汚染
碧と青蘭が疲れて眠っている間でも、奇妙な時空は墨也の過去を映し出している。
「これも覚えてないな……」
ポリポリと頬を掻く墨也の視線の先では、やたらと広く調度品も豪奢なリビングで、幼児だった頃の彼とニコニコ顔になっている母方の祖父がいた。
『よーし墨也。一+一は?』
『じょうわんにとうきん!』
祖父は単に遊びの延長で算数を口にしただけだったが、思いもよらぬ返答が返ってきて目が泳いでしまう。
『今の算数ってそう教えてるのか……?』
『そんな訳がある訳ないでしょうが。ストレングスだって筋肉式算数はしませんよ』
『だ、だよな』
祖父は混乱のあまり、机の上に置かれている黒いカードと会話を成立させてしまっている。
『じょうわんさんとうきん! だいたいしとうきん! ご! しんそうがいせんろくきん!』
『駄目だ分からねえ! 五は五だから安心したけど、しんそうがいせんろくきんってなに!? 』
『深層外旋六筋は股関節周りの筋肉ですね。詳しいことは自分で調べてください』
更に可愛らしく指で数える墨也に祖父は頭を抱えて混乱する。
どうやら祖父は墨也と違い、筋肉に汚染されていない常識的な感性を持っているようだ。
『墨也。おやつはプリンがあるからね』
『プリンですからねー。プロテインじゃないですよー』
『じゅにあぷろていん……』
今現在の墨也は祖母達の声を聞きながら過去の自分になんとも言えない顔となり、プロテインでも飲むかと準備し始めた。
一方、テントで寝ていた青蘭と碧。
「っ!?」
記憶にある最後の光景が、至近距離で自分を見つめる墨也だった二人は、ビクンと身を震わせながら目を覚ましてしまう。
昨晩の彼女達は間違いなく完全な腐乱死体と怪物だったのに、墨也に三十分も至近距離で見つめられたことで、どんな姿になっても受け入れてくれると確信した拠り所ができてしまった。
それは恐ろしく甘美なものであり、二人は無意識に墨也の手が添えられていた顎と頬に手を伸ばす。
「お、おはよう碧。昨日は大丈夫だったかい?」
「う、うん。一条さんのお陰で。青蘭は?」
「こっちも一条さんのお陰で問題なしさ。そう、なにも」
なぜかぎこちない会話で、しかも神話因子が最も活性化した際の話を避けているかのように簡素だ。それはまるで、なにかを隠すかのような不自然さだったが、やはり彼女達に自覚はない。
「おはよう。朝のプロテインは最高だな」
そんな彼女達に比べ墨也はいつも通りだ。言葉通り脳筋である彼は、青蘭と碧の異変に気が付くことなく的外れなことを話す。
「うん。見たところ神話因子はかなり大人しくなってる。これならここを抜け出すころには問題がないだろう。それでも心配なら住所と電話番号を教えるから、定期的に来てくれ」
ただ、彼女達にとって最も重要なケアは的確なのだから、ある意味で救いようがないだろう。
桜達もそうだったが、閉ざされた空間から抜け出して終わりではないのだ。
「住所と電話番号、ですか。お社は……」
「社に分体を置いて、普段は個人営業の気圧師として働いてる。だから会おうと思えばいつでも会えるぞ。でも内緒な」
「……いつでも。内緒」
青蘭が疑問を覚えると墨也はちょっとした秘密を教える。そして青蘭と碧はいつでも、内緒という言葉を繰り返し呟く。
「あ、そうだ。ちょっと詳しい日程は分からないけど、遠くから教官職が長い式神符が来ることになっててな。よかったら戦闘訓練に参加するか?」
「は、はい!」
「是非」
挙句の果てに芸能活動で忙しい筈の碧と青蘭は、しっかりと決まっていない予定に頷く始末だ。
そこに仕事とブッキングしたらどうしようという発想はなく、明らかに優先順位がおかしくなっている。
「あの、私の歌にオルフェウスとセイレーンの力が宿ったりすることはないでしょうか?」
「神話因子が完全に大人しくなれば大丈夫だが、一応確認しておこうか」
「分かりました!」
ふと思い出したように碧が自分の歌について相談すると、念のため確認することになった。
これ自体はおかしいことではないだろう。ただ、歌うだけで金を取れる国民的アイドルが青蘭と墨也の二人に歌うだけの話だ。
「うん、これなら大丈夫だろう。それにしてもやっぱりいい歌だ。心が込められてる」
「ありがとうございます!」
「凄かったよ碧」
「え、えへへ。ありがと青蘭」
一通りグループの曲を歌った碧は、墨也と青蘭からの拍手を受けて称賛されはにかんだが、その笑いは方は今まで青蘭しか見たことがないものだった。
勿論そんなことを墨也が知る筈もないし、脳筋に女の内面。もしくは変化を感じ取れというのは無茶振りである。
その時突然、景色が変わり始める。
果たして今回の光景は墨也の幼少期の過去なのか。はたまた世界の存亡に関わっているのか。
答えは否。
『年末年始には顔を出さないといけないか。む。やはりクリスマスはチキンが溢れてるな』
そこには去年の墨也が、カップルで賑わうクリスマス真っただ中の街を一人寂しく歩いていた。
明らかな敗北者。誰だどう見たって彼女なし。圧倒的ソロクリスマス。
墨也の後ろを歩いていた品のないカップルもそう見えたようで、彼に指をさしてから一を強調するように人差し指を揺らしていた。
尤も墨也が冬用の服を脱いで腕でも見せた日には、関わってはいけないと目を伏せただろうが。
それを見ていた碧と青蘭の心に沸き立つのは、恩人を馬鹿にされた怒りだったが、それとは別に墨也がクリスマスでも一人だという情報と、そこから導きだせる答えを意識せず心の隅に収納する。
同時に、指輪の中で浸食する黒は取り返しがつかない程に蠢いていた。
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