第10話 4-4 シノアリス

「グシャ! 」

破裂音と共にアリスの後頭部に人の大きさほどもある十字架が突き刺さった。

「はぁ……、はぁ……」

詩織は荒い息を整えて、たった今、頭が粉々になったアリスに視線を落とす。

アリスはうつ伏せに倒れていた。床に深々と突き刺さった十字架は、まるで地面から首をもたげて生えている神聖な植物みたいに見えた。十字架の末端で手足を広げたアリスの体は、植物の根の様に大の字に広がっていた。息絶えて間も無いアリスの手足が、ビクン、ビクンと痙攣していた。

詩織はぼんやりと辺りを見回す。

いつのまにか校内のチャペルにいた。自分が今の今まで何をしていたのかわからない……。記憶が……、曖昧だった。

教会のステンドグラスからは真っ赤な夕陽が差し込んでいる。

目の前には地面に突き刺さった十字架と頭部が破裂したアリスの体がある。

彼女の体からは鱗がすっかり消えていた。着ている制服はそこかしこが破れてボロボロになっていた。めくれたスカートからは切り傷だらけの太ももが無造作に投げ出されていた。脇腹には大きな鉄球で抉ったような穴が開いている。右手は肩から引きちぎられて、赤黒い肉の塊から白い骨が見えた。骨の白さに目が眩む。

アリスは全身に酷い傷を負っていたけれど、左手だけは不自然なくらい傷が無い。包帯で隠していた醜い鱗はすっかり剥がれ落ち、まるで生まれたばかりの様につるりとした白い肌が眩しかった。

詩織は目を細めて呟いた。

「わたし……、アリスさんを殺したんだ。でも……、どうやって? 」

詩織の記憶は混濁していた。断片的な戦いの記憶はあるけれど、それが現実に起きた事だとは、にわかに信じられなかった。

詩織はしばらくの間、所在無く立ちつくしていた。

それから、ふと思い立ってアリスの綺麗なままの左手人差し指から銀の指輪を抜き取った。指輪はスルスルとあっけなく指から外れた。

一瞬、詩織は無意識にその指輪をはめようとした。けれど祐一の言葉がフラッシュバックして思い留まった。

「……」

あたりは耳が痛いくらいの静寂につつまれていた。

ステンドグラス越しの強い夕日が、様々なグラデーションを帯びた赤やオレンジ色でチャペルを埋め尽くしていた。

ふいに詩織は泣き出した。

自分でも何が悲しくて泣いているのかわからなかった。もしかしたら別のリングホルダーが近くにいるのかも知れないと思ったけれど、いつまでたっても詩織の前には誰も現れなかった。

……、……、……。

しばらくすると、どこか遠くからサイレンの音が聞こえた。詩織はぼんやりとその音を聞いていた。

サイレンの音は次第に大きくなっていった。どうやらこちらに近づいて来ているようだ。サイレンはパトカーの音だった。

やがてパトカーは近くに停車した。バタン、バタンという車のドアを開け閉めする音が聞こえた。

詩織は何か漠然とした危機が迫っていると直感的に思ったが、全身がバラバラになってしまったような深い虚脱感に襲われ、体をうまく動かす事が出来なかった。

「疲れた……」

力なく詩織がそうつぶやくと、どこからともなくガチョピンがあらわれて、詩織の頬をポンポンと叩いた。ガチョピンはいつの間にか片目がとれていた。胴体は破けて中の綿がはみ出している。

詩織は全身の力を振り絞って、近くに落ちていたノートをちぎり、震える手で手紙を書いた。身体中の関節が軋んで痛い。

「ひどい肩こりみたい……。ダルいし……、痛いし……、疲れた。……ガチョピン。お願い……、これを……、ささと、祐一に届けて」

詩織が枯れた声でそう言うと、ガチョピンは大きくうなづいた。それから手紙を両手でしっかりと抱きしめ、高速でその場を飛び去っていった。

詩織はガチョピンの飛び去った方をしばらく眺めていたが、フラフラと立ち上がり校舎へと歩き出した。

「どこかに隠れなきゃ……。こんな姿……、誰にも見られたくない」

……。

……。

……。

それからどれくらい時間が過ぎたのだろう。

気がつくと詩織はささに抱きしめられていた。ささの隣には祐一が座っていた。あたりはすっかり暗くなっていた。

「詩織……」

ささの声が震えていた。

「詩織、……もう大丈夫だ」

祐一がゆっくりといい含めるように言った。2人の声が混濁した詩織の意識を覚醒させた。

詩織はハッとして辺りを見回す。そこはどこかの教室で、窓の外はすっかり暗くなっていた。

その教室はひどく荒れていた。窓ガラスは割れ、机は教室の中で竜巻でも吹き荒れたみたいに倒れたり、ひん曲がったりしていた。黒板にはなぜか赤いインクがぶちまかれていた。床にも黒くてネバネバした液体が広がっている。

ささが詩織の隣に座り直して肩をくっつけてくる。それからギュっと痛いくらい強く詩織の手を握った。ささの手は熱でもあるみたいに熱かった。ささの体温が詩織の強張りをほぐしていった。

詩織は身体中の空気を吐き出すみたいに長いため息をついた。それから再び周りを見た。

詩織の正面に立った祐一は、あたりを見回す詩織の首を固定するみたいに頬を両手でグイッと押さえて、自分の顔の前に向かせた。それから真っ直ぐに詩織の目を見て祐一が言った。

「この学校にいた人間は全て追い払ったよ。ささが……、全員にチャームをかけたんだ」

祐一は澄んだ目で静かに言った。

「……全員? 」

詩織は問い返した。

「うん。これだけの騒ぎだから……、生徒や教師の他にも警察やら野次馬やら、200人くらいはいたんじゃないかな……。幸い、詩織のお母さんは無事だったから、家に帰るように指示した」

ささの声は震えていた。

「ママ? どうしてママがでてくるの?」

ささと祐一は驚いて顔を見合わせた。2人はその時、詩織の記憶が曖昧な事に気付いた。

「詩織……。リングホルダー同士の……、た、戦いが激しくて……、さ。周りの人間が……、その……、巻き込まれてしまったんだ。……覚えてない? 」

やさしく言い含めるような祐一の声もなぜか震えていた。

こんなに頼りなくて優しい祐一を見るのは初めてだと思いながら、詩織は自分の記憶を探った。

窓ガラスが割れる音や、誰かの叫び声、廊下に広がる血溜まり、醜く変化したアリスの顔、たくさんの人の怒号と悲鳴……。

断片的な記憶が詩織の脳内を駆け巡った。詩織の頭がズキズキと痛む。

(「あっ! そっか、そっか! あはっ、あははっ、あははははっ! ……そうなんだ! 」)

頭の中で蘇るアリスの声……。

そして。

図書室の鏡の前で、アリスと対峙した時の事を詩織は思い出した。アリスの言葉がはっきりと聞こえる。

(「あんたの指輪の呪いは加齢! ホント、女としては最悪の呪いね! 」)

ああ……! ああ……! そうか……! そうだった。

詩織は震える声で言った。

「わたし……、殺したの」

そう言って詩織はアリスから奪った指輪を2人に見せた。

「襲ってきたリングホルダーは……、佐伯アリスっていう高校生で……。その人は魔法を使うと、肌が蛇の鱗みたいに変わってしまう呪いなの。姿が……、どんどん……、どんどん醜くなって……。元はすごく綺麗な人なんだけど……、ピアノも弾けなくなって……、指輪を渡せって……。戦うしかなかったの。でも途中で……、わ、わたしの呪いが……」

そう言うと詩織はガタガタと激しく震えだした。

ささが何か言おうとしたが、それを祐一が止めた。

「わ、わたしは魔法を……、使えば使うほど……と、年をとる……、みたい」

詩織は自分でそう言った時、アリスの言葉が頭にこだました。

(「あはははっ! あっという間におばあちゃんねぇぇぇ! 」)

詩織はささに抱きついて泣いた。ささはどうして良いのかわからず、視線で祐一に助けを求めたけれど、祐一も苦い顔をするばかりでどうすればいいのかわからなかった。

「わたし……、アリスさんを殺したの。ひどい事を言われて、頭が真っ白になって……。でも……、それから記憶が……」

「思い出さなくていいよ! 」

「ああ、無理するな……。と……、とにかく……、俺たちは何があってもお前の味方だから……」

そう言って祐一は小さい子供にするみたいに詩織の頭を撫でた。

祐一の手は冷えきっていて、氷を当てられたみたいに心地よかった。

「……うん」と言って詩織は泣いた。

詩織の身長はささや祐一を追い抜いていた。傍目には大人の女が小学生2人にすがりついて泣いているみたいに見えるだろう……。

詩織は頭の片隅でそんな事を考えた。歪な現実がさらに詩織を打ちのめし、涙はとめどなく溢れた。

それからしばらくの間、ささと祐一はラグビーでスクラムを組むみたいにして詩織の肩を抱いていた。

やがて。詩織は落ち着いてきた。自分の感情がささと祐一に吸い取られたみたいに、心が幾分軽くなった。

すると……。

今度は、別の違和感を詩織は感じる。

ささの体がやけに柔らかいのだ。それにベビーパウダーのような甘い匂いがする……。

(「あれ? ささって……、こんな匂いだったっけ? 」)

それに詩織が顔を押し付けているささの胸には、小さいがはっきりとした膨らみを感じる……。

詩織の様子を察したささが静かに言った。

「僕の呪いもわかったんだ。僕は魔法を使うと体が女になるんだよ。初めは変化が少ないからわからなかったんだ。でも、ここにくるまでにかなりたくさん魔法を使ったからさ。さすがに気付くよね……。胸は膨らむし、金玉はなくなるし、今は小さいちんちんと、女の子の割れ目みたいなのが、両方あるんだよ」

ささは少し笑って言った。

「笑い事じゃない!! 」

祐一が怒鳴った。どんな時も乱れないはずの祐一の七三分けがグシャグシャに乱れていた。

「無闇に魔法を使うなってあれほど言っただろ! お前はキレると話を聞けなくなる! ここに来るまでだって……、あんなに無茶をしなければ……」

「1秒でも早く、詩織に会いたかったんだよ……」

「……ささ」

3人は下を向いて暫く黙った。祐一は頭を掻いて首を振る。ふと思い出したみたいに祐一は髪を撫でつけた。そんな様子を見てささは力なく笑っていた。

言うべき事は何一つ思い浮かばず、手に余るこの状況に全員が打ちのめされていた。

「わたし、……こんな体じゃ、学校にいけない」

詩織は独り言のように呟いて自分の肩を抱いた。詩織の露わになった太ももには乾いた血がパリパリと張り付いていた。ささと祐一に見せたかったお気に入りのワンピースは所々破れて血や汗を吸ってボロボロだ。詩織は短くなりすぎたワンピースの裾を引っ張った。

ささはそんな詩織を改めて眺めた。

詩織は美しい女になっていた。子供のささに女性の年齢はよくわからなかったけれど、おそらくは18歳か、もしかしたら20歳くらいだろうか。髪はボサボサで服もボロボロだったけど、それでも詩織はささがこれまでみたことのある女の中で一番綺麗だった。指輪の呪いがなければ、7、8年後に見られたであろう未来の詩織がささの目の前にいた。

それからふと、ささは自分の胸を触った。ささやかな膨らみがグニャリとした感触をささの指先に伝える。

(「ぼくは女になりかけてる……」)

今はその中間。男でも女でも無い性別の不確かな自分の体。それはまるで醜いカエルにでもなったような気分だった。自分の体がグロテスクなものに感じられた。こんな体では詩織と一緒にいることはできないとささは思った。

(「祐一だって……、こんな体をしている奴なんて、きっと……、気持ち悪いと思っている……」)

ささは俯いてため息をついた。それは魂が抜けているんじゃないかと思うくらい深いため息だった。

祐一は2人の様子を見ながら考えた。

(「どうすれば2人の呪いを解くことが出来る? 強引に指輪を外せば……? いや……、荻窪先生は指輪を失った後も視力が回復していなかった。指輪を外しても呪いは解けない。では2人の呪いがこのまま進行したらどうなるのだろう? 詩織は年老いて死んでしまう。でもささは? 或いは完全に女になった後も魔法を使い続ければ、今度は男に戻っていくかも知れない。……いや、それは、ない。もしそうなら詩織は一度、老婆になり死ぬ寸前まで呪いが進行したら、今度は若返る事になってしまう。それでは不死の人間だ。やはり呪いは不可逆で取り返しがつかないからこそ、呪いであるはずだ……。詩織が殺した佐伯アリスの死体を確認したが、皮膚が鱗になるという呪いは解除されていた。死ねば呪いは無くなる。逆に言えば、死ぬまで呪いは解除されない……」)

そこまで考えた祐一は、ゆっくり髪の毛を整えてから、諦めたように静かに言った。

「指輪を集めるしかない。どんな手を使っても、俺たちで8個全ての指輪を集めるんだ」

ささと詩織がハッとした表情で祐一を見た。それから2人は力なくうなづいた。

そして3人の頭には、あの時の荻窪歩の言葉が蘇った。

『ゲームはどんどん進行していく。いずれは全てのルールが判明するだろう。しかしその時にはもう、取り返しがつかないかも知れない……』

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