第10話 あの忘れえぬ日々②

 あれから、更に半年の月日が経った。


 あれから、と言うのは、私がレーリアへの想いを伝えてから、と言う意味だ。

 懐かしくも思い出される、私がレーリアと出会ったその時は、春も終わりに差し掛かり、夜の風も温かくなり始めた季節だった。そして私がレーリアに想いを伝えたのは、夜の風も涼しくなり始めた夏の終わりの事。

 そして今は、ブラッドバーンの森に積もった雪もすっかり溶け、寒い冬も終わりを告げようとしていた。



 あれは確か、そんな春先の出来事だった。



 領主のローガン・ロチェスター伯爵が、いつになく慌ただしい勢いで屋敷に入って来た。


「アルクアード! 居るか?」

「あら、ローガン、いらっしゃい。」

「ああ、レーリア、アルクアードは?」


 ちょうど玄関の広間を掃除していたレーリアが、もはや慣れ親しんだ友人であるローガンを出迎える。出会った当初は、完全に恐縮しきっていた「伯爵」という立場も、もはや存在しないかのようであった。


「あの人ならいつものお店に買い出しに行きました。息子のマックスさんが後を継いだらしくて、色々教えに行くって。」

「そうか。」


 レーリアがそう伝えると、ローガンは一瞬の間をおいてニヤリと口元を歪めた。


「……それにしても。」

「え?」

「いやいや、そうかそうか。」

「なんです?」


 流石に意味深な笑みを浮かべ続けるローガンの様子に、レーリアは引っかかった。この伯爵のこういう表情を、良くレーリアは見かけていた。そう、アルクアードとのチェスの勝負で、圧倒的優位に立つ一手を思いついた時、良くこの表情をしていた。

 チェスの事など良く分からないレーリアではあったが、伯爵のこの表情と、ポーカーフェイスを保ちながらも口元を歪める男爵の対峙を見て、

(私の男爵様は、きっと厳しい戦況なのね)

などと心の中で、勝負の状況を理解出来たほどだった。


 ともあれ、その圧倒的優位の表情の伯爵は、その笑みを浮かべたまま、その優位の要因を惜しげもなく公開してきた。


「はっはっは、何でもないよ。そうか。『あの人』ね。」

「……あ。」


 しまった。とレーリアは思った。


 いや、別段隠すようなことでも無いのだが、アルクアードは、「二人の関係はローガンには内緒にしておきたい」と言って聞かなかったのだ。それが照れ隠しなのか、あるいは何か別の理由があるかは分からなかった。が、レーリアにとっても、別に大っぴらに喧伝けんでんするような出来事でも無かったのでそれを了承したのだった。

 だからこの半年、特にローガンが訪ねてくるときは、徹底して使用人としての振舞いに努めていた。

 だからついついアルクアードの事を「あの人」などと呼んでしまったのは、レーリアにとっては完全な油断だった。


「なに、気にすることはない。アルクアードに比べれば早く死んでしまうだろうが、愛し合ってはいけないなんて決まりはないさ。」


 しかし、当のローガンは全く動じる様子もなく、あっさりと、当然のように「愛し合う」などと言う表現を用いて来た。

 えっと、ここは、伯爵が驚くところなのでは無いだろうか。

 レーリアはそう思ったが、これ以上ボロを出すわけにもいかなかったので黙っていると、ローガンは貯えた髭をさすりながら、笑って付け加えた。


「いや、実はね、先日、ここにヘルプに出したうちの使用人が、中庭でくつろぐ君たちを目撃してしまったようでね……。」

 その言葉を聞いて、レーリアは顔から火を噴きそうになった。普段、誰にも見られない中庭は、二人の逢瀬の場所になっていた。あまり過激なことをした覚えはないが、レーリアがアルクアードの肩に身を預けたり、アルクアードに膝枕をさせたりするくらいの事は日常茶飯事だった。

 そして、どうもその様子を使用人から報告されたローガンが、事の次第を確かめるために、わざわざ足を運ばれたようであった。


「いやはや、そうか。なんにせよ、めでたいことだ。君たちの関係は祝福されるべきものだからな。」

 豪快に笑うローガンとは対照的に、レーリアは顔を曇らせた。


「……本当にそうでしょうか。」

「ん?」

「私は……アルクアードを愛しています。でも、『愛する人よりも一日でも長く生きることが何よりもの愛』とよく言われます。私の父も、母にそう言ってプロポーズしたと聞いています。私は、彼より長く生きることはありません。それは、きっと、彼に悲しみを背負わせてしまいます。私は……それで、良いのでしょうか。」


 彼は男爵位を持つ、このアトエクリフ島の貴族であり、数百年を生きるヴァンパイアだ。そして自分は、所詮は身寄りもなく、小さな村を追い出され、大陸から渡って来たはしたに過ぎない。多くの偶然が重なり、使用人としてここに住むことを許されているが、そして彼の気持ちを受け入れてしまったが、到底釣り合うものではない。更に言えば、それはもしかしたらこの島の人達にとっても、受け入れがたいことかもしれない。

 レーリアにとっては、アルクアードの想いを受け入れてはいたが、ずっとその葛藤と戦っていたのも事実だった。

 そのレーリアの言葉を聞いたローガンは、ゆっくりとロビーのソファーに腰を掛け、そしてレーリアに、向かいに座るように手で勧めた。


「レーリア……君は私にとってとても大切な友人だ。」

「……はい。」

「私と君が、どちらが先に死ぬかはわからない。しかし、私は君が死んだらとても悲しむだろう。」

「私も、ローガンが亡くなったらとても悲しいです。」

「うん。しかし、その悲しみがあるからと言って、君に出会わなければ良かったなんて、私は微塵も思わない。むしろ、君との思い出は私の宝物だ。それはどちらが先に逝こうとも、な。むしろあいつは、我々よりももっと長生きするヴァンパイアだ。宝物は多いに越したことは無いさ。」


 レーリアがこの島に来て一年足らずだが、彼女は心からこの島が大好きになっていた。それはアルクアードのおかげと言うのも勿論であったが、ひとえに、たった今、目の前で、自分の為に語ってくれた、この伯爵の存在が大きかった。


 自分のような小娘に対しても、友人として対等に話してくれる。困ったことがあれば相談に乗ってくれるし、彼が伯爵夫人の事などで困ったことがあれば、分け隔てなく自分を頼ってくれる。そしてここはそんな人格者の彼が治める土地である。街の人は優しく、争いごともない。何より自分を受け入れてくれたこの島を、嫌いになりようも無かった。

 レーリアは、何度となく思った、感じて来たその気持ちを、今回もかみしめながら、ローガンの言葉を受け入れた。


「……ありがとう、ローガン。」

「はは、柄にもない話をしてしまったな。ま、年齢的にも君が先に逝くことはないだろうし、私が先に逝ったら墓参りにでも来てくれよ。」

「そんなこと……。」

「ん?」

「いえ、わかりました。もしもあなたが先でしたら、必ず。」

「ああ、宜しくな。」


 ローガンは再び豪快に笑った。

 そして、彼の発したその不謹慎なジョークを聞いたレーリアが一瞬、その表情に、悲しみと贖罪の影を落としたことに気づかなかった。



******



 思ったより長く時間を取られてしまった。

 マクブライト亭を継いだ主人の息子のマックスに、色々とブラッドバーン邸の定期購入物の指示をしに行ったのだが、マックスが冗談で発した、

「レーリアちゃん、男爵が貰わないなら、うちの嫁にくれよ」

と言う言葉に、ムキになってしまったのがいけなかった。

 結果、惚気のろけ話を引き出された挙句に、結婚式の際の酒の注文の約束を取り付けられてしまった。


 (本当に商売人と言う奴は恐ろしい。)


 何を思ったところで後の祭りだ。

 しかし、そもそも、伴侶として迎えると決めたわけでもないし、式を挙げるかどうかも分からないのだ。マックスにまんまとしてやられたわけでも何でもないさ。


 そんな、本人には届かないささやかな反抗をしながら、屋敷に帰還すると、入り口には馬がつながれていた。あれはローガンの愛馬ファルコンだ。つまり、ローガンが訪ねてきているということか。


 基本的にはチェスの勝負に来ているのだろうが、もしかしたら何かの大事件が起きたとも限らない。私は、急いで屋敷の玄関を開けた。すると、応接室に居るであろうと思った彼が、珍しく、ロビーのソファーなんかで、お茶も淹れずにレーリアと向かい合っていた。


「よう、楽しそうだな。なんの話をしているんだ?」


 何やら豪快に笑っているローガンに向かって私は声を掛けた。どうやら、先ほどの「もしかしたら」は私の杞憂だった様だ。


「なに、私が死んだら墓参りに来てくれとな。」

「なんだそりゃ、物騒な。」


 そんなに楽しそうに笑う話ではないだろう。少なくとも、何度も代々の伯爵の、友の死を見てきた私にとっては、そんな内容に話には、楽しい気分になれることなどない。さらに言えば、レーリアだって、この手のジョークは好かないはずだ。


「全く、冗談でもそんな話は感心しないな。それに、そんなに楽しそうに話すことか?」


 私はローガンをたしなめたが、相変わらずローガンはニヤニヤしたまま、次の言葉と言う爆弾を投げ込んできた。


「いや、とても楽しい話さ。何しろ、私の墓には、君と二人で、仲睦まじく、片寄せ合って来てくれるのだからな。」

「だから、やめろと言っている。君の墓になんて……ん?」


 そこまで言って気が付いた。こいつは、今何と?


「これで私も、一つ肩の荷が降ろせるというものだよ、はっはっは。」


 うん、なんか知らんがバレている。

 私はおもむろにレーリアの方を振り向いた。当の本人は、顔を真っ赤にして申し訳なさそうに俯いている。


「レ、レーリア。」

「あ、あの、ごめんなさい。私、メルのお世話を。」


 この聡明で口の上手い伯爵の事だ。うまい事レーリアから何かの決定的な言葉を引き出したのだろう。正直、糾弾する気など全くなかったのだが、レーリアは一言言い残して、足早にその場を去っていった。いや、あれは責任逃れ、ではなく照れ隠し、と言う奴かもしれない。

 私は、やれやれ、と口に出し、先ほどまでレーリアが務めていた、ソファーの温め番を引き継いだ。しばらくバツが悪そうにテーブルの模様なぞ眺めていたが、するとやはりこの目の前の、口の上手い聡明な伯爵が口火を切ってくれた。


「全く、いつの間にかそんな仲になっているとは。いや、これは嬉しいね。」

「別に、大したことはないさ。お互いの心を確認しただけだ。」


 こともなげに返す。心の中では、グラスに注がれたワインを震えでぶちまけてしまう程に動揺していたが、涼しい顔を押し通した。こういう面白がっている相手には……と言うか、面白がっているローガンには、むしろ堂々と認めた方が良いことを私は理解していた。


「ふむ、相思相愛って事か。羨ましい。」

「おいおい、羨ましいってなんだ。夫人と上手くいってないのか?」

「いや? これ以上ないくらい上手くいっているよ。俺が羨ましいといったのは、あの意中の女と結ばれた時の心の高揚感に対してさ。」

「……なるほど、含蓄がんちくのある言葉だ。」


 何故か納得してしまった。それにしても次から次へと、上手い返しをよくもこう思いつくものだ。この頭の回転力をチェスの戦略にも回せれば、私など、もっと簡単に打ち負かせているだろうに。


 私の動揺しまくっている心中をよそに、ローガンは一つため息をつき、真面目な表情で私に向き直った。一体なんだというのだ。私をからかうのが目的では無かったのか。


「……なあ、アルクアード。」

「なんだい?」


 少しの沈黙の後、真面目な表情のまま、おもむろにローガンは口を開いた。


「いっそ、レーリアを妻に迎えてみてはどうだ?」

「うふぁ?! ななな何を言い出すんだ、いいいったい!」


 私の堅固で鉄壁な心の城壁を、一瞬で木っ端みじんにする一言を発する目の前の髭伯爵。しかし、当の本人は、かつてないほどの狼狽の表情を見せ、面白い声を発した私をからかうこともせず、淡々と続けた。


「何って、至極当然の提案さ。愛し合っている者同士、何の不都合がある。それに、君だって男爵家なんだ。いつまでも男爵夫人が居ないのではブラッドバーン家としても恰好がつくまい。」

「……。」


 彼は本気で言っている。そう思った。いつものように、何とか私を手玉に取ってやろうと企む彼も、私との他愛ない口論を楽しもうと茶々ちゃちゃを入れる彼も、今日は存在しなかった。ローガンは、本気で私にそう提案していた。それが、長い付き合いの私には分かった。

 しかし、不思議だった。彼ははっきり言って、他人に節介を焼くような人間ではない。特に他人の色恋など、最も関心のない類の人間だろう。なぜ急に、こんなことを言い出すのだろう。


「ははは、まさか君からそんな提案をされるとはな。」

「らしくない……か。私もそう思う。」


 ローガンは何故か自嘲気味に言い、そして、窓の外に目をやった。


 その遠い目が、何故だろう、私には少し悲しそうに見えた。


「私は彼女と同じ時を歩んであげられない。彼女がよぼよぼのおばあさんになっても、私はこのままなんだ。それは彼女にとって苦しいことだ。それに私は子を授かることが出来ない。何にせよ、結局最後まで変わらずに生きるのは私一人だ。彼女を妻として迎えることが、彼女にとって幸せとは到底思えない。」


 ヴァンパイアである私は、人間と同様の生殖機能を有していない、わけでは無い。と言うかそもそも、そういう行為を試したことが無かったので「わからない」と言うのが正直なところだ。しかし、その真偽は別にしても、残念ながら、そういう行為を為せない、その理由があった。万が一、妻が子を宿して、それがヴァンパイアであったら事だ。「ヴァンパイアは増えない」のだから。


 しかし、この際そんな事はどうでもいい。それよりも、私は、私の言葉に勢いよく立ち上がり、語気を荒げてまくしたて始めたローガンに驚いていた。


「なんだそれは! では私ならいいのか? 私だけではない。代々のロチェスター伯爵家だって、君と共に同じ時間を歩めないではないか。それはどう説明する。それは友として、不幸だと思ってくれはしないのか?」

「それは……君たちは代々の付き合いがあるだろう。」

「そんなものは詭弁だ。私は、先代の父上とも、先々代のお祖父様とも違う、一人の人間だ。」

「君は、その、女性……伴侶ではないだろう。」

「では仮に、レーリアに娘を産ませて、君の伴侶を代々引き継がせられれば、それは問題無し、と言うことになるじゃないか?」

「おい、いくら君でも、怒るぞ。」


 例え話にしても、流石に非人道的すぎる彼の話に、私はいら立ちを隠せなかった。


「その怒りこそが、君の本心ではないか、アルクアード。それにな、ならば何故彼女の愛を受け入れた? 矛盾しているぞ、アルクアード。彼女ならば、それを受け入れてでも一緒にいてくれると、そう思ったのではないのか?」

「……。」


 私は沈黙した。図星を突かれた、と言う表現は正確ではない。自分でも分かっていたが言えなかった本心を綺麗に見透かされ、それを公言されると、どうも人は口を閉ざしてしまう習性があるようだ。


「君の矛盾と本心を明らかにするためとはいえ、先ほどの例えは良くなかった。そこは詫びよう。」

「……いや。」


 ローガンは、優しく、落ち着いた口調で私に謝罪した。そもそも、彼は、私の為にこれだけ熱くなってくれているのだ。彼が謝らなくてはいけない道理など何一つない。

 そして、俯く私に、ローガンは更に優しく、私に語り掛けた。


「君は、レーリアを愛しているが、ヴァンパイアであるが故に、結ばれる勇気が出なかった。だからきっと本心では、それを後押しして欲しかったのではないか?」

「後押し? 誰に?」

「私に決まっているだろう?」


 ローガンはそう言って私に微笑みかけた。

 全く。私の五分の一も生きていない若造のくせに、本当に彼には敵わないな。

 私は、長い付き合いで初めて、「悔しさ」と言う感情を持たずして、ローガン・ロチェスターに降参した。


「……私は……彼女と生きても良いのだろうか? ほんの数十年、わずかな時間だが、手を取り合っても良いのだろうか?」

「ああ、無論だ。私が保証しよう。」


 そして、間髪入れず、これ以上無いくらいに力強く頷くローガンのおかげで、私の心は決まったのだった。


「ああそうだ、これも言っておかなくてはな。」

「ん?」

「もしもこの先の未来にも、レーリアと同じような人が現れたら、その時は私の子孫が保証しよう。」


 場を和ませようと思ったのだろうが、本当にこいつはいつも余計なことを言う。


「おい、気が早いぞ。今レーリア以外の、居もしない女性の話を持ち出すな。」

「おっと、失礼。こいつはおねつだな。」

「やかましい!」


 そして、いつものようにローガンは私をからかい、いつものように私はローガンと笑いあった。いつもとは違う想いを心に感じて。



(ローガン・ロチェスターよ。友よ、君に心からの感謝を。)



 この後、ローガンからの「いつからだ」や「きっかけはなんだ」などの、街の主婦の井戸端会議のような、本来であれば、顔を背けたくなるような、質問の責め苦にさらされることとなったのだが、全く嫌な気分はしなかった。これはきっとアレだ。良く聞く「愛の力は偉大だ」とか言う奴に違いない。

 昔から、他人のそういう発言を聞くたびに、自分には関係のない世界での出来事、と決めてかかっていたが、まさか自分が体験するとは、そしてその「偉大さ」を、身をもって知ることになるとは思わなかった。


「……さて、では日取りを決めたら、私に教えてくれ。よもや、この状況で、彼女が君からの求婚を断るとは思えんしな。ああ、結婚式は、私が準備させよう。ロチェスター家の名において盛大にやろうじゃないか。」

「ああ、宜しく頼むよ。」

「では、私は退散するとしよう。しばらく賭けはお預けだな。プロポーズを控えた男が、集中して勝負に臨めるとは到底思えん。」


 しばしの他愛のない閑談かんだんの後、ローガンはそう言って立ち上がった。気を利かせてくれたようにも思うが、その眼は、一刻も早く想いを伝えて、早く賭けの勝負に復帰しろ、と言っていた。そして、そのいつも通りの、彼の図々しい優しさに、私の顔はほころんでいた。




 その影が、ロビーに舞い込んでくるまでは。

 


 ローガンが、屋敷の玄関を開け放とうとしたその時、奥の通路から、一つの影が走り込んできた。


 それは、私の飼っている、黒猫のメルだった。

 メルは慌てた様子で、私の周りをぐるぐる回り、私とローガンに向かって何度も鳴いた。

 私は、そんなに鳴きわめきながら何かを訴えるメルを見たことが無かった。


「どうした、メル。そんなに慌てて。」


 私が、メルに声を掛けると、メルは一目散に奥の通路に向かった。そして、姿が見えなくなる直前で止まり、一度私とローガンの方を振り向き、また奥に姿を消した。


 嫌な予感がした。動物の心が分からない私でも、メルが何かを知らせようとしていることは容易に察することが出来た。そしてメルの向かった先にその何かがあるのだと言うことも。

 ローガンの方を振り返ると、それはローガンも同様だったらしかった。顔を見合わせ、一瞬の意思疎通の硬直の後、私たちは同時に走り出した。


 廊下を走り、奥の角を曲がった先、奥の突き当りの地べたに一つの影が見えた。先ほどのメルのものではない。明らかに大きい影だ。例えるならば、人間ほどの……。


 この屋敷に、人間は、私を除いてはもう一人しかいない。私は走ってその影に駆け寄る間に、様々な可能性を模索した。

 もしかしたら、レーリアが、あのサイズの何らかの家具を運び込もうとしていたが、途中で疲れて休憩してしまったのかもしれない。

 もしかしたら、レーリアが、侵入した物取りと遭遇して、撃退したのかもしれない。

 もしかしたら、レーリアが、私を驚かそうとして、いたずらをしているのかもしれない。

 どれをとっても現実味の無い現実逃避に私はすがるしかなかった。しかし、それは神に救いを求めるのと同じくらい、浅はかな行為だった。


 その影は、紛れもなく、床に倒れ伏したレーリアだった。


「レーリア! レーリア!!」


 私は叫び、その上半身を抱き起した。しかし、彼女には意識はなく、ただただ私の力に従って動く、糸の切れた人形のようであった。


「息は! しているのか!」


 ローガンの怒声で我に返る。そして慌てて確かめた。

 良かった。か細くではあるが、彼女は息をしていた。しかし、いつその呼吸が止まってもおかしくはない。そんな気さえ起こさせるほど、彼女の呼吸は辛そうであり、生命力は弱々しかった。


「医者を手配する! アルクアードは彼女をベッドに!」


 ローガンは叫ぶや否や、猛然と走り去り、遠くに聞こえた愛馬のいななきと共に、この付近の空間からその気配を消した。


 一体何が。一体何が。一体何が。


 状況からして、何かに襲われた、など外的要因では無さそうだった。

 だとしたら、原因は、彼女の身体の何かか。


 嫌な予感がした。

 私は急いで、彼女を抱きかかえた。


 そして。

 

 レーリアを部屋に運び、ベッドに寝かせてからローガンが伯爵家お抱えの医者と助手を連れてくるまで、数刻とかからなかった。

 本当に急いでくれたのだろう。


 医者が到着する前に、彼女の弱弱しく燃える命の炎が、吹き消えてしまわなかった事だけが、せめてもの救いだった。




 つづく

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