むっつめ ハイヒール

 竹中三郎(仮名) 26歳男性


 一年前の話です。

 僕は都内某所のとある会社で働いていました。そのころは毎日電車で通勤していたのですが、事件は通勤で使っていた駅のホームで起きました。


 ・


 その日もいつも通り、眠い目をこすりながらホームで並んでいました。すると、さっきまで誰も並んでいなかったすぐ隣の列に、明らかに部屋着と思われるような服を着た陰気な女が並んできます。その女は見ているだけでこちらまでテンションが下がってしまうような雰囲気の女でした。

 女はなぜか、履いていた白いハイヒールを脱ぎ始めました。僕はその不可解な行動を横目で見てしまったせいで、どうしても女に注意が行ってしまいます。

(何をしているんだろう)

 女は脱いだハイヒールを綺麗に揃えると、深呼吸を始めました。ラジオ体操でよく見るように、手をあげたりしての深呼吸です。僕は思わずその女を注視してしまいました。

 遠くから電車がやってくる音がします。すると、女は突然僕のほうを向きました。僕は女と視線があってしまい、びっくりして動けなくなってしまいました。

 すると、女は僕に向かって穏やかに笑いかけてきました。その笑顔は穏やかではあるのですが、どこか寂しそうでもありました。

 僕は混乱しながらも笑い返そうとしました。しかし次の瞬間、女は一歩前に踏み出し、その勢いのまま前傾姿勢になって倒れながら僕の視界から消えました。

 そのすぐ後に聞こえた恐ろしい音は、いまでも耳にこびりついて離れません。とても大きなブレーキ音に混じって、肉が弾ける音と骨が断ち切れる音が微かに聞こえたのです。電車の運転手はすぐに停止しようと努力したようでしたが、すべては手遅れでした。


 そのあとはよく覚えていません。僕はすっかり頭が真っ白になってしまって、気付けば随分遅れて会社に出社していました。その日は全く業務に集中することができず、僕はただ職場の邪魔者になっていました。


 ・


 帰り道、またあの駅を使わなければいけません。できれば通りたくはなかったのですが、そこ以外の駅を使うと一時間以上歩かなければいけないし、タクシーは金欠なので使えません。全く最悪な状況でした。

 僕はホームに立つと、できるだけ線路が目に入らないようにしました。あの光景がフラッシュバックするからです。下を向き、冷たいベンチに座ります。

 すると、ベンチの下に何かあります。どこかで見たことがあるような気がして、僕はそれを引っ張り出してみました。僕は出てきたものを見て、すでに座っているにも関わらず腰を抜かしてしまいました。

 それは、白いハイヒールでした。僕の脳裏には、あの女の笑顔が浮かんできました。

 自然と呼吸が早くなり、過呼吸のようになります。僕は必死であの顔を忘れようと努力しました。しかし、どれだけ努力しても僕の脳みそはあの笑顔と光景を再生し続けたのです。

 そうして最悪な気分でいると、電車がやってきて、僕はなんとか家に帰りました。その日はずっと瞼の裏にあの光景が焼き付いているような気がして、寝付くまでにかなり時間がかかりました。


 ・


 翌日、僕はまたあの駅に来ました。昨日よりは随分マシですが、それでもトラウマは克服できていませんでした。

 昨日の現場となった場所にはできるだけ目を向けたくなくて、できるだけ離れた場所に並んでいました。すると、隣に見覚えのある恰好をした女が並んできます。僕は驚愕して、息をするのすら忘れてしまいました。

 あの女だったのです。

 確かに昨日死んだはずでした。ネットニュースにもなっていました。ではなぜ、今ここにいるのか、皆目見当もつきません。僕は口をパクパクさせるしかできませんでした。

 女はまるで昨日の再現のようにゆっくりとハイヒールを脱ぎ始めました。昨日と違って周りに人はたくさんいるのに、全員が女に目もくれません。僕だけしか見えていないようでした。

 女は深呼吸を始めました。電車がやってきます。女は僕のほうを見ました。その顔には昨日とは違って、笑顔はありませんでした。悲痛で、助けを求めるような顔でした。そして昨日と同じように飛び込みました。

「あっ!!!!」

 その瞬間から体が動くようになりました。僕は思わず叫んでいました。しかし、昨日と違って電車は止まろうとしません。周りの人は女が飛び込んだことに気付かず、それどころか叫び声をあげた僕の方を不思議そうに見てきました。そのとき、僕は確信しました。

(これは僕にしか見えていないのか……!)

 僕は周りの人に少しだけ頭を下げてから、女が置いていったハイヒールを見ました。一体何が目的でこんなことをするのでしょうか。僕は心の中で女に問いかけながら電車に乗り込みました。


 ・


 オフィスの入っているビルに着きエレベーターを待っていると、後ろから声を掛けられました。声の主は同僚のAさんでした。Aさんと挨拶を交わすと、Aさんは心配するように話しかけてきました。

「随分お疲れみたいですけど、大丈夫ですか?」

「分かります?」

「ええ。クマが凄いですよ。昨日も調子悪そうだったし、まだあの事故の件、立ち直れてない感じですか?」

「いやー、そうなんですよ」

 僕はその勢いのまま、今日の出来事を話してしまいました。

「心霊現象ですか?怖いですね」

 あまり本気にしていない様子ですが、僕の真剣な顔を見て冗談だとも思いきれない様子で微妙な反応が返ってきました。そのときエレベーターがやってきて、僕とAさんはオフィスに向かいます。

 僕はエレベーターを降りた直後、トイレに行きたくなってAさんと別れてトイレに向かいました。用を済ませ、オフィスに向かいました。

 自分のデスクに向かって歩いていきます。同僚や上司に挨拶しながらオフィスを歩き、自分のデスクに向き合い、そして絶句してしまいました。デスクには、綺麗に揃えられた白いハイヒールが置いてあったのです。僕が訝しげにハイヒールを見ていると、後ろにいた同僚から「何なんですか。それ。」と声を掛けられました。すっかり怪奇現象だと思い込み、周りには見えないし触ることもできないと思っていましたが、周りにも見えているようです。僕は試しにハイヒールを摘まみ上げてみました。微かにぬくもりが残っていて、脱いだ直後のようです。

 僕はこのとき確信しました。これはきっとイタズラだ、と。この話を知っているのはAさんだけです。僕がトイレに行っている間にやったのだと思い、僕はAさんに文句を言いに行きました。

「Aさん!これ、やめてくださいよ!」

「なんです?それ?」

 あくまでもしらばっくれる気でしょうか。しかしまあ僕もそこまで短気じゃありません。少し茶化しながら話します。

「それにしても、即席でよくこんなイタズラできましたねー」

「イタズラ?なんのことですか」

 Aさんは少しだけ腹を立てているように見えました。

「え?これAさんじゃないんですか?」

「知りませんよ」

 僕はそこでもまた絶句しました。すると、さっき声を掛けて来た同僚が話に入ってきます。

「昨日○○さんが自分で置いてたんじゃないですか。会社にやっと来たと思ったらハイヒールなんて持って、何してるんだろうと思ってましたよ」

 昨日ハイヒールを職場に持ってきたなんていう記憶はありません。知らない情報でした。

「それ、本当に僕でした?」

「どういうことですか。本当ですよ」

 僕はその声を聞き、どうしていいか分からなくなりました。


 ・


 僕はその日の退社時、ハイヒールを持って帰るように促され、仕方なく持って帰ることにしました。

 しかし不気味なことです。僕はため息をつき、帰路につきます。

 一体どういうことか、全く分かりません。僕は駅のトイレの便座に座り、考え込んでいました。

 この現象の原因があの女なら、全く目的が分かりません。僕は床に置いたハイヒールを見つめながら「何が目的なんだ?」と問いかけますが、もちろん返事が返ってくることはありません。

 そのときふと、これを履いてみたらどうなるんだろうと思いました。今思うと正気な思考ではありませんが、履いてみたら解決すると思ったのです。

 足のサイズは到底合いませんでしたが、なんとか足を押し込んでみます。グイグイと力を入れていると、突然ズボッと足が入りました。入った、と思った瞬間に、僕の記憶は暗転しました。


 気付くと、ホームに並んでいました。周りにはなぜか誰もいませんでした。

 僕は靴を脱がなければいけないという衝動に襲われました。なぜか履いたはずのハイヒールではなく、いつもの革靴になっていました。僕は革靴を揃えて置き、深呼吸をします。そうしなければいけないのです。

 遠くから電車がやってきました。周りには人がいません。僕の足は一歩前に踏み出し、そのまま体重をかけます。それが自然なことだからです。

 あと一歩で全てが終わる、そう思った瞬間、強い衝撃が体に走り、倒れ込んでしまいました。電車が目の前を通り過ぎます。

「なにやってるの!!」

 横では駅員がそう叫んでいました。駅員に助けられたのです。助けられたと認識した瞬間、心臓が一気に動き出し、体中を血が巡ります。冷汗が止まりませんでした。

 そのあとは警察が来て、説教されて帰りました。精神科への入院を勧められましたが、断りました。


 ・


 その後、僕は会社をやめ、なけなしの貯金で引きこもり生活をしています。

 僕はあの日から、突然の自殺衝動に襲われることが多くなりました。車が行き交う交差点に飛び出したり、高い橋から落ちようとしてみたり、包丁で手首を切ったりしました。

 すべて僕の意志ではありません。僕はあの女に操られているのかもしれません。或いは、あの女も自分の意志で死んだのではないのかもしれません。


 いずれ僕は自殺をやり遂げるでしょう。その前にこれを読んでいる人に言うべきことがあります。

 もしあなたが自殺現場を目撃して、自殺者に笑いかけられたなら、覚悟しておいたほうがいいかもしれません。

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