正夢と禍夢。そして始まる物語。

「ようやく明日には、元の世界に戻れそうだ」


 感慨深げに空間の揺らめきを見ている墨也が呟く。この妖界にいる3日間、ずっと広げていた時空間がついに明日開通するのだ。


「帰ったら風呂入らないとなあ」


 墨也は3日間の間、体拭きシートや無水シャンプーなどを使ってなるべく清潔を心がけていたが、流石に日本人として風呂に入りたくなっていた。


「ようやく明日帰れるぞ桜。桜?」


「は、はい!」


「どうした?」


「い、いえなんでもありません!」


「うん?」


 桜に声を掛けた墨也だが、彼女の様子がどうもおかしい。どこか上の空で、墨也に対する反応が鈍いのだ。


(具合は悪くなさそうだが……)


 そんな桜の様子を気に掛ける墨也だが、彼が見たところ体調が悪いといった感じではなかった。


 では何が起こっているかというと。


(ど、どうしよう……夢の中で赤奈先輩と一緒に、ずっと墨也さんが出て来た……)


 昨夜桜はずっと夢を見ていた。シチュエーション自体はそれほどおかしくはなかった。赤奈と交際し始めてから、自分が彼女と一緒に行きたいと思っている場所にいる夢だ。普段もその夢を見ている事を考えると、特に変わったことはないだろう。そこに墨也がいなければ。である。


(あ、赤奈先輩もいたし……墨也さんは頼れる人だからいただけだよね)


 それがこびりついて頭から離れないのだ。だから桜は、その夢の意味する事を、理屈をつけて打ち消そうとした。


 自分が愛している赤奈がいるのは当然だが、墨也はそれとは違い、単に頼もしくて安心できるから、夢の中に出て来ただけであり、好きだから出て来たわけではないという理屈だ。文脈の意味が少々分からない。


(で、でも、私、そんな……)


 だが、なんとか頼れる人だから、愛する人と一緒に夢の中に出て来たと、妙な理屈で納得しようとも、シチュエーションごと毎度毎度に墨也が現われ、桜と赤奈がそれを挟むようにして話をしていたのだ。しかも、最後は墨也に覆いかぶさられて……。


(ゆ、夢は夢! こ、これでおしまい!)


 その夢の意味する事を深く考えようとしていた桜は、所詮は夢で現実の自分には関係ないと、慌てて考えを打ち払った。


「無茶せんようにな」


「は、はい……」


「本当に大丈夫か?」


「だ、大丈夫です!」


「そ、そうか」


 心配した墨也が桜の目を覗き込むように屈むが、彼女の瞳は下を向いて揺れ動き、目線を合わせるためさらに屈んで彼女を見ると、桜は慌てたように言葉を発した。


(心拍数が増えてるな。風呂云々はデリカシーが無かったな……)


 墨也の異常な感覚は、桜の心拍数が増大したことに気が付いていたが、それに対して常識的な判断を下した。そう、どう考えても数日風呂に入っていない少女に、風呂がどうのこうのと言ってはいけなかった。当然である。


「あ、忘れてた。これ俺の住所と電話番号な」


「は、はい!」


 そこでふと墨也は、教えると言っていた自分の連絡先を、まだ桜に伝えていなかったことを思い出し、メモ用紙にそれを記入して手渡した。


 当然最悪のタイミングである。自分の中でなんとか統合性を保とうとしている乙女に、妖界から脱出した後これから先も、繋がりがあるという自覚を齎したのだから。


 そう、桜が望めばいつでも会えるという事実を。


「困ったことがあったらいつでも訪ねて来な」


「あ、ありがとうございます……!」


 墨也の太い笑みを、桜はその唇と鼻辺りまでは見れたが、瞳を直視することは出来なかった。


(俺もまあ、どっか小さなプレハブでも借りて、気圧師としてもう一年くらいは頑張ってみるか)


 桜に困ったことがあれば訪ねて来いと宣った墨也だが、この男の方は今現在も明確に困っていた。つまり仕事がない事だが、元気一杯の桜に当てられたこの男は、もう一年くらいこの世界で頑張ってみようかと考えていた。


「よし。そんじゃ明日に備えて寝るぞ」


「はい!」


 自分でもよく分からない悩みを抱いていた桜だが、ついに明日元の世界に帰れるんだと喜び、その悩みもどこかへ消え失せていた。


 いや、ひょっとすると無理矢理そう思っているだけなのかもしれなかったが……。


 そしてまたしても夢の中……。


 ◆


『いらせられませ』


 真新しい社の中で、8人の少女達が平伏していた。いずれも巫女服を着ているのだが妙におかしい。


 黄の髪の少女は胸元がはだけている。

 白い髪の少女は腹を出して臍に金具を付けている。


 銀の髪の少女は首に何やら巻いている。

 紫の髪の少女の袴はやたらとスリットが大きく地肌が見えている。


 碧の髪の少女の声は最もよく響いた。

 青い髪の少女だけが唯一足袋を履いていなかった。


 だが……


 赤い髪の少女の巫女服は脇から肩まで大きく露出している。


 なにより……


 桜の髪の少女の袴は膝までしかなかった。


 そして彼女達が仕える者、黒が現われ……


『……何やってんだお前ら? 頭大丈夫か?』


 頭大丈夫かと問いただした。


『あたしらのお色気作戦の感想それ? ちょーと分かってないなあ』

『巫女さんプレイに興味ない?』


 黄と白が黒ににじり寄る。


『お、お、お、俺は反対したんだけどよお!』

『え? 暫くどんなの着るかで悩んでたよね?』


 狼狽える銀に紫が真実を話す。


『衣装提供は私です!』

『それより足が痺れっちゃったんだよね。揉んでくれないかな?』


 碧の透き通った声が響き、青はそんな事お構いなしに足を崩して前に突き出す。


『さあ、楽になさってください』


 赤が艶やかに黒にしな垂れかかり。


『観念してください!』


『なにをだああ!?』


 黒に……墨也に


 桜色が……が飛びついた。


 だが夢は夢。この事を目覚めた桜は覚えていなかった。


 それが幸か不幸かは……誰にもわからなかった。


 ◆


「完成い! いえーい!」


「わー!」


 ついに完成した時空間トンネルを前に、墨也と桜が拍手していた。これを通ることによって彼らは元の世界に戻ることが出来るのだ。


「忘れ物の!」


「ありません!」


「痕跡き!」


「あ、ありません!」


 何か忘れた物がないかチェックする墨也に、桜は元気よく返事したのだが、痕跡と言われると、燃やされたあれやこれやを思い出して赤面する。


「よし! じゃあ帰るかか!」


「はい!」


「突入う!」


「突入!」


 ようやくこの陰気な世界とおさらばできると、若干ハイになってる墨也と桜が、ついに時空の狭間に一歩踏み出した。


「ここは……」


 ほんの一歩空間の歪みに立ち入っただけなのに、桜の周りは一変していた。そこは妖界に行く前の場所、もっと言えば桜が天狗に敗れた廃ビルの中だった。


「悪い。一番手短に戻れる場所がここだったんだ。しかしまあ、来年にはぶっ倒してる。だろろ?」


「はい!」


「その意気その意気き」


 天狗の開けた時空の裂け目を墨也が利用した結果、例の廃ビルに戻って来たのだが、桜は怯えることなく気合を入れ直している。


「寮だったな。そこまで送ろうう」


「あ、あの」


「ほれ行くぞぞ」


「あ、ありがとうございます!」


 桜が住む寮まで送ると言った墨也に、彼女は妖界から帰って来たのに、これ以上迷惑を掛けてもいいものかと言い淀むが、それを墨也は遮って促した。


 廃ビルを出て夜の街を墨也と桜が歩き始める。


「日を確認しとかないとな。すいませんド忘れしちゃって。今日って4日で合ってますか?」


「え? ええっと、そうです4日です」


「すいませんありがとうございました」


 墨也が通行人に今日の日付を確認した。


 妖界と現実世界は時間の流れが違う為、彼が思っていた通り、妖界で過ごしたこの数日間は、現実世界では一日も経っていなかった。


「よかったな。先輩も心配せずに済むむ」


「はい!」


 桜の唯一の気がかりであった、愛する赤奈に心配をかけているのではないかという思いも杞憂で終わった。


「ここかか?」


「はいそうです!」


 心配事がなくなり心も軽くなった桜の足取りもまた軽く、あっという間に彼女が住んでいる魔気無異学園の女子寮に到着した。


「そんじゃな。気合入れ過ぎるなよよ」


 つまりそれは、桜と墨也が別れる時という事だ。


「本当に! 本当にありがとうございました!」


「おーうう」


 細かい事は言わず、ただ真摯にお礼を言って頭を下げる桜に、墨也もまたシンプルに太い笑みを浮かべて応える。


(今度お礼を言いに行くんだもの。これでお別れじゃない)


 桜はまだまだ彼と会う機会はいくらでもあると思いながら、去っていく墨也をじっと見続けていた。


 もう少しだけ考えるべきだった。


 心配をかけないでほっとしたのならば。


 ここは女子寮。


 魔気無異学園の生徒。


 もっと言えば。


(あの男は誰? 誰なの桜?)


 桜が愛する赤奈も住んでいる場所なのだ。


 偶然桜と墨也が別れるところを、寮の窓から赤奈がじっと見ていた。


(桜に聞く? いえでも、面倒な女だと思われたら……)


 随分親し気にやり取りしていた愛する人と、見知らぬ男の関係が気になって仕方のない赤奈だったが、それを聞いて悋気な女だと思われたらどうしようと二の足を踏んでしまう。


(なにもない。そうよ。桜が明るいから親しげに見えただけ。でもどうして女子寮まで一緒に来たの? ここまで一緒に来る用事ってなに?)


 必死に考えを打ち消そうとする赤奈だったが、ぐるぐると嫌な想像ばかり頭を巡る。


 pipipipi


(っ!? 桜からだ!)


 思考に耽っていた赤奈のポケットから携帯電話の着信音が響き、それを彼女が手に取ると、桜からの着信だったため慌てて通話ボタンを押す。


『赤奈先輩!』


「ど、どうしたの桜?」


『いえ用事とかはないんですけど、赤奈先輩の声が聞きたくて!』


「そ、そう」

(よかったいつもの桜だ。そうよね。もう、男との距離感は間違えないでって言ってるのに)


 電話越しに聞こえる桜のいつもの声に、赤奈はほっとしながら心の中で息を吐く。時折こうやって、ただ単に赤奈の声が聞きたいからと、桜から電話が掛かって来る事があったのだ。


「これから私の部屋に来る?」


 そういったときは赤奈が部屋に招いて、桜が直接やって来るのがお約束となっていた。


 しかしである。


『え、えっと、今日はこれからちょっと忙しくて……』


「そ、そう……」

(どういうこと……?)


 その予定調和は桜によって崩された。


 悲しきすれ違いであった。


(い、色々洗濯して念入りにお風呂に入ってたら、大分遅くなっちゃうよね……)


 桜はこの数日間一度も入浴せず、着ていた服も汚れていたため、今から愛する人に会いに行くには、色々準備が足りなかったのだ。そのため彼女は、赤奈と会いたい欲求をぐっと抑えて辛抱していた。


(ま、まさか、いえでもそんなことは……)


 しかし、赤奈からすれば愛する桜が見ず知らずの男と先程までいたのに、自分の所には来ないとなると、色々と考えてしまう。


『そ、それじゃあ赤奈先輩おやすみなさい!』


「え、ええ。おやすみなさい……」


 そこで切られた携帯電話を、赤奈は暫く揺れた瞳で見続けるのであった。


「こ、こんなに汗で汚れてたの!? す、墨也さんの顔見れないよおおおお!」


 一方桜は、自分が着ていた服の汗汚れに顔を蒼褪めながら、今までこれを着て墨也と接していたのかと悲鳴を上げていた。


 嗚呼すれ違い。


(でも、どうして今日は墨也さんの声が重なったみたいに聞こえたんだろう?)




後書き

某所で投稿してた在庫はこれで最後です。もしここまで面白いと思ってくださったら、評価していただけるとお本当にうれしいです!


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