康介の過去・家族の終焉
「いつか、姉さんと一緒に家を出よう」
姉の冴子は、そう言っていた。
康介にとって、姉はとても美しく清らかな存在である。幼くして、この世の狂った部分を見せられてきた彼にとって、姉だけが唯一の美しくで純粋な存在であった。
中学を卒業したら、冴子と一緒に家を出て行こう。誰も知らない場所で、まともに生きよう。康介は、そう心に決めていた。
だが、その夢が崩れ去る時が来る。
十六歳の冴子は、美しく成長していた。母の美貌を受け継ぎ、さらに狂った家庭で育ったがゆえの暗い瞳と諦念に満ちた表情とが、彼女にえもいわれぬ不思議な魅力を与えていたのだ。薄っぺらい人生を歩んできた女には、決して醸し出すことの出来ぬものだろう。
そんな冴子を、飛田は放っておいてくれなかった。
それは、康介にとって忘れられない日となる。
中学二年生の夏休み、康介は昼間から外に出ていた。とは言っても、することなどない。友達などいなかったし、金も持っていなかった。
そもそも康介は、中学に入ると同時に、ほとんど家に寄り付かなくなっていたのだ。何をしているのかといえば、校内に潜み時間の過ぎるのを待つ。無論、教師や他の生徒らに見つかりにくい場所だ。あるいは、川にかかる橋の下にて寝転び長い時間を潰したりもした。
それは言うまでもなく、退屈な時間の潰し方である。普通の中学生には耐えられないだろう。しかし、康介は耐えられた。あの家にいるよりは、ずっとマシだったからだ。
その日も、康介は午後十一時過ぎに帰宅した。家の明かりは消えていたため、音を立てないようにドアを開ける。
そっと靴を脱ぎ、静かに中へ入って行く。まるで泥棒のようだ、と苦笑した。恐らく、皆は眠っているのだろうし、飛田は帰った頃だ。そう、康介は奴が帰る時間帯を、外でじっと待っていたのである。足音を立てないようにして、二階への階段を上がって行った。
だが、姉の部屋の前を通りかかった時、妙な違和感を覚えた。明らかに、姉のものではない寝息が聞こえてきたのだ。
不吉な予感が胸を掠める。一瞬、どうしようか迷った。姉のプライバシーを侵すような真似は、今までしたことがない。
だが、こんな寝息を立てる人物はひとりしか思いつかなかった。聞き覚えのある音なのだ。ドアノブに手をかけ、静かに捻ってみる。
あっさりとドアは開いた。鍵はかけていなかったらしい。
だが、そんなことはどうでもよかった。康介の目の前に、醜悪な光景が広がっていたのだ。
姉のベッドの上には、とても醜い生き物がいる。髪は薄く、だらしなく開いた口からはよだれが垂れていた。脂肪の塊のごとき肉体を隠そうともせず、一糸まとわぬ姿で眠っている。寝息の度に、贅肉が震えるのが滑稽であった。
誰であるかは、考えるまでもない。家庭をめちゃくちゃにした元凶・飛田孝則であった。
その隣には、冴子がいる。だらしない表情で、飛田と同じく裸体のまま眠っていた。
飛田は母のみならず、姉まで
この時、自分がどんな心理状態であったのか、何を考えていたのか……康介には、今もって上手く説明できない。あえて言うなら、何も考えていなかった……完全に無の状態であった。
そう、康介は劇的な怒りの衝動に駆られたわけではなかった。狂気に支配されたわけでもなかった。どちらかといえば、冷静であった。音も立てず部屋を出ていった。無言のまま台所に行き、包丁を手にする。
迷うことなく、二階へと上がって行った──
ネットなどで武勇伝を語る人間の中には、こんなことを言う者がいる。
(キレた直後、気がついたら全員が血まみれで倒れていた。何をやったのか覚えてない)
こういった逸話の九十九パーセントが嘘つきなのだ。康介は、そう断言できる。
なぜなら、彼はあの時自分が何をしたか、十年以上経った今でもはっきりと覚えているからだ。実のところ、覚えていたくもない。
康介はまず、口を開けたまま寝ている飛田に包丁を突き刺した。何度も何度も刺した。
血は大量に流れ、ベッドは真っ赤に染まる。にもかかわらず、飛田は死ななかった。それどころか、すぐに目を開け叫び出した。ああいう人種というのは、本当にしぶとい。殺しても死なない、とはまさにこの男のことだろう。
飛田は悲鳴を上げながら、必死で逃げようとした。さほど広くない部屋の中を、無我夢中で這い回る。だが、康介は逃がさない。包丁を振り回し、部屋の隅に追い詰めた。
逃げられないと知った飛田は、今度は惨めに命乞いを始めた。涙と鼻水とよだれを撒き散らしながら、助けてくださいとすがりついてきた。しまいには、目の前で土下座まで始めた。その姿は、あまりに惨めで滑稽だった。今まで、絶対的な権力を振るっていた暴君は、今や少年の前にひれ伏している。
しかし、今の康介には人の心など残されていない。殺意が、彼の全てを塗り潰していた。
ためらうことなく、一気に包丁を振り下ろした。何度も、何度も突き刺す。
どのくらい刺したのだろう。気がつくと、飛田は動かなくなっていた。
返り血を大量に浴びた姿で、ゆっくりと振り返る。
冴子は、まだベッドの上にいた。表情ひとつ変えず、弟の凶行をじっと見ていたのである。
逃げようと思えば、逃げられたはずだった。なのに、彼女は逃げなかった。それどころか、妖艶な笑みを浮かべ両手を広げたのだ。
おいで、とでも言わんばかりに──
「あんただって、私とやりたいんでしょ。知ってたよ、あんたが何を考えてたか。頭の中で、何度も私を犯してたでしょ」
姉の口調は、挑発的なものだった。その言葉を聞いた瞬間、康介はどきりとなる。
康介は今、ひとりの人間を殺害したのだ。しかも、目の前にいるのは一糸まとわぬ若い女である。恐れる要素など、どこにもないはずだ。にもかかわらず、彼は怯えていた。違う、と言い返そうとする。
その時、どこからか声が聞こえた。
本当にそうなのか?
裡に潜む何者かが問うてくる。
康介は呆然となっていた。違う、と言い切れないことに気づいたのだ。そう、自分はずっと姉に憧れていた。その想いは、性とは関係ない……はずだった。
だが、今の自分は激しく欲情している。
すると、冴子はニヤリと笑った。勝利を確信しきった者の表情だった。だが、その目には蔑みがある。お前も、奴と同じだ……と言っているかのようだった。
認めない。認めたくない。自分が姉の肉体を欲していたなど、あってはならないことだ。
もし、そうだとしたら……自分も奴と同じ獣に成り下がる。この世で、最も軽蔑していた者。昼間から他人の家に上がり込み、己の欲望のまま女の肉体を貪る醜い男。飛田と同類になってしまう。
気がつくと、康介は包丁を振り上げていた。あいつと同類には、絶対になりたくない。ならば、目の前にいる者を殺す。邪悪な欲望を生み出す存在を、目の前から消し去る──
その時、冴子の顔に浮かんでいたものは……諦めきった表情と、歪んだ笑みだった。逃げる素振りもなく、彼女は両手を広げている。早く終わらせてくれ、といっているかのように。
この世のものとも思えぬ美しい顔で、冴子は真っすぐ弟を見ていた。
康介は、下に降りていった。
その時、さらなる異変に気づいた。上の騒ぎを、父も母も聞いていたはずだ。なのに、出てくる気配がない。
いや、もしかしたら……ふたりは、逃げ出したのかもしれない。今頃、外から警察に通報しているのだろうか。
まあ、いい。こうなったら、もはやどうなろうと知ったことではない。殺人犯として裁かれたとしても、一向に構わない。
自分の人生は終わってしまった。だが、今さらどうでもいい。
「康介」
闇の中から、自分を呼ぶ声がした。
振り返ると、父が立っていた。食べこぼしのような染みが、点々と付着したTシャツを着ている。暗闇の中、どんな表情をしていたのかは覚えていない。
はっきり覚えているのは、父の言葉だ。
「頼む。お前だけは、まともに生きてくれ」
久しぶりに聞く幸平の声は、しっかりとしたものだった。壊れる前の、威厳のある父の声だった。幼い頃に聞いていたものと同じだった。
その言葉を聞いた瞬間、康介の中に激しい怒りが湧き上がる。もう、遅いのだ。
怒りに突き動かされるまま、包丁を振り上げ襲いかかった──
まともに、だと!?
お前のせいだ!
お前がまともじゃないから、俺もまともでなくなったんだよ!
今になって父親面するな!
康介は、父を滅多刺しにした。だが幸平は、抵抗すらしなかった。ただ、顔を苦痛に歪めるだけだった。
その後、康介は自分でも驚くほど冷静に行動していた。
まず、シャワーを浴びた。返り血を全て洗い流し、服を着替える。
次に、灯油を撒いた。父の部屋に、大量に置かれていたものだ。幸平は、いつのまに用意していたのだろう。ひょっとしたら、このような事態を予期していたのかもしれない。
あるいは、自分でやるつもりだったのか。
いや、今となってはどうでもいい。あるものは使わせていただく。家中に灯油を撒き、火をつけた。そもそも、こんな家などさっさと手放していればよかったのだ。手放していれば、こんなことにはならなかった──
火は、一瞬にして全てを包んでいった。何もかもが燃えていく。呪われし家も、狂った家族も、みな焼けていった。
炎に包まれ、灰と化した家……焼け跡からは、四つの焼死体が発見されたらしい。
母は、焼け死んだのだろうか。
それとも、父が殺したのだろうか。
その後、康介は自ら警察に出頭する。うちに帰ろうとしたら、家が燃えていました……と。
当然ながら、警察署にて刑事から取り調べを受けた。だが、知らぬ存ぜぬで押し通した。父がおかしくなっていたことや、母が飛田と関係を持っていたこと、家族の前で平気で交わっていたことなども、包み隠さずに全てを話した。そんな狂った家に帰りたくなかったため、普段は外を泊まり歩いていた、という嘘もついた。自分でも驚くほど、口から嘘がすらすら出ていく。
警察は、その嘘をあっさりと信じた。というより、その形で終わらせる以外になかったのだ。
やがて、康介は施設へと送られる。事件は、全て父・二見幸平の犯行ということで処理された。
もっとも、ひとりだけ康介に疑いの目を向ける者がいた。刑事の高山だ。
「あれな、全部お前がやったんじゃねえのか」
ことあるごとに、高山はこのセリフを吐いた。週に一度くらいのペースで康介の前に現れ、世間話と称した揺さぶりをかけてくる。だが、全て知らぬ存ぜぬで通した。
両者のやり取りは、康介が施設を去る日まで続いた。
「法律は、お前を見逃した。だがな、俺にはわかってる。あれはな、お前がやったんだよ。この先、お前は一生罪を背負って生きるんだ。覚悟しとけ、楽な人生じゃねえぞ」
最後に会った時、高山はそんなことを言った。刑事の顔に浮かんでいたのは、憎しみではなく憐れみだった。
・・・
父や母や飛田のような人間にだけは、絶対にならない、まともに生きる。康介は、そう誓っていたはずだった。
それなのに……康介は、普通の生き方が出来なかった。その手に染み付いた血の匂いは、何年たとうが離れてくれない。実の親と姉を手にかけた……その記憶が、康介という人間に不気味な陰を落とす。周囲の者たちは、その気配を敏感に感じ取った。あいつは危ない、だから関わらないでいよう……そんな空気が、周りに漂うこととなる。
一方、そんな空気に引き寄せられる者もいた。彼らは、康介の裡に潜むものに気づき接近して来る。
結果、康介はろくでもない連中と付き合うようになっていった。まともな生き方からは、どんどん遠ざかっていく。大きな群れからはぐれてしまい、荒野の中をさまよい歩く日々。そうなると、否応なしに自身の裡にある汚れを意識せざるを得ない。
肉親の流した血に、染まってしまった己の心を──
気がつくと、裏社会の住人になっていた。子供の頃に見たクズどもよりも、さらに下の外道へと成り果ててしまったのだ。
まともに生きようと思っていたはずなのに、吸い寄せられるように裏の世界へと足を踏み入れ、その泥沼にどっぷりと浸かっている。
これまで、何人の人間を不幸のどん底に叩き落としてきたのだろうか。
自分がこんな人間になったのは、誰のせいなのだろう。全ては、自分の責任なのだろうか。
あの事件以来、彼らは時おり現れるようになった。
無言のまま康介の周囲で好き勝手に過ごし、気がつくと消えている。恨みの言葉を吐くわけでもなく、危害を加えるわけでもない。時おり、哀れむような視線を向けるだけだ。十日続けて現れることもあれば、半年近く姿を現さないこともある。五分くらいで消えてしまったかと思えば、丸一日ずっと康介の視界をうろうろしていたこともあった。
彼らは、いったい何なのだろう。幽霊なのか、それとも幻覚か。康介にはわからない。父親と母親と姉が何の目的で来ているのか、それもわからない。
ひとつ確かなのは、彼らは今も康介を見つめている。
家族の中で、唯一生き残ってしまった康介を──
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