真幌駅前の商店街

 真幌駅前の商店街を十分ほど歩くと、古い住宅地に出る。

 その瞬間から、一気に風景が変わるのだ。筑ウン十年の今にも崩れそうな木造アパートや、妖怪でも住んでいそうな古い一軒家が並んでいる。昭和のドラマに登場しそうな風景だ。漂う匂いも、すれ違う人種も全く違うものになる。まるで、異世界に足を踏み入れたかのようだ。

 そんな住宅地に入る手前で裏道に入ると、怪しげな店が建ち並ぶ一角が出現する。今にも崩れ落ちそうな雀荘や、ひび割れた看板の出ているスナック。さらには、何を売っているのかわからない店もある。出入りしているのは、外国人の女たちだ。恐らくは、モグリの売春宿であろう。

 康介が今いるのは、そんな一帯に建っている喫茶店の中だ。そもそも看板すら出ていないため、外から見ただけでは何の店かすら判断しづらい。さらに店内は薄暗く、営業しているのかどうかさえ判別が難しい状態である。

 ドアを開けて中に入ると、さらに異様な雰囲気に圧倒される。さほど広くない店内は、客が六人も入れば満員になってしまうだろう。以前、待ち合わせに使った喫茶店『エルロイ』よりも、さらに狭いスペースだ。

 壁は剥きだしのコンクリートであり、窓には刑務所さながらの鉄格子が付いている。テーブルは木製だが、表面は傷だらけで得体の知れない染みが付着していた。照明は暗く陰気で、居心地のいい店とは言い難い。店員らしき者の姿もない。音楽もなく、店内は沈黙が支配していた。

 全体的に、客を呼び込もうという気がまるで感じられない。ムカデやサソリといった毒虫を販売するようなマニアックな店でも、もう少し店内の雰囲気には気を遣うであろう。仮に付き合い始めたばかりの若いカップルがここに入ったら、数分で別れ話を始めてしまいそうだ。

 そんな陰気な喫茶店の中で、康介はドア近くの椅子に座っていた。暇そうな顔でスマホをいじっている。

 時刻は、昼の二時を少し過ぎたところだ。客は、彼の他にはいない。こんな店に好き好んで入ってくる物好きもいないだろうが……それ以前に、表には準備中の札がかけられており、誰も入っては来られない状態だった。

 にもかかわらず、康介は入り込んでいた。堂々と椅子に座り、待ち人が来るのを待っている。




 康介が店に到着してから、十分ほど経過した時だった。

 店の奥のドアが開き、若松が出てきた。薄汚れたジャージ姿で、タバコを吸いながら悠然と歩いてくる。現在、都内のほとんどの飲食店では禁煙が当たり前なのだが、彼は気にも止めていない。口からスパーッと、派手に煙を吐き出している。

 それも当然だった。この店のオーナーは、若松なのである。店というより、彼の住居に近いだろう。大物ぶった態度で、康介の目の前の席にどっかと座り込むと、またしても美味そうにタバコを吸い、直後に大量の煙を吐き出した。康介は顔をしかめるが、気にする素振りもない。天井を見れば、タバコのヤニによるものと思われる黄色い染みが付いている。

 その染みの張本人と思われる若松は、待たせた詫びの言葉も、挨拶の言葉も無いまま、いきなり話を切り出した。


「いやあ、笑えるぜ。あのバカガキ、まだ警察で取り調べ受けてるってよ。さっきテレビで、アホなコメンテーターが言ってたぜ。高校生の薬物汚染は深刻な問題です、ってな。この分だと、裁判も厳しいな。有罪判決でるかもしれねえよ。ま、どっちにしてもあいつは終わりだけどな。ウンコ漏らした動画も、かなり広まってるらしいからよ。これが本当の、ウンの悪い奴ってことだな」


 若松はしかめ面を作り、おどけた口調で言った。直後、げらげら笑う。自分の言ったつまらないダジャレが、自分のツボに入ったのだろう。当然ながら、康介はにこりともしていない。

 この男の話に登場したバカガキとは、少し前に康介が散々痛め付けた後、覚醒剤のパケをポケットに突っ込み、挙げ句に警察に通報した河野雄介である。上級国民の息子であり高校生にして覚醒剤の密売人だった少年が、裏社会の人間に粛清された……というニュースは、今やワイドショーにて連日扱われるネタとなっている。

 ネットの世界では、さらに悲惨なことになっていた。康介の流した下半身の映像が、あちこちで拡散されたのだ。無論、すぐに削除されたが……かなりの数の人間が、河野の脱糞した映像を見たことだろう。

 その後は、さらにとんでもない展開が待っていた。かつて河野にイジメを受けていた少年が、とある全国ネットのワイドショーに出演したのだ。顔や名前は隠していたものの、自分が河野からされた仕打ちを、洗いざらい暴露してしまった。

 その内容だけでも悲惨なものであったが、何より圧巻なのはカメラの前で河野に無理やり入れられたタトゥーを公開したシーンだ。下手くそな字で、女性器を意味する卑猥なスラングが腕に彫られていたのである。当然、そんなタトゥーを自らの体に入れる者などいない。

 このことで、河野を叩く流れにいっそう拍車がかかった。今や、河野は有名人である。もちろんテレビや一般マスコミは、彼の実名を報道していない。だがネットでは、実名はもちろんのこと顔の画像や住所まで晒されていた。中には「河野を見つけたらボコる」「拉致して同じタトゥーを入れてやれ」などと書き込む者までいる始末だ。

 若松は、自分たちの仕事の「成果」が世間を騒がせ、ワイドショーにて大々的に扱われているのが嬉しくて仕方ないらしい。正直、いい趣味とは言えないだろう。


「そ、そうですか」


 返事はしたものの、康介の表情は暗い。それどころではないのだ。あの山田花子と接触してしまった時の記憶が、彼の頭を未だに支配していた。山田と会い、会話し、挙げ句に死体を始末した……今も、あの部屋で見たものや聴いた音などが頭から離れない。

 すると、若松の眉間に皺が寄る。こちらの不安を感じとったらしい。


「お前、顔色悪いぞ。何かあったのか?」


 言いながら、顔を覗きこんできた。この男、裏社会で長らく飯を食ってきただけあって、妙に鋭いところがある。康介は、反射的に目を逸らした。 


「いや、大丈夫ですよ。昨日、ちょっと寝不足だったもんで」


「寝てない、だと? お前、まさかシャブやってないよな?」


 真顔で、そんなことを聞いてきた。シャブとは、言うまでもなく覚醒剤の隠語だ。覚醒剤を摂取すれば、眠気も食欲も消える。そのため、顔色は否応なしに悪くなる。

 若松は、薬物をやる人間を信用していない。薬物が、どれだけ人間を狂わせるかをちゃんと知っているのだ。

 裏社会には、薬物をやる者は少なからず存在する。だが、その大半は長く商売を続けられない。八割方の人間は、薬物が原因で破滅していく。それゆえ若松は、薬物をやるような人間を身近に置かない。もちろん、仕事で使ったりもしない。ある意味、薬物に関しては芸能人よりも厳しいのだ。


「んなもん、やってるわけないじゃないですか。やってたら、ここには来てないですよ」


 笑いながら、康介は答えた。もっとも、その笑顔は引き攣っている。

 若松は、そんな彼を不審そうに見ていた。だが、気にするほどのことでもないと判断したらしい。ややあって、ポケットから封筒を取り出す。


「ま、いいや。ほら、こないだの分だ。よくやってくれたな。ちっとばかし上乗せしといたぜ」


 そう言って、封筒を差し出してきた。言うまでもなく、中には現金が入っている。

 若松は、妙に古風な部分があった。電子マネーはあまり使わない。特に商売上のやり取りは、もっぱら現金だ。康介への報酬は、直接会って手渡すことにしている。

 もっとも、こちらとしてもその方がありがたい。銀行の振込みや電子マネーでのやり取りは、証拠が残る。特に、康介のような商売は、金の流れを記録として残したくないのだ。


「ありがとうございます」


 康介は、封筒を受け取り一礼した。が、直後に若松から、とんでもない言葉が放たれる。


「ところでよ、前に言ってた山田花子だがな、あれから連絡あったか?」


 心臓が口から飛び出しそうになった。だが、表情ひとつ変えず答える。


「いいえ、ありません。山田がどうかしたんですか?」


「お前に言われてから、気になったんでちょっと調べてみたんだよ。あちこちの連中に聴いてみたんだ。でもな、あいつが何者なのかわからなかった。こんなの、初めてだよ」


「えっ、そうですか……」


 康介は平静を装ってはいたが、内心ではかなりの衝撃を受けていた。若松の情報網は確かだ。人ひとりの過去を調べるくらいは造作もない。そうでなくては、こんな稼業は出来ないのだ。

 その若松にも、正体を悟らせないとは……よほどの大物か、逆に戸籍の全くないホームレス同然の人間かのどちらかだ。


「一応、菅田裕貴についても、もう一度調べてみた。あいつは、やっぱりクズだったよ。菅田を恨んでる女は、十人や二十人じゃすまない。その家族や友達も合わせりゃ、百人超えるかもな。たぶん、山田もそのひとりだろう」


 菅田裕貴……山田の依頼で、さらった若者だ。しかし、あんな男のことなど知ったことではない。それよりも山田だ。康介は適当に相槌を打ちながら、若松の話の続きを待った。

 すると、若松の口から想像もしていなかった話が出てくる──


「実はな、山田は別の客から紹介されたんだよ。その客は付き合いこそ短いが、堅気かたぎの仕事をしてる人間だったし、そこそこ信用も出来た。だから、大丈夫だと思っていたんだがな……ちょっと、困ったことが起きたんだよ」


「何があったんです?」


「その山田を紹介してくれた客がな、いきなり連絡とれなくなっちまったんだよ。一週間くらい前から、ケータイにかけても繋がらねえ。念のため、人を使って家を見に行かせたんだがな、しばらく帰ってないらしいんだ。こんなのは初めてだよ。山田とは関係ないかもしれねえが、ちょっと気になるな」


 またしても、心臓が跳ね上がりそうな感覚に襲われた。

 数日前、康介は死体の処理を頼まれた。その死体が何者かはわからない。わかったことといえば、山田は人ひとりくらい簡単に殺す女だということだけだ。

 ひょっとして、若松の言っている「客」も殺されたのかもしれない。

 先日始末した死体が、その客なのか?


「えっと、その客ってのはどんな男です?」


 さりげなく聞いてみた。だが、この問いにより思いもかけぬ展開になる。

 突然、若松の目がスッと細くなった。少しの間をおき、ゆっくりと口を開く。


「お前、なぜ知ってる?」


「えっ? 何をですか?」


「消えちまった客が、男だってことだよ。俺は、その客が男だなんて言ってねえぞ」


 ドキリとした。この男、一見すると競艇場や競輪場をうろつく下品なオヤジといった風貌だ。しかし頭は悪くない。相手の言葉のちょっとしたほころびを見つけるのは得意だ。常人なら、気付かず流してしまうであろう小さな矛盾点……しかし、若松は見逃さない。その矛盾点を鋭く突き、洗いざらい吐かせてしまう。

 今も、康介との会話に綻びを見つけてしまった──


「すみません。若松さんの客って、だいたいが男だったもので……勝手に、そう判断しました」


 そう言って頭を下げたが、若松は納得していない様子だ。無言のまま、じっとこちらを見つめている。

 康介はわかっていた。これが、若松のやり方だ。無言で圧力をかけ、相手の言葉を引き出す。この男に限らず、裏稼業の人間は沈黙を上手く用いる。心の弱い者はこの空気に耐えられず、言わなくていいことをベラベラ語り出してしまう。

 だからこそ、康介も何もいわなかった。無言のまま下を向く。こうなった以上、我慢比べだ。やり過ごすしかない。

 ふたりは、無言のまま対座していた。店内に流れる空気は、心なしか薄く感じられる。まるで高山の山頂付近にいるかのようだった。

 しかし、先に折れたのは若松であった。ふうと溜息を吐く。こんなつまらないことで、意地の張り合いをしても仕方ないと判断したのだろう。


「お前の思った通りだよ。そいつは男だ。いろいろ使える奴だったんだがな、忽然と消えちまった。もともと普通のサラリーマンだし、派手な遊びもしない奴だ。いきなり消えるってのはおかしいだろ。どうしたことかと思って、あちこち調べてるとこさ」


「それはまいりましたね」


 平静を装い、康介は言葉を返した。


「ああ、本当だよ。あの山田花子には、かかわるな。お前の言う通り、あいつは普通じゃねえぞ。裏社会の人間ではなさそうだが、堅気でもない。今までの客とは違う。万が一、奴がまた連絡してきたら、すぐに俺に教えろ。いいな?」


「わかりました」


 即答した。その態度が、若松の機嫌をよくしたらしい。鋭かった表情が、少し和らいだ。


「まあ、あの女はいいよ。そんなことより、次の仕事だ。最近、あちこちで勝手に商売をしている売人がいるらしい。そいつを痛めつけてくれって依頼が来てんだよ。既に絵図は描いてある。やってくれるな?」


「もちろんです」


 またしても即答した。この若松、兵は巧遅よりも拙速を尊ぶ……の信奉者らしい。問いに対し即答すれば、とりあえず機嫌を損ねることはない。




 帰り道、康介は神妙な顔つきで歩いていた。

 若松の言う通りにするべきだ……と、頭ではわかっている。彼の言う通り、山田は普通ではない。人をひとり殺しておきながら、あの態度は何なのだろう。堅気の人間では、まずありえない。堅気にも、裏稼業の人間より恐ろしい者はいる。だが、山田はそちらのタイプでもない。

 裏の世界に足を踏み入れ、そろそろ十年近くなる。その間、いろいろなタイプの人間を見てきた。この世の裏の部分を、充分すぎるくらい見たつもりだった。

 そんな康介の目から見ても、あの山田は異様だ。もう一度、あの女から仕事を頼まれたら……自分は、どうすればいいのだろうか。

 すぐさま若松に連絡し、彼の指示を待つか。いや、それはまずい。先ほど、山田の件で若松に嘘をついてしまったのだ。あの男は、下の人間から嘘をつかれることを極端に嫌う。もし、山田と若松が接触してしまったら……康介のついた嘘がバレてしまう。

 その場合、何が起こるか? 若松は、慈悲などという心を持ち合わせていない男である。それどころか、人を痛め付けるのが大好きなタイプだ。この仕事は、若松にとって天職ともいえるものである。

 やはり、山田の件は自らの手でケリをつけるしかないのか……そこまで考えた時だった。前から、若者がずんずん歩いて来た。康介を避ける気配はない。スマホに夢中で、前を見ていないのだ。

 とっさにかわしつつ、思わず舌打ちした時だった。ある人物のことを思い出す。


(菅田裕貴についてももう一度調べてみた。あいつは、やっぱりクズだったよ。あいつを恨んでる女は、十人じゃすまない)


 若松の言葉が、頭に浮かぶ。その菅田も、歩きスマホをしていた。あいつは今、どこで何をしているのだろう。

 やはり、あの家の中で生きているのだろうか……康介は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。





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