康介の自宅から

 康介は、うつろな表情で寝転がっていた。一時間ほど前から目覚めていたものの、ずっと同じ体勢である。

 時刻は、既に昼過ぎになっている。窓からは、日の光が射してきていた。にもかかわらず、彼は動く気になれない。何をする気になれなかった。起きてから何も食べていないし、部屋の中はしんと静まりかっている。

 昨日、大木から聞いた話が心に重くのしかかっていた。あれから丸一日経ったが、頭の中は彼の話で占められている。

 あの日、大木と腹を割って話し合った。結果、康介は山田の居所と連絡先を明かした。さらに、彼女の家でふたりの死体を始末したことも語った。話の証拠としてスマホでのやり取りの記録を見せ、小川が山田にプレゼントしたという指輪も渡す。裏取りに少々の時間はかかったが、情報料として一千万を手にした。

 その札束は、部屋の隅に無造作に転がっている。大金ではあるが、贅沢をする気にはなれなかった。



 

 大木の話を、改めて思い返してみる。

 あの男が、嘘をついているようには見えなかった。というより、康介も最初から気づいていたはずなのだ。山田が、人間離れした存在であることに──


 考えてみれば、この数日間の康介はおかしかった。自分から仕事やプライベートのことをベラベラ喋り、悦に入る。他人と、そんな会話をしたのは初めてだった。

 最初は、それを薬の影響かと思っていた。だが、それだけではないのかもしれない。ひょっとしたら、いつのまにか山田の手練手管に絡め取られていた可能性がある。

 思い起こせば、山田は確かに聞き上手だった。こちらの言うことを否定せず、教師の講義を聞く学生のような態度で、康介の話を聞いていた。

 康介は以前、キャバクラに行ったことがある。若松とその仲間たちに連れられ、半ば無理やり店に入ったのだ。

 しかし、全く楽しめなかった。女たちの作り笑顔が、妙に不快だったことしか記憶にない。無論、彼女たちも巧妙に演技をし、こちらを楽しませるような話題を振ってくる。しかし、どうしても真っ黒な腹の内が透けて見えてしまう。思春期に、実の母親や姉と飛田との恥態を見て育った康介には、女性と話すだけで楽しむことなど出来はしない。

 むしろ、そうした場所に通う者たちをバカだと思っていた。若松の「キャバクラで何十万遣ったぜ」などという話を聞くたび、化粧と整形で顔を作り上げた女と話して何が楽しいのか……と、内心では嘲笑していたのだ。

 しかし、このザマでは奴のことを笑えない。山田はキャバクラに勤めれば、確実にトップに立てるだろう。にもかかわらず、そうした生き方をしないのは……奴が、付き合った男を次々と殺す異常者だからだ。

 大木と出会わぬまま、山田とズルズル付き合い続けていたら、どんなことになっていたのだろうか。あの男の話では、山田は付き合った男を殺す……もしくは、死んだ方がマシだという目に遭わせるらしい。

 自分も今頃、殺されていたのだろうか。小川や近藤のように──



 その時だった。突然、スマホがメッセージの着信を伝えてくる。

 いったい誰からだろうか。もし山田からだったら、俺はどうしたらいい……様々なことを思いつつ、そっとスマホを覗いてみた。

 若松である。なんだろうと思う間もなく、今度は突然の電話だ。思わず出てしまった。


(おう、お疲れさん。俺だ)


 若松だ。メッセージだけでは足らず、電話までよこすとは。よほどの事態であろう。

 ひょっとして、山田の件だろうか?


「あっ、はい。どうかしましたか?」


 声が裏返っているのが、自分でもわかった。動揺を悟られまいと、どうにか落ち着かせようと努める。

 だが、それは無駄な努力であった。若松の冷たい声が聞こえてくる。


(今から、大木さんと一緒に山田の家に乗り込むことになったからよ。一応、伝えておこうと思ってな)


 聞いた瞬間、頭が真っ白になった。まさか、こんなに早く動くとは。しかも、山田との関係を若松に知られてしまった。

 いや、こんなことは予想して当然だったのだ。あの大木は、裏社会の住人である。若松もまた、裏社会の住人である。しかも、立場は自分より遥かに上だ。大木が、康介に義理立てするより、若松との関係を重く見るのは当然だ。

 呆然となっている康介の耳に、若松の声が聞こえてくる。


(大木さんから聞いたぜ。まさか、お前まで山田にたらしこまれていたとはな。俺は、お前だけは大丈夫だと信用していたのなあ。残念だよ。これからは、付き合い方も考えなきゃならないようだ。まあいい、その話は山田の件が片付いてからだ)


 それきり、電話は切れた。

 康介は、スマホの画面をじっと見つめる。非常にまずい状況なのはわかっていた。このままでは、山田は間違いなくやられる。その次は自分だ。命までは奪われないだろうが、高額の代償を支払わされる──

 その時、ひとつの考えが浮かんだ。今、山田に連絡したらどうなるだろう? 

 何もかも捨て去り、山田と一緒に逃げたら?

 直後、スマホを掴んだ。震える手で、山田にメッセージを送ろうする。

 だが、その手はすぐに止まった。


 俺は、何をやっているんだ?


 山田と逃げる、その先に何があるのだろう。若松は、裏社会でもかなりの人脈の持ち主だ。大木もまた、元マル暴の刑事である。ヤクザ関係の知り合いは多いはず。逃げたところで、確実に見つかる。現に、大木はあっさりと自分を見つけたのだ。山田と接触していた自分を。

 いや、それ以前に……。


 俺は、あの山田と逃げる気だったのか?


 大木から、あれだけ恐ろしい話を聞かされた今でも、まだ山田への気持ちが残っていたらしい。

 もちろん、大木の話が全て真実だとも限らない。だが、山田に関する情報が一千万で売れたのだ。康介の知る限り、これだけの額で情報が取引されたなど聞いたことがない。広域指定暴力団の幹部クラスでも、ありえない額だろう。

 つまり、山田はそれほど恐ろしい人間なのだ。そんな人間と、自分は本気で逃げるつもりだったのか。

 ひょっとしたら、自分は今も山田に囚われているのか。 

 



 それから、どのくらいの時間が経っただろうか。

 康介は、未だにぼんやりとしていた。己が何をしたいのか、それすらわからない。

 若松と大木は、山田の家へと乗り込んだ。今ごろは、全て終わっているだろう。あの女の命運は尽きてしまった。さっき、危機が迫っていることを伝えれば、あるいは助かったのかも知れない。

 大木は、山田を女たちに引き渡すのだろう。自分が菅田をそうしたように。そして、次に矛先が向くのはこちらだ。若松は、嘘をついていたことを責め立てる。その代償はなんだろうか。間違いなく金だ。あの男は、自分が山田の情報の見返りに一千万を得たことを知っているはずだ。その全額をよこせ、と言ってくるのは確実だ。

 もっとも、それだけで済まないこともわかっている。今では、若松からの信用を失ってしまった。これからは、涙金で馬車馬のように働かされる日々が待っている。

 にもかかわらず、何もしなかった。また、何をする気にもなれなかった。山田が消え、若松がこちらに刃を向けてくる。

 

 もう、どうでもいい。康介は、再び目を閉じた。

 その時、どこからか視線を感じた。目を開けると、父と母と姉がいる。いつもと違い、じっとこちらを見つめていた。何かを訴えている……そう見えた。

 ふう、と溜息を吐く。これまで、何のために家族が姿を現すのかわからなかった。しかし今になって、彼らが何を言わんとしていたのか、やっとわかった気がした。ひょっとしたら、今が潮時なのかもしれない。

 康介は、すくっと立ち上がった。先ほどまでとは違い、その目には光が宿っている。彼は、ようやく心を決めたのだ。





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