よっつめ ウラ道のケモノ
木戸芳雄(仮名) 56歳男性
「のろい」というのは、予期せぬところから不意にかけられるものです。時には理不尽で、時には因果応報であることもあります。
私の身に降りかかったものは、どうにも理不尽なものです。もしもこれの解き方を知っている人がいれば是非とも教えて欲しいと思い、今回話をさせていただきます。
・・・
私の趣味は登山でした。しかしここ半年ほどは全く山へは行っていません。恐ろしくて山に入れないのです。
きっかけは半年前の冬、とある登山コースを登っているときでした。そこは景色が壮観だとマニアの間では有名な場所でしたが、正規のコースではなく「裏道」というやつで、なかなかに険しい山です。一歩足を踏み外せば崖の下へ真っ逆さまに落ちていってしまうような場所もあるのです。
私はいつも以上に気合いを入れて挑んでいました。なにせ毎年遭難者がでるような危険なコースです。万全の支度を整えて行きました。
山に入って二時間ほど歩くと、分岐路が見えてきます。左の道がただのハイキングコースで、右側は件のコースです。私は迷うことなく右を選び、
しばらく歩くと、私は不思議なものを発見しました。それはまるで人間の手首から先がもげたような形をしています。
まさか本当に手首だということは無いだろうと思ってよく見ると、複雑に捻れて折れた木のコブでした。私は少しだけ安心しましたが、同時にえも言われぬ不安を覚えました。
今となっては後の祭りですが、そこで帰っておけばよかったと後悔しています。
それから十分ほど歩くと、やけに平坦な道が続く場所に出ました。そこで、これはおかしいぞと私は思います。なぜなら、事前情報ではこんなに平坦な道が続くはずがなかったからです。私は迷ったのかと思い、引き返しましたが、元の道に戻ることはできませんでした。
遭難してしまったのです。
私は焦りました。登山に慣れているとは言え、流石に遭難の経験はありません。たった一人で山奥に取り残されてしまった孤独感は、もう二度と感じたくないと思える物でした。
私はどうしたものかと考え、とりあえずスマホを確認します。しかし山奥なだけあってもちろん圏外です。私は軽く絶望しましたが、事前の準備をしっかりしていたので希望を失ったわけではありません。
とりあえず少しだけ食べ物を摂ろうと思い、リュックに入れていたはずのカロリーメイトを取り出そうとして、私はひどく困惑しました。私が背中から下ろしたリュックは全く見覚えのないものだったのです。
私は狐につままれたような気分になりました。とりあえず中を見てみようと思い、全く知らないリュックを漁ります。しかし、入れておいたはずのカロリーメイトはどこを探しても見当たりません。
それだけでなく寝袋やファーストエイドキットもありません。リュックの中には見た事のないスマホやゲーム機が入っていたのです。確実に私のものではありませんでした。
一体どこですり変わったのだろうと考えてみましたが、私はリュックを下ろした記憶はないですし、他人と入れ替わる余地はあるはずがありません。全く意味が分かりませんでした。
そのとき、ふと寒いなと思いました。さっきまでと違って風が冷たく感じるのです。私は思わず腕をさすり、そして飛び上がるほど驚きました。
着ていたはずのウインドブレーカーが無くなり、半袖のTシャツになっていたのです。それよりも更に驚いたのは、贅肉がつき始めていた私の体が締まっていたことです。私はもう中年ですが、まるで若者かのような体でした。
一体どうしたことかと思い、顔を触ってみます。すると、無かったはずの髭が生えています。私はスマホのカメラを起動し、自分の顔を確認しました。すると、全く知らない若者の顔になっていました。
私は意味のわからない状況にひどく混乱しました。荷物だけでなく、体まで知らない人間に変わっているのです。
私はどうしたらいいか分かりませんでした。食べるものもなく、寒さを凌げるものもなく、帰り道は分からず、ただひたすらに待ちぼうけです。私は震えながら縮こまりました。
そのまま夜になりました。寒さはより厳しく、皮膚がつっぱるのが分かります。私はガチガチと歯を鳴らし、この苦痛がいつ終わるのか待つことしかできませんでした。
そのとき、背後からガサガサと音が鳴りました。暗くてよく見えませんが、"何か"がいます。月明かりがあれば見えたかもしれませんが、月すら出ていませんでした。
"何か"は私のほうへ寄ってきていました。周りが見えない状況で動き回りたくはないですが、正体不明のものが迫ってきている状況では後ずさりするしかありませんでした。
低い息遣いと、人間にしては早い足音だけが場を支配していました。フーフーという呼吸音が段々と近付いてきます。私は自分の呼吸音が荒くなるのを感じました。
突然、"何か"の息遣いは私に急接近し、その瞬間に私は肩に激痛を感じました。唸り声が響き、私はブンブンととてつもない力で左右に揺られます。首がすわっていない幼児のように、私は落ち着きなく揺すられていました。
生臭さと、鉄臭さが同時にしてきます。"何か"は私に噛みついてきていたのです。私は噛み付いてきた頭に向かって拳を打ち付けました。しかしビクともしません。私は何度も何度も殴りました。すると、少しうざったく思ったのか、手首の方へ噛み付いてくるではありませんか。それだけでなく、手首を捻じるように揺さぶってきます。
私は手首から筋の切れるような感覚と、これまでの人生で感じたことがないほどの痛みを感じました。それからすぐに、バキバキという衝撃が体に響き、私は自然と叫び声を出していました。
「アアアアア!」
その瞬間手が自由になりましたが、痛みはまだあります。私は手首を押さえようとして、そこに手首がないことに気付きました。暗くて何も見えなくても、血がとめどなく溢れる感覚は分かります。私は思わず涙を流していましたが、手首を食いちぎった"何か"は容赦してくれません。
"何か"は私を思い切り押し倒しました。その衝撃で後頭部を打ち付け、意識が朦朧とします。しかしすぐに意識は戻ります。先程と同じかそれ以上の痛みが私を現実に引き戻したのです。
痛みの発生源は腹からでした。何かは私の腹を破り、内臓を食っていました。食われる感覚は、それはそれは最低なものでした。私は激痛に悶えながら、殺してくれと願いました。しかし無情なことに、私は殺されることはなく激痛の中で食われながら死にました。
ハッと気がつくと、夕方になっていました。「あれ、食われてない…?」と思い、腹を見るといつも通りの中年太りです。白昼夢でも見たのかと思い、私はもう帰ることにしました。もう山にはいたくありません。一刻も早く家に帰りたい思いでいっぱいでした。
そう思って登山用ステッキを握る手に力を入れると、激痛が走って思わずステッキを手放してしまいました。恐る恐る手を見ると、手首に捻れたようなシワが刻まれています。しかし瞬きをした瞬間にシワは無くなり、痛みも消えました。まだ白昼夢を見ていると思い、一旦頬を叩いてから下山しました。
翌日からは普通に仕事が始まります。私は満員電車に揺られながら職場に向かっていました。
電車がとある駅で止まり、乗客が詰め込まれるように乗ってきました。そのとき私はふと車内からホームを見ます。何となく視線を感じたのです。すると、そこには見覚えのある男がいました。あのとき私が白昼夢で乗り移っていた男です。男は恨めしそうにこちらを睨みつけていました。そして何かつぶやいたように見えました。何を言ったかは分かりません。しかし私は、男の手首に捻れたようなシワがあるのをはっきりと目にしました。
それから、毎日のようにどこかしらでその男を見るようになりました。それも、段々と近付いてきています。私は恐ろしくなり仕事を休んで家に引きこもっていましたが、家にいても男は現れました。そして何かを呟くのです。
そして一週間後、ついに男の声が聞こえました。私はそのときには寝不足で頭がボーッとしていました。突然後ろから、「来いよ、寄越せよ」と聞こえたのです。私は肝が飛び上がるほどに驚き、そして男の苦悶の表情を見て最悪な気分になりました。男はまさに食われている最中の顔をしていたのです。
男は毎日のように同じことを呟きます。「来いよ」というのは山に来いという事なのでしょうか。「寄越せ」というのは私の体なのでしょうか。
私は恐ろしくてもう山に行くことはできません。
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