第9話 あの忘れえぬ日々①


 これは、そう遠くもない、永劫の時を生きるヴァンパイアである私にとって、瞬きほどの時間、くらいの昔話である。あえて分かり易く一般的な表現にするならば、数十年前ほどの昔話である。


 私ことアルクアード・ブラッドバーン男爵が、この呪われたアトエクリフ島のロチェスター領の領主であるローガン・ロチェスター伯爵と、いつものようにチェスを勤しんでいた時に現れた、レーリア・クローデットという女性がこの館に住むようになって、暫くの時間が経った。




 話は少しさかのぼる。

 それはおよそ半年前、彼女がこの屋敷に辿り着いた時の話だ。


 大層な荷物も、お金も持っていなかった彼女は、ミランポールから来た、と言っていた。ミランポールと言うのは大陸の都市の一つだが、ここアトエクリフ島からは、馬を飛ばしても四月はかかる。徒歩の女の独り身では、馬車を乗り継いでも半年はかかるはずだった。


「何故この島に?」


 彼女との初めての晩餐の際、そう聞いた私にレーリアは「昔、とある旅人から聞いたことがあったのです。呪われた島と言われているアトエクリフ島は、素晴らしい土地だ、と。」と言った。


「そんな言葉だけで、この島まで何カ月もかけて来たのか。」


 私はそう口にした。

 しかし、あの時は不思議に思ったが、今ならばわかる。

 住んでいた土地を追い出され、家族も友達も、行く当ても目標もなかった彼女にとっては、そんなうっすらとした記憶の中の言葉しか、心の頼りになるものは無かったのだろう。

 そして僅かばかりの貯えを元手に、何か月もかけてこの島までたどり着いた、とのことだった。


「はい。それくらいしか、私には、ありませんでしたから。」


 少し自嘲気味の笑みを浮かべてレーリアはそう言った。


 しばしの間、沈黙が場を支配した。

 そして……。


「行く当てが無いならこの館に住むかい?」


 私はそう口にしていた。


 レーリアは、生まれた村で母親と二人で暮らしていたという。

 しかし母親が病気になり、街に出て働かなくてはならなくなった。彼女は、生活と、母親の為の高価な薬を買うために身を粉にして働いた。そして1年後、ようやく薬に手が届く、そう思った矢先に母親は亡くなった。

 死の間際、母親はレーリアに言った。


「私の薬の為にお金を貯めているのでしょう? でも、私の病気はもう治らない。私が死んだ後、あなたの人生は決して楽なものではないでしょう。だから、そのお金は、あなたが、あなたの為に使いなさい。私が少しでも安心して逝けるように」


 そしてレーリアの母親の死後、彼女は数日と絶たずに、村を追い出されたのだった。


 追い出されたレーリアには、何もなかった。本当に、何も。

 働いていた職場は辞めさせられた。

 友達と呼べる人間もいなかった。

 村と隣町の景色以外、見たことは無かった。

 興味も、夢も、目標も、目的も無かった。

 生きている理由すらも。


 そんなときに思い出した、昔一度だけ村に訪れたことのある旅人からきいた旅の土産話。

 そんなくだらない、そんな小さな、些細なことですら、彼女の心を動かすには十分すぎるほど、彼女には何も無かったのだった。

 そんなことの為に、こんな島まで、半年以上もかけて辿り着けてしまうほど、彼女には何も無かったのだった。


 私はそれを想像して、胸が苦しくなった。過去の、初代ロチェスター伯爵、アーサー・ロチェスターと出会う前の私の境遇と同じだった。

 同情してない、と言えば嘘になるかもしれない。

 しかし、私は、なってあげたかった。

 後付けではあるが、彼女が目指したこの島の、その旅の目標に、そのゴールになってあげたかったのだ。


「えっ……。」


 私の発言を聞き、彼女は驚いたような、困ったような顔になった。そりゃそうだ、いきなり侵入した豪華な屋敷で、湯あみとドレスと食事を振舞われ、その上、住むところも提供するなど、虫が良すぎるというものだ。


「なに、ローガンがたびたび来るとは言えこの屋敷には私一人だ。まあ、猫も入れれば一匹と一人だ。色々と屋敷の事や猫の世話をやってくれる人間が居てくれると助かる。それに、行く当てが見つかったらいつ出て行ってくれても良い。ここを出て行って野たれ死ぬよりは、建設的ではないかね?」


 正直、屋敷の事など私一人でも十分出来ているが、そういうことにすれば彼女も断りにくかろう。


「はっはっは、それは良い。うちが定期的にここに派遣している使用人たちは、『ブラッドバーン男爵は、メイドを雇うべきだ』と口々に文句を言っているようだからな。」


 ……なるほど、「十分出来ている」の基準は人それぞれのようだ。

 それにしても、この伯爵は、久しぶりに口を開いたかと思えば、余計なことしか言わないな。


 そんな訳で、「そう言うことでしたら是非、一生懸命頑張ります」と彼女も承諾してくれたのだった。


 暫くはレーリアが私の事を「ご主人様」と呼ぶことを頑として譲らなかったが、初めに伝えた禁止事項を盾に、無理やり呼び捨てをさせ続け、そして時間が経つにつれて、彼女も我々を「アルクアード」「ローガン」と呼ぶことに慣れて来たようだった。




 そんな出来事があり、今に至る、と言う訳だ。


「それにしても、レーリアがこの屋敷に住んでもう半年か。」

「ああ、そうだな。」


 今日も今日とてチェスの勝負をしに来たローガンが、次の手を考えている私に向かって言った。ちなみに私の返答がそっけないのは別にレーリアとうまくいっていないからと言う訳ではない。ローガンの打った手が思ったよりも急所を捉えていて、思わず考え込んでしまっているが故のものだ。


「いやはや、女性が手を加えると、屋敷というものはここまで生き返るのもなのだな。」

「そうか?」


 正直そんなに実感はなかったが、思えば、半年前までは倉庫で埃をかぶっていた絵画や花瓶、ランプや絨毯も、全て綺麗に手入れをされ、屋敷の中で再び各々の役割を全うしている。


「おいおい、冗談だろ、君はいまどこでチェスをしていると思っているんだ?」


 そう、そして、その倉庫は、テーブルや椅子、絨毯などが揃えられ、立派な、私とローガン専用のチェスのプレイルームとして大活躍していた。


「こう、徐々に変わっていくとなかなか気づきにくいものだからな。」

「些細な変化に気づかんと女性にはモテんぞ。」

「私は数百年生きているヴァンパイアだ。些細な日常の変化などが気が付くようには出来ていない。」


 私は軽口を叩きつつも、何とか、延命の一手を絞り出し、ナイトを自分のキングの前に移動した。


「全く、先代のロチェスター伯は君ほど強くなかったぞ。」


 私はローガンのチェスの腕に少し言及した。ロチェスター伯爵は、代々少しずつ強くなってきている気がする。


「ははは、館に帰ってくる度に悔しそうな顔押して『チェスの腕を磨いておけ』というのが生前の父の口癖だったからな。」

「なんだって?」


 長年の謎が解けた。先代も先々代も同じことを言っていた。つまり「『チェスの腕を磨いておけ』と言うのが父の口癖だ」と。代々のロチェスター伯爵の口癖が「チェスの腕を磨いておけ」と言うのもどうかと思うが、代々そんなことを言われ続け、代々の腕が向上してくれば、徐々に敵わなくなっていくのも頷ける。


 しかし、私の思惑をよそに、ローガンは続けた。


「それにこちらだって君の秘密を教えて貰わねば夜も眠れんよ。」

「そんなに気になるかい?」

「だって『ヴァンパイアは人を殺さないし、ヴァンパイアは増えない』と言われたって信じられない。君だって人を殺すことくらい出来るだろうし、それに、意図的にヴァンパイアを増やすことも出来るのだろう?」

「ああ。」

「では、君の明かした秘密は嘘ということになるぞ?」


 今日は随分とグイグイ来るな。ここの所ぎりぎりの勝負が続いていたから、流石にしびれを切らし始めたのかもしれない。しかし、約束は約束だ。ローガンが勝てば少しずつ真実を話す。

 むしろ、私としては早くその時が来て欲しいのだから。


「……それでも。」

「うん?」

「それでも、ヴァンパイアは人を殺さない、ヴァンパイアは増えないんだ……。」

「アルクアード?」


 怪訝そうに私を覗き込むローガン。いけない、いけない。少しセンチな気分になり過ぎていたか。


「さあ、ローガン・ロチェスター伯爵よ、早く私に勝て。その時、全てを教えようじゃないか。勝てるものならな。」


 隠すようにそう虚勢を張っては見たが、ローガンが私から、最後の秘密を聞き出すのはそう遅くない。私はそう思っていた。


 コンコン。

 控えめなノックの音。どうぞ、と告げると、手に紅茶のトレイを持ったレーリアが現れた。


「お二人は、そんな勝負をしていたのですか?」


 少し聞こえてしまっていたようだ。


「ああ、レーリア、君も気になるだろう?」

「ふふふ、いいえ。」


 ローガンの問いに、笑いながらかぶりを振るレーリア。


「二人は私にとって大切な人です。それがロチェスター伯爵様だろうと、ヴァンパイアの男爵様だろうと関係ありません。ローガン。あなたはアルクアードの秘密が嘘だったら、友人関係をやめるのかしら?」

「い、いや。」

「ではアルクアードの言葉は真実で、きっと理由があるのでしょう。今はそれで良いではありませんか。」


 少しローガンが声を荒げたのでそれをたしなめに入ってくれたのだろう。まあ、こんなことは毎度の事であり、実際はそんな必要も無かったのだが、柔らかくも強い彼女の言葉に、ローガンはすっかり毒気を抜かれたようだった。


「……やれやれ。まったく君にはかなわんな。しかし、私も引くことはできんからな。次に私が勝ったらその理由をきっちり教えてもらうぞ?」


 そう言って「チェック」と言いローガンは駒を進めた。しまった、そのクイーンの手は想定外だった。


「ああ。これで君の四勝目だからな。」

「よし、首を洗って待っておけよ。思ったより時間が経ってしまったな。ああ、すまないレーリア、紅茶はまた次回頂くよ。ではな。」


 そう告げて、ローガンはコートを引っ掴み、慌てて立ち上がった。


「あの、お見送りを。」

「必要ない。折角の君の分の紅茶が冷めてしまうぞ。」


 そもそも紅茶は、私とローガンの二つ分しかなかったが、ローガンの意図を汲み取り、レーリアは少しはにかみながら礼をした。


 ローガンが去り、私とレーリアの二人が部屋に残された。


「……余り楽しい話ではないがな。」


 ポツリとそう呟いた私の言葉が聞こえたかどうかは分からないが、レーリアは誰もいない扉から私に向き直った。そしてテーブルに近づき、紅茶を私の目の前においてくれる。私はレーリアに先ほどまで伯爵が温めていた椅子を勧めると、彼女はぺこりと再び礼をして着席した。


「アルクアード。」

「先程はありがとう、レーリア。」

「……ローガンに何か伝えなくてはいけないことがあるのですね。」

「え?」


 本当にさとい娘だ。私はそう思った。いや、女性と言う生き物は、そういうのを見抜く力があると聞いたことがある。私の数百年の考えを見抜くことなど、女性である彼女にとってみれば児戯じぎにも等しいのかもしれない。


「でも、伝えにくい。伝える勇気が出ない。そんな風に見えます。」

「そう見えるかい?」

「ええ。きっと、代々チェスの景品にしていることと何か関係があるのですね?」


 鍵が開く音がした気がした。

 がんじがらめに鍵を掛けられた私の……心の扉の鍵が。

 今まで誰にもそんなことが出来たものはいなかった。

 話せない真実。

 話したくない事実。

 話せば楽になれるという口実。

 話さなくてはいけない現実。

 それらがずっとぐるぐる巡っていた。


 だからロチェスター伯爵以外には伝えたことなど無かったし、伝える気も無かった。

 それなのに……。


 私は顔を落とし、再び、顔を上げた。そこには、聖母のような微笑みを携えた、美しい瞳があった。もしも私が、大陸の噂にあるような「聖なる光に灰になるヴァンパイア」であったなら、今すぐここで灰になっていたに違いない。


(私は、彼女なら、あるいは……。)


 少しの沈黙。レーリアは微動だにせず、真っ直ぐと私の瞳を見つめていた。初めて会ったときに抱いていたような、赤い瞳への恐怖は、一切感じられない。そこの瞳は、慈愛と親愛に満ちている、ように見えた。


 そして私は口を開いた。

 初めて。

 ロチェスター伯爵以外の人間に。


「私は、過去に人を殺した。」


 レーリアは動かなかった。正確に言えば、レーリアの心は動かなかった。その優しい瞳のままで、彼女は私に微笑みかけた。


「『ヴァンパイアは人を殺さない』のでしょう?」

「……ああ。それでも、私は人を殺した。」


 それでもレーリアの心は揺らぐことは無かった。目の前の恐ろしいヴァンパイアが殺人鬼であった事実を知っても、なお、その瞳は慈愛に満ちていた。


「それは、許されざる私の罪だ。」

「……そう。」

「驚かないのだね。」

「ええ。」

「どうして?」

「あなたがそう言うのなら、それは事実なのかもしれません。でも、過去に何があろうと、私は目の前のあなたを信じていますから。きっと、ローガンも同じです。」


 不思議だった。彼女の一言一言が、彼女の声帯が紡ぎ出す一音一音が、私の罪を溶かしていくような、鬱屈うっくつとした私の心を蘇らせていくような、そんな感覚にさえ陥る。それはまるで、寒い冬が終わり花の香りを運んできた温かい風のようであり、茶色く硬くなった草花に緑を蘇らせるような優しい雨のようだった。


「レーリア……。」

「……大丈夫ですよ。」

「え?」

「あなたは優しい人です。あなたが悩み、傷つくとき、きっとそれは、誰かのために悩み、誰かのために傷ついてきたんだと私は思います。私は、あなたの為ならば命だって惜しくない。そう思っています。私なんて取るに足らない存在です。でも、私がそう感じているそれはきっと、この先あなたに出会う多くの人が、私と同じ気持ちになる、その証明になるかもしれない。」

「レーリア。」

「そう思うと、何も無かった私の人生でも、私の生きてきた意味はあったんだって、そう思えるんです。だから……ありがとう、アルクアード。」



(ああ、そうか……。)


 私は気づいてしまった。

 何故、私がロチェスター伯爵以外の人間に、他ならぬレーリア・クローデットという、彼女に、真実を告げたいと思ったのか。



「礼は不要さ。それに、その言葉、そっくりお返しするよ。あの時君を助けて、本当に良かった。」

「メルの世話も頼めますしね。」

「あはは、助かっているよ。私よりも君に懐くようになってしまいそうだ。」

「あら、あの子はご主人様に忠実なとっても良い猫ですよ。」


 私は、自分の心をごまかすように、気づいてしまったそれを覆い隠すように軽口を叩いた。レーリアも、それを知ってか知らずか、私の軽口に乗ってくれる。

 しかし、私の覆い隠したその心は、また別の感情を呼び起こした。


 私には彼女に聞かなくてはいけないことがあった。

 実は先日、ひょんなことから彼女の些細な秘密を知ってしまったのだ。

 いや、正確には無理して聞くほどの事でも無かったのだ。いずれ時が来たら、彼女の方から話してくれるだろうと、そう思っていた。

 しかし、今となっては、今の私には、彼女に「それ」を確かめずにはいられなくなっていた。


 私は、折角、軽口で覆い隠したにも関わらず、改めて真剣な眼差しで、レーリアに向き直った。


「レーリア。」

「はい。」

「君がここに来てくれて本当に助かっている。ありがとう。」

「そんなに改まって、どうしたのですか?」


 私には人間の女性の機微は良く分からない。

 今がその時なのかどうかも分からない。

 だが、今を逃しては、彼女から、本当の言葉を引き出せない様な気がしていた。

 私は意を決して、その言葉を口にした。


「君はあの日、死に場所を探していたのか?」


 これまで、全く揺らがなかった彼女の心が、一瞬揺らいだのを、私は見逃さなかった。

 それが、動揺なのか、怒りなのか、悲しみなのか、それは私には分からない。しかし、せきを切った私の感情には、もう前に進む以外の選択肢は残されていなかった。


「何を言い出すの、急に?」


 一瞬の逡巡の後、笑顔でそう言ったレーリアの声は明らかに先ほどとは違い、少し上擦うわずっていた。


「怒らないで聞いてほしい。先日、君の部屋で日記を見つけた。」

「……え?」


 私のこの言葉で、レーリアは完全に動揺した。そして私は、この秘密を口にしてしまった以上、もう最後まで行くしかない、そう考えていた。


「日々ここで楽しそうに暮らしている君が、ここでの生活をどのように綴っているのか、私は興味を持ってしまった。私は君の眼にどのように映っているのか。何か不満はないか、何か困ったことはないか。そう思い、最後の、最近のページだけを見ようと開いた。……君の日記は止まっていた。……あの出会った日の前日に書かれた『最期は美しい花畑で穏やかに逝きたい』という言葉を最後に。」


 レーリアは私の言葉の間、顔を伏せていた。だからその表情は私には見る事が出来なかった。でも、それが真実なら、私は……。


「初めて会ったとき、君はここに何を探しに来たのだっけ。」


 レーリアはここに来た時に言っていた。


――森に探し物をしに入ったのですけど、道に迷ってしまって。

と。


 大陸から、数か月かけて初めてこの島に来た娘が、知らない土地の森の中で探すものなどあろうはずがない。

 そんな彼女が、もしもこの森で探すものがあるとしたら、可能性は一つしかない。

 そう、日記にあった通り。

 私が管理している「ロチェストの花畑」だ。

 そしてその花畑を探す、と言うことは、死に場所を探すことと同義に他ならない。


 大方、この島の事を教えたというその旅人から聞いたのだろう。

 「とても美しい、この世のものとは思えない様な一面の花畑があるらしい」

と。そしてそれは、その景色を、目に焼き付けられる最期のものとする「死の花」であることも。



「……駄目ですよアルクアード、人の日記を勝手に見ちゃ。」

「それは本当にすまない。」


 レーリアは笑っていた。しかし、その声には、今は、聖母のような包容力も強さは、微塵も感じられなかった。ただただ儚く、触れば壊れてしまいそうなか弱い少女のような声だった。


「否定……しないのだね。」


 レーリアの沈黙は、死に場所を探しに来たことの肯定だった。長い間生きてきたが、これほどの身を引き裂かれそうになる沈黙を私は知らなかった。


「もう気は変わったのか?」

「え?」

「死にたくなる時は誰にだってある。ああ、ヴァンパイアの私が行っても説得力に欠けるが。今現にこうして君は生きている。だからきっと、気が変わったんじゃないかって。」


 レーリアは再び顔を伏せ、沈黙した。この沈黙は、決して、気が変わったわけでないことを示していた。

 いつか、その時が来たら、彼女は人知れず、この森の奥に姿を消すつもりなのだろうか。

 以前私は確かに言った。「出ていく時は、いつでも自由にして良い」と。あの時の自分の言葉がまさかこんなにも重くのしかかってくるとは思わなかったが、であれば、彼女に私が伝える言葉はたった一つだった。



「死なないでくれ。」

「……え?」


 再びレーリアが顔を上げた。かすかな驚きと、かすかな喜びと、かすかな悲しみが入り混じったような、そんな複雑な表情だった。


「私は君に死んで欲しくない。居なくなって欲しくない。」


 私の言葉を聞いて、見つめていたレーリアの瞳は少しずつ潤みだした。そしてそれはついに大きな雫となり、彼女の頬を伝い落ちた。


「……私は、ここで、死ぬつもりでした。この山にとっても素敵な景色のお花畑があるって、昔、聞いたことがあったから。そこに行けば安らかに死ねるって。」

「……レーリア。」

「本当に道に迷って、それであなたたちと出会って。死の訪れのないヴァンパイアの男爵様と、伯爵様との不思議な夜会。私もドレスに着替えて、まるでおとぎ話のようだった。つらい現実から夢の世界に迷い込んだのだって、そう思った。その世界のヴァンパイアの男爵様はとても優しくて、はじめは怖かった赤い瞳も、今ではとても暖かく感じて……。」


 自分でも気づかないうちに、私はレーリアを抱きしめていた。もうこれ以上、微笑みながら語る、彼女の悲痛な声を聞いていられなかった。


「……一緒に、居てほしい。」

「私、あなたより先に死にます。」


 例外的な取り決めがある代々のロチェスター伯爵と付き合いを除いて、私が、一人で生きてきたのには、理由があった。

 正に今、レーリアが言った通りであった。

 同じ時間を歩んで行けないもの同士が一緒になるべきではないと、私は頑なにそう信じていた。それに、永遠に思い出が積み重なっていく事は、私にとってはいつか耐え難い重荷となる。そんなものは、ロチェスター伯爵家だけで十分だ。

 そう思っていた。


 しかし、私は今日、それを破った。


「限られた時間なのはわかっている。私も、同じ時間を過ごせない者同士、一緒になるべきではないと思っていた。しかし、こういう考え方も出来るかもしれない。私が永久に生きるからこそ、君の思い出を、君の生きた証を、君を……ここに、ずっと生かせるのではないか、と。」


 私は抱擁を緩め、自分の胸に手を当て、レーリアに言った。

 彼女は涙を流しながら、満面の笑みを浮かべた。


「……それは、とっても魅力的な提案ですね。」



(ああ、そうか。)


 私は、確信してしまった。

 何故、私がロチェスター伯爵以外の人間に、他ならぬレーリア・クローデットという、彼女に、真実を告げたいと思ったのか。



――愛しているからだ。



 私は、再び彼女を抱きしめた。


 そして、しばし彼女の温もりを感じたのち、私は、自分の唇を彼女に重ねた。

 レーリアがそれを受け入れてくれたことが嬉しかった。


 その日、私たちはいつまでも、いつまでも抱きしめ合っていた。



ちなみに……。



 それが数百年生きた私の、初めての経験。つまり「ファーストキス」と言う奴だったのは言うまでもない。



  つづく

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