駅近くの路地裏
夜の闇が辺りを包む頃、康介は
真幌市は、もともと工業地帯だった。景気の良かった昭和から平成の時代には、あちこちに町工場が立ち並び、その全てが毎日フル稼働していたのだ。それに伴い、居酒屋や風俗店のような店も増え、混沌とした雰囲気を醸し出していた。一時期は、あちこちのテレビ番組や雑誌などで「好景気を象徴する街」として紹介されていたこともある。
しかし景気の波が去ると同時に、工場もバタバタと潰れていった。夜逃げする経営者が多数でたが、それはまだマシな方である。借金で追い詰められた挙げ句、家族を道連れに一家心中をした工場経営者も珍しくなかった。それに伴い、居酒屋や風俗店も次々と撤退していった。
もっとも、建物自体は未だに残っている。廃墟と化した工場や店舗が、町のあちこちに建ったままになっているのだ。取り壊す費用もなく、かといって再稼働させる訳にもいかず、使い途のない工場が哀れな
結果、ゴーストタウンのような不気味な一角が出来上がってしまったのだ。令和の時代となった今でも、廃墟の町としてマニアの間で知られている。
一方、駅の周辺は開発が進んでいる。最近でも、ごく稀にではあるが、若者向けの雑誌などで取り上げられることもある。お洒落な店もまた、一応は存在していた。
今、康介が潜んでいるのは、そんな華やかな新しい部分と、古き悪しき部分の境目にあたる地点だ。少し歩けば、かつて工場だった廃墟が建ち並んでいるような場所である。彼は路地裏に潜み、スマホをいじるふりをしながら、じっと標的が来るのを待っていた。
しばらくすると、ひとりの少年が歩いてきた。作業服を着て立ち止まっている康介のことは、見ようともしない。あるいは、気づいていないだけなのか。
少年の身長はやや高めで、百八十センチ近い。しかし、体つきは華奢である。体重は、六十キロもないだろう。手足は長くすらりとしており、少女漫画に出てくるキャラのような見栄えのいい体型だ。髪は長めで、繁華街をふらつくホストのようなヘアスタイルである。端正な顔立ちだが、どこか冷酷そうな雰囲気も感じさせる。ブレザーの制服姿で、スマホをいじりながら歩いて来た。
やがて少年は、康介の前を通り過ぎて行った。警戒している様子はない。
と同時に、康介も動き出した。背後から、足音を忍ばせ近づいていく。
少年はというと、歩きながらのスマホに夢中だ。後方から、徐々に接近している者の存在には、全く気づいていない。この様子では、真正面から近づいていったとしても、ぶつかるまで気づかないのではないだろうか。
いつもながら思うことがある。こういう歩きスマホをしている人間は、襲う側としては非常にありがたい存在だ。前から、こちらに向かい歩いている人間にすら気付かない……こんな危険なことはないのだ。これは、平和な国である日本に特有の現象なのかもしれない。
もっとも、そんなことを考えている場合ではなかった。康介は背後から接近していき、少年の髪を掴んだ。顎を上げさせ、首に片腕を回す。直後、キュッと狭めつつ絞め上げる。こういった絞め技に大切なのは、力よりもコツだ。力ずくで絞めようとすると、相手も激しく抵抗してくる。結果、ポイントがずれてしまう。そうなると、絞め落とすまでに時間がかかる。時間がかかれば、無関係の者に目撃される可能性が増えるのだ。
康介は、絞め落とすコツをちゃんと知っている。現に今も、標的である
「おいおい、何やってんだよ。行くぞ」
さりげなく声をかけながら、河野の腰に手を回した。いかにも親しげな様子で微笑みながら、手を添えて歩かせていく。この少年、背は高いが体は細い。運ぶのは、さほど難しくはない。こちらを見ている者などいないが、念のため仲の良さそうな演技も忘れなかった。
通りに停めてあった車に乗せると、すぐに発進させる。
この河野は、都内の進学校に通っている高校生だ。成績は学年でもトップクラスであり、爽やかな雰囲気を漂わせているため同級生からも人気がある。礼儀も心得ており、目上の人間からの受けもいい。
だが、その裏の顔は……人をいたぶるのが大好きな異常性格の持ち主なのである。幼い頃より、弱い者に暴力をふるってきた。小学生から中学生の間には、いじめにより合計三人の生徒を不登校の状態に追いこんでいる。うちひとりは、睡眠薬による自殺を試みた。挙げ句に昏睡状態から覚めず、今も病院暮らしである。
被害に遭った生徒の親は、当然ながら学校に訴える。だが、主犯の河野は罰を受けなかった。彼は悪知恵が働き、証拠を残さない手口を用いていたのだ。さらに口の上手さで、教師たちからの追及を
今の河野は、優等生を演じている。だが、裏の部分は変わっていない。むしろ、その手口は巧妙になっている。手下を使い、あちこちで悪さを繰り返しているのだ。その悪名は、一部の高校生の間でのみ知れ渡っているという話だ。
もっとも康介にとって、そんな事情などどうでもいい。彼には、今からやらなくてはならないことがある。少々、面倒な作業だ。
数分の後、車を停めた。ここは、廃工場の跡地である。たまに廃墟マニアやバカな若者たちが探検に来る以外、人が訪れることのない場所だ。
康介は、用意していた黒い目出し帽を被った。次いで、河野の体を力任せに引きずり出す。
すると、少年は意識を取り戻した。目は虚ろで、ぼんやりした顔つきである。まだ状況がのみこめていないらしい。だが、康介はお構いなしだ。右足首を掴み、力任せに引きずっていく。とっさのことに、河野はされるがままだ。もっとも、両腕は縛られており、口には猿ぐつわがかけられている。抵抗など、出来るはずがない。
康介は河野の右足首を脇に挟み、太ももを己の両足で挟み込む。
直後、右足首を一気に捻り上げた──
グキン、という奇妙な音が鳴る。続いて、河野が顔を歪めた。何か叫ぼうとしたが、猿ぐつわのせいで声が出ない。
これは、ヒールホールドという関節技だ。相手の足首を小脇に抱えて捻り、膝関節を破壊する技である。抱えている足首は、あくまで膝関節を外すためのハンドルの役割を果たしているだけなのだ。うまい人間なら、一瞬で膝関節を破壊できる。膝に障害が残ることも少なくない。そのため、禁じ手にしている格闘技団体もあるくらい危険な技である。
そんな危険な技を、手加減なしで河野にかけたのだ。手応えからして、膝の靭帯は完全に破壊した。この先、以前と同じように歩くのは難しいだろう。
さらに康介は、しゃがみ込んで彼を睨んだ。
「てめえ、よくも人のシマ荒らしてくれたなあ。おかげで、こっちは大損だよ」
言いながら、顔を近づけていった。
河野の顔は、恐怖で歪んでいた。必死で首を横に振る。何のことか、わかっていないのだろう。まあ、わかるはずがない。彼は、どこのシマも荒らしていないのだ。
「嘘つくな。てめえは、ウチのシマを荒らしたんだよ。とぼけようったって、そうはいかねえぞ。いっそ、このまま殺してやろうか?」
言いながら、ダガーナイフを抜いた。と同時に。刃先を喉元に突きつける。
途端に、河野の顔が歪んだ。次いで、体がビクンと震えた。康介はチッと舌打ちする。次に何が起こるのか察したのだ。
その予想は当たった。またしても、河野の体が震える。その数秒後、辺りに異臭がたちこめた。この少年は脱糞したのだ──
康介は、思わず顔をしかめていた。人間が、恐怖のあまり脱糞する……これは珍しいことではない。当然の生理現象といってもいいだろう。だからといって、この匂いを許容できるかと問われればノーと答える。不快なことにかわりないのだ。
その時、ある考えが浮かんだ。予定にはない行動だが、依頼人も喜ぶだろう。少なくとも、機嫌を損ねるようなことはないはずだ。
車に戻ると、河野のスマホを手にした。直後、彼の穿いていたズボンを下ろす。悲惨な状態になった下半身があらわになり、匂いが一層強くなる。
スマホで、じっくりと河野の映像を録り始めた。接近して顔のアップを撮り、徐々に全体を映していく。もちろん、あらわになっている下半身もだ。少年は、必死でスマホから逃れようとするが、膝関節が壊されているため上手く動けない。
やがて康介は、今しがた河野のスマホで撮った動画をLINEで拡散させた。相手が、河野の友人や知人であるのは間違いない。
この動画を観れば、以前と同じような態度で河野に接する者はいないだろう。十代の少年にとって、ウンコを漏らしたという事実は……これまで築き上げてきた地位を、一瞬で地に落とすほどの威力がある。
「いいか、もう一度シマを荒らしたら、今度は容赦しねえぞ。殺して、山に埋めちまうからな」
凄んだ後、再びスマホを手にした。河野も、歩きスマホさえしていなければ、接近する不審人物に気づけたかも知れなかった。気づけたなら、対処の仕方もある。最悪、声を出して騒げばいい。そうなれば、康介とて引かざるを得なかっただろう。にもかかわらず、歩きスマホをする人間は少なくない。
そんなことを思いつつ、ある番号に電話をかけた。
「あ、お巡りさんですか? はい、事件みたいです。ここに人が倒れてます……ズボン下ろして、わけわからんこと叫びながら倒れてるんですよ。ついでに、ウンコも漏らしているみたいです。なんか、変なクスリでもやってるみたいなんですよう。怖いんで、すぐに来て下さい……いいえ、僕は単なる通りすがりの一般市民です。じゃあ、代わりますね」
スマホに向かい話した後、康介は倒れている河野の傍に通話状態のスマホを置いた。次に、口に巻かれていた猿ぐつわを外す。
その途端、河野は叫び出す。涙と鼻水を垂れ流しながら、スマホに向かい叫んでいた。
康介は、彼を無視して去って行く。
今回の仕事は、河野を痛め付けることだ。それも、ただ肉体にダメージを与えるだけではない。
車の中で、この少年には微量の覚醒剤を飲ませておいた。さらに、彼のポケットの中にも覚醒剤の入ったパケ(切手大の小さなビニール袋)五つを仕込ませてある。全部で五グラム分だ。末端価格は、十五万円から三十万円といったところだろう。高校生にとっては、安い金額ではない。
しばらくすれば、警察が来る。河野は、まず病院に運ばれるだろう。その途中、覚醒剤を所持していることが警察にバレる。
無論、あの少年は知らないと言うだろう。だが五グラムの所持となると、知らぬ存ぜぬでは済まされない。さらに、入院している間に尿検査もされる。検査の結果、覚醒剤の反応が出るのは間違いない。
さらに、警察の取り調べで河野は言うはずだ。目出し帽を被った男に「シマを荒らした」と言われたことを、震えながら語るだろう。そうなれば警察は、覚醒剤の売人同士の縄張り争いであると判断する。
結果、河野には覚醒剤の所持と使用に加え売買の容疑がかかる。今の日本では、容疑者になった段階で罪人扱いである。取り調べの結果、無罪になったとしても高校にはいられまい。なにせ、ウンコを漏らした動画が友人たちのLINEに拡散されてしまったのだ。
その上、下手をすれば覚醒剤の使用と所持と売買で有罪判決が下される。初犯ゆえ執行猶予の可能性もあるが、前科者の仲間入りは避けられない。
もっとも、判決に関しては判事の判断次第ではある。河野の両親は、都内の一等地に自宅を構える資産家だ。有能な弁護士を雇うだろう。となると、有罪判決は厳しいかもしれない。もっとも、有罪か無罪かはどうでもよかった。あの少年は、容疑者になった時点で終わりである。
依頼人が誰かは明かされていないが、考えるまでもない。かつて河野にいじめられ人生を狂わされた少年の親だろう。
昨日は、この件で若松と打ち合わせをした。河野の人生を狂わせろ、という指示を受けた康介は、最初は病院送りだけで終わらせるつもりだった。が、若松は言った……それでは面白くない、と。
そこで康介は、河野を痛め付けた後ポケットに覚醒剤のパケを突っ込み、さらに微量の覚醒剤を飲ませた上で警察に通報することを提案した。すると、若松は愉快そうに笑った。
「そりゃあいいな。先方も、喜んでくれるだろう」
康介にはわかっている。若松もまた、河野と似た部分がある。人を痛め付けることに、何のためらいもない。いや、むしろ痛め付けるのが好きなのだ。だからこそ、こんな仕事をしている。
覚醒剤の件が有罪になるか無罪になるかは、何とも言えない。結果がどうなろうと、河野の人格は変わらないだろう。あの少年を変えるには、己の犯した罪の重さを理解させた上で反省させなくてはならないのだ。このような暴力に暴力で返すようなやり方は、人格の更生には何の効果もない。むしろ、人格を歪めるだけだ。さらに悪くなる可能性の方が高い。
もっとも、河野の将来など康介の知ったことではなかった。依頼人の気が晴れ、自分の懐に金が入ってくれれば、それでいいのた。
家に帰り、明かりをつける。今日の仕事は、いつもに比べればまだ楽な方だった。
念のため、室内を見回してみる。今日は、家族が来ていない。出来ることなら、もう二度と来ないで欲しいものだ……などと考えていた時、仕事用のスマホにメッセージがきた。
誰かと思って画面を見た途端、愕然となった。送り主は、あの山田花子だったのだ。
(明日、出来るだけ早く来て欲しい。大きな荷物を運んでもらいたい。料金は、前回の倍払う)
欠片ほどの愛想もない、無機質な文章である。だが、そんなことはどうでもいい。大きな荷物が何であるかは、考えるまでもなかった。十中八九、前回に彼女の家に運びこんだ男が死んだのだ。その死体の始末をしてくれ……ということなのだろう。
康介は、スマホを見つめ考えていた。普段なら、迷うことはない。まずは「若松さんに話を通してください。こちらには連絡して来ないでください」と返信する。次に、彼に連絡して指示を仰ぐだけだ。あの男を通さない仕事は、なるべくなら受けたくない。後で、何が起きるかわからないからだ。
しかし、今回は違っていた。考えるより先に返信していたのだ。
(わかりました。明日は空いてますから、大丈夫ですよ。連絡をくれれば、すぐに行きます)
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