聞こえてはいけない声

(だ、大丈夫だよね?)


 桜は魔気無異学園の一年生だから、平日は登校しなければならない。しかし彼女は、寮の自室でギリギリまで自分の状態を確認していた。


(臭くないよね?)


 桜は自分の体のあちこちの匂いをチェックする。年頃の自意識過剰、とは言えない。なにせ数日間、シャワーなんてものは望めない妖界にいた上に、帰って来てから自分の着ていた制服を確認すると、ショックを受ける程汚れていたのだ。


 尤も、制服は予備を着ているし、昨夜はこれでもかと自分の体を洗ったので、心配する要素はどこにもなかった。


(よし大丈夫! でも赤奈先輩と一緒に登校したかったけど、今日二年生は、早朝訓練なんだよね)


 自分の体に異常がないと判断した桜は、愛する赤奈のことを想うが、残念ながらタイミングが合わず一人での登校だ。赤奈と交際し始めた当初は、彼女が早朝訓練の日でも一緒に登校しようとした桜だが、そうすると桜は登校して1時間も2時間もすることがない。そのため赤奈は桜に苦笑しながら、私が早朝訓練の日はゆっくり寝てなさいと断っていた。


(今日も元気に頑張るぞ!)


 桜が元気よく寮の部屋を出ていく。一変した世界に。


 ◆


「おはよう!」


「お、おう伊集! おはよう!」


 寮から学園はかなり近く、桜が最初に会ったのは同じクラスの男子生徒だ。彼女はいつも通り間違った距離感で、男子生徒のすぐ隣から挨拶をする。


「ねえ、私、変なところないよね?」


 しかも、至近距離で態々自分がおかしくはないかと聞く始末である。


 だからこんなことになるのだろう。


「え!? ないない!」

『いける! 絶対押し倒したらいける!』


 桜にはおかしくはないと言う男子生徒の声と全く同じ声で、邪な言葉が聞こえてしまった。


「え? 押し倒す?」


「え!?」


 思わずきょとんと聞き返す桜だが、男子生徒の顔は真っ青だ。


『まさか口にしてた!?』


(な、なにこれ!? 声だけど声じゃない!)


 桜は人間関係については鈍感だが、人間に化けていた天狗に気が付いたように、物事に対しては鋭い。そのため、男子生徒の口が動いていないのに、声が聞こえたことに気が付いた。


「じゃ、じゃあな!」


「あ!?」


 慌てた男子生徒が走り出すが、桜はそれを追いかけなかった。無意識に分かっていたのかもしれない。


 これからのことを。


 ◆


(気のせい。さっきのは気のせい……)


 桜とて年頃の女だ。押し倒すという言葉の意味をきちんと理解していた。だからこそ、先ほど聞こえてきた声は、何かの間違いだと己に言い続ける。


「み、皆おはよう!」


 そのまま、仲のいいクラスメイトがいる教室に足を踏み入れてしまった。


(ひっ!?)


「おーっす」

「おはようー」

「おはー」


 桜は心の中で悲鳴を上げる。彼女を迎え入れたのは何気ない朝の言葉だけではない。


『相変わらずスカート短すぎ』

『昨日は失敗したけど、今日はなんとか二人っきりになれば』

『太もも太もも』

『桜は絶対俺に気がある。そうじゃないと説明できない! なら家に誘えば必ずいける!』

『誰かに取られる前にいっそのこと!』


 桜に押し寄せる男の声。妄執。妄念。その先の妄想。


 それらを浴びた桜の体から、ぶわりと汗が噴き出した。程度こそ低いが、桜を襲った天狗と同じ気質の念だった。


「桜ちゃん大丈夫?」

「顔色悪いよ」


「う、うん大丈夫!」

(よ、よかった。千秋ちゃん達の声は聞こえない。でもこれはなに!?)


 仲のいい女友達の“声”は聞こえなかったのが唯一の救いか、それとも聞こえた方がよかったか。彼女達は心の底から桜を心配していたので、あるいは聞こえた方がよかったかもしれない。


 ◆


「本当に大丈夫?」


「う、うん大丈夫!」


 桜は友人に大丈夫と言いながら、恐る恐る更衣室を出る。


 桜には懸念があった。通常の授業では自分に向く念は殆どなかったが、これから昼休みに敢えて空腹時の戦闘を経験する戦闘訓練があるのだ。しかし、彼女は普段通り動きやすい上下が分かれたセパレートの運動着で、素肌があちこち見えている状態だ。


 これでは懸念などでなく、確定してる。


『やっぱり欲しい! 伊集が欲しい!』

『俺に見せてるに決まってる!』

『昨日俺の隣に座ったんだから大丈夫だ!』


(あ、あ……)


 訓練場に到着した桜を出迎えたのは、更に強まった妄念と、今まで気にしたこともなかった、彼女の肌を見る無遠慮な視線だ。


(わ、私のこと、私のこと、そ、そんな目で見てたんだ……!)


 未だ原因が分かっていないのに、桜はそれを男子生徒達の本心の声だと断定した。そして、今まで自分が気が付いていなかっただけで、醜悪な感情が常に纏わりついていたのだと気が付いた。


「先生。桜ちゃんの顔色が真っ青です」


「なに? 伊集、確かに顔色が悪いぞ。一人で保健室に行けそうか?」


「は、はい!」


 愕然としていた桜だが、友人が女教員に桜の顔色を伝えると、保健室を勧められたので、慌ててこの場から立ち去った。


(服を、服を着なきゃ!)


 しかし行先は保健室でなく更衣室だ。


(ど、どうしよう……! こんなこと赤奈先輩に言えない!)


 更衣室に駆け込んだ桜は急いで制服に着替え、脂汗を流しながら揺れる瞳で床を見つめる。


 愛する赤奈に、男達から肉欲が籠った心の声が聞こえてくるとは言えなかった。愛しているかこそ、そんな下世話な話をしたくないし、心配もかけたくなかった。


(そ、相談。墨也さん!)


 他の誰かに相談することを思いついた桜は、即座に墨也を思い出した。筋骨隆々過ぎる男がどれほど頼りになるかは、先日これでもかと経験しているため、脳と体が成功体験を覚えていた。


相手が男だったことを忘れてしまう程。


(電話しなきゃ!)


 既に桜は墨也の電話番号を登録していたので、連絡はすぐにできた。


『はいもしもし。一条墨也です』


「あ、もしもし……桜です」


 現状唯一頼りになる、自分を助けてくれた墨也の声を聞いて桜はほっとした。


『おーう。どうした? 声が暗いぞ。相談くらいなら乗るぞ』


 しかも、電話越しなのに、自分が困っていることまで察してくれるではないか。


『その……』


 桜は現状に対する戸惑いと、ほっとした安心感で言葉に詰まる。


『自分でもよく分からないんですけど……人の心の声……みたいなのが聞こえて……』


 そして出来るだけ簡潔に、自分に起こっていることを説明した。


『今すぐ会えるか? 多分だが、霊的な感覚が研ぎ澄まされて、拾っちゃいけない人の思念を拾ってる。なんとかできるから安心しろ』


「は、はい!」

(やっぱり墨也さんは凄い!)


 桜は、墨也が根拠なく、なんとかできるから安心しろと断言したことに不安は感じず、寧ろ墨也との関係で成功体験しか経験していないため大いに安堵した。


 しかし……。


『代わりに死ぬほど痛いけど、なあに。足つぼ刺激するだけだから、死ぬことはないぞ』


「え?」


 筋骨隆々で鋼の体の持ち主が、死ぬほど痛いと言う足ツボ刺激やらには慄いたが。


『そっちに車で行くから少し待ってくれ』


「分かりました!」

(だ、大丈夫だよね! だって墨也さんだもの! で、でも墨也さんの……指で……足つぼ?)


 流されるまま承諾した桜だが、墨也の逞しすぎる腕と太い指を思い出し、今日流していた脂汗とは違う冷や汗が、ほんの僅かに滲んでしまうのであった。

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