一歩だけでも前へ

(この部屋にいるのも多分今日で最後……一条さんの写真は今度。今度っていつ? いつでも。住所も電話番号も教えてもらった)


 寝起きの心白は、難しく考えずに寝た真黄と違って思考をすぐに再開する。


 心白は墨也の写真を撮りたいという心理的な欲求が肥大し続けているものの、それでも彼から住所と電話番号を教えてもらったことで我慢できていた。


(写真の構図は……一条さんが真ん中、私と真黄がその左右。うん)


 しかし、その発想は部屋を入る前を考えるとあり得ないものだ。心白と真黄が二人で写真を撮るのは、愛情と思い出の証であり、男が間に入り込む余地などない。それなのに心白は、自然と自分達に墨也を加えて写真を撮ろうと思っていた。


(それより助けてもらいっぱなしだから、やっぱりどうにか恩返し……そのどうにかをどうやって?)


 心白だけではなく真黄も毎日のように助けくれた墨也への恩返しを考えているが、学生である彼女達ができることなどそう多くない。そのためいつも結論を出せないまま悩み続けていた。


「んむ……あ、心白おはよー」


「おはよう真黄」


「愛してるー」


「私も」


 そんなタイミングで真黄が目を覚ましたので、心白は一旦思考を止めて起き上がる。


「起きたか? それじゃあ朝食を作ろう」


 いつも通り区切られた布の向こうから届く墨也の声を聞きながら。


 ◆


「よし。間違いなく部屋との繋がりは殆どない。もうあと少しで脱出できる」


「やった! ありがとうございます一条さん!」


「ありがとうございます」


 朝食を終えて数時間。墨也が真黄と心白に繋がっている部屋との結びつきを見極め、ほぼ分離が終わりかけていると結論付ける。


「む」


 そんなことはさせるかとばかりに部屋は最後の抵抗を行う。真黄の母と心白の父を形作ったので、墨也が漆黒の闘神となり迎え撃とうとした。


 だが現れたのは幽鬼ではく等身大だ。


 首、手、足が異様に伸びていない。目や口がぽっかりとした暗い空洞でもない。


 ただ単に、化粧が濃く煌びやかな衣装を身に包んでいようと、その内面はどうしようもなかった女が鏡を見ているだけ。


 ただ単に、全身からアンモニアとたばこの臭いを放ちながら、自分一人では立ち上がれない程にへたり込んだ男が俯いているだけ。


 それは増幅されて歪んでしまった真黄と心白の恐怖の形ではない。あくまでそのまま。等身大の恐怖の形だ。


 そんな等身大の親に真黄と心白は心を奮い立たせて目を向ける。


「すー……バイバイ」


 真黄は深く息を吸い込んでから。


「……さようなら」


 心白は一拍置いて言葉を紡ぐ。


 この部屋で現れた父母は模造品であり、本人達は狂死してとっくに墓の中だ。しかし、真黄と心白は過去を乗り越えるため。区切りをつけるために、最初で最後になる別れの言葉を送る。


 次の瞬間、真黄の母と心白の父は消え失せた。彼女達がトラウマを完全に克服した訳ではないが、部屋との繋がりが消失しかけている状態で恐怖と向かい合ったため、恐怖の象徴は形を維持することができなくなったのだ。


「頑張ったな」


 見守っていた墨也が労わる。過去のトラウマを一週間で克服するなど簡単にできることではない。場合によっては生涯つき纏い、克服しても時には思い出すことだってある。しかし、心白と真黄は過去を直視した上で、確かに一歩前へ足を進めたのだ。


 そして部屋のルール通りにトラウマを完全に克服できていなくとも、繋がりがほぼなくなった状態で真黄と心白が一歩前へ進んだため、部屋はその役割を終えようとしていた。


 が。


 この過去に纏わりつく、自我なき醜悪は次の獲物を探し出すに決まっている。それを墨也が放っておくはずがない。


「さて、忘れ物はないな」


「わわわ!?」


「あ」


「よーし帰るぞ」


「はい!」

(な、なんか暖かいんですけど!)


「分かりました」

(凄い逞しい)


 真っ黒になったままの墨也は、慌てる真黄とぽつりと声を漏らす心白を両脇に抱えるが、彼が二人の頭に手を置いた時以上の密着だ。彼女達は墨也の異様な熱と逞しさを感じ、目を白黒させていた。


「ふん!」


 墨也が右足を一瞬で膨張させて床を、部屋を、隔離世界そのものを踏み砕いた。その衝撃は部屋を粉砕するどころか、存在の核と言える部分すら一瞬で粉微塵にする。


 部屋は他人の苦しみを喜ぶという、人間が持つ負の部分を凝縮したかのような概念存在なのだから、それを踏み砕くなど尋常のことではない。


 その尋常を容易くやってのけた墨也は、真黄と心白を抱えながら崩壊する隔離空間から脱出して時空間の裂け目を潜り抜けたのだが……。


 真黄と心白が部屋に囚われたのは繁華街のど真ん中だった。つまり。


「うわ!?」


「なんだ!?」


(諸々のことは統合本部と鎮守機関に頼もう。俺は彼らとの約定通りに、縄張りの異常を排除した仕事熱心な闘神。証明完了)


 関係各所との契約通り、社から飛び出して異常を排除した黒い人型は、騒ぐ人々を見ながらそう思ったとか。


 部屋を入る前と出た今で、完全に変わってしまった女を二人抱えながら。

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