終わることのない悪夢

板倉恭司

とある閑静な住宅地

 とある閑静な住宅地。

 周囲は静まり返っており、人通りはない。物音もほとんど聞こえない。時おり、遠くを走る車のエンジン音が聴こえてくるだけだ。

 そんな住宅地で、二見康介フタミ コウスケは電柱の陰に潜み、じっと待ち続けていた。

 時刻は、既に午後十時を過ぎている。空には月が昇り、周囲は暗闇が支配していた。街灯の明かりも、ここまでは届かない。康介は、スマホをいじっている……ふりをしながら、周囲に気を配る。


 もうすぐだ。

 もうすぐ、標的が現れるはず。


 遠くから、足音が聞こえてきた。康介は、表情を堅くする。

 やがて、ひとりの男がこちらに歩いて来た。歳は、二十代前半から後半だろうか。二十五歳の康介と、ほぼ同じくらいの年代であろう。

 ただし、風貌は真逆である。醸し出す雰囲気もまるで違う。彼はアイドルのように整った顔の持ち主であり、ホストのような派手な髪型をしている。しかも細身のすらりとした体に、ブランド品の高級スーツを着ていた。身に付けている装飾品も、高級な物ばかりだ。がっちりした筋肉質の体を運送会社の作業服で覆い、坊主頭に作業用の帽子を被っている康介とは、完全に正反対のタイプである。

 男は、こちらにまっすぐ歩いて来ている。片方の手でスマホをいじくり、目線はずっと画面に向けていた。警戒心のかけらもない表情で、康介の前を通り過ぎていった。彼の存在にすら気づいていないのかも知れない。康介は、身長こそ百七十センチ強だか、ガッチリした体格の持ち主である。ちょっと周囲に気を配れば、気付かないはずはないのだ。

 目の前を通りすぎようとしている男の態度に、康介は内心呆れていた。なんと愚かで、無用心な男なのだろうか。自身のこれまでしてきた悪行について、全く考えていないのだろう。

 この若者の名は菅田裕貴スガタ ユウキだ。これまで、端正な顔立ちとモデルのようなスタイルと口の上手さで、大勢の女を騙してきた。あくまで聞いた話ではあるが、被害者は三十人を超えるという。中には、ヤク中にされた挙げ句に、変態オヤジの集まる秘密クラブに「奴隷」として売られた女もいたらしい。まだ若いのに、かなりの悪党である。

 そんな悪行を重ねてきたにもかかわらず、菅田はスマホをいじくりながら路上を歩いている。周囲を警戒している雰囲気は、まるで感じられない。こういう悪党が、もっとも大切にしなくてはならないのは警戒心だ。はっきり言って、臆病さと紙一重なくらいの慎重さがなければ、この世界で生き延びることなど出来ない。

 もっとも、こちらとしてはターゲットが無用心であるのは願ったり叶ったりである。その警戒心のなさゆえ、菅田の命運も今日で尽きることとなった。康介は、音も立てずに背後から忍び寄っていく。がっちりした体の割に、動きはしなやかだ。全く物音を立てない。

 菅田は、そんな康介の動きに全く気づいていない。スマホをいじくりながら、なおも歩き続けている。その目線は、画面に釘付けだ。

 さらに、近づいていき、背後から首に腕を巻き付けた。


「歩きスマホは、とっても危ないぜ。次回があったら、気をつけるんだな。俺としては、ありがたかったけどよ」


 耳元で囁きかけながら、一気に腕を狭め絞め上げる──

 菅田は、ようやく自分が危機に陥ったことに気づいたらしい。スマホを落とし、逃れようとする。だが、その願いは叶わない。康介の腕は彼の気道をふさぎ、頸動脈を絞めていく。

 必死でもがき、巻き付けられた腕を外そうとする菅田だったが、全く無駄な努力であった。一度がっちりまった絞め技をほどくのは、素人には不可能であろう。

 やがて、菅田の意識は途切れた。全身の力が抜け、立っていられず崩れ落ちる。康介は落ちたスマホを拾い上げ、親しげな様子で肩に腕を回した。同時に、彼の体を支え倒れないよう力を込める。


「おいおい、どうしたんだよ? 飲みすぎたんじゃないのか? しょうがねえなあ、すぐに車に連れてくから」


 くだけた口調で語りかけながら、彼を運んでいく。無論、返事はない。既に意識がないのだから当然だ。仮に康介の行動を見ている者がいたとしても、酔っ払った友人を介抱する気のいい男、としか映らないだろう。

 このまま放っておけば、菅田が死亡する可能性もある。しかし、ここで死なせるわけにはいかなかった。生かしたまま引き渡す、というのが今回の仕事である。それゆえ、これから少しばかり面倒な作業をしなくてはならない。




 菅田の体を車の中に運び入れると、両手両足に用意していたダクトテープを巻き付けた。きっちりと縛りあげる。車を走らせ、人気ひとけのない場所で停めた。

 車を降り、後部席へと移る。菅田は、まだ気絶したままだ。


「おい、起きろ。時間だ」


 言いながら、菅田の顔をぺちぺち叩く。だが、起きる気配がない。


「さっさと起きろや。でないと、両手両足の関節外すぞ」


 物騒なことを言いつつ、先ほどより強めに叩いた。むろん、怪我をさせる気はない。顔に傷をつけるな、というのが条件のひとつなのだ。

 ややあって、菅田はピクリと反応した。目を開けて、不思議そうな様子でこちらを見る。何が起きたのか、把握できていないのだろう。


「えっと……何ここ? あんた、誰だっけ?」


 菅田が呟くように言った。絞め落とされた記憶はないらしい。

 その瞬間、康介は動く。開いた口に、一粒の錠剤を放り込んだ。

 さらに手のひらで口をふさぎ、上を向かせる。菅田は、ごくりと錠剤を飲み込んだ。その途端、顔に怯えの表情が浮かぶ。手足をばたつかせ暴れようと試みた。だが無駄だった。きつく縛り上げられている手足は、びくともしない。

 必死でもがく菅田の口に、タオルで猿ぐつわをかけた。そのまま放置し、運転席へと戻る。

 周囲を警戒しつつ、車を発進させた。


 やがて、車内は静かになる。さらに時間が経過すると、微かに寝息が聴こえてきた。やっと、先ほど飲ませた錠剤が効いてきたのだ。これで、あと数時間は目覚めないだろう。絞め落とした後に飲ませてもよかったのだが、意識がない状態で錠剤を飲むと、食道に入らず気道に入ってしまい、誤嚥性肺炎を引き起こす可能性がある。

 この男は、なるべく傷つけずに渡さなくてはならないのだ。死体に変えてしまう方が、よっぽど簡単である。

 いったん車を停めると、菅田の体を大きな絨毯でくるむ。あとは、この「品物」を依頼人に届けるだけだ。

 運転席に移ると、再び車を走らせる。これから依頼人に会い、若者を差し出す。それで、仕事は終わる。

 今回の依頼人は女だ。依頼を受けてから今まで、SNSでやり取りをしていた。直に顔を合わせるのは、今日が初めてなのだ。康介は基本的に、依頼人と直接のやり取りは避けるようにしている。相手が何者かもわからないのに、顔を合わせるのは自殺行為だ。出来ることなら、最初から最後まで直接のやり取り無しで終わらせたかった。顔を見られるのは、リスクが大きすぎる。

 もっとも、今回は対面を避けることは出来ない。何せ「品物」を手渡ししなくてはならないのだから。

 彼女が、この品物をどうするのか……それは、康介の知ったことではない。菅田のこれまでしてきたことから察するに、穏やかな話し合いをするとは思えない。飼い殺しの奴隷として飽きるまでいたぶり続けるのか、あるいはジワジワといびり殺すのか。どちらにせよ、菅田の人生はもう終わりだろう。

 どちらの道を歩むことになろうが、康介の知ったことではない。




 車は、真幌市内にあるマンションの前で停まった。ここで、依頼人と待ち合わせているのだ。時刻は、既に十二時近い。人通りはなく、周囲は静まり返っている。

 しかし、車が停まると同時に、物陰から姿を現した者がいた。康介はドアを開け、外に出る。すると、相手は声をかけてきた。


「ずいぶん早かったのね」


 依頼人の山田花子ヤマダ ハナコだった。全く感情のこもっていない声である。

 恐らくは偽名を用いているのだろうが、仮に山田花子という名前が本名だとしても、違和感のないような風貌である。不細工というわけではないが、美人というわけでもない。年齢は二十代半ばから三十代前半、髪は短めだ。身長は百六十センチあるかないか、体格はごくごく平均的な日本人女性のそれだ。グレーのパーカーにデニム姿で、康介の前に立っている。

 率直に言って、全く目立つところのない風貌である。人混みに入れば、容易に埋もれてしまう。道ですれ違ったら、一秒後には記憶から忘れているだろう。どこからどう見ても、普通の女だ。

 にもかかわらず、康介は奇妙な違和感を覚えた。


 この女、何か変だ──


 そう、この女からは……他の人間とは、明らかに違うものを感じる。康介は今まで、様々な種類の人間と接してきた。裏の世界の住人は、ほとんどの者が独特の匂いを発しているものだ。しかし、この女は全く違う何かを放っている。

 人間に化けたエイリアンが、目の前に立っている……唐突に、そんなバカな考えが頭に浮かんだ。

 そのバカな考えを気取られまいと、ペこりと頭を下げる。  


「はい、思ったより早く片付きました。どうします? お宅の中まで運びますか?」


「うん、お願いしていい?」


 逆に聞き返してきた。予想していなかった展開である。


「わかりました」


 平静な表情を作り答えたものの、内心では驚いていた。康介のような裏社会の人間を、好き好んで自宅に上げる一般人など、まずいない。特に、女性はその傾向が強いものだ。中まで運びますか、という言葉も、社交辞令としてかけたものだ。まさか、イエスという返事がくるとは思わなかった。

 となると、ここは自宅ではないのかもしれない。

 まあいい。この仕事を、さっさと終わらせよう。あとは、知ったことではない。康介は、菅田のくるまれた絨毯を担ぎ上げた。そのまま、マンションへと入っていく。

 山田の部屋は、一階にあった。さりげなく表札をチェックしてみたが、名前はどこにも書かれていない。これは予想通りであったが。

 ドアを開け、山田は中に入っていく。が、すぐに振り向いた。


「ここに置いといて。あとは、自分でやるから」


 言われた通り、菅田を床に降ろした。玄関から歩いてすぐの場所にはカーテンが設置されており、そこから先は見えなくなっている。

 もっとも、室内を詳しく知りたいとは思わなかった。康介のうちで発芽した違和感は消えていない。それどころか、ますます膨れ上がっていく。これ以上、この部屋にいたら、何かとんでもないものを見てしまいそうな気がする。

 この女が何者かは知らないが、長居は無用だ。軽く一礼し、背中を向ける。

 すると、声が聴こえてきた。


「また何かあったら、よろしくね」


 親しみを感じさせる声だった。キャバ嬢のビジネスライクな別れの挨拶とは、まるで違っていた。暖かい何かを感じさせ、こちらの感情をくすぐるものだ。先ほどの挨拶とは、真逆である。

 もっとも、その声の主はイケメンの若者を誘拐させたのである。これから、若者がどうなるのか……おそらく、地獄を見ることになるのだろう。


「はい」


 振り向かずに返事をすると、部屋から出ていった。




 その後、康介はまっすぐ家に帰る。どこかに遊びに行く気力など、残っていない。

 今日は、本当に疲れる一日だった。普段の仕事に比べると、いろいろな面で気を遣ったためだろう。

 何といっても、一番の疲労の原因は山田との接触だ。あの女からは、異質なものを感じる。あれは何なのだろう。

 今まで、様々な人間を見てきた。ヤクザが真人間に見えるような人種とも付き合ってきている。そもそも康介自体が、人間を誘拐したり、死体を処理するような稼業に就いているのだ。

 そんな康介の目から見ても、山田花子の異様さは際立つ。もっとも、どこか異様なのか言葉では説明できなかった。外見は普通だし、口調や物腰にも怪しい点はない。人混みに入ったら、あっという間に溶け込んでしまい見つけることは困難だろう。

 平均そのものの外見……であるにもかかわらず、違和感を拭うことは出来ない。その違和感を言葉にするなら、勘だろうか。これまで裏社会で生きてきた日々。その濃密な時間の中で、培われた勘が告げている。

 あの女は、危険だ。


 ようやく自宅に到着した。扉を開け、明かりをつけて奥に進んでいく。決して広くはないが、かといってひとりで生活するには狭くもない大きさだ。このアパートに引っ越してきて、かれこれ半年になる。

 クーラーのスイッチを入れると、ちゃぶ台の前に座り込む。その時、人の気配を感じた。キッチンの方を向くと、中年の男女が立っている。

 男の方は背が高く、手足も長い。百八十センチ近い康介と、ほぼ同じくらいの背丈だろう。もっとも、ガリガリに痩せていて不健康そうな顔つきである。胸板は薄く、腕も棒切れのように細い。食べこぼしのような染みが点々と付着したTシャツを着て、虚ろな表情で康介を見ている。

 女の方は、小洒落たネグリジェのようなものを着ている。男とは違い、外見には気を遣っている雰囲気だ。もっとも、虚ろな表情で康介を見つめているのは同じである。

 この異様な男女、実のところ康介の父と母だった。


「また来たのかよ」


 聞こえるように舌打ちした。こいつらは、何がしたいのだろう。言いたいことがあるなら、さっさと言えばいい。にもかかわらず、何も言おうとしない。

 不快そうな表情を向ける康介を、父と母は無言のまま見つめ返している。腹の立つ話だ。康介はもう一度、ふたりに聞こえるように大きな舌打ちをした。出来ることなら、地獄の果てまで蹴飛ばしてやりたい。

 苛ついた表情を浮かべつつ立ち上がり、冷蔵庫の中を覗く。昨日スーパーで買いこんだ安売りの惣菜が、まだ残っていたはずだ……どこかの誰かが、無断で食べていない限りは。

 冷蔵庫の中は、昨日のままだった。ビニールパックに入った唐揚げとポテトサラダとサンドイッチが残っている。台所にあったカップラーメンにお湯を入れ、ちゃぶ台に並べた。

 父と母は、相変わらず無言のまま突っ立っている。何が目的なのだろう。うっとおしくて仕方ない。


「用がないなら、さっさと失せろ」


 さすがに耐えきれなくなり、康介はふたりを睨みつける。すると、父と母は何やら言い出した。口がもごもご動いているが、声は聞こえない。

 康介は、さらなる罵声を浴びせようとしたが、面倒くさくなりめた。こんなクズ共など、相手にしていられないのだ。罵声を浴びせる代わりにテレビをつけ、カップラーメンとサンドイッチと惣菜の残りを食べ始める。

 たいして美味いわけではない。ただ、食べなくてはならないという義務感から食べている。明日もまた、やらなくてはならない仕事がある。食べて寝なければ、仕事に差し支えるのだ。

 そんな侘しい食事を、さらに不味くさせるのが両親の存在であった。父も母も、無言のまま後ろで突っ立っている。


「本当にウザい奴らだな。マジで殺すぞ」


 呟きながら、ちゃぶ台の上のものを平らげた。食事というよりは、車にガソリンを補給するのと同じ感覚である。背後にいる両親が、美味くもない食事の味をさらに低下させた。







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