康介の過去・地獄を見た幸平

 康介が、まだ小学生だった頃。

 父の幸平は会社の命を受け、ふたりの若手社員とともにデボン共和国に行った。その内容はといえば、現地の視察のためである。状況をざっと見て周り、一週間で帰る予定であった。

 ところが若手社員とともに、いかがわしい路地裏を探索していたところ……ギャングに誘拐されてしまったのだ。




 彼ら三人は、地下の施設に監禁されていた。狭い部屋で窓はなく、入口とその一面は鉄格子である。シャワーのような入浴設備はもちろん、トイレすらないのだ。排泄は、部屋の隅にあるバケツでしなくてはならない。刑務所よりも劣悪な環境であった。

 食事は一日に一度、残飯のようなものを食べさせられるだけだ。しかも見張っているのは、ドラッグをやりながら面白半分に拳銃をぶっ放すような若者たちである。彼らの頭に、人権などという文字はない。

 若者たちは、面白半分に幸平らをいたぶり続けた。何せ、彼らには他にやることがない。交代制とはいえ、言葉も通じない日本人を、ずっと見張っていなければならないのだ。そのストレスのはけ口として、幸平らを選んだのである。

 最初は、面白半分に殴ったり蹴ったり……という程度だったが、だんだんエスカレートしていく。この年代の若者というのは、加減というものを知らない。しかも、ドラッグをやっているものまでいるのだ。

 ダーツの的にしたり、熱湯をかけて熱がる様を見たり、幸平ら三人の腹を順番に殴り誰が最初にダウンするかを賭けたり……若者たちのやることは、どんどんエスカレートしていった。

 しまいには、お互いの残虐さを競い合うようになっていた。人質を、どれだけ酷い目に遭わせられるかを競っていくようになっていたのだ。

 三人は、あっという間に痩せ細っていった。体は、青痣や生傷が耐えない状態である。刑務所の看守ですら眉をひそめるであろう環境は肉体のみならず、精神も崩壊させていった。にもかかわらず、松島電器はまだ動こうとしなかった。責任を取りたがらない上層部の人間たちが、ああでもないこうでもないと議論し、交渉を引き延ばしていたのである。

 幸平ら人質にとって、最悪の選択であった。こうした事件に遭った時、もっとも大切なのは即断即決なのだ。ところが会社では、事なかれ主義の上役たちが、どのような戦略で動くか……という小田原評定を続けていたのだ。

 やがて、起きてはならない事態が起きる。ひとりの若手社員が、完全に狂ってしまったのだ。最初は、ぶつぶつとひとり言を呟くだけだったのだが……ある日、奇声を発しながら見張りの若者たちに襲いかかって行った。当然ながら敵うはずもなく、拳銃で射殺される。

 彼の死体の映像が、松島電器へと送られた。その時になり、ようやく本社の上層部も動いた。現地の警察にもマスコミにも一切告げず、指示された通り多額の身代金をギャングに支払う。さらに、毎月決まった額の上納金を支払うことも約束した。

 引き換えに、残ったふたりは解放された。死んだ若手社員は、事故死という形で処理される。言うまでもなく、この誘拐事件の存在を知っているのは一部の人間だけであった。



   

 帰国した幸平は、身も心も完全に病んでいた。想像を絶する恐怖を味わわされ、肉体への暴力を毎日受け続けてきた。平和な日本で平穏に育った彼に、耐えられるはずがなかったのだ。

 しかも松島電器からは、デボン共和国で何があったか秘密にするよう言われていた。事件のことは、絶対に他言しませんという誓約書まで書かされていた。もっとも、口外したとしても誰も信じてはくれないだろう。

 当然ながら、妻と子供は何があったかを知らない。ただただ、変わり果てた幸平を前にして戸惑うばかりであった。精神科の医師の診察を受けてはみたが、治癒する見込みはない。

 彼は毎日、虚ろな目で部屋に閉じこもり、テレビを観ているか、ベッドで寝ているだけだった。外出することもなくなり、家族との会話もなくなった。まともな社会人の生活をしようという意欲は完全に失われており、性的にも不能になっていた。当然ながら、以前のような仕事など出来るはずもない。

 それでも、一応は松島電器の社員という立場は残っていた。もっとも、何の仕事もしていない。出社すらしていない状態だ。給料も支給されてはいるが、口止め料のつもりであろう。その金額は少ないが、そもそも仕事をしていないのだから仕方がない。

 こうなった以上、二見家は暮らしかたを変えなくてはならなかった。生活のレベルを下げ、収入に見合った暮らしをする……普通の人間なら、当然そうしていただろう。

 ところが、沙織はそうしなかった。もともと上流家庭で育っていた人間だ。異常に高いプライドを持っている。さらに、近所の環境にも独特のものがある。生活レベルの違う人間は、それだけで負け組……そんな価値観の者ばかりが住み着いている地域だ。

 沙織は、今の生活レベルを下げることに耐えられなかった。さらに、夫が人として壊れてしまっていることも、近所に知られたくなかった。

 結果、沙織もまた最悪の選択をしてしまう。家族全員を狂気に導く者を、家に引き入れてしまったのだ。もし、彼女がこの人物と出会っていなければ……後の悲劇は、全て避けられたはずだった。






  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る