捻じれた運命

『ケカアッ!』


 天狗に落ち度はなかっただろう。相対した黒の戦闘力を、ある程度とはいえ感知したため、持てる全力を込めて拳を放ったのだから。


 そう、なんの落ち度もなかった。


 ただ、運が悪かっただけの話なのだ。


『そりゃあ!』


【邪神流柔術"捻じれ"】


 一方、次元の裂け目を頭から飛び込む様に潜り抜けた黒は、直後に迫る天狗の拳を、防ぐでも躱すでもなく、その襲い掛かる拳の少しだけ先、手首を掴むと超強力な横回転を加えて天狗を半回転させ、なんとそのまま地面に天狗の頭を叩きつけたのだ。


 これぞ邪神流柔術開祖の思想、人体は末端からの捻じれに対処できない。多分、恐らく、メイビーに基づいた究極の理合。【邪神流柔術"捻じれ"】であった。


『グバ!?』


 そしてそれは、肉体的な現象だけに留まらない。黒は掴んだ手首から天狗に向けて膨大な気を回転させながら送り込み、気脈、経絡を介して頭のてっぺんからつま先まで、その回転エネルギーを送り込んだのだ。するとどうなるか。答えは単純。脳が混乱し、その上命令伝達経路もぐちゃぐちゃに掻きまわされ、全ての随意運動がストップする。


 ならば後は簡単である。身動きできず、大地に倒れ伏した死に体に止めを刺すだけ。


『かっ!』


 黒が呼気を鋭く一吐きすると右足全てが膨張し、引き締められた胴体より倍近くもなったそれを、天狗の頭に振り下ろす。


 邪神流柔術はある時、違う思想が混じった。後手から相手を無力化し制圧するのではなく、自ら攻撃を仕掛け相手の命を奪い取る思想だ。そこから生み出されたのが邪神流剛術である。


『おお!』


【邪神流剛術"大界壊断"】


 大地を一つの世界、己も一つの世界と見立て、世界と世界で敵を挟み込み粉砕する。


『ブ』


 天狗の頭は大地と黒が振り下ろした渾身の一撃に挟まれ、粉砕された頭部から洩れた空気の音を断末魔として息絶え、妖としての死を意味する塵となって消え失せた。


『ふうううう!』


 黒は自然体のまま、腕は垂れ下がり足も揃えられている。だがこれが邪神流柔術、そして邪神流剛術継承者の構えなのだ。例え飯を食っていようと、風呂に入っていようと、トイレに座っていようと戦える者が油断をするはずがない。


『……ふう』


 それから少し。完全に天狗が消滅したと確信した黒が、肩から力を抜いた。しかしまだやる事がある。


「ひっ!? いやっ!?」


 勿論桜にとってもだ。自分が手も足も出なかった天狗を、彼女が瞬きする間に殺した黒に怯える彼女は、少しでも遠ざかろうとするが体が全く動かない。


 そんな桜に近づいた黒は。


「あーっと、大丈夫か?」


 纏っていた黒を消し、片膝だけでなく両膝も地面に付け、手も体の後ろに回したナニカ、一条墨也は困ったように彼女に問いかける。


「え?」


 目の前に座った男が、自分の事を心底心配していると、何故かそう分かった時、桜の、いや、桜と彼女が愛している赤奈の運命は、どうしようもなく変わってしまった。


「怪我は……大したものは無いが……」


 ポカンとしている桜を放っておいて、彼女の状態をチェックする墨也。目立った怪我こそなかったが、連れ去られまいと必死に地面に爪を立てていたため、指はボロボロだった。


「あ、あの……あなたは……」


 おずおずとした桜が問うたが、これは墨也の気質が良かった。祖である大邪神に比べると、纏っていた黒の気質が大きく変わっており、邪神というよりも真っ黒な闘神と言った方がいいものとなっていたため、桜は恐ろしさや悍ましさより、頼もしさや力強さを強く感じて質問しやすかったのだ。


「うん? ああ、一条墨也っていう」


 それに対して墨也が正直に答える。というのもこの男、この時は仕事を首になったばかりのせいで、かなりやけっぱちとなっており、この後は世界の誰も知らない田舎で農作業するんだから、別に顔を見せようが名前を教えようが関係ないと思っていたのだ。


(うーむ裂け目は消えてるか……俺が作るなら4日くらいかかるか?)


 墨也の気質がいい方に働いたなら、悪い方に働いたこともある。大邪神より闘神に傾いて肉体的、物的な力が優れていても、そのせいで祖が持っていた権能のかなり大部分を受け継いでいないため、空間の転移もかなり下手くそなのだ。


(しゃあない。4日間裂け目を作りながら、この女の子を守るか)


 そのため空気が淀んでいる様に感じるこの妖界で、少しずつ時空の裂け目を作りながら、桜を守ることを決心する墨也であった。


 ◆


「ここらでいいか」


 赤茶けた大地と陰気な森が続く妖界で、墨也は比較的見通しがよく、かつ全方位を警戒できる場所を選んで、そこをキャンプ地とした。


「あの……私達、無事に帰れますか?」


「当然だとも。なにせ俺がいる」


 普段の明るさからは考えられない暗い顔の桜に、墨也は敢えて自信満々な顔でそう答える。いや、実際に妖界で無事なのは間違いないのだが、問題なのはこの男が結構不器用なため、元の世界へ続く次元の裂け目を作れるかという事だろう。


「という訳で、そりゃ!」


 墨也は適当な場所に自分の力を送り込んで、徐々に空間の裂け目を作り始めた。


「よし」


「えっと、あれは?」


「空間の裂け目を作ってる。後はあれに力を送り込んでたら大丈夫だ」


 空間の揺らめきに戸惑う桜に対して説明する墨也。この作業には特段特殊な工程を踏まず、単に墨也の力を送り続けるだけで完成する。


「そんじゃ飯にしようか」


「え? わ、わ、わ!?」


 何も持っていない墨也が飯にしようと言い出したのだから、桜は意味が分からなかったが、墨也が自分の体に手を突っ込んで引き抜くと、ガスコンロに鍋、水が入ったペットボトル、インスタント食品が次々と現れ、しまいにはテントや寝袋まで出て来た。


「ひいひい爺さんとひい爺さんによくアウトドアに連れていかれてな。その時に1年くらい生活できる物を入れとけって詰め込まれたんだ」


「は、はあ」


「ああ安心しろ。4日くらいで帰れるけど、聞いた話、妖界じゃ時間の流れが違うから、現実世界じゃほんのちょっとしか経ってない筈だ。家族が余計な心配をすることはない」


「そ、そうですか!」

(それじゃあ赤奈先輩も心配せず済む!)


 勝手に話を進める墨也に、違うそうじゃないと突っ込む者はいなかった。それどころか、桜は愛する赤奈を心配させずに済むと、むしろ喜んでいたくらいだ。


「そんじゃまあ座って何か食べな。おすすめはこの塩ラーメンだ」


「頂きます!」


「おう食え食え」


 その愛する人の元へ帰れる希望が湧いた桜は、カラ元気だったが墨也の勧めに従って腰を下ろす。


 もう少し考えるべきだった。自分の尊厳を守ってくれた男と、今まで会って来た男の中で、無意識に最も力強く頼りになると思った男と、4日間寝食を共にして、襲い掛かって来た妖達から守られたら、自分がどうなってしまうかを……。

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