康介の自宅にて

 康介は、そっと目を開けた。

 窓ガラスから射してくる光を見れば、寝ていていい時間ではないということはわかる。もう昼過ぎだろう。

 時計を見てみれば、二時五分前だった。いつもなら、既に起床して活動しているはずの時間帯である。この男は、一般的な勤め人と違い時間には縛られていない。その分、自身をきっちりと律した生活を送っている。仕事がない日だからといって、普段の生活リズムを変えたりはしない。

 これまでの生活において、朝から酒を飲み続けた挙げ句に、前後不覚の状態で眠る……などということは一度もなかった。キャバクラや風俗の類いに通うこともない。一年三百六十五日、ほぼ同じ生活を送っている。

 この業界に入り、もう十年近くなるだろう。その間、怠惰な習慣に溺れた挙げ句に、使い物にならなくなった人間を何人も見てきた。会った当時は狼のような雰囲気を漂わせていたのに、いつのまにか体に脂肪が付き、酒や薬や女に溺れ、挙げ句に食われる側の家畜へと変貌してしまった男たち……。

 裏の世界で使い物にならなくなった人間の行き着く先は、牢獄もしくは黄泉の国しかない。

 そうなりたくないがために、康介はずっと己を律してきた。同年代の若者が様々な娯楽にのめり込む中、彼はひたすら自分の決めたルールを守り通してきたのだ。体を鍛えるのも、生き延びる可能性を少しでも上げるためのものである。

 己に課したルールを守り通してきたお陰で、これまで無事に生き延びてこられた。仕事において、ミスをしたことはない。若松からの信頼も得られている。

 そのルールを、簡単に破ってしまった。今は起きる気になれない。何をするでもなく、ただただ寝床でまどろんでいたかった。

 気分がいいわけではない。むしろ真逆の状態である。頭が異常なまでに重く感じ、体も鉛を流し込まれたかのように重い。起き上がることすら困難に感じる。考えることも面倒だ。目に映るもの全てが無価値に見えていた。今までしてきたこと、その全てがつまらなく思える。何も考えず、このまま眠り込んでしまいたい。

 原因はわかっている。久しぶりに、あの事件について思い返してしまったからだ。その後、決まって訪れる重度の鬱状態……こればかりは、いつまで経っても慣れることなど出来ない。


(この先、お前は一生罪を背負って生きるんだ。覚悟しとけ、楽な人生じゃねえぞ)


 高山刑事の言葉が蘇る。これが、罪を背負って生きるということなのだろうか。




 気がつくと、既に五時を過ぎていた。

 今まで眠っていたわけではない。この数時間、ずっと不快な気分のまま横になっていた。起きてから、何も食べていない。だが、腹は空いていない。食べ物のことを考えただけで、不快さが増していった。

 不意に、人の気配を感じた。見ると、父と母がキッチンに立っている。父は、刺された時と同じ汚らしいTシャツだ。母はパジャマのようなものを着ている。いつもと同じく、虚ろな表情で立っていた。

 これもまた、罪を背負って生きる者の宿命なのか。


「また来たのかよ」


 低い声で毒づき、目を逸らす。己の手で殺したはずの人間が、目の前に現れる……本来なら、悪夢以外の何物でもない光景のはずだ。

 しかし、康介は平気だった。恐怖はないが、かといって他の感情もない。何やら得体の知れない存在が、なぜか目の前に現れる……その程度の認識でしかないのだ。不思議な話ではある。だが彼は、ふたりを見て怖いと感じることがなかった。

 ある者は、犬を見て可愛いと思う。だが、別の者は犬を見て怖いと思う。幽霊のような、理屈では説明できない存在に対する態度も、人によって差があるのかもしれない。

 あるいは、家族だからかもしれない──

 そんなことを考えながら、顔を逸らして反対側を向いた。すると、おかしなものが視界に入る。

 愕然となった。手を伸ばし、それを掴む。


「これは?」


 声が出ていた。手にあるのは、小さなビニール袋に入った粉末である。粉は透き通っており、氷砂糖のような形状だ。指で強く押すと、簡単に砕ける。

 これが何かは知っている。覚醒剤だ。

 

「なんで、こんなものが?」


 思わず問いかけていた。今まで裏の世界で生きてきたが、覚醒剤をやったことはない。覚醒剤をやるようになった者の行き着く先は、だいたいが同じである。最初は、酒を楽しむように覚醒剤を楽しむ。だが、そのうちに人生において薬の比重が大きくなっていく。やがて、薬に支配されてしまうのだ。そんな人間を、何人も見てきた。

 だからこそ康介は、薬物からは徹底的に距離を置いてきたのだ。そんな自分が、覚醒剤など買うはずがないのに……。

 その時、ようやく思い出した。数日前、若松とともに、この辺りで勝手に商売をしていた売人を狩ったのだ。その時、覚醒剤のパケを受け取っていた。

 

(ゴミはさっさと捨てておけ)


 若松に、そう言われたことを思い出す。だが、康介はそうしなかった。直後に、山田花子から連絡が来たからだ。こんなものの存在すら、すっかり忘れていた。

 改めて、パケを間近で見てみる。これまで、大勢の人間を破滅させてきたものだ。だが、康介の目の前にあるものは、ただのゴミにしか見えない。

 以前、この粉末をなめてみたことがある。恐ろしく苦い。頭がスッとなる感覚は確かにあった。だが、中毒になるほどのものではない。少なくとも康介にとって、やめられなくなるほどのものとは思えなかった。

 普段なら、確実にそれを捨てていただろう。万が一の事態を想定した場合、こんなものを家に放置していてはいけないのだ。

 だが、今の康介は全てが面倒だった。これについて考えること自体が億劫だ。もはや、どうでもいい。

 ビニール袋の中に指を入れ、ほんの少量をなめてみた。苦い。頭がスッとなる独特の感覚に襲われる。しかし、それで終わりだ。効いているのかいないのか、それすらわからない。

 もう一度、ビニール袋に指を入れた。先ほどよりも、多めの量をすくいとる。

 指をなめた。舌の上で、さっと溶けていく。ただただ苦いだけだ。確かに、頭は先ほどより働くようにはなってきている。だが、効いているのかどうなのか、未だにわからない。

 次の瞬間、康介は勢いよく立ち上がっていた。

 さっきまでは、立ち上がることすら面倒だったのだが、本人はその事実をすっかり忘れている。鬱状態だったことすら、彼の頭からすっぽりと抜けていた。今の康介は、このビニール袋に入っていたものが効いているのかいないのかわからない……という疑問に頭を支配されており、その他のことなど頭の片隅にも浮かばない。

 これこそが、覚醒剤の効果なのである。既に、効き目は発揮されていた。他人から見れば、どうでもいいような疑問に頭を支配され、そのことを解決せずにはいられない……だが本人には、己が覚醒剤に支配されているという意識はなかった。

 康介は、床に落ちていた缶コーヒーを拾う。パケの中の粉末を全てコーヒーに入れ、一気に飲み干した。

 その途端、目の前が明るくなったような感覚に襲われた。頭はすっきりし、視界がクリアになっている……かのような気分だ。

 ふと気がつくと、父と母が突っ立っていた。相変わらず、ふたり揃ってあらぬ方向を見ている。

 その姿を見た瞬間、無性に腹が立った。


「何しに来たんだよ! 失せろ!」


 怒鳴りつけたが、完全に無視している。康介のことを見ようともせず、銅像のように立ったままだ。

 その途端、感情のリミッターが外れた。凄まじい勢いで父を殴り、母を蹴飛ばす。だが、手応えはない。当たっているはずなのに、何の感触もないのだ。


「わかってんのか!? てめえらのせいで、俺はこうなったんだよ! 何とか言えや!」


 喚きながら拳を振り上げた。だが、その時になって状況に気づく。父も母も、既に消えていた。しかも、振るった拳は壁に当たっていたらしい。手から血が流れている。

 

「クソが!」


 もう一度、虚空に向かい怒鳴りつけた。と、床の上にホコリを見つけた。ほんの僅かな量だが、異様に気になる。そのまま見逃してはおけない。康介は、ホコリを指でつまみ上げてゴミ箱に捨てた。

 その時、床にキラリと光るものを発見する。覚醒剤の粉末だ。飲もうとした時、床の上にこぼしてしまったのだろう。

 ほんの僅かな量である。砂粒程度のものが、三粒ほど落ちているだけだ。掃除機で吸ってしまえば終わりである。

 にもかかわらず、康介はそうしなかった。掃除機の中を調べられたら……という不安を感じたのだ。慎重に指ですくい取り、ティッシュに包む。そのティッシュに、火をつけ燃やした。これで、証拠は消滅したわけだ。

 だが、すぐに別の不安が襲う。もしかしたら、まだこぼれているかもしれない。ガサ入れされた時、こぼれた覚醒剤を発見されたら終わりだ。康介は血走った目で、床の上を探し始めた。今となっては、突っ立っている両親よりも、こちらの方が大事だった。


 傍から見れば、狂っているとしか思えない行動である。そもそも、床に落ちた砂粒程度の覚醒剤など、麻薬取締局の捜査官でもいちいちチェックしたりしないだろう。

 だが、本人は至極まともなつもりでいた。これこそが、覚醒剤の怖さである。客観的な判断力が消え去り、目の前の些細なことに頭と体の全てを支配されてしまう。こうなると、薬が切れるまで同じことを繰り返すだけだ。

 さらに厄介なのは、覚醒剤が効いている間は空腹にもならないし眠くもならないことだ。異様な集中力を発揮し、目の前のことを続けてしまう。こうなると、もはや誰の手にも負えない。あとは、薬が切れるまで放っておくしかないのだ。

 康介は、異様な表情で床の傷や汚れをチェックしていた──




 気がつくと、朝になっていた。窓から、陽の光が射してくる。

 その頃になって、ようやく薬が切れてきた。空腹を覚え、よろよろと立ち上がる。考えてみれば、この二日間なにも食べていない。

 次の瞬間、彼はキッチンに行った。蛇口を捻り、流れる水を飲む。最悪の気分だった。自分は何をしているのだろう……。

 もっとも、最悪の気分で済んだだけでもマシなのだ。パケに入っていた覚醒剤を缶コーヒーに全てぶち込み、一気に飲み干している。その時点で、かなりの無茶である。言ってみれば、飲酒経験のない者にウォッカのようなアルコール度数の高い酒を飲ませるようなものなのだ。

 しかも、朝から何も食べていない状態で、そんなことをしたのだ。心臓の弱い人間だったら、そのまま死んでいてもおかしくはない。また、心臓の強い弱いなど関係なく体質的に覚醒剤を受け付けない者もいる。アレルギーのような反応を起こし、そのまま死んでしまうこともあるのだ。

 体が丈夫であり、体質面でも門体ない康介であったからこそ「最悪の気分」の一言で済ませられたのだ。


 買い置きのカップラーメンを作り、恐ろしい勢いで食べ始める。あっという間に平らげてしまったが、それでも満たされない。異様な空腹を感じていた。

 これもまた、覚醒剤の副作用である。効いている間は食欲が消えているが、効果が切れると凄まじい食欲に襲われてしまう。目に映る食料を、片っ端から平らげていくのだ。

 結果、ダイエットにおけるリバウンドと同じ現象が起きることもある。基本的に、覚醒剤の常用者は痩せているというイメージだが、中には力士のように肥え太った体格の人間もいる。そういう者は、覚醒剤を打ち断食状態になり、抜けた後にドカ食い……そのサイクルを何度も何度も繰り返した結果、そのような体になってしまったのだ。当然ながら、健康には良くない。消化器官を酷使することとなり、いずれ内臓はボロボロになっていく。

 今の康介は、まさにその初期段階にある。食品はないかと室内を漁り、食べられるものを口に入れていく。

 青白い顔の不健康そうな男が、家の中で食料を漁る……はたからは、ゾンビのように見えていただろう。


 一通り室内を漁り、あるだけの食料を平らげ、空腹も落ち着いた頃……テーブルに置かれていたスマホに視線を移した。すると、メッセージが届いていることに気づく。

 ひょっとして、若松かもしれない。新しい仕事か。それとも、この前話していた人物の件か。いずれにしろ、こんな状態で若松とは顔を合わせたくない。あの男は勘が鋭いのだ。こちらの異変にも、すぐに気づくだろう。

 さて、どんな言い訳をするか……などと思いつつも、念のため画面を見てみる。

 直後、その表情が硬直した。メッセージの贈り主は、若松ではない。

 山田花子だった。


(明日、時間ある? ちょっと会いたいんだけど)




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