一条墨也という男

 冬の季節に一条墨也の第一印象を尋ねられると、多くの者が考え込むだろう。20代前半で老けてはいない。身長も平均的で、別に美形でもないし、眼鏡やピアスもしていない。髪の方は伸びたら丸坊主にして、視界に前髪が入り始めたら、また丸坊主にしてのサイクルなため、整えられた髪とは全く無縁ときた。そのため第一印象を聞かれた者は考えた末、優しそう、とか、温和そう、といったありきたりな答えを返すだろう。


 しかし、夏場で彼が半袖を着始めたら話は全く違う。袖から露出している腕が逞しすぎるのだ。筋肉の筋はこれでもかと盛り上がり、その表層をくっきりはっきりと血管が浮かんでいて、服を脱がせば全身まさに鋼の肉体。叩けば金属音がしたとか、机にぶつかったら机の方がへこんだなどと、半ば本気で信じられているような肉体を持つ。


 そんな彼の仕事は、一昔前は指圧師と呼称され、現在では気圧師と呼ばれる職業であった。これは退魔の力とともに発達した職で、人体のツボを刺激して気脈を整える、東洋医学が基礎となっていた。


 そんな気圧師の中で、足ツボを刺激する事を専門としている墨也だが、では患者からの第一印象はどうかというと、施術着から覗いている腕の逞しさから、10人中10人がこの先生は痛そうだと思われるのが常であった。


 では実際、彼の施術の感想を聞いてみると。


「痛いとしか言いようが無い」

「死ぬかと思った」

「足が無事なのが不思議でならない」

「ひゅー……ひゅー……」

「もう二度とあの人には担当されたくない」

「気は整えられたけど、もっとうまい奴はいくらでもいる。痛さでは世界最高の腕前だけど」


 不評も不評。大不評であった。どれくらい大不評かというと、世界的に見て有名な気圧師の病院なため、数多くの気圧師がいるにも関わらず、彼はインターネットの口コミで名指しされた上で、病院変えました、二度と行かない、あいつ一人で病院を潰すと、散々な言われ様であった。


 そのためこれは必然であった。


 ◆


(はて、院長に呼び出されたが何の用だ?)


 墨也は充実していた。頼れる上司や同僚達、つまり真の仲間に囲まれて、同じ患者を診てその声を聞き、彼らの助けをしているのだ。残念ながら若干不器用なため、気圧師としての技術はまだまだ発展途上だが、きちんと仕事はこなせている。そう思っていた彼だが、特に身に覚えがないのに院長室に呼び出されて首を捻っていた。


「院長、一条墨也です」


「入りたまえ」


 この瀬田伊病院の院長室に、ぺーぺーの新米からようやく脱却した墨也が入る機会などそうはない。それこそぺーぺーの新米として就職した時、あいさつに訪れただけで、墨也は非常に緊張していた。


 その院長室の主は、机に座って墨也をじっと見ていたが、その机には座っている院長の頭の位置まで書類が積まれており、彼の忙しさを物語っていた。


「早速本題に入るが、君をこれ以上この病院に置いておくことは出来ない。残念だが解雇する」


「そ、それは自分を追放するという事ですか!?」


「うん? 追放?」


 唐突に切り出された話に、墨也はつい反射的にそう返してしまうが、院長にすれば解雇の話をしたら追放と言い直されたことに困惑するしかない。


「自分はちゃんと仕事してますし、本当の実力を隠してる訳でも、適性がないのを無理にやってもいません!」


「ちゃんと仕事する事は当たり前だし、仕事で実力隠すなんて意味分からんし、適正ない奴が無理に病院の専門職やってたら大問題だから」


「じゃあどうして自分を追放するんですか!?」


 さっぱり自分が追放される理由が分からない墨也は、そう院長に食って掛かる。


「先程言っただろう。適性のない奴が、病院の専門職をやっていたら大問題だと」


「はい?」


 至極冷静な院長の言葉に、墨也はやはり意味が分からなかった。


「これ、なんの書類だと思う?」


 そう院長が指差したのは、自分の顔の高さまである書類の山だ。


「病院全体の書類では?」


 なんの書類と問われても、これだけ山となっていたら、なにか特定の書類という訳ではないだろうと、とりあえず病院全体のものだと答えた墨也だが、それは大きな間違いだった。なにせその書類の要件はたった一つなのだから、


「君に関する苦情だ。これ全部」


「え!? 自分に苦情!?」


 墨也はこの院長室に来てから問い返してばかりだ。


「まあ見てみたまえ」


 院長の促しに、墨也は慌てて書類を見たが、まあ書かれてる内容はそう難しくない。大体二通りで、墨也の施術が痛い、この病院にはもう来ない。要約するとそのような事が書かれていた。


「こ、こんな……」


「君の技術は必要なレベルに、まあ……達していたため、今まで知らせずに、君のスキルが更に上がることを待っていたのだが、これ以上はもう耐えられんのだ。それにあの件がマズかった……」


「あ、あの件とは?」


 墨也が事故やミスをしたわけでもないため、病院としても出来れば穏便に済まそうとしていたが、とある一件が完全に止めとなっていた。


「つい昨日、君から施術を受けた者が、魔気無異学園理事長の息子だったようで、殊更大きく騒いでいるのだ」


「昨日?」


 昨日と言われて墨也は思い出した。


『はい腰な。酷使し過ぎて凝っちゃったんだよ。あ、アンタには何のことか分からないだろうけどね。それと保険適応よろしく』


 ガムを噛みながら、診療台によっこらせと寝転んだ、色黒金髪でピアスを耳に幾つも付けた青年が、何処も悪くないのに単にマッサージを要求して、しかもそれを保険適応しろと宣った事を。


『それは診察した医師にお願いします。自分にはその権限がありませんので』


『あーはいはいよろしくね』


(……医師にぶん投げよう!)


 全く会話が噛み合わなかったが、墨也はこの時点で既に心を無にしていたため、この男を診察して施術室に寄越した医師にぶん投げた。


『それでは腰のツボを刺激します』


『いちいち言わなくていいから』


(それをいちいち言わなくていいだろ!)


 墨也は無にした筈の心でイラつきながら、腰に効く足ツボを刺激したのだが、ここで二つの問題があった。


 青年の方は、腰を直接マッサージするものと思っていた事と、なにより


『ぎゃああああああああああああああああああ!?』


 墨也の施術がくっっっっっっそ痛い事だ。


『て、てめえ何しやがる! このクソボケ!』


『いやなにって、腰に効くツボを刺激してたんですけど』


『ざけんじゃねえ! 院長出せこら!』


 と、ひと騒動起こったのだが、ここで問題だったのがこの青年の親が、事実上この瀬田伊市を支配している、魔気無異学園の理事長だったことだ。


 魔気無異学園は現代に溢れた魑魅魍魎を討滅する、通称マキナイと呼ばれる存在を育成するための学園で、国政と非常に強い繋がりがある為、この瀬田伊市はこの学園を中心に回っている。つまりそこの理事長の息子と揉めたとなると、瀬田伊市に居を構えるこの病院は、非常に面倒になることは目に見えていた。


 結果、これが最後の止めとなって、病院理事会が墨也の解雇を決定したのだ。


「分かってくれ。退職金と今月分の給金はすぐに入金されるようにしてある。それとまだ年初だが、今年度のボーナスも先払いだ」


「……ありがとうございます。お世話に……なりました……」


 その事を説明された墨也は、最早どうしようもないと項垂れ、院長なりの精一杯の餞別に感謝を伝えて部屋を後にした。


 だがその餞別の中に、次の仕事先が無いのは当然だった。気圧師が主に相手をしているのはマキナイなのだ。例え瀬田伊市の外に出ても、そのマキナイ達の総本山ともいえる様な、魔気無異学園の関係者と揉めた墨也を引き取る病院は何処にも無いだろう。


 ◆


「ふひ、ふひひ。無職になっちまった。もうだめだおしまいだ。こうなったらひいひい爺ちゃんの世界に行って、そこで農作業するしかない。ふひひひひひ」


 墨也が病院から去るため色々と整理し終わって、外に出ると当たりはもう真っ暗であったが、彼の心とお先も真っ暗だった。それはもう真っ暗で、ひいひい爺ちゃんの世界などと、よく分からない事を言っていた。


『なんだあの引き笑い……』

『こわ』

『ママーあのおじさんどうしたのー?』

『しっ。見ちゃいけません』


 周りの声も全てしっかり聞こえていたが、墨也の心は当然晴れない。


 タタタジャリジャリトタタトタトタトトトタタタタ


 周りの足音も全てしっかり聞こえていたが、墨也の心は当然晴れない。


 ドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクドクドクンドクンドク


 周りの心音も全てしっかり聞こえていたが、墨也の心は当然晴れない。


『腹減った』『飲みに行こう』『うえ、ガム踏んじゃったよ……』『やっば、バイトに遅れそう』『あ、もしもし母ちゃん?』『お待たせー』『もしもし聞こえますか……聞こえますかマイグレートグレートグランドサン』『あははは!』『牛丼でも食べに行こうかな』『インド料理屋のカレーとナンに嵌っちゃってさ』『いやあああああ! 妖の赤ちゃんなんか産みたくないいい! 赤奈先輩助けてえええ!』『しまった今日特売だった』『あれ、財布がない?』『おーいこっちこっち』『へっくしゅん!』


 勿論、助けを呼ぶ声も。


『変身』


 それを見た者は誰もいなかった。


『邪神形態』


 黒が、呪いが、死が、怨が、恩が、呪が、祝が、太く、逞しく、巌のようなその身に巻き付く。締め付ける。絞り上げる。


 パンパンだった体が常人より更に細くなり、圧縮されたその姿。全身が漆黒の人型は、肘あり膝あり手あり足あり。しかし、口なし鼻なし耳なし。ただ眼だけが燃ゆる深紅の瞳。


 非常にスリムな外見だが、恐るべき密度まで圧縮された体の祖は、人類の到達点。恐るべき悍ましさを秘めた呪の祖は、大邪神。


『待ってろ』


 夜の街を暗黒が疾駆する。


 この世界で最も強き、呪と力。


 最強の呪力の化身が。


「わ、私は! 私は妖なんかに絶対負けないんだから!」


『そうとも』


「え?」


 善なる少女を守るため、その力を解き放った。

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