神話因子体

『あああああああああああああ!』


『おおおおおおおおおおおおお!』


「……」


 狂乱する女達の群れを前にして墨也は構える。


 半身となり不動。


 闘気すらも身に秘めて静謐。


(爛れた生活ではなく失楽園。最初の四葉のクローバー。常世。この女達の群れ……そうなるとこの二人は……)


 闘争とは別の意識が今現在の状況を認識し、背にいる碧と青蘭の知られざる正体を僅かながら察する。


「色々と魂やら伝承が混ざっていようが別人だ。生者を引き込もうとするな。黄泉醜女よもつしこめ。マイナス」


『きいいいいいい!』


 常世にいるはずの鬼である黄泉醜女と、酒神ディオニュソスの信奉者にしてとっくに冥府にいるはずのマイナスわめきたてる者が絶叫を上げながら走る。


 少し神話を紐解こう。まずはギリシャ神話だ。


 マイナスはギリシャ神話に登場する、端的に言えば酒の神を信奉する酔っ払いの集団だが、とある男を殺すことに成功したことでも知られている。


 素晴らしい音楽の才能を有してそれを活かし、冥府に妻を迎えに行ったはいいものの、最後の最後にしくじって失敗した男。名をオルフェウス。


 彼は冥府の神ハデスとその妻ペルセポネに謁見し、妻を連れ返すことの同意も得られたのに、後ろを振り向いてはならないという約束を破って失敗した。


 そしてオルフェウスはとある旅で、歌声で人を惑わす上半身は人間、下半身は鳥で後世では魚となる怪物セイレーンに対抗する。だがこのセイレーンとオルフェウスは、母が芸能を司るムーサイ神の集団に分類されている、言ってしまえば従兄妹のような関係だ。しかもセイレーンはペルセポネに仕えていた時期があり、関係が複雑に絡み合っていた。


 続いて、日本の神イザナギとイザナミ。


 夫であるイザナギと妻であるイザナミが国産みを果たした後、とある面倒事が起こりイザナミは黄泉に堕ちる。それを迎えにイザナギは黄泉に足を踏み入れたが、イザナミは既に黄泉の住人であり、腐敗して蛆が這いまわっていた。


 変わり果てた妻の姿を見たイザナギは驚いて黄泉から逃げ去り、イザナミはそれに激怒して黄泉醜女を含めた黄泉の軍を追っ手としたが、魔除けの桃を投げつけられ退散する。


 そして逃げ切ったイザナギだが、イザナミは夫に対してお前の国の住人を一日に千人殺すと言って、日本最初の呪詛を行ってしまう。


 更に丑の刻参りは二神の系譜である神の力を悪用して行われるため、この系譜は呪いというものに縁があった。


 そして完全に余談だが……イザナミは少し似た存在がいる。異なる神話体系における最初の女。食べれば半全知程度なら容易く至れる、知恵の果が実る元居た場所を去り、夫の子供を永遠に殺し続けると宣告した、リリスという名の。


 だが一旦神話は置いておこう。


 今重要なのは、オルフェウスとセイレーンの神話に関連する因子が混ざった碧がマイナスに。青蘭はイザナミの因子を持ちながら生者であるが故に、矛盾を解消しようとしている黄泉醜女に襲われていることだ。


 とは言えいずれも堕ちた戦神や怪物の中の怪物ではなく、闘神の相手が務まる筈もなし。


「すう……」


 正拳。僅かな呼気と共に異常な密度の拳が黄泉醜女の体を穿つ。


 手刀。マイナスの体を両断。


 碧と青蘭の因子で活発化して彼女達に結びつき、攻撃を無効化していた怪物達だが、墨也は害が発せしないように繋がりを断ち切って排除していく。


『ぎいいいいいいいいい!』


 それに黄泉醜女とマイナスは、青蘭から放たれる香る桃が弱点で苦しんでいる。


 黄泉醜女は神話で桃が明確に弱点とされているし、泥酔しているマイナスにとっても桃はアルコールを分解する作用を持つため苦手と言っていい。


 もしここに桃の化身である桃太郎でもいた日には、両者とも泣き叫びながら逃げまどうだろう。ついでに言うと、最近起こった騒動での鬼達が桃太郎見たならその瞬間にショック死を起こし、酒呑童子すら苦い顔をする筈だ。


 だがここにいるのは、そもそも相性関係すら関係ない力と技術の結晶である。


「……」


 墨也の間合いに入った途端に屠られ続ける女達。捻じられ、殴られ、蹴り飛ばされ、地面に叩きつけられる。


 間合いで敷かれた一本の線が見えるほど完璧な攻撃圏を突破できる者など、全次元を見渡しても限られるだろう。


 そして黄泉醜女とマイナスはそれに値せず、ついに最後の一人が撲殺される。


 しかし面倒なのはこれから先の話だ。


「ひっ!?」


 呆然としていた碧と青蘭は突然体に発生した痛みに驚き、慌てて腕を確認すると既に異変は起きていた。


 つい先ほど見てしまった光景と同じく、碧の腕は鳥のように変わり始め、青蘭の手は急速な腐敗が始まっていた。


 身に秘めていた因子が大きな刺激を受け活性化をしているのだ。


「ちょっと俺を見てろ。駄目だ、腕を見ようとするな。体の認識が固定化されるぞ」


 青蘭と碧の体が変質したことでマキナモードがエラーを起こし解除されるが、それと同時に墨也も邪神形態から人に戻り、パニックを起こしている彼女達の顎に手を添えて、強制的に自分の顔に視線を向けさせる。


「お前さん達の本質は何も変わってない。ゆっくり深呼吸だ。そう、ゆっくり。それでいい」


 墨也は瞳に映る光景の反射を抑えるという器用なことをしながら、蛆が這いまわる寸前まで腐りかけている青蘭と、鳥、人、魚のキメラになりかけている碧をじっと見続ける。


 そして邪神の囁きに抗えない二人は、突然現れた墨也を気にする余裕もなく、言われるがままになってしまう。


「お前さん達はお前さん達だ。俺は一条墨也だが、名前は?」


「歌川……碧です」


「天海青蘭……です」


「よろしくな。じゃあ自分ってのを認識しながらまた深呼吸だ」


 碧も青蘭も、かつての因子を持って生まれてきただけであり当人そのものではない。


「お疲れさん」


 そして二人がゆっくりと深呼吸して、無意識に顎へ添えられた墨也の手に触ろうとした時には因子が抑えられ、元の体を取り戻していた。


「えー。では五日か四日、いや、六日? 常世と現世の狭間で時間軸が乱れてる場所に穴開けるってどれくらいかかるんだ? まあそんな感じでキャンプをしますが、プロ中のプロだから任せてください。サバイバルのな」


 緊張が解けてぺたりと座り込んだ青蘭と碧に、墨也はなんの気負いもなく次の予定を伝える。


「ついでに因子を抑える特訓もしよう。密接に絡んでるから取り除くのはちょっと危ない」

(やっぱキャンピングカー買うべきか? でも高いんだよな)


 墨也は常世と現世の狭間なんていう奇妙な場所に呼ばれてきたが、帰り道の確保は全く考慮されていないため、早くも今年三度目の異次元キャンプをすることになった。


 腐った体を見られて逃げられた神の因子を持つ女と、不可抗力で致し方なく誰も悪くないとは言え、変貌した体を見られてファンに逃げられた、あり得たかもしれない可能性を知った女とだ。

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