第11話 5-1 ファイターズ ヒストリー

「とにかくお前たちはこれからしばらくの間、絶対に指輪の魔法を使うな」

祐一は強い口調でささと詩織に言った。祐一の髪型はすっかり整えられて、いつもの七三分けに戻っていた。

「特に詩織。お前はしばらくは家にいるんだ。お前には休養が必要だ。何かあれば俺達に知らせろ。連絡はガチョピンに頼めばいい」

「でも……」と詩織は言いかけたが、強い口調とは裏腹に祐一の顔は泣きそうだった。

「……わかった、そうする。あっ、でも……、髪を切りたい……。あと、……サイズの合う服もほしい」

詩織は乱れた長い髪を両手で撫でつけながら言った。そしてひどく短くなってしまったニットワンピの裾をまた引っ張った。詩織の半分以上露わになった太ももを見て、祐一がため息をついた。それは本当に困っているため息だった。

「わかった。それくらい俺達がなんとかするから、お前はおとなしく家で休め」

(「いつもならこんな格好をしていたらエッチな目で見るのにな……」)と詩織は思う。祐一の反応が致命的な事態を如実に物語っていた。

そんか空気が嫌で詩織は口を開く。

「花火は……」

「今はそんな状況じゃないだろう! 」

ピシャリと祐一に怒鳴られて、詩織はうつむいてしまう。

一瞬、祐一は「しまった」という顔をしたけれど、すぐに視線をささに移して言った。

「ささ、お前は明日から俺と指輪探しだ。まずはみそら小周辺からはじめて捜索範囲を徐々に広げていこう」

「……うん。でもさ、今日、詩織が戦ったアリスさんはここ、幕張にいたじゃん。もしかしたらもう僕らの街にはリングホルダーはいないのかもよ 」

「いや、佐伯アリスの家は俺たちの住む街、旭ヶ丘にあるんだ。さっき生徒手帳と電車の定期券を確認した。理由は分からないけれど、今のところ、この指輪は俺たちの街でしか見つかっていない。荻窪先生の家も旭ヶ丘五丁目のマンションだしな。つまり今わかっている5つの指輪は全て旭ヶ丘の中に現れている。残り3つの指輪を探すなら俺たちの住む街、旭ヶ丘をしらみつぶしにするのが一番確率が高いんだ」

「そっか……、わかった」

ささはうなづいた。それからふと、自分の膨らんだ胸を触り、また俯いた。

詩織は黙ってうつむいたままだったけれど、唇が小刻みに震えていた。

2人の様子に居たたまれなくなった祐一は付け足すみたいに言った。

「これが終わったら……、3人で花火をやろう」

「そうだね」と弱々しくささが笑った。

「……うん、必ず」と詩織が顔を上げて言った。

……。

……。

翌日から祐一とささは学校をサボり、街中を歩き回ってリングホルダーを探した。

流石にみそら小学校の内部にはもう指輪所有者はいないと当たりをつけた2人は、学校周辺の住宅を中心にしらみ潰しで次の指輪を探す事にした。

どの位の距離まで近づけば指輪同士が認識し合うのか、ささや祐一にはそのさじ加減が分からなかった。そこでとりあえずは塾の教室で荻窪歩と出会い涙を流した時の距離、半径約10メートルを指輪認識範囲と決めて検索を始めた。

この街は都心から電車で1時間ほどの豊かな自然と新築一戸建てが立ち並ぶベッドタウンだ。

ささ達が住む旭ヶ丘地区は広大な高台を慣らした街で特に人口が多く、みそら小学校周辺だけでもマンションを含めて5000人以上の人間が住んでいた。2人が朝から晩まで一日中歩き回っても街の10分の1程度も確認できなかった。

1日目も2日目も新たなリングホルダーは見つけられなかった。

2人はただひたすらに街中を歩き回って、反応がなければ次の場所に移動するという事を繰り返した。

けれど反応といっても、リングホルダー同士が近づいた時に涙が流れて指輪の声も聞こえるだけだ。出会わなければ何も起こらない。

そこには手応えというものが無いので、2人は日に日に焦りを募らせていった。

時間が無いのに……。自分達はとんでもない勘違いをして、無駄な事をしているのではないか?

指輪捜索をはじめて数日が過ぎたある時、歩き疲れたささがため息混じりに口を開いた。

「この指輪にもさ、マンガに出てくるドラゴンボールのレーダーみたいなのがあればいいのにね……。世界にあと3つしかない指輪なんてさ、闇雲に探したって見つかりっこないよ……」

ささと祐一は2人が初めて戦ったあの空き地で休憩していた。向かいの家の庭に繋がれているハスキー犬は、ささを見つけて千切れんばかりに尻尾を振っていた。

「指輪レーダーか。あったらいいよな。よく考えたら、ドラゴンボールってマンガはあのレーダーがなければ何も始まらないものな。それに7つの玉を集めたらどんな願いも叶うってところがこの指輪に似ているし」

祐一は駄菓子屋で買ったドクターペッパーを飲みながら少し笑って言った。

祐一の笑顔を見たのは久しぶりだった。

「ねぇ、もしかしたらさ……。8個ある指輪の中には他の指輪を探せるドラゴンレーダーみたいな魔法があるかも知れないね」

そう言ったささは、半分食べたUFOチョコの残りをハスキー犬のいる庭に放った。

チョコはその名の通り、フリスビーみたいにきれいに空中を滑り、ポトリと犬の前に落ちた。犬は嬉しそうにチョコにかぶりついた。

「ああ、それは確かにありそうな話だな。8人のリングホルダーが偶然出会っていくより、誰か1人が他の指輪を探して回る方が効率いいもんな。でも他の指輪を探せる魔法なんてつまらない能力だよな」

「ははっ……。確かにその魔法はハズレだね」とささが笑った。

祐一は自分の右手中指にある銀の指輪に目を落とした。

「なぁ、ささ。たまにさ……。魔法を使ってるわけでもないのに、ひとりでに指輪が熱を持つことがあるんだ。まるで生きてるみたいに……。もしかしたらさ、それは近くに別の指輪があるってサインなのかも知れないと思ったんだけれど……」

「あっ……、それなんだけどさ……。最近、ぼくの指輪……、ずっと暖かいままなんだ」

ささはあっという間にUFOチョコを食べ終え物欲しそうにこちらを見ている犬に「もう無いよ」という視線を送って手を振った。

「えっ……? 」

驚いた祐一はささの指輪に触れた。祐一の指先に人肌のようなジンワリとした温かみが伝わってきた。

その時、2人の指輪が何かの合図みたいに「トクン、トクン 」と小さく鼓動した。

ささの指輪に触れたまま、祐一は深刻な表情でメガネに指を添える。

(「分からない事が多すぎる……」)

そんな祐一の様子に、ささは悲しそうに笑って首を振った。

ささの何気ない仕草に祐一はハッとする。

ささの顔は美しかった。以前から女の子のような顔だったけれど、異性化の呪いを受けたささは祐一が目を見張るほど愛らしい顔立ちに変わっていた。ささはこのまま数年も経てば、周りの男達が放ってはおかない美しい女になるだろう。まるで指輪の魔法のように見るもの全てを魅了する女に……。

(「でもささは男なんだ! 中学生になり、高校生になり……、そして大人になる頃にはきっと自分の体と折り合いがつかなくなる。普通に生活していく事ができなくなる……。詩織に至っては普通の生活どころか、命を削られている……。このまま魔法を使い続ければ寿命が尽きて死んでしまう。なんでだ! 一体どうしてこんな事になったんだ。どうして俺たちがこんな目にあわなきゃいけないんだ! この指輪さえなければ……。こんなものに出会わなければ俺とささと詩織は今も楽しく笑って仲良くつるんでいたはずだなのに……。ほんの少し前まではあんなに楽しかったのに……。指輪が俺達を壊していく。全てはこの指輪のせいで……。……いや、違う。もし指輪を見つけていなければ俺はささや詩織と親しく話す事は無かっただろう……。指輪があったから俺達には絆が生まれた。この指輪は俺にかけがえのないものをくれた。でも……。2人の友達ができた代わりに俺達は厄介な呪いを受けてしまった。大きすぎる代償……。特にささと詩織の呪いは致命的すぎる……。俺の呪いなんて2人に比べたら屁みたいなものだ。とにかく俺がなんとかしなきゃ……。今、ささと詩織を救えるのは俺だけだ……。俺がやらなきゃ……。なんとかしなきゃ……」)

祐一は苦い顔でため息をつく。今のささにかけられる言葉なんてなかった。何を言っても、そんなもの気休めにもならない。ささや詩織の苦しみを取り除くには……、事態を解決するには、全ての指輪を集めて願うしかない。

祐一はささから視線を外して地面を睨んだ。

そんな祐一の頬をささの視線が刺していた。

「その指輪の熱……、呪いのせいかもな」

それっきり祐一は俯いて黙ってしまった。

ささは祐一がまだ何か言いたそうな気配だったので少しの間、待っていたけれど、結局、祐一は顔を上げなかった。

(「最近、祐一はぼくの顔をあまり見なくなった。なんだか避けられている気がする……。こんな体になったぼくが気持ち悪いのかな……。嫌だな……、こんな体……。でも詩織はもっとつらい筈だ。詩織のライフは使えば使うほどに年を取ってしまう。今、詩織がリングホルダーに襲われたら、もしかしたら魔法の使い過ぎで死んでしまうかも知れない……。とにかく先に詩織を助けなきゃ……」)

ささはしばらくの間、手に持ったドクターペッパーを秋の陽光に晒して、ぼんやりと眺めていた。今日は10月にしては汗ばむくらいに日差しが強い。ポトルの中の黒い液体は、パチパチと炭酸が弾けてキラキラ光っていた。

しばらくしてから、ささは祐一の手に握られたドクターペッパーのボトルに「コンッ! 」と自分のボトルをぶつけて乾杯の仕草をした。

祐一が少しだけささの顔を見た。それから眉間にシワをよせてうなづくと立ち上がった。

「指輪を集めよう……」

そう言った祐一は自分の拳を強く握った。

(「必ず俺が助けてやる……」)

…….。

そうして、ささと祐一がリングホルダー探しを始めて1週間が過ぎたけれど、指輪は一向に見つからなかった。

ささと祐一は毎日、朝と夕方に詩織の様子を見に行った。詩織の欠席については、インフルエンザで休む旨の連絡を詩織の母親から入れさせていたので、とりあえず大ごとにはなっていない。ただ詩織の口数は日に日に減っていった。

次の週の頭に2人は学校に呼び出された。

小学生が1週間も両親にも言わずに学校をサボれば当然問題になる。担任の教師に親を呼び出されたささと祐一は、無断欠席の理由を厳しく問いただされた。

ささは2人の両親と担任の教師にチャームをかけようとしたけれど、祐一がそれを止めた。祐一はこれ以上、ささに魔法を使って欲しくなかった。

仕方なく2人は適当に嘘をついた。もちろん担任と両親は納得しなかった。

ささと祐一はこれまで成績もよく特に問題も起こしていない優等生だったので、突然の無断欠席と判然としない欠席理由。そして訳を言わない2人の頑な態度が、教師と両親を驚かせ混乱させた。

厳しく問い詰められた2人は、それでも口を割らなかった。

結局、2人は明日からは学校を休まないと約束して反省文を書く事になった。ささと祐一はそのまま教室に残り黙々と反省文を書いた。

しかし2人は全く反省などしていなかった。指輪の呪いに比べたら学校をサボる事などささと祐一にとっては小さな問題だった。2人の頭にあるのは指輪の事だけだった。彼らは早く指輪を集めて詩織とささの呪いを解く事しか考えていない。明日もささと祐一は学校に来るつもりはなかった。大人達がなんと言おうと指輪の呪いを解かなければ先には進めない。担任教師や両親の言葉は2人には全く響かなかった。それはどこか遠くで鳴っているパトカーや救急車のサイレンみたいに虚だった。

2人の心の変化は、眼に映る景色さえ変えていた。

1週間ぶりに訪れたみそら小学校は、ささと祐一にはまるで別の世界みたいによそよそしく感じられた。そこは月面の風景のようにがらんとしていて空虚だった。壁に貼られたクラス委員の役割表や、学級新聞に書かれた出来事は子供っぽくて、今の自分達とは遠く離れた昔の出来事に感じられた。見慣れた黒板や机はたった1週間空いただけでやけに小さくなっていて、ひどくみすぼらしく見えた。なんだか校内の空気までもが薄い気がした。

ささは憂鬱な気分でため息をついた。それから作文の手を止めてボンヤリと左手中指に光る銀の指輪を見つめた。

そんなささの様子を見た祐一が口を開く。

「不思議な指輪だよな。俺も最近、よく指輪を見てしまうんだ。そうすると不安が消える。詩織がああなってから特に……。気がついたら何時間も過ぎている事もある」

「うん、ぼくも同じだよ。……ねえ、祐一。もしかしたらぼくらはさ。とっくにこの指輪に魂を食べられてしまったのかも知れないね。僕らはもう人間ではなくなっているのに、周りも僕らもそれに気が付いていないだけなのかも知れない……」

「ああ、その感覚はよくわかるよ……。久しぶりに学校に来てみて身に染みた。俺達はもうあの頃の自分じゃない。ここはもう俺たちの居場所じゃない。いつの間にか何かが変わってしまったんだ」

「うん、そうだね。でも……、とにかく僕らは……」

「ああ、指輪からは逃れられない。でも、ささ……。もしも全ての指輪を集めたら……」

祐一の言葉を遮ってささが言った。

「よそうよ、祐一。どっちにしても今やらなければいけない事に変わりはないじゃん。それにここでその話をするのは危険だしさ」

「……そうだな」

そう言って祐一はささの横顔をちらりと見た。ささは今にも泣き出しそうで、それでいて強い意志を宿した顔をしていた。その顔は驚く程に美しいけれど、ちょっと手を触れたら壊れてしまいそうな危うさがあった。

ほんの少し前まではささと詩織と3人で笑い合っていたのに……。

祐一にはそれがひどく遠い昔のように感じられた。

祐一にとって、ささと詩織は人生で初めてできた友達だった。彼はそれを絶対に失いたくなかった。誰にも心を許さず、独りぼっちだった自分には戻りたくない。……いや、どうでも良い事で笑いあえる気楽さや、誰かが真剣に自分の事を思ってくれる暖かさを知ってしまった今……、孤独だったあの頃に戻るなんてとても耐えらない……。

祐一は今までの自分の人生を振り返ってウンザリした気持ちになった。

祐一の両親は小さな頃に離婚していた。母に引き取られた祐一は、本当の父親についてはほとんど何も覚えていない。

さっきまで担任の教師と一緒に祐一を問い詰めていた父親は母の再婚相手だった。新しい父親から暴力をふるわれたり、冷たくされた訳では無かったけれど、父親とは距離があった。弟が生まれてからは特に。父も母も自分の事が邪魔なのではないだろうか。父と母と弟が3人で楽しそうに話している姿を見るたびに、祐一はここにいてはいけないんじゃないかと思うようになった。俺の居場所はここじゃないと感じていた。だからこそ、ささと詩織が大切だった。初めて自分で掴んだ大切なモノ……、かけがえのない友達……。

しばらくしてから、祐一は髪を撫でつけながら独り言のように呟いた。

「この指輪はロクなものじゃないけれど……。それでも俺は指輪を見つけて良かったと思ってる」

「……どうして? 」

ささは反省文を書きながら顔を上げずに質問した。

「この指輪のおかげで俺はお前達と友達になれたから」

祐一の視線がささの頬に刺さる。ささは顔を上げて祐一を見た。

そこにあった祐一の真剣な眼差しにささの心が震えた。

「うん、ぼくもだ。指輪を見つけてよかった。いや、ぼくはこんな体になっちゃったけどさ……。それでも、やっぱり、祐一と詩織に出会えてよかった。友達になれてよかった」

「ああ。だから指輪を集めてお前達の呪いを解こう」

ささは悲しげに目を細めた。最近、ささはよくこの表情をする。

しばらくの間、作文用紙に目を落としていたささが、小さな声でささやくように言った。

「……そしたらさ。もしみんな上手く行ったらさ……。またあのコンビニ前でパーティーだね。それから今度こそ、夜の学校で花火をやろう」

「おう、今度はお前達の奢りだからな」

「……うん」と言ってささは再び机に目を落とした。

「必ず……」と祐一が小さな声で呟いた。

それから2人は黙って反省文を書いた。

「……」

「……」

……。

1時間程で反省文を書き終えた2人は言葉少なに校長室へと向かった。担任の先生より反省文は校長先生に直接提出するようにと言われていた。

教室を出て職員室へ向かう廊下を歩く間も、ささと祐一は口をつぐんでいた。

校内で気安く指輪の話をする訳にはいかない。どこで自分達の秘密が漏れるのか分かったものではなかったし、かと言って今の2人には指輪の事以外、話す話題は思い当たらなかった。

学校の薄緑の廊下は蛍光灯の淡い光に照らされて冷たく光っていた。

窓の外は真っ暗で、照明に照らされた校庭だけがぼんやりと浮き上がっている。校庭を照らす白い照明は、所々切れかけてチカチカと明滅していた。

先の見えない閉塞感が2人を重く包んでいた。

校舎の隅には新しい遊具建設のために黄色いロードローラーなどの重機が数台停まっていた。ささと祐一が学校を休んでいる間も、世界は変わらずに動いていた。

2人が職員室に入ると、そこには誰もいなかった。本当に人っ子ひとりいない。

担任の先生がいると思っていたささと祐一は顔を見合わせた。そう言えば校内には不自然なくらい人の気配がない……。夜の学校だから人がいないのは当たり前なのだけれど、職員室にすら誰も居ないと言うのは変な感じがした。

「まあいいや。とにかく早くオバ校に反省文を提出して帰ろうよ」

「ああ、そうだな。……それにしてもなんでわざわざ校長先生に直接提出しなければいけないんだろう。実は俺……、オバ校苦手なんだよ」

「ぼくも」

2人は神妙な顔つきで職員室を横切ると、奥にある校長室の扉を開けた。

部屋に入ると校長の寿美代子が落ち着いた声で2人に問いかけた。

「反省文は書き終わりましたか? 」

「はい」

祐一が乾いた声で答えた。

寿校長は2人に背を向けて校長室の窓から外を見ていた。

彼女は小柄で痩せており、身長は150cmにも満たない。顔には深いシワがいくつも刻まれて、頭髪は全て真っ白になっていた。紺色のジャケットにパンツスタイル。服にはシワ一つなく、寿校長の几帳面な性格が伺える。目鼻立ちはハッキリしている。若い頃は美人だったようだけれど、今はすっかりおばあちゃんの風貌だ。年齢は60歳より下には見えない。だからあだ名は『おばあちゃん校長』で『オバ校』だった。しかし『オバ校』は老け込んだ見た目に反して背筋はピンと伸び、その動作はキビキビとしていた。そして潔癖症のせいか、いつもベージュの手袋をはめていた。よく通る声と落ち着いた話ぶりは教師としての長い経験を感じさせる。女性の校長は珍しく、メディアの取材を受けることも多い。祐一の父の話によれば、近々、市議会議員に立候補するらしいが、2人にとって小学校の校長の出世話など、全くどうでもよかった。

寿校長は長い間、2人に背を向けて窓から真っ暗な校庭を眺めていた。校長室の大きくて立派なテーブルに置かれた反省文も手に取らなかった。

随分長い間、無言の時間が過ぎていった。

「……」

「……」

「……」

祐一とささは段々と不安になってきた。寿校長と面と向かって話をするのはこれが初めてだったけれど、それでも……、なんだか寿校長がいつもと様子が違うように感じられた。よく見ると彼女は窓の外を眺めているのではなく、何やら手元の小さな手帳に目を落としているようだ。

一体、何を……?

実に5分以上の時間が経過し、寿校長はやっと手帳をジャケットの内ポケットにしまった。それからゆっくりと振り返った。

「それで、指輪はいくつ集まりましたか? 」

「えっ!? 」

寿校長はいつも全校生徒の前で話す時のようにとても穏やかな口調で言ったので、ささと祐一は一瞬、言葉の意味を理解できなかった。

「貴方達がオロチの指輪を集めている事は知っています。そしてすでにいくつかの指輪を持っていることも承知しています。もしその中にキョゼツノユビワがあるのなら、私に譲って下さい」

「キョゼツの指輪? 」と思わずささが聞き返した。

「赤い目のヘビを模した白い指輪です。私は長い間。本当に長い間、その指輪を探しています」

そう言うと寿校長は手にはめていたベージュの手袋を外した。

「!! 」

寿校長の左手には親指以外の全ての指が無かった。他の指は根元から切断されており、断面は真っ黒だった。

驚いて目を見開いた2人に寿校長は穏やかな声で言った。

「指輪はその指に宿ります。そして覚醒状態で指輪をはめていた指を切られると傷口はこうなります。不思議な事に血はでません」

「校長先生! 一体あんたは!? 」

祐一が声を荒げたが、寿校長は構わずに話を続けた。

「この左手の指は前回の指輪戦争で4つの指輪と共に失いました」

寿校長はそう言って今度は右手の手袋を口でくわえて外した。寿校長の動作は、一つ一つが動画のコマ送りのようにゆっくりかと思えば、突然、倍速再生をしたようにキビキビとした動きに変わり、そこには居心地の悪い不気味な違和感かあった。

露わになった寿校長の右手の指は一本も失われておらず、その薬指にはヘビを模した銀の指輪が輝いている。

「バカな!? オバ校がリングホルダー? 」と祐一が思わず叫んだ。

「おかしいよ! 涙も出ないし、指輪の声だって聞こえなかったのに! 」

寿校長は静かに首を振る。

「いいえ、確かに私達はあの時に出会いました。そして涙を流し、あの忌まわし声を一緒に聞きましたよ。この学校の中で」

祐一はメガネに指を添えて一瞬考えた後、ハッと気付いて叫んだ。

「ささ! 俺たちが出会ったあの時だ!下駄箱はこの校長室の真下にある! 」

そう、ささが指輪を見つけ、祐一と戦ったあの日、あの場所には、もう1人の指輪所有者がいたのだった。

「私にはあの時点では誰が指輪を持っているのかわかりませんでしたが、校門を走り去る川島君の後ろ姿。そして後を追う仁木君が見えました。後日、川島君と仁木君が指輪をつけていることを確認し、あなた達とこうして直接話せる機会をずっと伺っていたのです。私はあなた達が指輪に出会うよりも、遙かに前からこの指輪を集めています。今から30年前、私は5つまで指輪を集めました。しかし私は失敗した。結局、大切なものをあらかた失ってしまいました。その時の私には慢心がありました。自分の指輪の魔法に絶対の自信がありました。だから致命的な失敗を犯してしまった。しかし今回は違います。指輪戦争になる前に。指輪達が覚醒する前に今、ここで私自身のケリをつけます。川島君。仁木君。今のあなた達ならば簡単に始末できますが、願わくば抵抗はせず、私の……」

話の途中で祐一は右手をかざした。祐一の右手を包む空気がグニャリと歪んでバインドが発動した。しかし何故か祐一は目の前に居たはずの寿校長の姿を見失ってしまう。

「消えた!? 」

「あなた方の力では私には勝てません」

ふいに祐一の背後から声がした。いつの間にか寿校長は祐一の背後に回り込んでいた。ささは辛うじて寿校長の動きを目の端に捉えた。

「祐一! オバ校はすごい早さで動いてるよ! 」

「瞬間移……!? 」

祐一の言葉を遮り、寿美代子は容赦なく祐一の背中を思いっきり蹴り倒した。

「ウガッ! 」

祐一は悲鳴を上げて校長室の大きな机に倒れこんだ。寿美代子は流れるような動作で祐一の手を背後からねじり上げる。

「グゥッ! な、なんなんだ!? この動き!? 」

普段の温厚な老女とは程遠い寿校長の動きに祐一は驚愕した。

ささは急いで寿美代子の前に回り込むと、魔法を発動させるためにその目を覗きこんだ。しかし寿美代子はサングラスをかけていた。

「えっ!? いつのまに……」

ささには寿校長がサングラスを身につける動作が全く認識できなかった。

(「いや……、サングラスは確かに机の上にあった、校長室の机の上にサングラスがあるのは不自然だったので印象に残っている。だけどいつ、そのサングラスを手に取って掛けたのだろう? 目の前でそんな動作を見逃すはずがない! だとしたら……、指輪の魔法を使ったとしか考えられない……。オバ校の魔法は一体何!? 」)

寿美代子は落ちついた口調で話を続けた。

「貴方達の魔法『拘束』と『魅了』についてはよく知っています。そして今のあなた達がどのレベルまで魔法を使いこなせるのかもわかっていますよ。私は指輪戦争の経験者ですからね。あえて教えますが、8個全ての指輪は未だ覚醒していません。だからあなた達2人は指輪戦争ではあり得ない戦略。つまり複数の人間が協力して指輪を集めるという禁じ手で指輪を集めている。しかしいくら複数の魔法があっても、予めその効果や使用条件を知っている私にはほとんど無意味です。私の魔法はこの段階でも、仁木君が手をかざすより早く動くことができます。さらに川島君。あなたの魔法は対象の目を通して相手を操る能力です。目と目の間に遮蔽物、つまりガラス越しや、メガネやサングラスをかけている相手に魅了は無力です」

淡々とした口調て寿美代子は言った。そしてサングラスを左手に残った親指で軽く押し上げてみせた。

祐一とささの頭に寿美代子の言葉がこだまする。

(「指輪の覚醒……、この段階……? 」)

話についていけない祐一とささを無視して寿校長は話し続けた。

「それに川島君。どうやらあなたはかなり魔法を使ってしまったようですね。あなたは既に取り返しがつかないところまで、指輪に侵食されています。指を切断したとしても、もう戻れないでしょう」

校長の言葉にささは唇を噛んだ。

それから寿校長は右手一本で拘束している祐一に視線を戻した。祐一を締め上げる寿美代子の力は尋常ではなかった。

「ゲゲェェ! 」

祐一の口からうめき声が漏れる。苦痛で祐一の口からはヨダレが垂れていた。

それでも祐一はなんとか空いている反対の手を寿美代子に向けようとした。見越したように美代子は容赦なく祐一の手のひらを足で踏み潰した。

「ギャッ! 」

祐一が悲鳴を上げた。

「……クソ! 年寄りだと……、思って……、油断した」と祐一が絞り出すように悪態をついたが、寿校長はわずかに口の端を曲げて言った。

「私はこう見えても45歳ですよ。あなた方の親御さんと大差ありません」

(「えっ……、45歳? その見た目で!? 」)

祐一は驚いて寿校長を見た。そしてすぐにライフの指輪の呪いを思い浮かべた。

(「詩織と同じタイプの呪いか!? 」)

それを見透かすように寿校長は言った。

「この容姿は指輪の呪いに依るものではありません。そういった呪いを持つ指輪は確かにありますが、私の老いは呪いではなく、他の人間より遥かに密度の濃い時間を過ごしてきたせいです」

(「密度の濃い時間? 45歳の女を老婆にするほどの何か? ……指輪の覚醒、オバ校の老化、瞬間移動….…、ダメだ! まるでわからない! いや、今は祐一を助けなきゃ……」)

ささは寿校長の言葉の意味を必死に考えるが焦るばかりで頭は空回りした。

ささの表情を見て祐一が言った。

「さ……さ……、い、今は……、余計な……、事を考え……てる、暇はない。こ、校長の、……魔法、……ヤバい! ……い、今は逃げろ! 」

「逃げられない」

寿校長はどこからともなく果物ナイフを取り出し、躊躇なく祐一の右掌を突き刺した。果物ナイフはまるで釘を打ちつけたように祐一の右手を机に固定した。

「ギャャァァ!!! 」

祐一は悲鳴を上げた。

「祐一ぃぃぃ!! 」

ささが悲痛な声で叫び寿校長を睨んだ。

すると、寿校長の手にいつの間にか新しいナイフが握られていた。校長はチラリとささに視線を送ってから、容赦なく祐一の左掌にナイフを振り下ろした。

「ギャャャャァァァ!!! 」

今度は左手を机に釘付けされた祐一の悲鳴が響く。祐一は両手を机に固定されてしまった。先に挿したナイフの傷口からは血が溢れて机を真っ赤に染めた。

「やめて!! 」

たまらずささが叫ぶ。

「では指輪を渡しなさい」

寿校長はささを見つめて静かに言った。

「わかった! わかりました! 僕たちが持っている指輪は、全部渡します!」

ささは涙声で叫ぶように答えた。

「それでよろしい。ではまず指にはめていないものを全て出しなさい」

「僕達の持っている指輪は、今はめている1個づつだけです」

そう言ってささは自分の左手の指輪を見せた。

「嘘をおっしゃい! 」

突然、激昂した寿校長は祐一に突き刺したナイフを上下左右に揺すぶった。

「ぐうぁぁぁぁぁぁ!! 」

祐一が堪らず悲鳴を上げた。

「本当なんです!! 」

ささは涙目で叫んだ。

寿校長は不審な表情を浮かべてしばらくささを睨んでいたが、ふと思いついたようにジャケットのポケットから手帳を取り出した。

しばらくの間、校長は手帳に目を落としてから口を開いた。

「嘘はいけませんよ。娘から話は聞いています。あなた達はあの下らない男……、荻窪歩の指を切断して『読心』の指輪を奪ったはずです」

寿校長はそう言って手帳をジャケットの内ポケットへしまった。

(「そうか、円香先生から荻窪歩が指を切った事を聞いていたんだ。だから僕らが既に複数の指輪を持っていると分かったのか」)

「指輪は誰かが身につけるか、或いは別の指輪のそばにいないと、煙のように消えてしまいます。そういうルールです。だからあなた達は集めた指輪を全てこの場に持ってきているはずです。集めた指輪は全部でいくつですか? そしてその中に拒絶の指輪はありますか? 白い指輪です。私にはその指輪が必要なのです。私は取り戻さなければならない。その為には手段を選びません。川島君。次にあなたが嘘をついたら仁木君を殺します」

そう言った寿校長の手には新たなナイフが握られていた。

(「また! 寿校長は一体どこからナイフを出している? ドラえもんのポケットのように好きな道具を自由に取り出せる力? いや、もしそうだとしても取り出す瞬間は見えるはずだ。でも気がついた時にはすでにナイフを手に持っている……、わからない! 一体どんな魔法を使っているんだ? 僕の答えに祐一の命がかかっているのに! 」)

「校長先生はなぜ指輪が必要なんですか? 」

ささは少しでも時間を稼ぐために寿校長へ質問した。

「それを教えれば、諦めて指輪を渡しますか? 」

ささは苦い顔をして頷いた。

「ささ! 」と祐一が叫ぶがささはそれを制して言った。

「祐一、僕1人でも校長先生からはきっと逃げられない。このままでは2人とも殺される! もう……、僕らが助かるためには指輪を渡すしかない。でもせめて指輪を渡す理由くらいは知りたいんだ」

「ささ……」

祐一が痛みと出血で紫色になった唇を噛む。

寿校長は静かにうなづいてる口を開いた。

「いいでしょう。私が取り戻したいものは……、記憶です」

「記憶? 」

ポカンとした顔でささが聞き返した。

「そう、記憶です。私は魔法を使うと記憶を失ってしまうのです。そういう呪いなのです。何についての記憶を失うかはわかりません。あなた方も承知しているかも知れませんが、この指輪は魔法を使った時間や効果に比例して呪いが発動します。大きな力を使えば、より多くの呪いを受ける。そして私の呪いは、私からどの記憶を奪うのかわかりません。だから私はこうして自分に起きた全ての事を記録しています。そうすれば呪いがいつ発動しても、私は私の記録を失わない」

そこまで話した寿校長は、唐突に手帳を取り出すとそこに何か書き込んだ。おそらく今、ここで起こっている事を記録しているのだろう。物凄いスピードでペンが動いていた。とても人間業とは思えない……。

記入を終えると寿校長は話を続けた。

「しかし全ての出来事を記録できるわけではありません。それに記録と記憶は似ているようで全くの別物です。その違いは人が生きていく上で致命的なのです。私が失ったのは……、私が取り戻したいのは……、夫についての記憶。どこで出会い、どんな人で、私と夫はどのような暮らしをしたのか。今の私には何もわからない。私には娘がいますが、その娘の父親の事がどうしても思い出せないのです」

そう言った寿校長は、しばらくの間、俯いていた。

ささには愛した夫の記憶を失う事がどういった気持ちになるのかわからなかったが、きっとそれは辛い事なのだろうと思った。

すると祐一が叫んだ。

「ささ! 呪いが発動しているんだ! オバ校は今、動けない! 」

一瞬、ささは事態が飲み込めず呆然としたが、弾かれたように棒立ちの寿校長の横をすり抜けると祐一に駆け寄った。

「痛いだろうけど我慢して! 」

ささはそう言って祐一の手に突き刺さっているナイフを抜いた。

「ぐぁぁぁぁ! 」

祐一が悲鳴を上げたが、ささはためらわずにもう一方のナイフを引き抜くと、急いで祐一の両手をハンカチでぐるぐる巻きにした。

(「大丈夫なはずだ。指輪の回復力で傷は自然に塞がるはず」)

ささが祐一の傷に応急処置をするのと、寿美代子の呪いが終わるのは、ほぼ同時だった。

我に帰った寿校長は、あわてて手帳を取り出し、何か訳の分からないことを呟きながら、必死にページをめくっていた。それから祐一とささをしばらく睨んだのち、ため息をついて言った。

「……いつもそうなのです。肝心な時に限って指輪の呪いは発動する。そして一番失いたくない記憶を私から奪う。私には娘がいるようですね。今の一瞬で私は娘に関する記憶を失いました。娘の円香は29歳のようですから、30年近くも一緒に過ごしたはずですが……、今の私には娘の記憶が一切ありません。自分が子供を産んだとはにわかに信じられません……。あぁ、なんて馬鹿馬鹿しい……、なんて無意味な人生なのでしょう! こうして記憶を失う度に、私は自分がどんどん空っぽになっていくような感覚に陥ります。バケツの水を砂場に巻くように指輪の魔法を使い、その代償として大切な記憶を失う。そうして私は私自身を失って空っぽになっていく……。私はこれでも人並み以上に努力をして今の立場を得ました。それは控えめに言っても並大抵の事ではなかった……。しかしどんなに努力を重ねても……。どんなに緻密な計画を立てていても……。どんなに細心の注意を払っていても……。最後にものをいうのは運の力。人は所詮、運命の奴隷なのです。あぁ、……全てが虚しい」

そこまでいうと寿校長は深いため息をついた。

「ささぁぁっ!! 」

祐一が不穏な空気を察して叫んだ時、寿校長はすでにささの目の前でナイフを振りかぶっていた。

「ギャャッ!! 」

しかし次の瞬間、悲鳴を上げたのは寿校長の方だった……。

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