愚かの産物

「入ってくれ」


「お、お邪魔します」


「お邪魔します……」


 定休日で明かりがなかったおどろおどろしい外見のマッサージ店に、男の醜さで圧し潰されかけていた銀杏と紫が足を踏み入れる。


 最近の客が名付けた別名は地獄への門だが。


 しかし、男が誘惑の力を手にした仮定とその結果を強制的に認識させられている二人が、墨也の誘惑に屈して素直についてきた理由は、この状態が治るという甘言からではない。


『手を出すな』


 あやふやながら幾通りもの絶望が襲い掛かってきても、銀杏と紫が人間として生きているなら必ず敵の前に立ち塞がり、人を誘惑する力をなんとも思っていない仮定と結果がずっと続いているからだ。


 それは絶望の崖っぷちにいた銀杏と紫にとって眩い誘蛾灯に等しく、のこのこと邪神の根城まで付いてきてしまった。


「ソファに座ってくれ。早速だが問診に入ろう。見たところ未来視と誘惑の力が合わさってコントロールできていない様子に見えるが間違いないか?」


「はい」


 未だに。ずーっと絶望の仮定と、立ち塞がる墨也という結果を見せられ続けている銀杏は、普段の男勝りの口調はどこへやら。元々育ちはよかったこともあるが、今は借りてきた猫の様に返事をする。


「石野目さんも?」


「は、はい」


 既に自己紹介を済ませている紫は、墨也の声にびくりとする。


 だがそれは恐怖ではなく、叩きつけられている仮定と結果の太い声が、現実の自分に向けられていることに適応できていないからだ。


「言い難いことだろうが、どういったものが視えている?」


 想像は付くが確認をしないことには間違った治療を行ってしまう可能性があるので、墨也は踏み込んで尋ねた。


「男が誘惑の力を持ったらどうなるかのクソみてえな仮定と結果だ! ……です」


「分かった」


 嫌悪に溢れた銀杏が我を忘れかけたが急にしおらしくなる。


「石野目さんも?」


「はい」


 再び墨也は紫の方にも確認を取る。


「一応の確認だが俺の場合は?」


「き、筋トレを……」


「プロテインを飲んでました……」


「ふむ」


 墨也は普段通りの自分が未来視に映っていることに納得する。これで好き放題力を使っているようであるなら、歪められた未来視の可能性があると判断する程度に、墨也は自分を客観視できていた。


「それと、俺……私と紫が世界の敵だとかどうのこうの言ってる奴に、い、一条さんが立ち塞がってたりして……」


「わ、私も同じものを……詳しくは分かりませんけど一条さんが英雄がなんとか……」


「英雄?」


 だが一人称で迷い墨也の苗字を呼ぶのを躊躇う銀杏と、頭の位置が定まらない紫の言葉には首を傾げた。


 世界の敵は銀杏と紫ではなく墨也こそ当てはまるし、なんなら単純に世界や世界の敵と呼べる身内が複数いるのだから馬鹿げたスケールの話である。


「なにか大きなことに巻き込まれて俺が介入した。そして俺が英雄と言っていた」


「そんな感じです。凄いあやふやで詳しいことは分かりませんけど」


「ふむ……うん?」


 考え込んだ墨也の言葉に銀杏が頷くと、脳筋細胞が今朝の夢と結びついた。


 世界の敵、怪物殺しの英雄、鏡、呪い。


 無理矢理解釈して当て嵌めたなら該当する英雄が一人いるのだ。


 明鏡止水の心をして気に入らない物語の。


「少し話は変わるが、その力は秘密だっただろ?」


「それは……」


「えっと……」


 墨也の問いに銀杏と紫は顔を見合わせて曖昧に頷く。


 誘惑と未来視など人に知られたら大事であり、まさに秘密にしておかねばならない力だ。


 しかし重ねて述べるが今現在も暴走している力は、彼女達の脳裏に常日頃と変わらないどころか、襲い来る絶望に立ち塞がり続ける墨也の姿を映し出している。


「代わりに俺の方も秘密を話すな」


 銀杏と紫の歪んだ未来視が訴える。目の前の男は銀杏と紫を守るためだけに、会ってすぐだろうと不利益を被るつもりだと。


 だが墨也はあまりにも愚かな神々と半神の名誉欲が絡んでいるなら見過ごすことができない。


「ふん。死んでもパシリか? それとも縛られたシステムになってるのか?」


 墨也は客の存在を感じ取って鼻を鳴らす。


 人こそが最も醜い生物だとされ、人に転生し続けるある意味不死身の存在が力を強めたのを感じ取り、刈り取ろうとやってきた客だ。


 店の扉が開かれる。


「一度だけ警告する」


 だが墨也の視線の先にはそこには誰もいない。


「世界が、神が望んでいようと無駄だ。失せろ英雄。この二人は殺させん」


 なにもない場所に問いかけた墨也に戸惑う銀杏と紫だが……返事があった。


「っ!? 世界の敵を守るのがどういう意味か分かっているんだろうな!」


「なら世界を相手にしたらいいだけの話だ」


 銀杏と紫にとって返事があったのも驚きだが、ついさっき感じ取った歪んだ未来視のやり取りが繰り返されると、驚きとは違う形容しがたい感情に襲われる。


 仮定の結果ではない。確かに今現実に、墨也は世界が敵に回ろうと銀杏と紫を守ると宣言したのだ。


「ならば貴様も死ね!」


 なにもない空間から声が轟く。


 話は逸れるが神話の主要人物である神々や類する者はバベルの塔崩壊の影響を受けず、世界共通言語といっていい言葉を操ることができる。だからこそ銀杏と紫もその声を認識することができた。


 言い換えれば神話の住人なのだ。


 袋。


 サンダル。


 盾。


 鎌。


「ステンノー、エウリュアレーと共にな!」


 姿を消し去る兜を身に着け、力を増した転生体を刈り取るほぼシステムと化している英雄だが。


「お前が死ねペルセウス」


 相手は世界の敵どころではない邪悪なる深淵だった。

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