康介の過去・優しかった日々

「康介の奴、眠っちまったのか」


 車のハンドルを握り苦笑しているのは、二見幸平フタミ コウヘイだ。その顔には、笑みが浮かんでいる。

 既に日は沈み、空には星が輝いている時間帯だ。小学生の康介が眠ってしまうのも、仕方ないだろう。車は現在、国道を走っている。自宅には、あと二十分ほどで到着するだろう。


「ふふふ、康介だけじゃないわ。ふたりとも熟睡してる。さっきまで、あんなに騒いでいたのにね」


 後ろの座席を見ながら言ったのは、妻の沙織サオリだ。

 言葉の通り、後ろの座席には、ふたりの子供が座っていた。長女の冴子サエコと、三歳下の弟・康介だ。どちらも平和な顔で寄り添い、すやすや眠っていた。数時間前のふたりは、大はしゃぎで走り回っていたのだが、今は静かなものである。

 姉弟の隣には、ぬいぐるみや帽子や手袋などのキャラクター商品が置かれている。遊園地『ディスティニーワールド』で買ってきたものだ。


「来週から、デボンに出張か。面倒な話だよ」


 不意に、幸平がボソッと呟いた。そう、彼は来週より海外出張に行くことになっている。すぐに帰って来られるはずだが、あまり乗り気ではなかった。

 その時、沙織の表情も僅かに暗くなる。


「ねえ、本当に大丈夫なの? あの国、まだ政情が不安定だって聞いたけど。変な事件に巻き込まれたりしないかな」


 少し不安そうな顔で尋ねる妻に、夫は明るく答える。


「心配しすぎだって。確かに、まだ治安の悪い場所はあるよ。けどな、平和な日本だってガラの悪い連中はいるだろ。そういう場所に近寄らなければいい、それだけのことさ」


「でも……何か嫌な予感がするの。気をつけてよ」


「大丈夫だよ。仕事以外は、ホテルでおとなしくしてるからさ」


 そう言って、幸平は笑った。




 この二見家は、はたから見れば幸せそのものであった。都内の閑静な住宅地に建てられた一軒家に住んでおり、近所からの評判も悪いものではない。

 幸平は早稲田大学を卒業後、一流企業である松島マツシマ電器に入社し、四十歳で部長の座に着いている。エリート、といっても過言ではないだろう。学歴も役職も申し分ない。見た目の方にも気を配っており、週三回のスポーツジム通いで健康と体型の維持にも気を配るタイプだ。

 妻の沙織も、高い知性と教養と美貌の三つを兼ね備えている。上流家庭にて生まれ育ち、本人の経歴も申し分ないものだ。近所の評判もいい。

 ふたりの子供も同様である。姉弟そろって同じ私立の小学校に通っており、成績も優秀だ。ここから、中学高校大学とエスカレーター式に進学することも可能である。

 まさに、絵に描いたような理想の家族であった。少なくとも、周囲からはそう見えていた。


 家族揃ってのディスティニーランド旅行から一週間後、幸平は飛行機に搭乗していた。デボン共和国への出張のためである。

 このデボンは東ヨーロッパにある小国であり、美男美女の多い国として知られている。人件費や土地代も安く、規制も緩い。支店を出すにはもってこいだ。

 幸平は、ふたりの部下と共に一週間ほど滞在して、現地をじっくりと視察した後に帰国するはずだった。これまでにも二度、他の社員たちが現地を訪れているが、問題なく帰国している。今回もまた、何事もなく終わるはずだった。

 ところが、幸平の身に予想もつかなかった事態が起きる。彼の人生は、この出張を境に根本から変わってしまった。

 その息子である康介の人生もまた、事件をきっかけに完全に変わってしまったのだ──




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