第17話 1-1 狂った果実

2006年 6月

私の名前は寿円香。年齢は49歳。10年以上前に離婚して子供は居ない。再婚もしていない。職業は教師だ。この4月からみそら小学校の校長になり、20年ぶりに思い出の街、旭ヶ丘へ帰ってきた。

私にはすでに両親がいない。父は私が物心つく前に死んでしまった。母は私が29歳の時、突然、失踪して今も戻らない。きっと死んでしまったのだろう。

母は失踪した当時、この学校の校長だった。私はその頃、この街で塾の講師をしていたが、母の失踪を機に退職し、しばらくしてから学校の教師になった。

それから20年が経った今、私は母と同じ小学校の校長になった。若い頃は厳格だった母に反発して教師にだけはなるまいと思っていたのに、結局、今の私は母と同じ道を歩んでいる。

そもそも私は教師になりたく無いと思いながらも、母に押し切られるように大学で教職免許を取得した。大学卒業後は母のコネは使いたく無い一心で塾の講師になったが、塾の講師だって教師の一種だし、そこも直ぐに辞めてしまった。

塾を辞めたのにはいくつかの理由があったが、一番のきっかけは当時同じ職場にいた婚約者の死だった。

彼は私の高校時代からの憧れの人だった。出会った当時、彼は私より2つ年上の31歳で、とてもエキセントリックで理知的な人だった。彼は高校時代、バスケ部に所属していてインターハイにも出場するほどの実力者だ。私も高校生の時はバスケに熱中していたので、彼の名前はよく耳にしていた。名前は荻窪歩という。そんな彼と職場で偶然再会した時、私は強い運命を感じた。直ぐに恋に落ちた当時の私は、とにかく彼の気を引こうと必死だった。そんな時、彼が職場で大怪我をした。私もその場に居合わせたのだが、何故かその出来事の記憶は曖昧だ。覚えているのは血だらけの彼の姿と、私と同じようにその場に居合わせた3人の子供の姿。私はパニックになりながらも、彼を必死に手当てした。

その時の私はその場に居合わせた幸運に内心、感謝していた。本当に心の底から。だって想い人のピンチにたまたま立会い、その事故をきっかけにして彼との距離を一気に縮めることができたのだから。

私は毎日、彼の見舞いに病院へ通った。彼は指を切断する大怪我を追ったが、幸いにも指は無事に繋がり後遺症もほとんど残らなかった。

そして私達はつきあい始めた。厳しかった母は彼との交際に難色を示したが、私は気にしなかった。私は彼に夢中だったのだ。いつもの口うるさい母の助言など、鼻から頭に入らなかった。彼と付き合うようになってから職場に行くのが楽しくて仕方なかった。休日は彼と一日中一緒に過ごした。彼は一日に何度も私を求めてきたし、私も彼に抱かれるのが嬉しくて満ち足りた気分だった。お互いがいれば他には何もいらなかった。彼との出会いは私の人生を一段高いところへと押し上げてくれた。私と彼はすぐに結婚の約束をした。その頃が私の人生で一番幸せな時期だった。

そんなある日、母はなんの前触れもなく失踪した。その時の私には母が失踪するような理由が何一つ思い当たらなかった。

母は小学校の校長になったばかりだったし、金銭的にも裕福で一人娘の私は結婚が決まっていた。母は女手一つで私を立派に育て上げ、仕事も順調だったはずだ。本人がそれらの事をどう思っていたのか、娘の私にはよくわからなかったが、少なくとも母は社会的に成功していた。しかし母は突然、わたしの前から消えてしまった。あの律儀で責任感の強い母が全てを捨てて何処へ消えてしまうというのは、未だに私には信じられない。

さらにその1ヶ月後、クリスマスも迫ったある晩に……、今度は彼が……。荻窪歩さんが事故で死んでしまった。彼の自宅にロードローラーが突っ込んだのだ。

それは不可解な事故だった。夜中に彼が寝ていたところを、たまたま彼の自宅前に放置してあった工事車両が、突然暴走して彼をペシャンコにしてしまった。事故当時、ロードローラーは無人だった。

母の失踪に加えて、婚約者の死亡事故は私を激しく打ちのめした。しばらくの間、それは実に3年近くの間、私は仕事もせず家に閉じこもっていた。食事もろくに取らず、ただ泣いたり、ぼんやりとしていた。彼と過ごした短い日々を反芻し、彼との間にできたかもしれない子供の名前を考えた。彼の優しい指が私の体に触れ、彼にすみずみまで口づけされた感覚を何度も何度も思い返した。決して訪れる事のない彼との未来を妄想し続けた。

そんな時、私に優しく接してくれた男性がいた。その人は私が腐っていた間、辛抱強く私を慰め、たくさんの暖かい言葉をかけてくれた。私はその人に対して恋愛感情を抱いていなかったけれど、ただ寂しさを紛らわすために彼と付き合い、すぐに結婚した。そして数年で離婚した。結局、一度もその男性に対して、愛おしいという気持ちは芽生えなかった。その男に触れられる事は、私にとって苦痛でしかなかった。そのうちに側にいる事が耐えられなくなって離婚した。

結局のところ、私は母の死によって過去を失い、恋人の死により未来も失って、生きていく活力のようなものが私の中からすっぽりと抜け落ちてしまったようだった。

離婚した私は小学校の教師になった。反発していたはずの母の姿が、何故だかいつまでたっても頭から離れなかったのだ。

まだ私が子供の頃。毎朝、母が佇まいを整えて学校に向かう姿。仕事で触れ合う生徒達の話や、勉強を教える時の母の真剣な眼差しが、繰り返し私の頭に浮かんでは消えていった。恋人の死と共に過去の出来事があっという間に風化していく中、どれだけ時間が経過しても、母が教師として振る舞う仕草や記憶だけは色を失わなかった。むしろ時間が経てば経つほど、記憶の映像はより鮮明になっていった。それはまるで何かの呪いのように、ふとした時に私の頭をよぎった。何か大きな力に追い立てられて根負けするように私は小学校の教師になった。

それからは何事もない無味無臭の日々が続いた。私は何にも心を震わせる事なく、文字通り事務的に日常を過ごした。誰かを好きになる事も無く、誰かを憎む事もなく、誰にも心を許さない日々が続いた。そんな私の本心とは裏腹に、生徒や保護者。加えて同僚や上司など私の周りにいる人間からの私に対する評価は日に日に高まっていった。どんな時も冷静で公正な姿勢を崩さない私の立ち振る舞いは、単に情熱や感動を失った圧倒的な無関心さに基づいていたけれど、皮肉な事にそんな私の態度が多くの信頼を集め、私はどんどん出世していった。月日は流れ、気付けば私は母の務めていたみそら小学校の校長になっていた。

そして今、私の目の前には白い指輪がある。

それはかつて母のいた校長室の机の上にそっと置かれていた。指輪はまるで私を誘うように不思議な輝きを放っていた。その白い指輪は蛇が自分の尻尾に噛み付くように輪を作り、目は赤く彩られていた。

操られる様に私は指輪を右手の薬指にはめた。

瞬間、私の頭にあの時の情景がありありと蘇った。私が若い頃に勤めていた駅前の塾。教室には歩さんと3人の生徒。生徒の1人、川島君の目が赤く光る。そして頭に性別のわからない妖しい声が響く。

『胸ヲハダケテ、目ノ前ノ男ニ告白シロ! 』

私はうっとりとその声に従った。

歩さんは呆然と私の胸を見て、それから私の顔を見た。すると、もう1人の生徒、仁木君が右手を歩さんにかざす。歩さんの周りの空気が震えた。横にいた福原さんはまるで指揮でもするように指で空中に何かを描いた。すると何処からとも無く現れたハサミが宙を舞う。そして歩さんの指が切断された……。

一体、この映像は何なのだろう!?

私には理解できない。私は何故、胸をはだけて歩さんに愛の告白をしたのか。3人の生徒達の不可解な行動は何を意味するのだろう? 子供達の目は怪しい光を灯していた。そしてなにより! 私は何故、この記憶を今の今まで忘れていたのだろう?

しかしこれは現実に起きた事だ。それだけは確信があった。私の頭に蘇ったこの光景は充分に非現実的だったが、私はそこに確かな手触りを感じた。これは実際に私の身に起こった出来事だ。

そして蘇った記憶の中、歩さんと3人の子供達の指には怪しげな銀の指輪が光っていた。

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