。

「人前? お前は、人ではなかろうに……」

 サメゾウの会話の相手は、クックと喉の奥で笑った。

 その声には、どす黒い禍々しさが溢れている。

「我が眷属でありながら、人に紛れて生きるなど……いったいどんな神経をしているのやら」

 声の主は、ぬらりと虚空の闇から姿を現した。

 その頭の左右にはねじれた角が生え、瞳はキリキリと釣り上がり、瞳孔は紅く、角膜は金色、結膜は闇を表わすかのような黒。ゆるやかなウェーブを描く、艷やかで豊かな髪は背の半ばまであった。

 悪魔、もしくは、魔族と呼ばれる者だ。

「あなたと違って、私は優秀でしたからね……沢山の人間を堕落させてきて、ただそれに飽きただけの話です」

 言うサメゾウの瞳は黒い。まるで人間のもののように見える。

「それより、一体なんの用ですか……私のことは、放置しておく約束になっているはずですが」

「別に、お前にちょっかいを出しに来たわけじゃない」

 言い、悪魔は懐から直径十センチ程の透明な球体を取り出し、サメゾウの前に置いた。

「水晶球……」

 サメゾウは呟いた。

 特に、何か仕掛けがあるわけではなさそうだ。

「これに、核を仕込んでもらいたい」

「……使用目的を教えて下さい。核と一言で言っても、色んなタイプがあるんですよ」

 サメゾウには、この悪魔の依頼を断る選択肢はなかった。

 もし断れば、後ほど面倒になることがわかっているからだ。

 今の自由気ままな暮らしを、手放すわけにはいかない。

「異質の力を吸い取り、封じ込めたい。ちなみに、私の言う異質の力とは、我が眷属の力も含まれる」

 ということは、この悪魔の力では敵わない、巨大な力を持つ誰かと対峙するつもりなのだろう。

 魔族という一族から一線を画しているサメゾウには、目の前の悪魔の対立相手が誰であろうが、まるで興味がなかった。

「核を仕込ませておいて、私の力を奪う気ではないでしょうね」

 サメゾウの言葉に、悪魔はフッと笑った。

「そんなもったいないことをするほど、私は馬鹿ではない。お前のその力は、神にも匹敵する」

「神だなど……私を買いかぶり過ぎですよ……ところで、報酬は頂けるんでしょうね?」

「もちろんだ、タダより怖いものはないからな……いつも通り、この町の通貨で支払って良いか?」

 悪魔の問に、サメゾウは小さく頷いた。

 そして卓上のペンを手に取り、紙片にサラリと数字を書いた。

 悪魔はそれを受け取ると紙面の数字を一目だけ見て、ニヤリと笑う。

 その手の中で、紙片は紅い炎をあげて灰になり、宙に舞った。

「しかし毎度思うが、食事の要らぬお前には、金など必要ないだろうに」

「人間社会に紛れ、人間であると認識されるには、金銭が必要なんですよ。万が一、素性を疑われでもしたら、私はまたあらたに居場所を探さねばなりません。それは非常に面倒です」

 サメゾウは言うと、はめていた白手袋を外し、悪魔が置いた水晶球を手に取った。

 青白い炎と漆黒の炎とが混ざり合い、その手の中で燃え上がる。

 その炎の圧力で、サメゾウの髪がザワザワと揺れた。

「終わりました」

 その作業は、一分かかったかどうかという短時間で終了した。

 悪魔は手渡された水晶球をジッと見つめ、その仕上がりに瞳を細める。

 限りなく澄んだ透明の中で、恐ろしい程の吸引力を持った黒い炎が禍々しく渦巻いている。

 それがどれほどのものであるか、悪魔には察しがついていた。

「ほら、お前の望み通りの報酬だ……我が弟よ」

 悪魔は水晶球を布で包んで懐に入れると、どこから取り出したのか、この町の通貨である紙幣の束を卓上に置いた。

「……どうも……」

 目の前から姿を消した悪魔に、サメゾウはポツリと呟いたのだった。

 

「あの……帰ってきたんです」

 花屋の店主へのプレゼント、怪光線老眼鏡を購入して以来の、サクの来店だった。

 かたり、サメゾウは、いつものようにティーカップをサクの傍らに置く。

 白い湯気と共に、心が落ち着くような微かな花の香りが漂う。

「あなたが恋い慕う、幼馴染の方が、ですか?」

 サメゾウはサクの正面の席につき、静かな口調で問いかけた。

 サクは、黙ったまま頷く。その視線はサメゾウに向けられていない。テーブルの上の、どこか一点を見つめている。

「生きていたんですね……良かった」

「はい……生きてて……どこかで、幸せに暮らしていたみたいなんです……好きな人と」

 サクは淡々と話し続けた。

「私……全然気がつかなかったんです……お兄ちゃんが隣町に住む娘さんと、数年前から恋仲だったなんて」

「……そうでしたか……」

「お兄ちゃんのご両親は、二人の結婚に反対して……お兄ちゃんは、最初は諦めようとしてたみたいなんだけど、やっぱり無理で……なら、駆け落ちしようって……」

「……その状況で、よくこの町に戻って来られましたね」

「はい……弟さんが、間に入って……それで……お兄ちゃんのご両親も、二人を許すってことになったから……私、お兄ちゃんに紹介されました。この女性ひとが俺のお嫁さんだよって……お兄ちゃん、幸せそうだった」

「サクさんは、どう思うんですか?」

 サメゾウの問に、サクはハッとした。そして、視線をサメゾウに向ける。

 そこには、いつもの知的でクールな顔があった。

 不思議……今はサメゾウさんの顔を見ると心が落ち着く気がする……

「私……自分が何も知らなかっただけなのに、一人でお兄ちゃんを探しに行くとか、盛り上がって……バカみたいって……思って……」

 サクの瞳にみるみると涙が溢れてくる。

「泣きたい時は、泣いた方がいいですよ」

 スッと、サメゾウは箱ティッシュをサクの前に差し出した。

「このティッシュには、保湿成分と美容成分が含まれています……が、今はどうでもいいですね……」

 ティッシュに顔を埋めて固まるサクを、サメゾウは黙ったまま見守っていたのだった。


「サメゾウさん、あの老眼鏡ね」

 気晴しに一緒に散歩しよう、というサメゾウの提案に頷いたサクが、笑顔でサメゾウを振り返った。

「店長さんが、暖炉に火を入れるのにも使えて、便利だったって!」

「そうですか……まあ、マッチを擦るのにさほど労力は要らないと思いますが……」

「確かにそうなんだけどね、こう、ピカーって光線が出るのが面白いんだって……あとね、泥棒相手にも使ったみたい」

 あはは、とサクは笑った。

「サメゾウさん、いつもありがとう」

 後ろを歩くサメゾウを振り返り、サクは言った。

「サメゾウさんのお陰で、私、毎日楽しいよ!」

「……それは、最高の褒め言葉ですね」

「あ、サメゾウさん、今少し笑った! 私、二回目だ、サメゾウさんが笑ったとこ見るの!」

「……それは、目の錯覚です。ポーカーフェイスは、私のトレードマークですから」

「えぇ、つまんない! ……けど、いいや! その方が、サメゾウさんらしいもの」

 サクは、晴れ渡る青空を見上げた。

 二人の行く道を、春の優しい風がゆるやかに吹き抜けていったのだった。

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