カクリヨヒメ

時田宗暢

第1話 カクリヨヒメ

 受付カウンターに現れたその少年は、まだ中学生くらいに見えた。

「診察を、お願いします。」

 受付事務員の女性は、差し出された健康保険証をちらりと確認しながら、ゆっくりと口を開いた。

みなと貴文たかふみくん? 事前に予約はされていますか?」

「いいえ。」

 貴文は、若干苛立たしげに言った。

「ええと、大変申し訳ないんですけど、基本的にこの病院は、事前予約が必要で……」

「学校を午後休んでここに来ました。両親に見つからないように、保険証も親に黙って持ち出して来たんです。今日診てもらわないと困ります。」

 やんわりと断りを告げる事務員に対し、貴文は非難するような口調で言葉を投げつけた。

 成程、面倒なタイプの患者だ、と職業柄すぐに察した事務員は、少し待つように貴文に告げると、パーテーションの向こう側に消えていった。どう対応するにせよ、この病院の責任者である医師の判断が必要になる。

 暫くして、パーテーションの奥の方から出てきた事務員は、貴文に待合室に入るように告げた。

「診察は大分後の方になるかもしれませんけど、よろしいですか?」

「構いません。」

 後から文句を付けられないよう、マニュアル通りに聞く事務員に対し、貴文は会話を断ち切るような調子で言った。

 貴文が診察室に呼ばれたのは、それから2時間ほど経ってからであった。

 診察室には、利発そうな男性医師と、彼の秘書のようにPCに向き合う看護師がいた。

「湊貴文君だね。私はこの天海メンタルクリニックの院長を務めている天海あまみと言います。お待たせしてすみませんでした。どうぞ、そこにかけてください。」

 天海と名乗った医師は、貴文に座るよう促し、貴文も無言でそれに従った。

「今日は、どういった用件で?」

「……」

 貴文は、押し黙ってしまった。一体何から話せばよいのか、思案している様子であった。

「ゆっくりでいいよ。焦らずに、君が思っていることを話してくれればいい。」

 こういった患者の対応には慣れているのか、天海は貴文の緊張を和らげるように言った。

「……ここは、心の病気の人が来るところって聞いています。」

 貴文は、天海の様子を窺うように、上目遣いで言った。

「正確に言えば、ここは心療内科。ストレスや様々な不安を抱えた人たちのケアを行ったり、相談に乗ったりする場所です。雑談のような形でも構わないので、何でもお話しいただいて構いません。」

 どこかはぐらかす様な口調で、天海が答えた。

「……これから話すことは、誰にも言わないと約束してください。親にも、学校にも、警察にも。」

「患者さんのプライバシーは厳守します。安心してください。」

 詰問するような口調の貴文に対し、天海は当たり障りのない回答を返した。警察にも、という言葉が少し気になったが、敢えて受け流した。

「……俺は、ひょっとすると、おかしくなっているかもしれないんです。」

 天海の言葉に安心したのか、貴文は重い口を開いた。

「おかしくなっている、と言うと?」

 天海は、あくまで平静を装い、貴文の言葉に耳を傾けた。

「……人を、殺しました。」

 PCのキーボードを打っていた看護師の手が、一瞬びくりと止まった。天海は努めて平静を装い「記録を続けて」と促すと、貴文の方に向き直った。

「でも、分からない。俺が殺した証拠が無いんです。殺したはずなんですけど、その記憶すら定かじゃない。ああ、すみません。いきなりこんな話が飛んじゃって。最初から話しますね。こんなことになってしまったのは、その、俺が同じクラスの女の子と知り合ったのが原因なんです。彼女は怪物で、ああいや、厳密には怪物じゃないんですが、そういうことになっていて、その……」

 貴文は、明らかに混乱した様子であった。

「落ち着いて。ゆっくり、最初から話してごらん。」

 天海は、混乱して取り留めも無い話を続ける貴文を宥めるように言った。

「……すみません。さっきも話した通り、俺はもう、自分の正気すら信じられないんです……」

 貴文は悄然と俯くと、重い溜息を漏らした。

「だから、これから話すことは、おかしなことだらけだと思います。でも、どうか最後まで聞いてください。俺が覚えている限りの、真実を話します。」


 俺が最初に同級生の金成かなり明美めいみの存在を気に留めたのは、5月の体育大会の時でした。体育大会っていうのは、俺が通っている中学校で毎年この時期に行われているイベントの一つです。クラスの親睦を深めるという名目で開催されている全校行事なんですけど、まあ言ってしまえば、毎年惰性で行われているだけのイベントです。だから、大半の生徒にとっては遊びの延長のような感じで、真面目に取り組んでいる人は殆どいませんでした。

 俺が在籍している2年C組は、午後の部が始まって早々に、全ての種目で負けてしまって、15時の終了時間まで完全に暇を持て余してしまったんです。

 で、担任の先生は「他のクラスの応援か観戦に行け」ってみんなに言ったんですけど、真面目に従う子はあまりいませんでした。殆どの生徒は、まとまってお喋りをしたり、観戦そっちのけで他のクラスの友人とふざけ合ったり、知らぬ間にどこかへ遊びに行ってしまう人もいました。

 俺は、クラス替えしてすぐだったこともあって、親しい友人が殆どいなかったんで、取り敢えずグラウンドの端っこで、他のクラスの競技をただぼーっと眺めていました。

 その時、校門から校内に入ってくる人影に気付いたんです。

 一目見て、おかしい人だと気づきました。遠目でも分かるくらいボサボサの髪や、酒に酔っているとしか思えない歩き方。そして着ている服は、よれよれのパジャマでした。

 その、見るからにおかしい人が、俺達がいる校庭の方に近づいてきました。俺はすぐ近くにいた先生に「校庭に変な人が入ってきた」と教えました。

 何人かの先生が、その不審者の方に向かっていきました。その時にはもう、その不審者は校庭の中に入って来てしまっていて、俺の所からも、その人の顔つきが見えました。

 遠目で見ていた時よりもはっきりと、俺はその不審者の男に嫌悪感を抱きました。垢じみた顔に血走った目。口元からは涎を吹き散らしながら、自分に駆け寄ってくる先生たちに何事か喚いていました。

 その時にはもう、周りにいた生徒たちも、男に気付いて騒ぎ出していました。先生たちは、体育大会を中止して、生徒たちを校舎の中に誘導し始めました。

 その時、俺はその男が、逃げるように立ち去る生徒たちの一人に、手に持ったスマホを向けて何か叫んでいることに気付きました。

 「カクリヨヒメ! カクリヨヒメ!」って。

 俺は逃げながら、不審者の男がスマホを向けている先を見ました。

 そこにいたのが、同級生の金成明美さんでした。

 俺はそれまで、金成さんのことを気に留めたことはありませんでした。4月のクラス替えで一緒になったんですが、彼女は目元に若干癖があること以外、本当に特徴が無い子で、失礼な話なんですけど、注目する要素が一個も無かったんですね。

 でもその時、初めて金成さんが、何て言うか、凄く印象的に俺の目に映りました。

 不審者から逃げる生徒たちが、みんな怯えていたり、何が何だか分からないって表情をしている中で、彼女だけが、とっても冷めた表情をしていたんです。冷めている、というより、ただひたすらに見下しているって感じでした。不審者だけでなく、周りの生徒たちも含めた全部を。

 その表情があんまり印象的だったんで、俺はつい、じろじろと金成さんの顔を見てしまったんです。彼女は、すぐに俺が自分を見ていることに気付きました。そして、真っ黒い瞳で、じっと俺のことを見つめ返して来たんです。

 俺は思わず顔を逸らしました。単純に、怖かったんです。何て言っていいか分かりませんけど、その時の彼女の表情は、人間の形をしているだけで、人間じゃないような、そんな感じでした。変な言い方かもしれないけど、俺は本当にそう感じたんです。

 俺は金成さんから目を逸らして、そのまま脇目も振らずに校舎の中に逃げました。校舎の中には、連絡を受けた先生たちが待っていて、俺達を体育館へ誘導しました。俺は不審者より、金成さんの目から逃げたい一心で、一目散に体育館の中へ駆け込みました。

 体育館に生徒が集められた後のことは、正直よく覚えていません。みんなどうしていいのか分からない感じでしたし、先生たちも大分混乱していました。

 1時間くらい経った後、学年主任の先生がみんなの前に出て来ました。先生は、不審者は既に駆け付けた警察に逮捕されたことを告げると、念のため、今日はもう全員下校するよう、生徒たちに伝達しました。可能な限り集団下校するか、家の人に迎えに来てもらうようにとも言っていました。

 俺の両親は共働きだったので、迎えには来られません。さらに運の悪いことに、帰る方向が同じ友人もいませんでした。不審者は逮捕されたとのことでしたが、俺はむしろ、さっき逃げる時に見た金成さんの顔の方が、ずっと恐ろしく心に残っていたので、一刻も早く、学校を立ち去りたい気持ちを抑えられませんでした。

 学年主任の話が終わるとすぐ、俺は一人で玄関に向かいました。変な事件があった後なので、一人で帰るのは少し心細かったですが、とにかく早くこの場を立ち去りたい気持ちの方が強かったので、俺は一人で帰ることに決めました。

 校門の辺りに差し掛かったところで、後ろから声を掛けられました。

「湊君?」

 振り返ると、そこには金成さんがいました。俺は、心臓が跳ね上がるくらい驚きました。

「一人で帰るの? 先生に集団下校するように言われていたよね?」

 金成さんは、俺が何か言うよりも先に、畳みかけるようにそう言いました。

「帰り道、一緒の方向の友達、いないんで……」

 それは本当のことだったし、別に何も悪いことじゃなかったんですけど、俺は何故か、後ろめたいような、何かを誤魔化しているような、まるで自分が彼女を騙しているような気持になっていました。

 何故かって? 怖かったんです、彼女の顔が。

 いや、単に俺の思い過ごしというか、変な事件があった後で精神的にナーバスになっていただけなのかもしれません。でも、本当に怖かったんです。どこがどう怖かったのかは、上手く説明できません。俺自身にもよく分からなかったんです。ただひたすら、俺は彼女の何てことない表情が怖くて、逃げ出したかった。それだけです。

「じゃあちょうどいいや。一緒に帰ろう。」

 そう言うと彼女は、訳も分からず立ち竦む俺の背を押して、半ば強引に校門の外に連れ出しました。

「え? 金成さんの家って、俺と同じ方向なの……?」

 全く話したことも無い女子に強引に連れ出されて、俺は何が何だか分からないまま、間抜けな感じで彼女に質問しました。

「湊君に関係ないでしょ、そんなの。」

 彼女の返答は、よくよく考えれば全く意味不明なものでしたが、その時の俺は、彼女の気迫というか、威圧感というか、そういう有無を言わせぬ感じに、ただ圧倒されていました。

 その時、俺は彼女に「捕まってしまった」と感じました。逃げるべき存在に、捕まってしまった。直感というか、本能的に、はっきりとそう感じたんです。

 俺は、何とか彼女から逃げ出したかったんですが、逃げ出す口実も、彼女を置いて逃げる度胸もありませんでした。

「あ、あの、金成さん……」

「なに?」

「えっと……」

「用も無いのに話しかけないで。」

 金成さんは、ずっとこんな感じで、一緒に帰ると言いながら、俺を威圧するような態度を崩しませんでした。集団下校のためというのは単なる口実で、俺を監視するために一緒にいるんじゃないか。そんな疑念が、段々と俺の中で大きくなっていきました。

 ……はい、先生が考えていることは分かっています。頭のおかしい人間の妄想そのものですよね、俺の話。でもどうか、最後まで聞いてほしいんです。

 結局俺達二人は、ろくに会話もしないまま、俺の家の前まで到着しました。俺はほっと胸を撫で下ろすと、彼女に別れの挨拶をして、家の中に入ろうとしました。

 その時、金成さんが、後ろから声をかけてきたんです。

「湊君。さっきのグラウンドでの騒ぎの時、ずっと私のこと見ていたよね。何で?」

「えっ?」

 全く不意に、一番避けたかった話題を持ち出され、俺は面食らって言葉に詰まってしまいました。

「私を見る理由があった?」

「あの……」

「質問を変えよっか。あの変質者のオッサンが、私に何か言うのを聞いた?」

「……」

 冷や汗が全身に噴き出て、今にも卒倒しそうな気分でした。俺は金成さんの顔をまともに見ることが出来ず、ただ俯いて、黙っていることしかできませんでした。

「あの……」

 沈黙に耐えられなくなった俺は、意を決して頭を上げました。とにかく、無理矢理誤魔化してでも、その場を切り抜けなければならないと思いました。

 でも、俺が顔を上げた時、さっきまで目の前にいた金成さんは、影も形も無く消えていました。はい、本当に足音すらなく、いつの間にかいなくなっていたんです。

周囲を見回しましたが、どこにも、彼女の影すらありませんでした。金成さんは、完全に消えていました。

 俺は、得体の知れない恐怖を感じて、すぐに家の中の、自分の部屋に逃げるように駆け込みました。そして頭から布団を被って、蛹のように夜までじっとしていました。

 仕事から帰ってきた両親に呼ばれて、気の進まないまま夕食を食べた後も、俺は自分の部屋にずっと閉じこもっていました。その内、夜も更けて、そろそろ寝ないと明日に差し支える様な時間になりました。でも、眠気はおろか、眠ろうという気にすらなれませんでした。

 俺はふと、あの不審者の男が言っていた言葉――「カクリヨヒメ」という言葉を、何の気なしにスマホで調べてみました。

 

カクリヨヒメ:20XX年頃から、インターネット上で囁かれている都市伝説。

罪業を背負った人間と、その親族関係者の前に現れ、その魂を地獄に堕とすとされる死神のような存在。少女の似姿を持つという。


 俺は、思わず吹き出してしまいました。罪人の魂を地獄に堕とす? 死神? 都市伝説? 俺はそういったオカルトじみた話は全く信じていない方だったので、馬鹿げた作り話のようにしか思えませんでした。

 つまりあの不審者の男は、この馬鹿げた都市伝説を本当だと信じ込んで、その妄想に突き動かされるまま、俺達の中学校に乗り込んできたという訳です。そう考えると、なんだか馬鹿らしくて、訳も分からず怯えていた自分が滑稽に思えてきました。

 金成さんの変な態度も、きっと不審者事件で彼女もちょっとナーバスな感じになっていたんだろう。そうやって無理矢理自分を納得させると、俺は急に襲ってきた睡魔に身を任せて、眠りにつきました。

 翌朝、俺は母親が自分を呼ぶ声で目を覚ましました。リビングに下りていくと、父親は既に朝食を済ませて会社に出た後で、母親だけがテーブルに座っていました。母親は昨日の中学校への不審者の侵入事件をTVで知ったらしく、「どうして昨日お母さんに話さなかったの」と、半ば非難するような口調で俺に言いました。

「ああ、ごめん。俺、その男のこと間近で見ちゃってさ。ちょっとショックが大きかったというか……」

 そういえば家族には昨日のことを何も話していなかったな、と俺は軽い気持ちで、母親の言葉を受け流そうとしました。

「その男の人、お母さんの元同僚だったの。」

「えっ?」

 母親の予想外の言葉に、俺は一瞬言葉を失ってしまいました。

「お母さんの会社の同じ部署で働いていたのよ。最初にニュースで名前を見た時、もうビックリして……」

「別人じゃないの? どう見てもまともな人間じゃなかったよ?」

 俺の母親は、パートタイム職員としてとある外資系商社に勤務していました。そこそこ名の知れた会社で、昨日俺が見た社会性の欠片も無い不審者とは、どうしても結びつきませんでした。

「写真も出ていたから間違いない。あれは須藤さんよ。去年の暮れに会社を辞めて、それっきり誰も連絡がつかなくなっちゃったの。」

「……何か問題でも起こしたの、その人?」

 母親は俺の言葉に、一瞬言い淀みましたが、こっそりと耳打ちするような口調で話を続けました。

「弟さんがね、問題を起こしちゃったの。」

「問題って?」

「須藤さんの弟さんは、高校の先生で既婚者だったんだけど、教え子の女子生徒と不倫して駆け落ちした挙句、心中未遂を起こしちゃったんだって。」

「えぇ……」

 あまりにも無茶苦茶な事件内容に、俺は絶句してしまいました。

「でもね、相手の女の子は死んじゃったんだけど、弟さんだけは生き残ってしまって……。そうなるともう、凄まじい訳よ、バッシングというか誹謗中傷が。事件を起こした弟さん本人だけでなく、須藤さんも含めた家族全員の世間体も悪くなっちゃったの。それである日、唐突に辞表を出して、それからは行方知れず。」

 母親の話を聞いて、俺は昨日の夜調べた「カクリヨヒメ」のことを思い出していました。

 罪業を背負った人間と、その親族関係者の命を奪いに現れる、死神――

 まさかと思い、俺は母親に尋ねました。

「その須藤さんのことで、他に知っていることは無い? その、弟さんのこととか?」

「やけに食い付くじゃない。噂好きの主婦みたい。」

 母親は茶化すように言いながら、話を続けました。

「須藤さんは、同僚の人達が心配して何度か連絡したんだけど、電話もメールもLINEも一返信無し。弟さんは確か、結局亡くなったとか聞いたな。」

 死んだ――。

 俺は、本気で背筋が寒くなるのを感じました。昨日調べた時は、単なる与太話としか思えなかった「カクリヨヒメ」の都市伝説が、身に迫る恐怖として、自分自身に感じられたんです。

 昨日の放課後の、金成さんの自分に対する得体の知れない態度が、再び心の中に蘇ってきました。何を考えているのか全く分からない金成さんの表情かおが、心の闇の向こう側から、俺を嗤っているように思えました。


 全く気は進みませんでしたが、取り敢えず俺は、普段通りに登校することにしました。何とか理由を付けて病欠しようかとも思いましたが、そういう時に限って、体調は健康そのもので、休む理由が見つかりませんでした。

 ひょっとしたら、昨日の事件の影響で、今日も早退になるかもしれない、という淡い期待を抱いて登校しましたが、結局、その希望はあっさり打ち砕かれました。怪我人も壊された物も無かったことから、昨日の不審者については、ホームルームでの注意喚起のみで済まされ、その日は通常通りの授業を行うことが担任の口から告げられました。

 他の生徒たちから幻滅した声が漏れる中、俺はただ、金成さんの様子だけが気になっていました。「カクリヨヒメ」の話を完全に信じていた訳ではありませんが、母親から聞かされた話があまりにもショッキングで、どうしても不安というか、恐怖心を拭い去ることが出来なかったんです。

 あの不審者の男は、確かに金成さんのことを見て、カクリヨヒメと叫んでいました。弟さんの事件で正気を失っていて、それで得体の知れない妄想に取り憑かれたのか。でもそれならば何故、わざわざこの中学校に乗り込んできて、そして取り立てて目立つわけでもない金成さんをカクリヨヒメだと思い込んだのか。そして放課後の、金成さんのあの不可解極まりない行動は一体何だったのか……

 意味が分からないことばかりで、俺は、自分の不安や恐怖をどう解消してよいか分かりませんでした。

 ちらりと、横目で金成さんの方を見ました。彼女は俺が座っている位置から少し離れた、窓際の座席に座っていました。そういった位置関係もあって、俺は彼女の表情を伺い知ることはできませんでした。ただ、横目で見る限りでは、彼女の様子にいつもと変わったところは全くありません。周りの生徒たちの様子も同様でした。

 前日の事件の際、「カクリヨヒメ」という言葉を聞いたのは、どうやら俺だけのようでした。そう考えると、不安と恐怖はより深刻になっていきました。それはつまり、もし万が一、あの不審者の言うことが本当だとしたら――金成さんが、都市伝説に言われるカクリヨヒメだったとすれば、その秘密を知っているのは、他ならぬ俺一人ということなのです。

 その日の授業の内容は、碌に頭に入ってきませんでした。休み時間になっても、頭の中で色々な考えや妄想がぐるぐる渦を巻いて、俺は机に向かったまま殆ど固まっていました。

 そんな時、友人の一人が、俺に声をかけてきました

「おい湊。お前昨日、金成さんと一緒に帰ったんだって?」

 その友人は、からかうような調子で話しかけてきましたが、その時の俺は、とてもまともに返答する気力はありませんでした。

「ただ帰る方向が一緒だっただけだ。」

 面倒臭そうにそう言いましたが、友人は照れ隠しのようなものだと勘違いしたようでした。彼は、さらに話を続けました。

「へぇ、その割には随分とぴったりくっついて歩いてたって話だけど?」

「誰が言ってんだよ、そんな話。」

「みんなもう噂してるぜ?」

 俺はぎょっとしました。噂の伝わるスピードは速いと言いますが、それにしたっていくら何でも度を越していると感じました。

 そう言われて周りをよく見てみると、クラスメイト、特に女子は、俺の方を見て何やらヒソヒソと噂話をしているのが分かりました。明らかに下世話な興味本位で、俺の方を見ている様子が、ありありと見て取れました。

「馬鹿馬鹿しい。ただ一緒に帰っただけだよ。」

 怒ったようにそう言うと、俺はトイレに行くふりをして、教室を出ました。

 教室を出る間際、ちらりと金成さんの方を見ましたが、彼女は何の興味も無さそうに、ボーっと窓の外を眺めていました。

 君のせいで俺は最悪な気分なんだぞ、と八つ当たりのような感情が浮かび上がりましたが、その感情をぶつける相手も物もなかったので、俺はただその場を離れることしかできませんでした。

 結局、その日は授業の内容も全く頭に入らず、俺はホームルームの終了と同時に、逃げるようにして学校を出ました。とにかく頭の中がぐちゃぐちゃで、感情の整理が出来ず、その場から逃げ出したかったんです。

「湊君。」

 校門を出た辺りで突然、後ろから話しかけられ、俺は驚いて振り向きました。

 その声を聞き間違えるはずがありません。後ろに立っていたのは、金成さんでした。彼女は、昨日と全く同じシチュエーションで、音も無く俺の背後に現れたんです。

「な、なに……?」

 突然後ろに現れたこともそうですが、彼女が今更俺に何の用事があるのか、まるで理解できず、俺はそう返すのがやっとでした。

「昨日湊君と一緒に帰ったせいでさ、何かクラスのみんなに変な噂されてるんだよね。君と私が付き合ってるって。」

 前置きも何もなく、金成さんはそう言いました。俺はもう何と言って返事をすればいいのか分からず、その場に立ち尽くしてしまいました。

「黙ってないでさ、一緒にどうすればいいか考えてほしいな。私も迷惑だし。」

「どうすればって……」

 淡々と責める様な口調の金成さんに、俺は完全に圧倒されていました。まるで、蛇に睨まれた蛙のような気持でした。冷静に考えると、クラスの皆に誤解される原因を作ったのは金成さん自身なので、彼女の言い分は完全な言いがかりなのですが、その時の俺は、彼女の迫力に圧倒されて、そんなことにすら思い至りませんでした。

「湊君も迷惑だよね、みんなに変な噂されるのってさ。」

「う、うん……」

「じゃあさ、噂じゃなくて本当にしようよ。」

「え?」

 何から何まで全く理解できない彼女の、極めつけの台詞でした。俺は言葉の意味すら分からず、思わず彼女に聞き返してしまいました。

「本当にって?」

「本当に付き合ってることにしよう。そうすれば、噂もすぐに止むよ。」

「え? え?」

 訳も分からず、言葉を詰まらせることしかできない俺に、ゆっくりと金成さんが近づいてきました。彼女は無造作に俺の手を取ると、引きずるようにして歩き出しました。

「ちょ、ちょっと待って! 意味分かんないって!」

 俺は完全に混乱して、素っ頓狂な声を上げることしかできませんでした。

「変な声出さないでよ。私がおかしなことをしているみたいじゃない。」

 混乱する俺を意に介する様子も無く、金成さんが言いました。

「ごめん、本当にごめん。金成さんの言ってること、全然分かんないから!」

 俺は、半ば無理矢理、金成さんの腕を振り切りました。

 金成さんは、そんな俺をただじっと見つめていました。昨日、不審者から逃げている時に見せていた、あの真っ黒い瞳で。

 俺は(そんなことは全く無いはずなのに)何だか自分が彼女に悪いことをしてしまったような気がして、ただその場に立ち竦みました。

「だからさ、私達が本当に付き合ってるってことにしちゃえば、みんなすぐ噂にもしなくなるでしょ? 付き合ってるんだか付き合ってないんだかよく分からないから、みんな変な噂を立てるんだよ。」

 彼女の言葉は、説得力があるような無いような、微妙な感じでしたけど、その時の俺には反論する余地はありませんでした。

「いや、その……金成さんはいいの?」

 そう返すのが精一杯でした。

「私は変な噂を立てられる方が、百倍くらい迷惑。で? 湊君はどうするの?」

 質問する体でしたが、金成さんの言葉は、有無を言わせない感じでした。

「……分かった。」

 蛇に睨まれた蛙の如く縮こまりながら、俺はそう答えるしかありませんでした。

 金成さんは、その言葉を聞くと、にんまりと笑って俺の手を取りました。

「付き合ってるんだからさ、手くらい繋ぐのは当然だよね? さっきみたいに、振り払ったりしないでね?」

「う、うん……」

 最早主導権は、完全に彼女の側にありました。その時の俺は、ただ彼女の成すがままに任せることしかできませんでした。

 俺達は手を繋いだまま、あてどもなく街を歩きました。俺は、女の子と手を繋いで歩いたのは初めてだったので、ただただ気恥ずかしかったです。途中、何人かのクラスメイトともすれ違いました。俺は顔を伏せることしかできませんでしたが、金成さんは気さくに挨拶していました。クラスメイト達は、勝手にこちらの関係を察して、すぐに立ち去っていきました。

「湊君も挨拶しなよ。変に思われるじゃん。」

 金成さんは、咎める様な口調で言いましたが、俺はとても顔を上げる気にはなれませんでした。

「いや、その、こういうのって初めてだから、どう反応していいのか……」

 あまりにも恥ずかしすぎる釈明でしたが、俺にはそう答えるのが精一杯でした。

「見た目通り、初心うぶなんだね。なんか可愛い。」

 悪戯っぽく笑いながら、彼女はそう言いました。本心からの言葉なのかは全く分かりませんでしたが。

 そのうち俺達は、駅前の交差点に差し掛かりました。俺は、彼女がどこに向かっているのか皆目見当がつかなかったので、堪りかねて聞きました。

「金成さん、ちなみになんだけど、一体どこに行こうとしてるの?」

「デートなんだから特に目的は無いよ。ただブラブラ歩きたいだけ。」

「デートって……」

 先程の付き合う宣言もそうですが、いきなりデートと言うのも意味が分かりません。一体全体、彼女の思考回路はどうなっているのか、俺の頭は不思議でいっぱいでした。

 それと同時に、次第に冷静になってくる頭で、彼女の態度に対する不信も大きくなっていきました。

 金成さんは、嘘をついている。

 直感的に、俺はそう感じました。俺を連れ歩いているのも、デートなんかじゃなく、何らかの目的があって、然るべき場所に連れて行こうとしている。そんな風に感じられたんです。根拠はありませんでしたが、確信に近い感情がありました。

 交差点の歩行者信号がちょうど赤に変わり、俺達は足を止めました。周りには、帰宅途中の学生やサラリーマンが沢山いて、俺と金成さんはその中に埋もれるような形になりました。

「あのさ、ただ歩いてるだけって、つまんなくない?」

 取り敢えず俺は、何とか彼女と会話を繋ごうと思いました。会話を繋いでいけば、金成さんの真意も少しは見えるかもしれないと思ったんです。

「別につまんなくてもいいよ。本当に付き合ってる訳でもないんだし。」

 彼女の答えは、にべもないものでした。

 一体全体、この子は何を考えているのだろうか。俺がそう考えている時に、事件は起きました。

 けたたましい警笛が、ちょうど道路を挟んで反対側の歩道から響きました。同時に「離れて! 離れてください!」という怒号のような叫び声も響きました。

 人混みを掻き分けて、俺は道路の向こう側を見ました。反対側の歩道で信号待ちをしていた人たちが、さっと左右に割れて、十戒のような状態になりました。その向こう側から、男が一人、飛び出てきたんです。

 忘れもしません。昨日グラウンドに現れたあの不審者、須藤でした。

 須藤の背後から、何人かの警官が彼の方に向かって駆けてきました。何があったのかは分かりませんが、須藤が警官から逃げているのは、誰の目にも明らかでした。

 須藤は脇目も振らず、車道に飛び出しました。歩行者信号は赤のままで、車道には車が行き交っていましたが、彼の視界には全く入っていないようでした。

 俺はその時になってようやく、自分に向かってくる須藤に恐怖を感じ、背を向けて逃げようとしました。

 でも、動けませんでした。理由は単純です。金成さんが俺の手を握ったまま、微動だにしなかったんです。

 こちら側にいた人たちも、異常に気付いて我先に逃げ出し始めていました。すぐに、俺の周りの人たちは誰もいなくなりました。つまり、須藤の側から、こちらは丸見えになってしまったんです。

 「止まりなさい!」と拡声器で叫ぶ警官を完全に無視し、須藤はこちら側に突進してきました。彼の瞳は、昨日見た時よりも、より一層、狂気に飲まれているように見えました。

 危ない。そう感じた俺は、反射的に金成さんを庇おうと、彼女の前に立とうとしました。

 ですが、その必要はありませんでした。須藤は、俺達の眼前で、まるで時間が止まったように足を止めました。

 須藤は、金成さんを見ていました。どうやら、彼女がいることに寸前まで気付かなかった様子でした。彼は、明らかに動揺し、先程まで狂気に血走らせていた瞳には、困惑と恐怖の色が、ありありと浮かんでいました。

 俺は、須藤と金成さんの顔を交互に見比べました。須藤は、金成さんが目の前に現れたことに完全に動揺してしまっており、ゆっくりと後ずさりを始めていました。一方の金成さんは、無言で須藤の方を見つめていました。そう、昨日見せたのと同じ、あの真っ黒い瞳で。

 一瞬、俺達の周りは時間が止まったように完全に硬直しました。

 でもそれはすぐに終わりました。けたたましいクラクションの音と共に、真横から突っ込んできたトラックが、須藤の身体を跳ね飛ばしたんです。須藤の身体は、文字通り宙に舞いました。トラックは急ブレーキの耳障りな音を立てながら、俺達の眼前を通り過ぎていきました。

 跳ね飛ばされた須藤の身体は、俺達の位置からはちょうどトラックの影になっていて、よく見えませんでした。今にして思えば、それは幸いだったと思います。突っ込んできたトラックのスピードを考えるなら、多分、彼の身体はグチャグチャになっていたはずです。

 須藤を追ってきた警官達が警笛を鳴らし、すぐさま事故現場に非常線を張り、周囲一帯を通行止めにしていきました。周りにいた野次馬は、俺達も含めて、みんな警官に追い立てられるように、その場を離れていきました。

 俺は、恐る恐る、手を繋いだままの金成さんの横顔を見ました。でも、俺が彼女の方を見るよりも早く、彼女の方が俺の方を振り向いて叫びました。

「湊君、離れよう!」

 そう言うと彼女は、俺の手を引っ張って、人混みを掻き分け、事故現場から離れていきました。その表情は、突然の出来事に戸惑い、恐れている、普通の女の子そのものでした。

 でも俺は、そんな彼女の顔を見て、先程同様「嘘をついている」と感じてしまいました。理由は分からないのですが、彼女の表情から仕草まで、どこか不自然で、演技じみているように思えたからです。

 俺達は足早に事故現場から離れ、近くにある公園に逃げるように駆け込みました。

 事故のショックや、人混みを掻き分けて一気に移動したことによる疲れから、俺は近くのベンチに座り込んでしまいました。一方の金成さんは、息切れした様子も無く、漫然とスマホを弄っていました。先程までの怯えた表情は、微塵も感じられませんでした。

「金成さん、大丈夫……?」

 恐る恐る、俺は聞きました。

「別に大丈夫だよ。」

 彼女はスマホの画面に目を落とし、こちらの方を見ることすらせずに答えました。

「……さっきの男、昨日、学校に出た不審者だった。」

 口にしていいものかどうか分かりませんでしたが、俺は金成さんに自分が思っていることを率直に告げようと思いました。

「そうみたいだね。」

 スマホから目を離すことなく、金成さんが答えました。話を聞くつもりなどない、という彼女なりの意思表示のようにも、思えました。

「あの男、昨日も、今日も、金成さんのことを見てたような気がする。少なくとも俺には、そう見えた。」

 彼女が俺の話を聞くつもりが無いということは薄々感じましたが、俺は、どうしても昨日から自分が感じている疑問や不安を解消したくなって、話の核心に触れることにしました。何と言うか、ここまできたら、彼女の意思はともかくとして、自分が思っていることを洗いざらい彼女にぶつけてみるべきだと思ったんです。

「あの男と、知り合いか何かなの?」

 口にしていいのかどうか分かりませんでしたが、勇気をもって、俺は彼女に聞きました。

「よし、じゃあ、そろそろ行こうか。」

 金成さんは突然俺の方を振り向くと、再び俺の手を取って歩き出しました。

「え? ちょっ……!」

 彼女の予想外の反応に、俺は面食らいました。俺の質問には全く聞く耳を持たず、彼女は再び、俺を引き摺るようにして歩き出したんです。

「え、えっと、金成さん? 俺の質問に……」

 しどろもどろになりながら、俺は彼女に話しかけました。勇気を振り絞って質問したことを無視されてはたまりません。どんな答えであれ、彼女の口から聞きたかったんです。

「湊君の家って確かにこの辺りだったよね。遅くならない内に行こう?」

「えっ?」

「お母さんにご挨拶した方がいいでしょ?」

 その言葉を聞いた瞬間、俺の頭の中は蒼白になり、先程の質問のことなどどこかへ吹き飛んでしまいました。金成さんは、冗談でも何でもなく、自分を「彼女」として母親に紹介しろと言ってきたんです。

「だ、だって、俺と付き合うっていうのは、ただの見せかけなんだろう?」

 それだけは勘弁してくれとばかりに、俺は彼女に必死で思い止まるように言いました。

「見せかけでも何でも、ご挨拶は必要でしょう。これから何度か顔を合わせることになるんだし。さ、行くよ。」

 そう言うと金成さんは、再び俺の手を引いて歩き出しました。俺は彼女に思い止まるよう何度も言ったのですが、彼女はまるで聞く耳を持ちませんでした。

 そうこうしている内に、俺の自宅の前まで来ました。金成さんは迷うことなく「ごめんください」と言ってドアを開けました。

 俺はもう、完全に観念して、一足先に帰宅していた母親に、金成さんが自分の彼女だと紹介しました。母親は、一瞬呆気にとられましたが、すぐに満面の笑みを浮かべると「どうぞ上がって」と金成さんを家の中に招き入れました。

 俺は、放心状態で玄関に立ち尽くしていました。「終わった」と思ったんです。軽い恋人ごっこ(それも正直どうかとは思いましたが)のはずが、後戻りのできない場所まで来てしまったという、後悔という言葉では言い表せないような感覚で、全身が虚脱状態でした。

 そんな俺に、金成さんが耳打ちしました。

「外じゃ君の質問に答えられない。君の部屋に行こう。」

 氷水を頭からぶっかけられたように、俺の意識は一瞬で覚醒しました。彼女は、俺の質問を聞き流していた訳じゃ無かったんです。

 俺は、金成さんと一緒に家の中に上がると、母親に二人で部屋にいるから、入らないで欲しい、とだけ告げました。母親は訳知り顔で、ただ頷いていました。

 俺は、2階にある自分の部屋に、金成さんを案内しました。

「男の子の部屋にしては、綺麗に片付いてるね。」

 部屋の中をぐるりと見回して、彼女はそう言いました。

「よく言われるよ。でも、散らかった部屋って嫌なんだ。」

 俺の部屋は、机と椅子、本棚、ベッド、衣類を入れるクローゼットが整然と並んでいて、殆ど生活感が感じられないくらい小綺麗でした。本棚も机も、縁に僅かな埃すら落ちていません。友達はおろか母親にも「男の子の部屋とは思えない」とよく言われていたので、金成さんの反応は特に気になりませんでした。俺は、雑然とした場所って嫌いなんです。可能な限り、物は整理整頓して綺麗にしておきたい。だから俺の部屋は、可能な限り掃除したてのような状態を保つように心がけていました。その方が精神衛生上良いし、気持ちも落ち着くんです。

「じゃ、失礼。」

 金成さんは、遠慮なく、という感じで俺のベッドに座りました。俺は、自分の椅子に座って、彼女と向き合いました。

「それで、さっきの質問の件だけど……」

「うん。めっちゃ回りくどい質問だったね。」

 金成さんは、話を切り出した俺にいきなり先制パンチを浴びせてきました。

「ま、回りくどかったかな?」

「うん、回りくどい。湊君が私に聞きたいことはただ一つ。昨日、あの男が私に向かって言ったことでしょ?」

 図星を突かれ、俺は息を飲みました。

 そう、俺が彼女に聞きたかったことは、ただ一つ。カクリヨヒメ。須藤が彼女に向けて叫んでいた、その言葉だったのです。

「あの男が私に向かって叫んだ言葉を聞いたんだよね、湊君。」

 俺の心を読んでいるのかと思う程的確に、金成さんは図星を突いてきました。

「うん……」

「なんて聞こえた?」

「カクリヨヒメ……」

 絞り出すような声で、俺はその言葉を口にしました。

 俺は上目遣いで、窺うように金成さんの方を見ました。彼女がその言葉を聞いてどんな表情をするのか、恐ろしいと同時に、隠しきれないくらいの興味もあったんです。

 彼女は、ただじっと、俺の方を見ていました。あの、真っ黒い瞳で。あまりにも黒すぎて、彼女にはそもそも俺が見えているのか、不安を覚えてしまうくらいでした。そのくらい、闇の深い瞳でした。

「それ、どういう意味だと思う?」

 金成さんは、前のめりの姿勢で、俺の顔を覗き込むようにして聞きました。

「調べたら、その、都市伝説に出てくる怪物で、罪を犯した人間の命を奪うとかなんとか……」

 もうここまで来たら、隠し事をする理由はありません。俺は率直に、昨日自分で調べた「カクリヨヒメ」の話を、彼女にしました。

「で? 湊君はその話を信じてるの?」

 彼女は人が変わったように、突っ込んだ質問を返してきました。家に来るまでの、掴み所のない態度とは全く違っていました。

「……馬鹿馬鹿しい話だと思った。最初は。」

「今は?」

「昨日の不審者、俺の母さんの知り合いの人だったんだ。母さんと同じ会社で働いていたんだけど、弟さんが酷い事件を起こしてその巻き添えで辞めちゃったらしい。母さんの話だと、その後その人は音信不通になって、弟さんも死んでしまったんだって。そんな人が、いきなり学校に現れて、君を見て「カクリヨヒメ」って叫んで、その上で今日俺達の目の前で死んだ。俺は正直、どう考えていいのか……」

「ごめん。話がゴチャゴチャでよく分かんない。」

 金成さんは苦笑しながら、俺の話を遮りました。でもそれは当然でした。頭の中を整理しないまま、思っていたことを一気に喋ろうとしたせいで、俺の話は全く取り留めが無く、趣旨のよく分からないものになっていました。

「詰まるところ君は、あの明らかに頭のおかしいオッサンが私に向かって叫んだことを、半分くらい信じちゃってるってこと?」

 聞き分けの無い子供を諫める様な口調で、金成さんが言いました。

「正直に言うと、混乱しているっていうのが本当のところ。俺、何か金成さんのことが怖くなっちゃって……」

 隠し立てせず、俺は自分の本心を彼女に打ち明けました。

「ふぅん。」

 金成さんは、前のめりになっていた上体を元に戻し、微かに見下ろすような目で、俺を見ました。

 部屋の中は、静寂に包まれました。俺はもう、吐き出せることは全部吐き出してしまったので、話せることがありません。一方の金成さんは、ただじっと、無感情にこちらを見つめていました。

「あの、そろそろ時間も時間だし、今日はもう、このくらいにしない?」

 俺はいたたまれなくなり、失礼とは思いましたが、彼女に帰宅を促すことにしました。これ以上の沈黙には、耐えられそうにありませんでした。

「……」

 金成さんは、何も答えませんでした。先程と同様、ただじっと、俺の方を見ています。

「あの……」

「人のことを得体の知れない化け物扱いして、さあ帰れって、いくらなんでも失礼過ぎない?」

 金成さんが、俺の言葉を押し返すようにして、返答をぶつけてきました。口調こそ穏やかでしたが、その声色には明らかに非難と怒りが込められていました。

「えっと……」

 俺は返答に窮し、泣きそうになりました。彼女の言葉は全くもってその通りで、反論の余地が全くありませんでした。俺には、弁解のしようも無かったんです。

「まずさ、殆ど話したことは無くても、私と君はクラスメイトで、今はもうカップルな訳だよね? 自分の彼女より、訳の分からない他人とか、変な噂の方を信じるの?」

「い、いや、そんなつもりは……」

 彼女の言い分も、無茶苦茶と言えば無茶苦茶なのですが、確かにクラスメイトと訳の分からない不審者や都市伝説を比べて、後者を信じる理由は、冷静に考えると無いように思えました。

「カクリヨヒメっていうのは、私も知ってる。ホラー系の噂とか、都市伝説とか、大好きなんだよね。でもさ、いくら何でもあんな話を本気で信じるって、有り得ないんじゃない?」

 畳みかけるように、金成さんが言いました。俺はもう、反論することは諦めて、ただ力無く頷くことしか出来ませんでした。

「それから、あの不審者のことなら、ニュースにも出てたよ。ほら。」

 金成さんは、先程からしきりに弄っていた自分のスマホを俺に手渡しました。

 画面にはSNSの新着ニュースとして「中学校侵入の不審者 取調中に脱走して事故死」という記事が表示されていました。記事には、須藤が起こした昨日の中学校侵入事件の顛末と、彼が警察による取調の休憩中に警察署を脱走して事故死したこと、近所の人間の話として、須藤には深夜の奇声や徘徊など、数々の奇行が見られたことなどが記載されていた。

 画面をスクロールし、記事を読み終えた辺りで、金成さんは俺の手からスマホを再び取り上げました。

「分かったでしょ? 全部、頭のおかしな人間の妄想なの。君のお母さんと、あの不審者が知り合いだったっていうのは凄い偶然だけど、それで私を変な目で見るのは、違うんじゃないかな~。」

 彼女は伺う様な、試す様な目で、俺を見ました。半ば誘導尋問をされているように、俺は感じました。

「そうだね。ごめん、変なことばっかり言っちゃって。」

 誘導尋問だとは思いながらも、そう答えるしかありませんでした。金成さんを疑うことが出来る合理的理由が、俺には全くありませんでしたから。

 金成さんは、満面の笑みで頷くと、俺の手を取りました。

「ありがとう。湊君ならきっと、分かってくれるって信じてた。」

 彼女の温もりが、掌から伝わってきて、俺は思わず顔が真っ赤になってしまいました。彼女と手を繋いだのは、これが初めてではない筈なのに、俺には何故かその時初めて、彼女の肌に温もりを感じたんです。

「ん? どうした?」

 悪戯っぽく笑いながら、金成さんが冷やかすように言いました。俺は思わず彼女の手を振りほどくと、気恥ずかしさを隠すために顔を背けてしまいました。

「ああ、ゴメンゴメン。からかった訳じゃないよ。」

 彼女はそう言うと、姿勢を正して改まって言った。

「これから多分、長い付き合いになると思うけど、よろしくね。あ、それから、今度から湊君のことは貴文って名前で呼ぶから。私のことも明美って呼んで。」

「う、うん。分かったよ、明美。」

 まだ心の中の動揺が収まっていませんでしたが、俺は何とか表情だけは落ち着けて、彼女の言葉に頷きました。

「それじゃあ私、一旦帰るから。また後でね。」

 そう言うと明美は、ゆっくりと立ち上がり、部屋を出ていきました。階下から「おじゃましました」という彼女の声と、「また来てちょうだいね」というお気楽そうな母親の声が聞こえてきました。

 緊張の糸がプツリと切れて、俺は思わずベッドに倒れ込んで大の字になりました。昨日今日と変なことが沢山続いて、神経も磨り減り気味でしたが、結果だけ見れば、意外と良かったのかなと、ベッドに微かに残る明美の匂いに包まれながら思いました。


 その後は、どこか夢見心地のまま、家族と夕食を済ませました。母親は俺に彼女が出来たことが余程嬉しいのか、興奮気味に父親に今日の出来事を語りました。父親はそんな母親の様子にやや辟易しながらも、どこか誇らしげに「がんばれよ」と言ってくれました。一方の俺は、何だか現実感が無いような、夢の中にいるような、そんな変な気分がして、話半分で彼等の会話を聞いていました。

 家族の団欒が終わって、俺が部屋に戻ったのは、確か夜の7時過ぎでした。部屋の電気をつけた俺は、一瞬、目の前の光景が理解できず、石のように固まってしまいました。

 明美がいたんです。さっきと同じように、俺のベッドに腰かけている明美が。

 思わず叫びそうになる俺に対し、明美は唇に人差し指を立てて「しーっ」と言うと、扉を閉めるよう、ジェスチャーで示しました。俺は訳も分からぬまま、慌てて扉を閉めました。

「い、一体何やって……!」

 俺は家族に聞こえないよう声を忍ばせながら、半ば非難するような口調で彼女に訊きました。

「何って?」

 明美は、悠然とベッドに腰かけたままです。自分がここにいることが、さも当然であるとでも言いたげな態度でした。

「何でここにいるの⁉」

「さっき一旦帰るって言ったじゃん。」

 事も無げに、明美が答えました。

「いやだって、それは……」

 彼女の訳の分からない理屈に反論しようとして、俺ははたと気付きました。「一旦帰る」というのは、後に戻ってくることを前提とした言葉です。つまり――

「そう。私はすぐに戻るつもりで言ったんだけど。」

「えぇ……」

 言葉の意味としては理解できますが、常識的に考えて意味が分かりません。

「いや、というか、どこから入ったの!?」

 玄関から俺の部屋に上がるには、リビングを通る必要があります。先程まで家族全員でリビングにいましたが、玄関からは誰も入って来ていませんし、物音すら聞いていません。

「ほら、窓。」

 よく見ると、窓が開き、夜の風が微かに吹き込んでいました。

「つまり君は、あの窓から入って来たの? ここ2階だよ? てか、何で窓開いてんの⁉」

「昨日一緒に来た時に確認したの。湊君の家の裏手は人通りが殆ど無いから、塀を乗り越えてもまずバレない。そして排水管やエアコンの室外機を足場にすれば、問題なく君がいるこの2階の窓まで辿り着ける。窓の鍵は、さっき来た時に外しておいたの。気付かなかった?」

 要するに、完全な不法侵入です。そんな恐ろしいことを、彼女は得意げに語りました。

 俺は、頭を抱えました。昨日からのあれやこれやで明美が変な子だとは思っていましたが、まさかここまで常識外れな子だったとは、思ってもみませんでした。

 でもそんな子が、今では俺の彼女なんです(形だけとはいえ)。その事実を思い出し、俺は本当に頭を抱えたい気分になりました。

「そんな変な顔しないでよ。私は貴文が喜んでくれると思ったのに。」

 明美は不満げな顔でそう言いました。

「いやいや、急に部屋の中にいたら、吃驚して当たり前だって! てか、何の用?」

 悪びれるどころか、まるで俺の態度に不満があるかのような物言いの明美に呆れながらも、俺は彼女がこんな夜にわざわざ俺の部屋に現れた理由を聞き出そうとしました。

「何の用も何も、私は今日からここに住むんだけど。」

「……は?」

 今度こそ、俺は完全に自分の耳を疑いました。鼓膜の奥に聞こえた言葉の意味が、全く理解できませんでした。

「今日から君と一緒に暮らす、って言ってるんだけど。」

 絶句する俺に対して、明美はさらに身も蓋もない言葉をぶつけてきました。俺は最早、彼女が紡ぐ言葉のサンドバッグ状態でした。

「え? え? いや、だって、そんな……」

 俺はもう、今にも泣きそうな幼稚園児のような感じで、「頼むから冗談だと言ってくれ」と彼女に涙目で訴えかけることしか出来ませんでした。

「大丈夫。生活に必要なものは一式持ってきたから。」

 そう言って明美は、床に置かれた登山用と思しき巨大なバッグを指さしました。彼女の存在に気を取られて、俺は自分の部屋の物が増えていることにすら気付けない有様でした。

「いや、でも……」

「心配しなくても、お風呂とかは外で済ませるから。まあ、トイレとか洗面台とかはこっそり貸してもらうかもしれないけど。」

「あの、その……」

「寝る場所は貴文のベッドの下でいいよ。大丈夫。さっき来た時にスペースはもう確認してあるから。」

「金成さん、お願い、ちょっと待っ……」

 同棲はもう既に決まったことだとばかりに言葉を続ける明美に対し、俺はもう何と言って反論していいのか分からず、ひたすらジェスチャーで「頼むから待って」と伝えることしか出来ませんでした。

 そんな俺の顔を、彼女はいきなり指さしました。

「め・い・み」

 そうでした。お互い名前で呼ぶと、つい1~2時間前にお互い決めたのでした。

「ご、ごめん、明美。で、でもさ、一緒に暮らすのはやっぱり無理が……」

「当然、ご両親には内緒。流石に絶対反対されるしね。大丈夫、バレっこないって。さっきだって、私が入ってきたことや、私が部屋にいること、貴文は気付けた?」

「……いや、全く。」

 その点については、確かに彼女の言う通りでした。リビングにいた両親も俺も、彼女が我が家に侵入したことに気付くことはおろか、僅かな物音や人の気配すら感じていませんでした。

「だからご両親に気付かれる心配は一切無し。その点は心配しなくていいよ。」

「いや、でも……」

 明美の話は突っ込み所だらけしたが、逆に突っ込み所が多すぎて、どこから反論していいのか全く分かりませんでした。それに、その時の俺は、混乱する頭を整理することに手一杯で、思っていることを上手く口にすることも出来ない状態でした。

「そ、そうだ! 君の家はどうするんだ? 君のご両親にはどう説明するんだよ!?」

 やっとのことで、俺は彼女の話に関する最も重大な問題に思い至り、反論の言葉を彼女にぶつけました。

「私の家? 一人暮らしだから問題ないよ。両親二人ともいないから、親戚からの仕送りで賃貸マンションに住んでるの。知らなかったっけ?」

「え……」

 初めて聞く事実でした。そう言えば、明美ときちんと話すようになったのは昨日からだったので、俺は彼女の素性については全く知らなかったんです。

「そっか。クラスの子たちが噂してるのを聞いたから、てっきり貴文も知ってるんだと思ってた。」

 明美は、どこか寂しそうな瞳で、そう言いました。俺はどう反応していいか分からず、ただ目を伏せることしか出来ませんでした。

「と、言う訳だからさ、私のことは一切心配しないでよろしい。さてと、遅くなる前に片付けないと。」

 そう言うと、彼女はバッグの中から寝袋や着替えなどの一式を取り出し、ベッドの下やクローゼットの中の開いているスペースに手際よく敷き詰めていきました。

 俺はもう、何も言うことが出来ず、ただその様子を見守ることしか出来ません。

 一通りの作業を終えると、彼女は俺の方を振り返り、こう言いました。

「それじゃ改めまして、これからもよろしくね、貴文。」

 俺はただ、呆然とした表情で頷くことしか出来ませんでした。

 こうして、俺と明美の奇妙な同居生活が始まりました。


 その夜は、当然の如く、全く寝付けませんでした。色々なことが起こり過ぎたというのもありますが、何より、自分のベッドの真下で明美が寝ている、という状況が俺の心をひたすら掻き乱しました。

 電気を消した暗い部屋の中では、微かな物音でも非常に響いて聞こえます。僅かに寝返りをうつことすら、下にいる明美のことを考えると憚られる気分でした。自分の息遣いすら、変な感じに彼女に聞こえたりしないか、心配で仕方がありませんでした。

 一方の明美は、「おやすみ」と言ってベッドの下に潜り込むなり、すぐに静かになってしまいました。微かな呼吸音は聞こえてきましたが、寝ているのか、起きているのか、俺の方からは全く分かりませんでした。彼女の状態が分からないことも、俺の緊張感に拍車を掛けました。変な動きでもしようものなら、明日何を言われるか分かりません。

 このままだと、一睡もできないまま夜が明けてしまうと考えた俺は、恐る恐る、ベッドの縁から顔を出し、下を覗き込みました。明美が寝ていることさえ確認できれば、少しは気も楽になると考えたんです。

 それは完全な間違いでした。

 ベッドの縁から顔を出した瞬間、下にいた明美と目が合ったんです。彼女は、ベッドの下から半分だけ顔を出し、じっとこちらを見ていました。

「……!」

 叫びそうになるところを、何とかぐっと堪えました。もし両親が起きて来て、この光景を見られたら一巻の終わりですから。

「なに?」

 事も無げに、明美が聞きました。

「い、いや、眠ったかどうか気になって……」

 しどろもどろになりながらも、俺は小声で答えました。

「明日も学校だよ。早く寝よ。」

「う、うん……」

 そう答える以外にありませんでした。俺は顔を戻し、無理矢理目を瞑ると、半ば強制的に、自分を眠りの世界へと落としこみました。

 無理やり自分を寝かしつけたためかもしれませんが、その日の眠りは浅く、俺は寝ているのか起きているのか、曖昧な状態のまま、朝を迎えました。

 そんな曖昧な半睡眠状態の中で、俺は不思議な夢を見ました。

 ベッドの下から、明美が這い出てきます。

 明美の姿は、薄靄がかかったようにぼんやりとして、彼女の輪郭すらはっきりしません。

 まるで、影が動いているようでした。

 寝惚けているのかな、と思っていると、明美の身体はふわりと宙に舞い、いつの間にか開け放たれた窓縁に腰かけます。

 そして彼女は、窓の向こうに広がる夜景を背に、歌を歌っていました。

 歌のメロディーも、歌詞も、全く思い出せません。でも、確かに彼女は歌っていました。

 俺は、その歌に聞き惚れたような感じになってしまって、思わず彼女に声をかけてしまったんです。

 「上手だね」って。

 その瞬間、明美の姿は影も形も無く消えていました。

 開け放たれた窓の向こうには、もう闇しか広がっていません。

 明美が消えた後、部屋の中には彼女の「声」だけが残されました。

 その「声」はもう、歌声ではありません。

 ドロドロに溶けた「声」が、まるでスライムのように、俺の身体に纏わりつき、締め上げました。

 そして俺の耳の中に入り込んで、直接頭の中に語りかけてきたんです。

 「もう、逃げられないぞ」って。


 はっとして飛び起きると、朝陽がうっすらと窓から射し込んでいました。自分でも気付かない内に、俺はいつの間にか寝入ってしまったようでした。

「夢か……」

 先程見た、あの悪夢のような光景が夢であったことが分かり、俺はひとまず、胸を撫で下ろしました。

 枕元の時計を確認すると、まだ6時前でした。いつもなら、まだ寝ている時間でした。

「おはよう。」

 囁くような声で、傍らに立っていた明美が挨拶しました。寝ぼけ眼を擦ってよく見ると、彼女はもう制服に着替えた後でした。

 彼女の姿を見た時、俺は改めて「そうか。俺は昨日から、彼女と一緒に暮らしていたんだ」ということを、改めて実感しました。

「早いね……」

 俺は目を擦りながら、どこかまだ夢見心地な気分で、彼女に話しかけました。

「一旦私のマンションに帰って、朝食を食べてから登校するつもり。じゃ、また学校でね。」

 そう言うと、明美は窓を開けて、物音すら立てずに出ていきました。

 俺は窓から顔を出し、彼女の姿を確認しようと思いましたが、その時にはもう、敷地内にも路地裏にも、彼女の影すら見えませんでした。

 不思議な気分でした。まるで自分がまだ夢の中にいる様な、妙な浮遊感を感じていました。でも、その時にはもう、俺は自分のいる現実を半ば受け入れていました。一昨日から、俺の常識を遥かに超える事態が続いていたので、もう感覚がマヒしていたのかもしれません。

 ベッドに寝転んだまま、俺は天井をボーっと見つめていました。窓から射し込む朝陽の中に見えた明美の姿は、いつもと同じ彼女のはずなのに、まるで別世界の人間の姿を覗き込んでしまったような、静かな衝撃がありました。

 開け放たれた窓から、朝風が優しく吹き込んで、部屋の空気が巡っていくのが分かりました。一昨日までとは全く違う匂い――明美という新しい同居人を迎え入れた、新しい部屋の匂いが、鼻腔の奥をくすぐりました。


 学校に登校すると、昨日とは打って変わり、俺と明美のことを好奇の目で見るクラスメイトは殆どいませんでした。その代わり、みんな何となく、訳知り顔でこちらを見ていることが肌で感じられました。

「あー、貴文、昨日は茶化してしまって済まなかった。」

 昨日、俺と明美の関係を邪推してからかってきた友人の一人が、申し訳なさそうに声をかけてきました。どうやら、昨日のことはもうクラス中に広まっているようでした。

「いや、本当にお前たちが付き合ってるって知らなかったんだよ。軽い気持ちの冗談って言うか……。いや、本当ゴメン。」

 友人は、本当に申し訳なさそうに詫びました。

 明美の読みは当たっていました。「付き合っている」という事実を大っぴらにすると、みんな、余計な詮索とか勘繰りとかをしなくなるんです。考えてみれば、それは当然でした。事実の前には、どんな推測も邪推も無意味ですから。

「まあ、いいよ、別に……」

 俺は、あくまで気にしていない素振りで答えました。実際には、明美とは成り行き上、付き合っているふりをしているだけなのですが、好奇の目で見られることがなくなるなら、それでもいいと思えました。

 ちらり、と横目で明美の方を見ました。彼女の様子は、いつもと同じでした。目立たない、大人しげな生徒。朝方、自分の部屋で見た時の印象とは、全く違うように思えました。

 一昨日からの出来事は、本当に現実なのだろうか。

 俺は、割と本気で、そんなことを思いました。こうしていつもと変わらない学校生活を過ごしていると、一昨日から劇的に変化した自分の日常が、逆に信じられないもののように感じられました。

 そんな奇妙な感覚を引き摺ったまま、昼休みになりました。手持無沙汰にしていた俺に、明美が声をかけてきました。

「ちょっと一緒に図書室まで行こう。」

 俺は読書をするような趣味は無かったんですが、特に他にすることも無いし、それに周りのみんなに付き合っていると思われている都合上、一緒にいる方が自然かと思い、彼女の誘いに乗ることにしました。

「なんか、君の方も乗り気になって来たみたいだね。」

 悪戯っぽく微笑みながら、明美が言いました。俺は、自分の心の中を読まれたような気がして、思わずドキリとしてしまいました。

「べ、別に……」

 自分の心を見透かされたようで、俺は思わず彼女から顔を背けてしまいました。

「いいね、そういう反応。初々しいカップルって感じがして凄くいい。」

 一緒に歩きながら、明美は一人納得したように頷いていました。

「俺は褒められていると思っていいのか。それとも馬鹿にされているのか。」

「両方だよ。」

 他愛のない会話をしていると、すぐに図書室の前まで来ました。

「で、図書室で何するの?」

「別に何もしないよ。ただ静かな場所に行きたかっただけ。」

「そ、そう……」

 そういえば、とその時俺は思い出しました。いつも休み時間になると、明美はクラスから姿を消していました。今までは特に気にも留めていませんでしたが、彼女はきっといつも暇さえあれば今日のように図書室に入り浸っていたのでしょう。

 図書室に入り、ちょうど空いている席に着こうとした時、スマホの着信バイブの音がしました。明美の胸ポケットにしまってあるスマホからでした。

 明美はスマホを取り出し、画面を確認しました。そしてそのまま、石のように固まったんです。それは本当に「固まる」という表現がふさわしいくらいの、肉体の完全な静止でした。瞬きすらしていなかったように思えます。

「明美……?」

 俺は、彼女の様子に異様なものを感じ、思わず声を掛けました。

「ごめん、ちょっとトイレに行ってくる。席、見張っといてね。」

 俺の言葉を遮るようにそう言うと、明美はスマホを机の上に置き、そのまま速足で図書室を出て行ってしまいました。

 俺の目の前には、彼女のスマホだけが残されました。画面が点灯したままで、覗こうと思えば覗ける状態でした。

 今思えば、自分がその時何故そんなことをしてしまったのか、俺自身にも全く分かりません。俺は何故か、明美のスマホ画面がどうしても気になってしまい、好奇心に負けて、スマホを手に取って中身を見てしまったんです。

 画面には、LINEのメッセージ画面が表示されていました。でもそこに書かれていたのは、会話でも通知でもありませんでした。

 『東池袋盗難車両暴走事件・宝田秀重』とだけ、書かれていました。送信者名は、意味不明な文字列(CTS000……とかそんな感じ)でした。

 そこに書かれていた事件名には、聞き覚えがありました。2か月ほど前、東池袋で会社役員が車を盗んだ挙句、盗んだ車で歩道を暴走し何人もの死者・負傷者を出した事件です。そして宝田秀重というのは、確かその事件を起こした犯人の名前でした。宝田は逮捕され、警察の捜査で薬物の使用が確認されましたが「自分は嵌められた」という供述を繰り返し、今月の初めには多額の保釈金を払って保釈されていました。当然、ニュースなどでは連日のようにこの男を非難する報道が繰り返されていたため、時事問題に疎い俺でも知っていました。

 そして、その事件の真上のメッセージを見て、俺はぎょっとしてしまいました。『○○区女子高生無理心中事件・須藤建一』と、「須藤」の名前が出て来ていたんです。事件名からして、母親が話していた、「同僚だった須藤さん」の親族が起こした事件と同じと考えて間違いありませんでした。

 一体誰が、何の目的でこんなLINEを送って来たのか。そして明美は何故、こんな意味不明なLINEを受け取っているのか。俺は薄気味悪いものを感じながらも、好奇心に負けて、LINEの会話履歴をさらにスクロールして、表示される内容を確認していきました。

 履歴に残っていたのは、会話などというものでは全くありませんでした。意味不明な文字列の人物から一方的に送られてくる、世を騒がせた事件(闇サイトか何かで中高生の売買春が国際的な巨大マーケットと化していた事件とか、再生可能エネルギー事業に関する巨額詐欺事件とかです)の名称と、その犯人とされる人物名。本当にただそれだけが延々と続いていました。そして明美から、謎の人物への返答はなく、ただ既読である旨が表示されているだけ。

 これは一体何なのか? そう思った時でした。

「熱心に見てるね、貴文。」

 いつの間にか背後に立っていた明美が、全くの不意に俺に話しかけてきました。

「いっ!」

 俺は本気で驚いて、思わず声を上げて後ずさりました。周りの生徒が吃驚した表情で一斉にこちらの方を見ました。顔から火が出るほど恥ずかしかったです。

「私のスマホがそんなに気になる?」

「えっと……」

 弁解のしようがありませんし、何と言って反応していいかもわかりませんでした。対する明美は、怒っているのか、悲しんでいるのか、笑っているのか、どう判断してよいのか全く分からない絶妙な表情をしていました。

「見たいなら見たいで別に構わないけどさ、一言断りが欲しかったな。」

「ご、ごめん……」

 謝る以外にはありませんでした。彼女の言い分は最もでしたから。

「そ、そろそろ昼休み終わるし、きょ、教室に戻ろうか。」

 時計を確認してみると、昼休みの終了間際でした。とにかく一刻も早くその場から逃げ出したかった俺は、これ幸いとばかりにそう言って、明美の気を逸らそうとしました。

「まあいいや。弁解はまた今度ってことで。」

 明美はそう言うと、俺に先立って、図書室の外へ出ていきました。俺は、ひとまずこの場は言い逃れが出来たことに安堵すると、「なんであんなことをしてしまったんだろう」と今更ながらに後悔しました。


「帰りはちょっと別の用事があるんで、先に帰ってて。」

 帰りのホームルームが終わるのと同時に、明美が俺の席にやって来て、そう言いました。

「分かった。先に帰ってる。」

 そう言った後で、俺はもう自分が明美との同居を普通に受け入れてしまっていることに少し驚いていました。奇妙な現実に対する違和感は薄れて、俺は新しい現実を受け入れつつありました。我ながら、自分のことがよく分からなくなりました。

「ところで、昼休みのことだけど」

「あ、あ~本当、本当にごめん。もう絶対あんなことしないから!」

 不意に出された昼休みの話題に、俺は平身低頭、彼女に謝罪しました。

「別に怒ってないよ。ただし、あの件は貴文への貸しってことにしとくから。」

 何がどう貸しなのか分かりませんが、取り敢えず明美の中ではあの件は「終わったこと」になった様子でした。俺はひとまず、胸を撫で下ろしました。

「じゃ、また後で。」

 そう言うと、明美は俺に背を向け、教室から出て行こうとしました。

「ところで、用事って何?」

 俺は何の気なしに聞きました。

「ちょっとね。」

 彼女は俺に背を向けたまま、適当な言葉ではぐらかしました。聞かれたくない話題であることは、彼女の様子から何となく察することが出来ました。

「そっか。分かった。じゃあね。」

 昼の件もあるし、これ以上彼女の機嫌を損ねることは無いと思った俺は、それ以上突っ込んで聞くことを避けました。

 明美はそのまま、スタスタと小気味良い足取りで教室を出ていきました。

 さあ俺も帰ろう、と思っていたところ、クラスの女子の一人に声を掛けられました。変わり者で知られる田村さんでした。

「湊君、金成さんと付き合ってるって本当?」

 田村さんは眼鏡の向こうから鋭い視線を俺に向けて、聞いてきました。この視線の鋭さと、一体何を考えているのか全く読めない得体の知れなさ(一言で言うと気味悪さ)で、彼女はクラス内で少々浮いた存在でした。

「まあ、成り行きと言うか何と言うか、色々事情があって付き合うことになった。」

 殆ど話したことも無い女子から声を掛けられたことに、俺は困惑していました。そして、答えになっているのかいないのかよく分からない返事を返しました。

「へぇ。じゃあ一つ聞いてもいいかな?」

 田村さんは、さらに目を細めて、質問を続けました。次の質問からが本番だぞ、とその瞳で語りかけてきているかのようでした。

「金成さんが放課後よく会っている大人の男の人って、誰?」

「大人の人?」

 何のことなのか全く分からず、俺は思わず彼女に聞き返しました。

「知らないの?」

「いや、全く知らない。」

「本当に?」

「本当だってば!」

 押し問答のような会話の応酬が続きました。

「彼女の事、よく分からないまま付き合ってるってこと?」

「まあ、ハッキリ言ってしまえば、その通りだよ。」

 実際、そうとしか言いようがないので、俺はそう答えました。

 田村さんは、大仰に溜息をつくと「当てが外れた」とばかりに、落胆の視線を俺に向けました。

「な、なんだよ!」

 俺は、謂れのない非難を受けているような気がして、思わず語気を強めて言い返してしまいました。

「……何回か見てるんだよ。金成さんが、知らない男の人と放課後一緒にいる所。」

 俺の態度を見て、少しは悪いと思ったのか、田村さんは些か口籠りながら話し出しました。

「知らない、男と?」

 改めて俺は、彼女が口にした言葉を噛みしめました。

「うん。スーツを着た男の人で、見た目はそんな怪しい感じじゃない。でも何か、変と言うか、端から見ておかしいんだよ、その時の様子がさ。」

「おかしいって、何が?」

 田村さんの言わんとするところがよく分からず、俺は思わず聞き返しました。

「金成さんとその男の人の二人でさ、こう、同じ方向を見る感じで並んで、ず~っと立ってるの。下手したら1時間近く。」

 田村さんは俺の横に並んで立つと、直立不動の姿勢を取りながら、そう言いました。

「立っているだけ?」

「遠目で見た感じでは、殆ど会話してる感じじゃなかったね。ただず~っと、石像みたいに立っているだけ。で、それが終わったら二人ともすぐ別々の方向に行っちゃったの。最初に見かけたのは2か月くらい前。それから、放課後それとなく金成さんのこと気にするようになったんだけど、何度も何度も同じような場面を見てる。知らない男の人と二人でいるの。」

「……ただの知り合いとかじゃないの? 一人暮らしで、親戚から仕送りを貰っているらしいから、その親戚の人とか。」

 心の奥底に湧き上がってくる疑念――初めて出会った時からずっと抱き続けていた、明美という存在への不信感――を自分で否定するように、俺はそう言いました。

「全然そんな感じじゃないよ。そもそもただ人と会うだけなら、喫茶店なり公園のベンチなり、いくらでも場所があるじゃん? あの二人がいるのは、交差点の手前とか、ビルの前とか、エントランスホールのど真ん中とか、明らかに人と会って話をするような場所じゃない。それにさっきも言ったように、明らかに立ち話をしているような感じじゃないの。二人一緒に殆ど無言でずっと立ってるだけ。変だと思わない?」

 田村さんは、首を振って否定しました。

「最初はさ、パパ活とか、その何て言うか、下種な勘繰りしてたんだけど、どう見てもそんな感じじゃないしさ。湊君が金成さんと付き合っているなら、ひょっとして何か知らないかと思って。ねえ、本当に何も知らない?」

 俺は言葉に詰まってしまいました。最初に言った通り、俺は明美のことは殆ど何も知りません。何も知らないまま、成り行きに任せて付き合うことになってしまったんです。

 でも、田村さんの話を聞いて、明美に対して抱いていた不信感が、再び心の中に湧き上がってきました。

 彼女には、不可解な点があまりにも多すぎる。

 今後も明美と行動を共にするのであれば、お互い、必要最低限のことは知っておくべきだと、その時改めて思いました。別にお互いのすべてを知る必要はありません。ただ、相手に不信感を抱かせるような行動は止めるべきだと思ったんです。

「……ごめん、本当に何も分からないんだ。でも、田村さんの言うことが本当なら、一体どういう事情なのか、俺の方から明美にそれとなく聞いてみようと思う。」

 俺が一歩踏み込んだ答えを返したことで、田村さんは不意を突かれたのか、若干焦り気味になってしまいました。

「そ、そう? あ、でも、私が見たっていうのは彼女には黙っていてね? な、何かその、私が彼女のことをストーキングしてたとか、そ、そんな風に思われちゃうと悪いからさ……じゃ、じゃあね!」

 一方的にそう言うと、田村さんは逃げるように俺の前から去っていきました。「どう考えても君のやったことはストーカーだよ」と思いながら、俺はこれからどうすべきか、顎に手を当てて考えていました。

 今日までの明美の態度を見る限り、直接的あるいは婉曲的に聞いたところで、俺の質問に正直に答えるとは思えませんでした。

 とすれば、少し悪いとは思いますが、先程田村さんが言っていた、放課後の明美の奇妙な行動を、自分の目で確かめようという気になりました。関係があるかどうかは分かりませんが、さっき彼女はこう言っていました。「帰りはちょっと別の用事がある」と。ひょっとすると、田村さんが言っていた「奇妙な男」と会う用事なのかもしれません。

 問題は、彼女の行き先です。田村さんの話を聞く限りでは、彼女の現れる場所に特に何か規則性があるようには思えませんでした。俺は放課後の彼女の行動など今まで気にしたことも無かったので、思い当たる場所が殆どありません。

 思い当たることがあるとすれば――昼間見た、彼女のスマホに送られてきたLINEです。東池袋で暴走事件を起こした、あの犯人。そしてその情報を送ってきた、謎の人物。それ以外に、考えつく手がかりはありませんでした。

 そして同時に、俺は「カクリヨヒメ」の都市伝説の内容を思い出していました。大罪を犯した者の前に現れる、死神――。

 もしやと思い、俺は「宝田秀重 住所」で検索してみました。宝田の自宅住所に関する情報は、すぐに見つかりました。個人名も会社名も公表されていたため、宝田の住所は事件発覚後にすぐに特定され、既にネット上で大規模に拡散していました。住所は、俺の自宅から電車で一駅くらいの距離の場所にありました。今から行けば、夕方くらいには自宅に戻れるはずです。

 俺は意を決して、ダメ元で宝田の自宅付近まで行ってみようと思いました。別に俺の思い過ごしであれば、それでいいと思っていました。単なる取り越し苦労であれば、少なくとも安心は得られるはずですから。

 同時に俺は、何か空恐ろしい感じもしていました。妙に話が出来過ぎている、と思ったんです。思い返してみれば、明美は自分のスマホを、何故不用心に机の上に置いていたのでしょうか。ひょっとして彼女は俺がスマホの中身を覗き見することを、予測していたのではないでしょうか。

 もしそうだとすれば、俺のこの行動は、明美の予想の範囲内、彼女の掌の上ということになります。「あの件は貴文への貸しってことにしとくから」という彼女の言葉が、心の中にこだましました。一体彼女は、自分に何を期待しているのでしょうか?

 俺は頭を振り「考えすぎだ!」と自分の中に生まれつつあった疑心暗鬼を無理矢理振り払おうとしました。

「いくらなんでも考えすぎだ。そんなことあるはずないじゃないか……」

 自分に言い聞かせるようにそう呟きながら、俺は学校の正面玄関を駆け出ました。


 得体の知れない不安感と期待感を抱いたまま、俺は宝田の自宅近くまでやって来ました。

 周囲を窺って見ると、今や悪い意味で有名人となってしまった人物の自宅であるためか、マスコミと思しき集団や、動画配信サイトへのアップロードを目的としていると思しき人だかりもあり、閑静な住宅街とは言い難い状況になっていました。

 俺は、そんな集団からは距離を置き、注意深く宝田宅周辺を観察して回りました。その時にはもう何故か、明美がこの近くにいるということが、俺には直感的な確信に変わっていました。

 俺は、宝田の自宅の周囲をぐるりと遠巻きに一周しました。そして、宝田宅のちょうど裏手にあたるマンション駐車場の隅に、明美の姿を見つけたんです。その隣には、田村さんの言っていた通り、スーツを着た見知らぬ男性の姿がありました。

 自分の直感が当たったことに関して、俺の心には特に何の感慨もありませんでした。目の前の光景は、ただ当たり前の事実として、俺の心にすんなり入っていきました。そして俺は、彼等のいる位置のちょうど真後ろのコンビニの陰に隠れるようにして、二人の様子を遠目で窺いました。

 田村さんの話通り、明美と見知らぬ男性の二人は、まるで石像のように微動だにせず、ただじっと突っ立っているだけでした。視線の先にあったのは、他でもない。宝田の自宅でした。

 俺は、怪しまれないように周囲に気を配りながら、およそ10分近く、彼ら二人の様子を観察しました。背後からだったので、表情などは窺えませんでしたが、確かに二人とも全く喋っている様子はありません。身体をピクリとも動かさず、ただじっと、宝田の自宅を黙視しているだけという感じでした。

 十数分が経過した後、二人は特に会話を交わした様子も無く、それぞれ別方向にその場を離れました。明美の傍らにいた男性の横顔を去り際に確認しましたが、取り立てて特徴のない、普通の20代くらいのサラリーマンといった感じの風貌でした。

 俺は緊張感の糸が切れて、ほっと一息をつきました。明美と見知らぬ男性の姿は、既に雑踏に消え、見えなくなっていました。

「あの二人、一体何をしていたんだろう……?」

 俺は、二人が立っていた場所まで行ってみました。そこは本当に駐車場の隅でしかなく、特に何があるという訳でもありません。その場所に立ったまま、宝田の自宅方面を見てみましたが、特別何か変わった物が見える訳でもありません。むしろ、庭の木々が邪魔をして、邸宅の外見すらよく見えない有様でした。

「いや、待てよ?」

 そこまで考えて、俺はふと、明美の言葉を思い出しました。

 昨日の夜、俺の部屋に現れた明美は、如何にして俺の部屋に気付かれず不法侵入したか自慢げに語っていました。前日に下見を行い、その家の構造や、周囲の人通りなどを完璧に把握することで、誰にも気付かれず侵入できた。そう彼女は言っていました。

 だとすれば、彼女は今日も「下見」に来たのではないか。そんな考えが俺の心の中に浮かびました。宝田の自宅とその周辺状況を確認し、如何にして邸内に侵入するか。その下調べとして、明美とあの見知らぬ男は、今日この場に現れたのではないか。

 カクリヨヒメ――大罪を犯した者の命を奪いに現れる死神。一笑に付していたあの都市伝説が、俺の心の中に再び頭をもたげてきました。しかもそれは、以前よりもずっと色濃く、不気味な形を持って、俺の心をとらえました。

 明美の、カクリヨヒメの次の標的は、宝田秀重なのではないか。そのために、彼女は今日、この場に現れたのではないか。

「……考えすぎだ。妄想しすぎだよ。」

 取り留めのない妄想は、一人でいると、どこまでも際限なく広がっていきます。俺は自分自身に言い聞かせるようにそう言うと、急いでその場を離れました。そのまま留まり続ければ、自分自身の妄想に溺れて沈んで行ってしまうように思えたからです。


 間違って明美と出くわさないように、俺はある程度時間をおいてから電車に乗り、自宅へと戻りました。いつもより遅い帰宅でしたが、母親は特に気にも留めていない様子でした。明美とデートでもしてきたと思っていたんでしょう。

 恐る恐る自室のドアを開けましたが、明美の姿はありませんでした。窓も閉まったままで、人が出入りした形跡はありませんでした。

 俺はほっと胸を撫で下ろすと、これからどうすべきか考えました。明美には、やはり不審な点がいくつもあります。このまま関係を続けていいのか、非常に頭の痛い問題であるように思えました。

 ですが、同時に思いました。仮に明美が、都市伝説で言われるような化け物のような存在だったとして、俺に一体何ができるだろうか、と。一昨日からの出来事を振り返ってみると、彼女は明らかに尋常な人間ではありません。何を考えているのか全く分からない上に、行動力・実行力は人並み以上です。例え俺が明美を拒絶したとして、彼女がすんなりそれを受け入れるとは、到底思えませんでした。そして、俺にはそんな彼女を従わせられるような力も無ければ、彼女を丸め込める話術もありません。

 詰まるところ、今はただ静観することしか出来ない、という結論しか導き出せませんでした。情けない話ですが。

 そこまで考えた時、窓をコツコツと叩く音が聞こえました。慌ててそちらを向くと、明美が窓の外で鍵を開けるようジェスチャーで示していました。

 窓の鍵を開けると同時に、明美はするりと部屋の中に入り込みました。前から思っていたのですが、彼女の身のこなしは、まるで風が吹き抜けるかのように静かで優雅なものでした。

「おかえり、でいいのかな?」

 心の動揺と不信感を悟られないように、俺は努めて平静に言いました。

「よっす。」

 明美の様子に、特に変わったところはありませんでした。厳密に言えば、今のこの状況そのものが異常なのですが、少なくとも、昨日今日の彼女の態度と比べて、取り立てて変わったところは見受けられませんでした。

「晩御飯はこれから?」

 世間話をするように、明美が聞いてきました。

「うん。ウチは大体、夜の7時頃から食べるんだ。君はもう済ませてきたの?」

「秘密。」

「なんだよ、秘密って。」

 秘密、と言った彼女の言い方が可笑しくて、俺は少し吹き出してしまいました。そんな感じの軽めの雑談が少しの間続きました。彼女は、俺の不信感には全く気付いていない様子でした。少なくともその時は、そう思っていました。

「ところでさ」

 突然、明美は会話を断ち切り、声のトーンを変えました。

「今日、田村さんと何話してたの?」

 突然田村さんの話を出され、俺はぎくりとしました。

「た、田村さん?」

「そう、クラスメイトの田村さん。今日の放課後、私が帰った後に二人で話してたよね?」

 畳みかけるように、明美は言葉を続けました。全く不意に出された田村さんの話題に、俺はすぐ返答することが出来ませんでした。

「帰り際、田村さんと貴文が話してるのが見えたんだよね。用事があってすぐ行かないといけなかったから、何話してるのかは聞けなかったけどさ。」

「えっと……」

 俺はあの時、明美が既に教室から出た後だったので、田村さんとの会話のことなど、彼女が知っている筈がないと思い込んでいました。ですがそれは甘い考えでした。彼女の注意力というか、観察眼は人並み以上だったということを、俺はその時改めて思い知らされました。

「何話してたの?」

「い、いや……」

「私に言えない話?」

「……」

 俺はもう、沈黙するしかありませんでした。誤魔化しなど彼女には効きそうにありませんし、かといって、本当のことを言えそうな雰囲気でもありません。本当のことを言ってしまえば、芋づる式に今日の出来事全てを聞き出されそうな雰囲気でした。

「田村さんってちょっと変わり者だからさ。私、放課後あの子にストーカーじみたことをされたこともあるんだよね。彼女が貴文に何か変なことを言ってないか、心配なの。」

 明美は、田村さんが放課後、彼女のことをそれとなく観察していたことにも気付いていました。本当に、彼女の観察眼は異常の一言でした。

「えぇと、うん。実はそう、それなんだよ。彼女、何かよく分かんないんだけど、君を自分と同類の変人か何かだと思い込んでるらしくてさ。それでなんか、俺に明美ってどういう子なのかって聞いてきたんだよ。」

「ふぅん?」

 口籠りながら、必死に思いついた当たり障りのない言い訳を、俺は並べ立てました。明美は俺の言うことを信じているのかいないのか、微妙な表情で相槌を打ちました。

「で、何て答えたの?」

「明美は、少し変わったところはあるけど普通の子だって答えておいたよ。」

 明美は、俺の答えに一瞬だけ沈黙すると「そう」とだけ言って、ポケットから取り出したスマホを弄り出しました。

 俺は、何とかやり過ごせたと、彼女に気付かれないようにほっと胸を撫で下ろしました。

「ああ、それからさ、今日の図書館での件。」

 スマホを弄りながら、不意に話しかけてきた明美の言葉に、俺は再び身体を強張らせました。

「え? あ、ああ、あの件は、本当にごめん……」

「別に謝んなくてもいいよ。あの時私のスマホの中の何を見たのか。それを教えて。」

 まるで誘導尋問するかのように、明美は俺の隠し通しておきたい部分に突っ込んできました。

「……ごめん。その、LINEのメッセージ画面を見た。」

 あの件に関しては、変に隠し立てしてボロを出すよりは、正直に本当のことを言った方が良いと思い、俺は彼女に自分が見たことをありのまま告げることにしました。

「LINEのどんなメッセージを見たの?」

 本当に誘導尋問なのではないかと思う程、明美は突っ込んで質問してきました。お前が見たものは全て知っているぞとでも言いたげな態度でした。

「その……人の名前と、事件の名前? が書かれた通知を……」

「へぇ、そこまで見たんだ。」

 彼女の口元に、笑みが浮かびました。でもそれは、笑っているというより、目の前の相手を飲み込もうとしている肉食獣の表情のように、俺には思えました。

「そのLINEのメッセージ、何だと思う?」

 試すように、窺うように、明美がやや上目遣いで俺を見ながら、聞いてきました。

「……よく分かんない。というか、誰なの? あれを送って来た人?」

 このままでは、なし崩し的に今日の放課後のことまで話さざるを得ない状況になりそうでした。なので、俺はどうにかして話を逸らそうと、話題を別の方向へ向けようと試みました。

「知りたい?」

「ちょ、ちょっと気になって……」

 相変わらず、明美は考えの読めない表情で俺に聞いてきます。俺は、彼女に動揺を悟られないよう必死に表情を作りながら、会話を続けました。

「教えられないんだな、これが。」

「な、なんだよそれ!」

 マジシャンが種明かしするような大仰な口調で、明美が笑いながら言いました。

「あれはね、うん、まあ完全なプライベート案件ってやつ。今はまだ、貴文には教えられない。」

「そっか、分かったよ。」

 明美の返答内容は不満足極まりないものでしたが、取り敢えずここで会話を終わらせられることに、俺はただ安堵していました。

「貴文、ご飯よ。」

 そうこうしている内、階下から夕食を告げる母親の声が響きました。

「じゃ、ちょっと夕飯食べてくる。電気は点けておくけど、あんまり騒いだりはしないでね。」

「大丈夫。分かってるよ。」

 俺は、これ幸いとばかりに、夕食へ向かう体で部屋を出ました。明美は、そんな俺を見送るように軽く微笑みました。

 部屋を出た俺に、どっと一気に疲労感が襲ってきました。何とか今日のことは誤魔化すことが出来ましたが、明美の観察眼は俺の想像を遥かに超えるものでした。ひょっとすると他にも、彼女は何か勘づいているんじゃないかという疑念が、心の中に沸々と湧き上がってきました。

 ひょっとしたら、今日宝田の自宅付近で彼女と見知らぬ男が二人でいる所を俺が見ていたことも、明美は知っているんじゃないか。

 恐ろしい考えでしたが、俺はそんな疑念を拭いきれませんでした。


 夕食を終えた俺が部屋に戻ると、明美は既に部屋着に着替え、漫然とスマホを眺めていました。

「凄いな。音も立てずに着替えたのか。」

「別に大したことじゃないよ。」

 家族とリビングで食事している間、俺は秘かに聞き耳を立てていましたが、2階からは微かな物音すら感じませんでした。注意して聞いていた俺ですら気付けなかったのですから、両親も気付く筈がありません

「それとも何? 着替える所が見たかったの?」

「い、いや、そういう訳じゃ……」

 挑発するような口調で言う明美に対し、俺は動揺を隠しきれず、上ずったような声で返しました。

「……今日はもう、外に出る用事は無いの?」

 俺は自分自身の動揺を誤魔化そうとして、話題を無理矢理変えました。

「その予定。」

 俺の方を見ずに、明美は答えました。

「そっか。」

 彼女がそう言う以上、俺にはそれを受け入れるしかありませんでした。変に突っ込んで質問すると、またまた墓穴を掘ってしまうような、そんな気がしました。

 その後、特に話すことも無かったため、俺達二人の間には何とも言えない沈黙の時間が流れていきました。俺は気まずいような、申し訳ないような、そんな気分になって、「彼女との会話を盛り上げる方法とかを調べておくんだった」と、半ば本気で後悔しました。

 その時、明美が不意に口を開きました。

「貴文はさ、私のこと、変な子だと思う?」

「えっ?」

 不意に投げつけられた直球ストレートな質問に、俺は思わず変な声を上げてしまいました。

 両親に聞かれたら不味いと思い、俺は咄嗟に口を噤むと、静かに言葉を続けました。

「そ、それはどういう……」

「言葉通りの意味。私のこと、変な奴だと思うかって聞いてるの。」

 明美の目は、真剣でした。冗談めかしている感じでは、全くありませんでした。

「……」

 俺は、どう答えていいものか分からず、沈黙してしまいました。ただ、これまでの彼女の反応を見るに、何か誤魔化したようなことを言うと、手痛い突っ込みを食らうことは間違いありません。俺はそのことを、昨日の今日で身をもって知らされていました。

「正直に言うと、明美と付き合うようになってから、面食らうことばかりで……その、ハッキリ言うと、俺は君に、滅茶苦茶振り回されて、今もまだ混乱している。」

 切れ切れの言葉になってしまいましたが、俺は自分の正直な気持ちを、明美に伝えることにしました。その時は、その方がいいと思ったからです。

「別れたい?」

 俺の正直な告白に対し、明美もまた、率直な質問をぶつけてきました。

「……別れたくない。」

 ここまで来たら、もう何も考えず、ただ純粋に自分の素直な気持ちをぶつけよう。俺はそう考えて、本当にただ、その時の想いを、彼女にぶつけました。そう。その時にはもう、俺は彼女の得体の知れない魅力の虜になってしまっていたんだと思います。

「……」

 明美は、無言で俺の瞳を見つめていました。俺の言葉に対して、どんな感情を抱いているのか、彼女の表情からは、その心の裡が全く見て取れませんでした。

「……ごめんね。変なこと聞いちゃった。」

 そう言うと、彼女はベッドの下に潜り込んで行ってしまいました。どこか照れ隠しのように、俺には見えました。

「な、なんだよ。俺は本気で言ってるんだぞ!」

 口を尖らせながら、明美に対する不平を口にしましたが、彼女はベッドの下から出てくるそぶりすら見せませんでした。

 結局、彼女自身が、俺に対してどう思っているのかは、分からずじまいでした。


 その夜、俺はベッドに横になりながら、色々と考え事をしていました。

 明美という存在を、初めて強く認識した、一昨日の不審者侵入事件。

 事件の犯人が口にしていた「カクリヨヒメ」の都市伝説。

 理解不能な行動で、自分を翻弄する明美。

 目の前でトラックに吹き飛ばされ、自分達の目の前で即死する須藤。

 田村さんから聞かされた、明美の奇妙な行動。

 自分の目で確認した、明美と見知らぬ男の逢瀬。

 そして、明美に送られ続けている、あの奇妙なLINE――

 分からないことばかりでしたし、考え続けた所で、答えが出ないということも、その時の俺にはもう分っていました。

 結局、全ての疑問の答えを知るためには、明美に全てを話してもらうほかありません。でも昨日今日の彼女の態度を考える限り、その可能性は極めて低いように思えました。

 ならば、自分はどうするべきか――

 「別れたくない」。先程明美に伝えた、自分の、少なくとも現時点での、偽らざる気持ち。結局のところ、どんなに考えを巡らせても、この結論に帰ってきてしまいました。自分の疑問全てに答えを見つけるためには、俺は最後の最後まで、彼女に付き合い続けるしかない。それ以外に答えは無いのです。そして、自分の疑問や不信感から逃げるという選択肢はありませんでした。それは現実逃避にすらならず、己の不安をただ増大させるだけに過ぎない、ということに、本能的に気付いていたからです。

 眼を閉じて、暗闇の中、ただ自分の呼吸音だけを聞いていると、俺の意識が次第に微睡みに飲み込まれていくのが分かりました。でも、いつもと違って夢の中に落ちていくことはありませんでした。色々なことが起こり過ぎて、心の中が搔き乱されていたせいだと思います。俺の意識は、微睡みの中でもほぼ完全に覚醒していて、夜の闇の中に横たわっている自分自身を、はっきりと自覚していました。

 ベッドの下にいる筈の明美は、そこにいる気配すら感じさせませんでした。彼女なりの、俺への気配り(?)だったのかもしれませんが、そこにいる筈の人間がその気配すら感じさせないというのは、正直に言って気味が悪かったです。

 午前零時を回ったころだったと思います。部屋の中の空気が、微かに変わりました。一切の音が消え失せて、部屋の中の暗闇も、より一層色濃くなったように感じました。目を閉じている俺に、そんなことが分かる筈が無いので、それは単なる思い過ごしだったのかもしれません。でも、確かに俺には、そう感じたんです。

 音も立てず、明美がベッドの下から這い出てきたことが分かりました。俺はベッドの上に横になったまま、寝たふりを続けました。寝息を立てて、ゆったりと目を閉じて、自分が狸寝入りしていることを決して悟られないように、細心の注意を払いました。

 ベッドの下から這い出た明美は、ゆっくりと立ち上がり、俺の傍らに立ちました。目を閉じていても、彼女の存在を、はっきりと感じました。

 明美は微動だにせず、ただじっと俺の顔を見つめていました。目を閉じている筈なのに、彼女の視線が、俺の頭の中まで貫通しているような、そんな奇妙な感覚でした。

 やがて彼女は、滑るように移動すると、音も無く窓を開け放ち、外の闇の中に溶け込むように消えていきました。明美が俺の傍らにいたのはほんの数秒程度でしたが、俺には何時間も経過したように感じられました。

 俺は薄目を開けて、彼女の姿が完全に見えなくなったのを確認すると、上体を起こしました。そして、昨日見た悪夢が、夢ではなかったことを、その時ようやく知りました。明美は深夜、秘かにこの部屋を抜け出し、どこかに向かっていたんです。

 恐怖やら困惑やら、色々な感情が俺の中で渦巻いていましたが、その時の俺は「彼女の後を追わないと」という、使命感にも似た不思議な感情を抱いていました。何故なのかは全く分かりません。恐ろしさよりも、彼女がどんな存在なのか見極めたいという欲求が、俺の中で大きくなっていたのかもしれません。

 すぐに外行きの服に着替え、買ったばかりのスニーカーを履くと、俺は窓の外に顔を出しました。明美の姿は、もうどこにも見えませんでした。

 俺は、明美がやっていたように、排水管や室外機を足掛かりにして、自宅裏手の塀の上に立つと、そのまま街灯が照らしていない道路の上に降り立ちしました。

 思っていた以上に上手くいったことに、自分でも驚きましたが、そんなことに驚いている暇はありませんでした。俺はすぐにでも、明美を追わなければならなかったんです。時間は夜の零時過ぎ。電車もバスももうありませんし、タクシーを使えるお金もありません。何より、こんな時間に中学生が一人で出歩いていれば、間違いなく警察に通報されます。

 俺は地面を蹴って、暗がりの中を走り抜けました。明美の行き先は、凡そ見当がついています。昨日の午後、彼女と見知らぬ男が姿を見せていた、宝田の家。あそこ意外に考えられませんでした。


 真夜中の街を駆け抜け、俺は宝田の自宅付近までやって来ました。数十分くらい走り続けた筈なのに、不思議なことに疲労はほとんど感じませんでした。自分が非日常的な行動をとっているという自覚から、変に神経が昂っていたからかもしれません。

 俺は、昨日の放課後に明美が見知らぬ男と一緒にいた、宝田の自宅裏に回り込みました。そこは、街灯が殆ど無く、街の灯りすら届かない、ほぼ完全な暗がりとなっていました。

 俺は暗闇の中で、息を潜めて、耳を澄ましました。こうして待っていれば、何かが起こる。そんな得体の知れない確信がありました。

 2,3分ほど経った頃、凄まじい悲鳴が宝田の自宅から響きました。人のものなのか、獣のものなのかもよく分からない絶叫でした。まるで声そのものが壊れた音のように、俺には聞こえました。

 絶叫から少し遅れて、警報機の音が鳴り響きました。それと同時に「不審者だ!」「警察を呼べ!」という怒号も聞こえてきました。

 俺は「マズい」と思いました。中学生がこんな時間、こんな場所にいる所を警察に見つかれば、間違いなく補導対象です。親に連絡されるだけではなく、何故こんな時間にこんな場所にいたのか、根掘り葉掘り聞かれるでしょう。それだけは何としても避けたいと思いました。警察が来る前に、すぐにこの場所から離れなければならない。そう思った俺は踵を返し、路地の向こう側に走り去ろうとしました。

 その時、警報機の音に交じって、俺の耳に何か別の音が聞こえてきました。

 「歌」でした。

 その歌に、俺は聞き覚えがありました。一昨日の深夜、悪夢の中で聞いた。あの歌です。

「夢じゃ、なかったのか……」

 呆然として、俺はそう呟きました。そう、夢ではなかったのです。と、すれば、この歌を歌っているのは――

 微かな気配を感じて、俺は背後を振り返りました。

 塀の上に、人の形をした何かが降り立ちました。暗闇の中なのに、俺にはそれが人の形をしていることが、はっきりと分かりました。よく見えていたからじゃありません。むしろその逆です。その「何か」は、夜の闇よりも、すっと暗かったんです。夜の闇すら飲み込んでしまうほどの、真っ黒な影そのもの、といった感じでした。

 その影は、俺に気付き、ぎょろりとした瞳を向けました。フクロウの瞳をさらに誇張したような、大きく、威圧的な目でした。

 影は、音も無く地面に降り立つと、一歩、俺に向けて近づきました。影の主は、言うまでもありません。明美でした。

「……」

 暗闇の中で、俺は明美と向き合いました。彼女の姿は、昨日夢に見た姿そのままでした。人でありながら、その佇まいや雰囲気は、明瞭に人間とは違うものでした。暗闇が、闇黒が、人間のフリをしている。そんな印象です。

「明美、なんだよね……?」

 俺は、やっとのことで言葉を絞り出しました。目の前にいる人物は、確かに明美です。ですが、明らかに自分の知る彼女とは全く異なる「モノ」でした。どう接すればよいか、全く分からなかったんです。

 その時、暗闇の向こう側から「こっちに逃げたぞ!」という声と、大人数が駆けてくる足音が聞こえました。宝田宅の警備員なのか何かわかりませんが、邸内で何らかの異常を引き起こした明美を追っているのは明らかでした。

 追い詰められる。本能的にそう察した俺は、矢も楯もたまらず明美の手を取りました。

「逃げよう!」

 俺は、明美の手を引いて、その場を逃げ出しました。彼女は何も言わず、俺に従いました。彼女の人ならざる表情も、全く動きませんでした。

 俺は、彼女の手を引きながら、その掌の温もりが、自分の知る明美のものと同じであることに、場違いな安堵を感じていました。

 この子はやはり、明美なんだ。そんな想いが、恐怖や不安を吹き飛ばしました。とにかく今は、彼女と一緒にこの場から逃げなければならない。そんな衝動に突き動かされて、俺と明美は暗闇の小路を走り抜けました。

「くそっ……!」

 突き当りの角を曲がったあたりで、俺は思わず口に出してそう悪態づいてしまいました。道の先は行き止まり。おまけに周囲は高い塀だけで、足掛かりになりそうなものは見当たりません。完全に、袋小路に追い詰められた状態になってしまいました。

「いたぞ!」

 俺達の背後から、警備員の人達の怒声が響き、懐中電灯の光が二人を照らしました。

 その瞬間、俺は覚悟を決めました。もうこの状況では、こうする以外にはないと思ったんです。

「~~~~~~!!!!!」

 俺は、声の限りに叫び声を上げました。それこそ、近所迷惑を通り越して警察に通報されるほどの勢いで。

「な……こ、子供?」

 懐中電灯を持った、制服姿の警備員たちは、光で照らされた中に蹲っていたのが、明らかに中学生くらいの子供二人であることに、吃驚している様子でした。

「ごめんなさい! ごめんなさい! すぐに帰ります! 帰りますから、警察を呼んだりしないで!」

 俺の叫びを聞きつけたのか、付近の住宅の窓が次々に開く音が聞こえました。「何だ、何だ」と、大通りから野次馬も続々と集まってきました。警備員たちは、ばつが悪そうに顔を見合わせました。

「おい、まさか侵入者とは別の人間を追いかけていたのか?」

「いや、そんな筈は……」

「暗がりで見過ごしてしまったのかもしれない。」

 警備員たちは口々に、この訳の分からない状況を整理しようとしていました。

「君達、こんな所で何しているの?」

 警備員の一人が、怪訝そうな表情で俺達に聞きました。

「あの、親に隠れて、デートを……」

 嘘八百を俺は並べ立てました。と言うより、それ以外の言い訳が思いつきませんでした。一方の明美は、泣きじゃくりながら、俺の腕にしがみついていました。俺の嘘に臨機応変に合わせてくれたわけですが、俺はその変わり身の早さに正直半ば呆れてしまっていました。

「……子供がこんな時間に出歩くものじゃない。早く帰りなさい。」

 幸い、警備員の人達は人の良い方々でした。呆れた表情ではありましたが、俺達の嘘を信じ、そのまま帰るように促してくれたんです。

 俺は、泣きじゃくり、嗚咽する明美を慰めるように装いながら、「すみません、すみません」と警備員の人達に頭を下げながら、逃げるようにその場を後にしました。背後から、警備員の人達の「警察はまだか」「救急車は」「侵入者はまだ遠くへは行っていない筈だ」といった会話が聞こえてきましたが、振り向いたり立ち止まったりすれば怪しまれると思い、そのまま足早に小路を抜け、人通りの殆どない裏路地に出ました。

 俺も明美も、押し黙っていました。俺はもう、頭の中がぐちゃぐちゃで、何を話していいのか全く分かりませんでした。明美の方は、ただ無言で眉一つ動かさず、俺の方を見ていました。先程の泣きじゃくる姿は、やはりただの演技だったようでした。ただその一方で、宝田の自宅裏で出会った時のような、人外の化物のような異様な雰囲気も、消えていました。

「……帰ろう。警察とかに見つかると、面倒だから。」

 俺はやっとのことで、言葉を絞り出しました。このまま帰ってもよいのか、という思いもありましたが、その時の俺には、それ以外の選択肢は思いつきませんでした。

「それは別にいいけど」

 明美は、動揺している様子も、臆している様子も、恥じ入っている様子も、後ろめたそうな様子もありませんでした。彼女はただじっと、俺を試す様な目で見ながら、言葉を続けました。

「何も聞かないの?」

 全部見なかったことにしてやるって言っているのに、なんでこんな状況でそんな突っ込んだことを聞いてくるんだ、と、俺は半ば逆上に近い気分になりました。

「聞いたところで、君は正直に答えてくれるのか?」

「答えるよ。だって見られたもん。」

 明美は何の躊躇いも無く、そう言い放ちました。

「いいや、信じられないね。大体君は「今日はもう出かける用事は無い」って、俺に嘘をついたじゃないか。本当のことなんて、言う訳がない。」

 その時の俺は、自分自身が目にしたものや、置かれている状況に頭がついていけず、完全に混乱していました。だから、明美に食って掛かるように言い返してしまったんです。今にして思えば、ただの八つ当たりでした。

「それはもう昨日の話だよ。私が君の部屋を出たのは午前零時過ぎだから、嘘は言っていない。」

「いや、それは……屁理屈だろ!」

 悪びれもせず言い訳を述べる明美に、俺は思わず突っ込みを入れました。

「屁理屈でも何でもいいよ。私は嘘なんか言っていない。」

「……もういいよ、この話は。早く帰ろう。それとも、君は一人で自分のマンションに帰るか?」

 売り言葉に買い言葉のような感じで、俺は思わず突き放すようにそう言ってしまいました。そして、そう言った後の彼女の顔を見て、思わず息を飲みました。

 明美は、うっすらと涙を浮かべた目で、俺を見ていたんです。

「あ……」

 俺は、混乱していたとはいえ、彼女に対して棘のある言葉を投げつけてしまったことを、今更ながら後悔しました。

「明美、その、ごめん。今のは言い過ぎだった。一緒に帰ろう。な?」

 俺は必死に、宥める様な口調で、明美に話しかけました。自分でも不思議な感覚でした。俺は明美に「嫌われたくない」と思っていたんです。冷静に考えれば、彼女は明らかな不審者であり、常識的に判断するのであれば、むしろ関係を断つべき人物です。

 でももう、その時の俺にとって、明美と関係を断つというのは、有り得ない選択肢になっていました。

「ごめん、本当にごめん! 一緒に、帰ろう。」

 懇願するようにそう言うと、明美は俯きながら、ゆっくりと歩き出しました。俺も彼女に付き添うように、並んで歩きました。

「……さっきの話なんだけど」

 話すべきか否か、散々に悩みましたが、俺は意を決して、明美に全てを聞くことに決めました。

「君のことを、教えてほしい。可能な範囲でいい。答えたくないことは答えなくても構わない。教えてほしいんだ。」

「いいよ。聞いて。」

 明美は、微かに表情を綻ばせながら、そう言いました。

「……例の不審者の事件の時から、俺は君に、ハッキリ言ってしまえば、異様な印象を抱いていた。そして実際、君は俺の常識からすれば、本当に変な人間だった。俺に執拗に絡んで、急に付き合うって言いだしたかと思えば、家に押しかけて一緒に住むとか言いだしたり……」

 言葉にしてみると、思わず吹き出してしまうくらい、明美の行動は滅茶苦茶そのものでした。

「それだけじゃない。例の不審者は、俺達の目の前でトラックに轢かれて死んだ。俺、見たんだ。あの男がトラックに轢かれる瞬間、君を見て明らかに怯えていたのを。あの男、まるで目の前に怪物がいるみたいに、ブルブル震えてた。」

「……」

 明美は、黙ったままでした。俺は、次の言葉を口にするべきかどうか迷いましたが、明美に彼女の素性を聞く以上、自分も隠し事をしてはいけないと思い、意を決して、そのまま言葉を続けました。

「さっき、君を嘘つきって言ってしまったけど、実は俺の方も、君に嘘をついていた。昨日の帰り際、田村さんから聞いたんだ。君がたまに、放課後知らない男の人と一緒にいるって。その話を聞いて、昼休みに盗み見しちゃった君のスマホ――あの変なLINEと、何か関係あるんじゃないかって思った。そして、あのメッセージに書かれていた事件の犯人の自宅まで行ってみたんだ。そう、さっき君と鉢合わせした場所だよ。そして、田村さんの言う通り、君と知らない男の人が一緒にいて、あの宝田とかいう犯人の家をじっと観察しているのを、俺は隠れて見ていたんだ。」

 そこまで言うと、俺は明美の顔を伺いました。彼女は前を向いたまま、無表情に俺の話を聞いていました。

「そんなことがあったから、今日の夜はどうしても寝付けなくてね。ずっと寝たふりをしていたら、夜中に君が外に出ていくのが分かった。行く場所は、今日君が来ていた宝田の自宅以外にない。そう思って、俺も君の後を追って、そして案の定、あの場所で君を見つけた。」

 俺はそこまで言うと、明美の前に立ち塞がるようにして立ちました。そして、一呼吸置くと、彼女の眼前に、自分のスマホの画面を翳しました。

「今ちょうど、ニュース速報が流れてきた。東池袋盗難車両暴走事件の犯人、宝田秀重が自宅で急死。宝田の自宅には、警察やマスコミが詰めかけている。そう。さっきまで、俺達がいた場所だ。」

 スマホ画面には、SNSに流れてきた宝田死亡の臨時ニュースが映し出されていました。俺が手に持っている間にも、そのニュースには凄まじい勢いでコメントと「いいね」が付いていきました。

「明美。君に、どうしても確認したい。」

 俺は、次の言葉を口にしようかどうか、寸前まで迷いました。でも、ここまできたのであれば、俺の心の中にある疑念は、全てぶつけるべきだと思いました。

「……君が、殺したんだろう? 宝田も、この前の須藤も。」

 明美は、押し黙ったままでした。その表情からも、感情は読み取れませんでした。

「君は、カクリヨヒメなんだろう?」

 時間が止まったように、俺と明美の間に沈黙が流れました。彼女は俺の言葉に全く反応せず、先程同様、石のように無表情のままでした。

「……」

 俺は、それ以上何も言うことはありませんでした。明美が何も答えてくれないのであれば、もうこの話はそれで終わりです。

「……分かった。答えたくないのであれば、それでも構わない。警察に見つかると厄介だから、早い所帰ろう。」

 明美の口から、答えを聞くことは出来ないと判断した俺は、緊張を解くように微笑むと、踵を返し、再び歩き出しました。

「それでいいの?」

 そんな俺の背中に、明美は言葉を投げつけてきました。

「私の答えを聞かずに、明日以降も一緒にいられる?」

「……じゃあ、答えてくれるのか?」

 唇を噛みながら、俺はゆっくりと彼女の方を振り返りました。実際の所、彼女が何も答えてくれない方が、俺としては救われていたんです。彼女が何も答えなければ、俺の疑問はあくまで俺の妄想にすぎません。俺が自分を無理矢理納得させれば、彼女との関係を続けることは可能なのです。

 でも、もし彼女が「答え」を口にしてしまったら? そしてその「答え」が、俺の恐れていた通りの内容だったら? 俺は一体どうすればいいんでしょう? 彼女との関係を続けていくどころか、自分の今の生活そのものが根底から崩れ去ってしまうんです。

「その前に、確認させてほしい。」

 明美は、真剣そのものの表情で、俺に聞きました。

「あなたの知らない私を知っても、私のそばにいてくれる?」

「……分からない。」

 そう答えるしかありませんでした。この状況で、自分の心を偽っても仕方がないと思ったからです。

「正直だね。でも安心した。」

 明美は何故か、俺の言葉に微笑んでいました。俺はその時初めて、彼女の、心から朗らかな表情を見た様な気がします。

「貴文。あなたはやっぱり、私が思っていた通りの人間だと思う。だから私も、私が知りうる限りの真実を、あなたに話したい。」

 そう言って、明美が次の言葉を口にしようとした瞬間でした。突然、急ブレーキの音と共に、黒塗りの車が俺達の真横に停車しました。

 突然の出来事に俺が狼狽していると、車の後部座席が開き、スーツ姿の男が一人、降りてきました。男は、ちょうど俺の前に立ち塞がるような形で、明美と対峙しました。

 俺は、男の顔に見覚えがありました。昨日の午後、明美と一緒にいた、あの見知らぬ男です。

「お迎えに上がりました。余計な騒ぎのせいで、探すのに苦労しましたよ。取り敢えずは無事なようで、何よりです。」

 男は、俺の方には目もくれず、ただ明美に対してだけ話しかけました。

「迎えはいらないって、言っていた筈だけど。」

 大仰に溜息をつきながら、突き放すような口調で明美が言いました。

「そういう訳にはいきません。あなたは今日もまた失敗を犯した。」

「仕事ならきちんと終わらせたけど?」

 髪の毛を弄りながら、明美が面倒臭そうに答えました。

「ただ仕事を終わらせたのであれば良かった。だがあなたは、前回の須藤の時と同様、無用な混乱を引き起こし、必要以上に騒ぎを大きくした。」

 須藤という名前が出てきたことに、俺は驚いて男の方を見ました。明美と一緒にいたことから、彼女の何らかの関係者かと思っていましたが、どうやら、俺が思っていた以上に彼女の裏の顔を知っている様子でした。

「それって問題なの? 止むを得ないし、むしろそれをどうにかするのが、あなた達の仕事の一つでしょう?」

「問題だから、こうして迎えに来たのです。」

 男は、冷たく言い放ちました。明美の言葉など聞くつもりはない。そんな感じの態度でした。

「えっと、知り合いか何か?」

 剣呑とした空気に耐えきれず、俺は軽い調子で明美に聞きました。

「ごめん、貴文。今は黙っていて。」

 俺の態度を諫める様な口調で、明美が言いました。

「……騒ぎを起こしただけではない。彼のような一般人に、あなたの存在が露見してしまった。」

「私は見込みがあると思ったから、彼を巻き込んだ。それだけよ。」

「我々は了解していない。」

「了解を得る必要がある?」

「とにかく一緒に来てください。」

 何が何だかまるで分からない押し問答の末、男は明美の手を引き、無理矢理車の中に連れ込もうとしました。

「ちょ、ちょっと! 何してるんですか!」

 突然のことに驚き、俺は明美の手を引く男に抗議の声を浴びせました。

 男は、ゆっくりと振り向くと、眼光だけで俺を威圧しました。そして、何の興味も関心も無いような口ぶりで、こう言い放ったんです。

「君はもう帰りなさい。今すぐに。そして全て忘れるんだ。」

 情けない話ですが、俺はその言葉に反論するどころか、口を動かすことすら出来ませんでした。恐怖で身体が完全に硬直していたんです。目の前の男は、体格的にはむしろ華奢なくらいでしたが、雰囲気というか佇まいが、明らかに尋常な人間ではありませんでした。歯向かえば殺される。本気でそう考えてしまった程です。

「貴文、ごめん。本当に悪いけど、一人で帰って。」

 明美は男に手を引かれながら、観念したようにそう言いました。

 男は半ば強引に明美を後部座席に押し込むと、手早くドアを閉めました。そしてそれが相図であったかのように、車は急発進すると、あっという間に、夜の街の中へと消えていきました。闇の中には、俺一人が残されました。

「明美……」

 俺は呆然と、そう呟くしかありませんでした。

 

 俺は半ば放心状態で自宅まで戻り、降りて来た時と逆の手順で、四苦八苦しながら自分の部屋まで戻りました。

 身体には大分疲労が溜まっていましたが、眠る気分には全くなりませんでした。

 明美は無事なのか。

 あのスーツの男は何者なのか。

 明美が自分に話そうとしたことは何だったのか。

 自分はこれからどうすればよいのか。

 あの時、身を挺してでも明美を助けるべきではなかったのか。

 今からでも、警察に連絡すべきではないのか。

 色々な感情や想いが心の中で錯綜して、際限がありませんでした。でも、何を考えようと、どう考えようと、今の自分にできることは何もありませんでした。ただ頭を抱えて、朝が来るのを待つこと以外、何も出来ませんでした。

 結局、俺は一睡もできないまま、朝を迎えました。その頃になると、俺の頭はもう既に、まともに思考を巡らせることを放棄したような状態になっていました。俺は、母親に呼ばれるままリビングに下りて朝食を取り、歯磨きと洗顔の後、制服に着替え、いつも通り、学校に登校しました。俺の脳が、昨夜の出来事以降の様々な記憶や感情を制御しきれず、日常のルーチンに無理矢理身体を戻すことで、現実逃避を行っているようでした。

 歩きながら「俺は、一体何をしているんだろう」と我が事ながら呆れたように思いました。学校に行っている場合か? 何故すぐに明美を探そうとしない? 警察に話すのを躊躇している場合か? 学校に行けばいつものように明美が自分の席に座っているとでも思っているのか?

「……うるさい……!」

 自分自身の不甲斐なさが情けなく、自己嫌悪に耐えきれなくなった俺は、思わずそう呟いてしまいました。でも、そんな言葉を口にしたところで、何かが変わるわけではありません。

 俺は、重い身体を引き摺るようにして校門をくぐり、自分の教室に向かいました。

 友人達に適当に挨拶しながら教室に入った俺は、明美がいつものように自分の席に座っていることに度肝を抜かれました。

 俺は半信半疑のまま、彼女に声を掛けました。

「明美……」

 俺の方を見た明美は、俺の知っている、いつもの彼女でした。

「おはよう、貴文。」

 微かに笑みを浮かべながら、明美が挨拶しました。何の変哲もない、いつもの彼女でした。そのことが逆に、俺を益々混乱させました。

「その……大丈夫なのか? 昨日の、あれ……」

 俺の脳裏に、昨夜、見知らぬスーツ姿の男が恫喝するような口調で明美を連れ去った時の光景がありありと蘇って来ました。

「大丈夫じゃないけど、取り敢えず今は平気。」

 全く答えになっていない答えでした。俺は頭を振って「そうじゃない、そういうことじゃない」とジェスチャーで示しました。

「だって、あれ、どう見たって普通の状況じゃなかっただろ? 怪我とかない? というか、何で普通に学校来てるの?」

「貴文。混乱しているのは分かるけど、とにかく落ち着いて。」

 彼女は、冷静そのものでした。そして、混乱して早口で捲し立てる俺に対して「周りの目があるから、今は静かにして」と目だけで訴えかけてきました。

「……」

 周りの生徒達が、興味本位で俺達の会話に聞き耳を立てているのが、俺にも分かりました。確かに、こんな状況で昨日のことを問い質すのは、得策ではないと思いました。

「帰り、一緒にいいよね? その時に話そう。時間ならあるから。」

「……分かった。」

 その時、俺は、明美の表情が微かに張りつめていることに気付きました。

 彼女は、決して平気な状況なんかじゃない。

 直感的に、俺はそのことを理解しました。


 帰りのホームルームが終わると、明美は無言で俺の席までやって来て、そのまま俺の手を引き、学校の外へと連れ出しました。

「どこに行くの?」

 自分の手を引く彼女に身を任せながら、俺は聞きました。

「なるべく、静かな所に行きたい。」

「じゃあ、俺の家は……」

「君のお母さんを危険に晒してしまうかもしれないから、駄目。」

 危険に晒すかもしれない、という言葉を聞いた時、俺の頭の中に、昨日出会ったスーツの男への恐怖が蘇ってきました。あの男は、それ程までに危険な人物だというんでしょうか? そして、明美は何故、そんな人間とつるんでいるんでしょうか?

 不安は次第に大きくなり、俺の心の中に迷いが生じてきました。本当にこのまま明美に付いて行って、答えを知るべきなのか。答えを知ってしまったら、もう後戻りはできないのではないか。

 心を押し潰してしまうような不安感が、俺の足を重くしました。そして明美も、そんな俺の様子に気付いたようでした。

「ごめんね、貴文。訳の分からないことばかりで、あなたも不安だよね。あの公園のベンチで、少し話そう。」

 俺が彼女の口から、他人に対する労りの言葉を聞いたのは、その時が初めてかもしれませんでした。ここは素直に「ありがとう」と言うべきでしたが、その時の俺の頭は混乱の極致にあって、そんな簡単な言葉を口にする余裕すらありませんでした。

 明美は、俺をエスコートするように、木陰のベンチに座ると、ふうと一息つきました。

「昨日から色んなことが起こり過ぎて、貴文も混乱してるでしょ? 最初に謝っておく。本当に、ごめん。」

 明美は、微かに眉を顰めながら、そう言いました。彼女自身も、現在の状況に苦心している、そんな感じでした。

「いいよ、そんなの。」

 謙遜でも何でもなく、俺は本当にそう思っていました。

「君が無事だったのなら、俺はそれでいい。」

 俺にとって最も気がかりだったのは、明美の安否だったんです。どういう経緯かは分かりませんが、取り敢えず今の所、彼女が無事なのであれば、特に言うことはありません。

「無事と言っていいのか……」

 明美は目頭を抑えて、微かに呻きました。その様子を見て、俺は「明美は無事だった」という俺の考えが、間違っていたのだということを薄々感じました。

「……昨日話せなかったこと、全部話すね。」

 どこか観念したような口調で、明美が語り出しました。

「ああ……」

 俺は固唾を飲んで、明美の次の言葉を待ちました。

「貴文の考えているとおりだよ。私は「カクリヨヒメ」って噂される存在。厳密に言えば、都市伝説で囁かれている「カクリヨヒメ」の一人。」

「一人? 他にもいるのか?」

 意外過ぎる答えに、俺は思わず聞き返しました。

「そう。そもそも私一人じゃあ、この街一つだってカバーしきれない。」

 言われてみれば、それも確かにそうでした。大罪を犯した(この基準もよく分かりませんが)人間とその関係者なんて、東京都下だけで何人いるか分かったものではありません。

「……やっぱり、その、君が殺しているのか? 昨日の宝田とか、須藤とか……」

 聞きにくいことでしたが、彼女が噂の核心にまで触れて話している以上、確認せざるを得ませんでした。

「それは違う。「カクリヨヒメ」はその名の通り、罪人の魂を、幽世に導くための存在。私の仕事は死が運命づけられた者の元を訪れて、然るべき儀式を行うこと。現世隔絶の陣を敷き、黄泉流しの歌を歌い、暗き闇の内に罪人の魂を沈めるのが、私の役目」

「君が殺しているって訳じゃ無いのか。」

 彼女が何を言っているのかよく分かりませんでしたが、取り敢えず「自分は殺していない」という言葉を聞いて、俺は少しだけ安堵しました。自分の頭の中にあった、最悪の予想だけは回避することが出来たからです。

「……でもそうすると、一体どうやって次に死ぬ人間を……ああ、あのLINEか!」

 続けて浮かんだ当然の疑問の答えには、すぐに思い至りました。あの、差出人もその意図も不明なLINE。あれが、彼女への「指示」だったに違いありません。

「その通り。あなたも見たあのLINEが、私に対する「仕事」の指示。私はあれに基づいて、カクリヨヒメとして罪人の元に赴く。」

「あのメッセージの送り主は、昨日のあの、スーツの男か?」

 それ以外に、思いつく相手はいませんでした。昨日の明美に対する口ぶりから推測する限り、恐らくあの男が、彼女の仕事の依頼主なのでしょう。

「本当に勘がいいね、貴文。」

 明美は笑いながらそう言いました。どこか乾いた、心の底からのものではないことが分かる笑い方でした。

「そう。彼――フクタが私の上司と言うか、仕事の依頼主。」

 どこか観念した様子で、明美が言いました。フクタ(福田?)と言うのが、あの男の名前なのでしょうか?

「その、フクタとかいう人と、昨日は何を揉めていたんだ。」

「……」

 明美は、遠くを見るような目で、少しの間沈黙すると、ゆっくりと口を開き、語り出しました。

「……昨日のフクタとの話、貴文も聞いたでしょ? 要するに、最近のカクリヨヒメの仕事の中で、失敗続きなの、私。」

 失敗、という言葉の言い方に、彼女自身はその「失敗」という評価に対し、大いに不平不満を持っていることが、ありありと分かりました。

「この前の不審者――須藤の案件で、ちょっとした手違いから騒ぎが大きくなっちゃってさ。私の学校に乗り込んできたり、私達の目の前でトラックに轢かれたり、本当はあんな大事になる筈じゃなかったの。「仕事」は隠密に済ませるのが基本的なルールだからね。それに加えて、昨日の宝田。まさかあんなに警備が厳重だなんて思わなくてさ。仕事そのものは成功したけど、めっちゃ大騒ぎになっちゃって。で、依頼主サマのフクタはお冠って訳。」

 自分は悪くない、と言わんばかりに、明美にしては珍しく、早口で捲し立てるように彼女は喋り続けました。

「それで……結局そのフクタさんとは、上手く話はついたの?」

 昨日のフクタの態度は、俺の目から見るとかなり強硬なものでした。だから俺は、明美の身を案じていたのですが、当の彼女は、怪我なども無く普通に今日も登校してきました。ということは、彼女の言う仕事上の失敗については、フクタと上手く折り合いがついたのかな、と俺は勝手に予想していました。

「全然。」

 ですが、彼女の答えは、俺の予想とは真逆のものでした。

「全然って……じゃあ、君はどうなるの?」

「まあ、お役御免ってことじゃないの?」

「そ、そうなのか……」

 明美の表情は暗かったのですが、俺は内心嬉しかったです。一体何故、彼女がカクリヨヒメなんて妙な仕事を行っているのかは分かりませんが、話を聞く限りでは、まともな仕事とはとても思えませんでした。そんな不気味な世界から、彼女が離れることが出来るなら、そんな幸いなことは無い、と俺は思っていたんです。

 ですが、それは完全に甘い考えでした。

「だから多分、貴文と会えるのは、今日が最後。それで最後に、今まで隠していたことを、全部あなたに伝えようと思ったの。」

「え、最後……?」

 俺は一瞬、自分の耳を疑いました。彼女が一体何を言っているのか、全く分かりませんでした。

「うん。フクタに1日だけ時間を貰ったの。多分明日辺りには、私は消される。」

「消さ、れる……?」

 脳が、彼女の言葉を受け付けてくれませんでした。言葉の意味を飲み込むことが、出来ませんでした。

「ちょ、ちょっと待って! 消されるって、それ……」

「殺されるってこと。」

 自分の言葉の解釈が間違っていることに一縷の望みをかけて、俺は明美に見問いかけましたが、彼女の言葉は、俺の僅かな希望を完全に打ち砕くものでした。

「ま、待ってよ、そんな……」

 冗談だと言って欲しかったです。狼狽える俺を見て「騙された」と笑って欲しかったです。でも、彼女の表情は真剣そのものでした。

「貴文の部屋に置いていた私の荷物は、今日の内に全部片づけておくね。少しの間だったけど、ありがとう。」

 何と言っていいのか全く分からない俺をよそに、彼女は話を進めていきました。

「ちょ、ちょっと待って! 勝手に話を進めないで! その、えっと……」

 俺は足りない頭を振り絞り、何とかこの、常軌を逸した状況を打破しようと考えました。

「君の話が本当だって言うなら、警察に行こう。君のしてきたことは、その、色々と問題かもしれないけど、君の身に危険が迫っているってことなら、取り敢えず警察に全部話して、君の身柄を保護してもらおう? ね?」

 結局、中学生の頭で思いつけるのは、そのぐらいしかありませんでした。

「無理だよ。警察って、何する人たちだと思う?」

 明美は、頭を振って力なく答えました。

「どういうこと……?」

 彼女の言っている意味が分からず、俺は思わず聞き返しました。

「警察っていうのは、国の治安維持を行う政府機関の一つ。国の意向で動く官憲なの。よーく考えてみて。須藤や宝田みたいな不審死が実際起こっているのに、警察が碌に捜査すらしないのは何でだと思う? カクリヨヒメの存在が、刑事事件化せずに噂止まりなのは、何でだと思う?」

 俺の背筋に、悪寒が走りました。彼女の言葉の意味するところが、うっすらと俺にも理解できたからです。

「私が宝田たちを殺していないんだったら、誰が殺していると思う? そして、どうしてそんな殺人が明るみに出ないんだと思う? 人を殺しても警察に追及されることすらない。そんな連中が殺しているからじゃない?」

 俺の不安を煽り立てるかのように、彼女が畳みかけました。

「……いやそんな、まさか、ありえない……」

「貴文にも薄々分かったみたいだね。」

 俺の瞳を覗き込むようにして、明美が言いました。

「そう。この国の政府が、処理すべき人間を選別して、秘密裏に処刑しているの。「カクリヨヒメ」は、日本政府の政策の一環として行われているれっきとした国策事業なのよ。だから警察なんて、何の役にも立たない。彼等が出来ることはただ一つ。事件化せずに揉み消すことだけ。」

 俺の中の悪い予感を抉るような恐ろしい言葉を、彼女は平然と口にしていきました。その言葉は、考えることを放棄してしまう程の絶望に、俺を落とし込みました。

「そんな……嘘だ、信じられない……」

 俺は、文字通り頭を抱えました。もうどうしていいのか、全く分かりませんでした。完全な八方塞がりです。

「……そういう訳だから、もうどうしようもないの。貴文、本当にごめん。あなたを、変な形で巻き込んでしまった。」

 そう言うと彼女は立ち上がり、その場に座り尽くすしかない俺に背を向けました。

「待って! 待ってよ、明美!」

 もう俺が彼女にかけられる言葉は、殆どありませんでした。でも俺は、是が非でも彼女をそのまま行かせたくはありませんでした。

「……最後に、教えてくれ。君が俺に近づいた理由はなんだ? どうして、俺のそばにいようとしたんだ? やっぱり、君の正体に気付いた俺も、消そうと……」

「それは違う。」

 最後の最後に、どうしても聞かなければならなかったこと。予想される彼女の答えが恐ろし過ぎて、どうしても口に出来なかった問い。でも、もうこの場を逃したら、永遠に答えを聞けなくなる。そんな焦燥から、俺は喉を強張らせながら、彼女に問いかけました。

 そして明美は、そんな俺の言葉を断ち切るように、否定の言葉を返しました。

「それは、断じて違う。」

「……どう違うんだ?」

 どんな返答であれ、明美の足を止めてくれるなら、それでいいと思えました。俺は否定の言葉を繰り返す彼女に、さらに突っ込んで質問しました。

「……話せばきっと、あなたは私を軽蔑するし、私のことを嫌いになる。だから出来ることなら、話したくなかった。でも……」

 明美にしては非常に歯切れの悪い返答でした。そして、一瞬言い淀んだ後、彼女は観念したように話し出しました。

「でも、あなたと会うのは、多分これで最後。だったら、全部話してもいいと思った。むしろ嫌われて終わる方が、あなたにとっては後腐れが無くていいと思うから。」

 明美は再び俺の隣に座ると、静かに、語り始めました。

「私は貴文、あなたを巻き込みたかった。」

「巻き込む……?」

 俺は、思わず聞き返しました。

「実はね、一緒のクラスになった時から、君にはずっと興味があったの。カクリヨヒメとしての直感っていうのかな、「この人はきっと、自分の力になってくれる」って、確信に近い感覚があった。須藤が学校に乱入してきたあの日、君が「カクリヨヒメ」の言葉を聞いて、私に興味を持ってくれた時、恥ずかしい言い方だけど、運命だって思った。」

 そこまで言うと、明美は、じっと俺の顔を覗き込むようにして見ました。彼女の顔は、それ自体が影であるかのように暗く沈んでいました。そしてその瞳は、昨夜、あの暗がりで見た、不気味な程の誇張を感じさせるそれに変わっていました。恐らくこれが「カクリヨヒメ」としての、彼女の表情かおなのでしょう。

「私、本当は人付き合いとか、友達付き合いとか、そういうのは煩わしいって思うタイプだったけど、君に対しては、そんなことは言っていられないって思った。無理矢理でも関係を作って、私に対する関心を惹きつけて、そして、こちら側に引き込まなければならない。そう思った。」

「……!」

 俺は、彼女の語る言葉に慄然としました。その言葉の意味するところが、否が応にも理解できたからです。

「勘付いたみたいだね。」

 明美は、いえ、彼女の姿をしたカクリヨヒメは、悪戯がバレた子供のような口調で、凍り付いたように固まる俺に語りかけました。

「そうだよ。全部、君を巻き込むためにやったの。君と付き合い始めたのも、同棲を始めたのも、須藤が死ぬところを見せつけたのも、フクタからのLINEをわざと君が覗けるように仕向けたのも、田村さんを使って私に対する不信感を抱かせたのも、狸寝入りしている君にカクリヨヒメとしての私の姿を見せつけて、私の後を追わせたのも、全部そのため。君を私の側――カクリヨヒメの従者として引き込むために、私が仕組んだの。」

 絶句する俺の顔を、カクリヨヒメが嘗め回すように覗き込みました。

「……ぅ、あ……」

 俺が明美と出会ってからずっと、彼女に抱き続けてきた、人間的な全ての感情がないまぜになった複雑な想いは、全部、彼女に仕組まれたものだったのです。俺は、感情と言う感情を全て打ち砕かれ、踏み躙られたような、そんな気分になりました。

「全部、仕組まれていた? 君と知り合ってから全部? 田村さんから聞いた話も?」

「そうだよ。彼女も、私やフクタと同じ、日本政府のエージェントの一人。最も、職位は大分低いけどね。じゃなきゃ、私の行動を盗み見している人間を放っておく訳無いでしょ?」

 さも当然のように、カクリヨヒメが笑顔混じりに言いました。その喋り方はまるで、苦悩する俺を甚振っているかのようでした。

「……俺を、どうして引き込もうと?」

 完全に打ちのめされ、朦朧とする頭で、俺は根本的な疑問を相手にぶつけました。彼女の語りぶりから察するに、その答えが、間違いなく碌でもないものであることは予想できましたが、もうそんなことを恐れていられるような余裕は、俺にはありませんでした。

「あなたが私と同じ、異常な特質を持つ人間だからだよ。」

「……えっ?」

 彼女の言っていることが、全く理解できませんでした。そもそも俺に理解できるような相手なのかということはさておいても、彼女の返答は、言葉の意味の欠片すらも理解不能なものでした。

「異常な、特質?」

「さっきも言った通り、直感的に分かったの。あなたは私とは少し違うけど、本質としては似たような人間だってね。あなたのこれまでの健康診断結果や通院記録、学習記録を調べてみたらその通りだった。脳髄の状態から骨相、筋組織と身体各部のバランス、行動様態、心理的性向。その全てが理想的に調和して、犯罪生理学で言う所の「生来型の殺人鬼」に適合している。異常殺人特化型の人間。それが貴文、あなたよ。」

 俺は、今度こそ完全に言葉を失い、彼女のその異様な顔を見返しました。

「何を言っているんだ……?」

 心の声そのままを、俺は口にしました。それ以外に返す言葉が無かったんです。殺人鬼? 異常な特質? 彼女の、カクリヨヒメの口から出る言葉は、俺としては何一つとして受け入れられない、筋違いとしか思えないものでした。

「意味分かんないよ! 何言ってんの?」

 困惑して声を荒げる俺を、彼女は眉一つ動かさず、先程と全く変わらない表情で、見つめていました。

「もちろん、あくまでまだ机上論と言うか、理屈の上では、って話。でも、私は確信しているよ。私――カクリヨヒメという存在に恐怖を抱きながら、あなたは私に関わり続けようとした。私を追い、その力になろうとさえした。君にはこちら側に来られるだけの資質がある。」

「イカレてる……」

 俺は力なく頭を振りました。彼女の主張は、もう真面目に否定することすら億劫になるレベルで、俺には受け入れ難いものでした。

「うん、そうだね。」

 侮蔑に近い俺の言葉に対して、カクリヨヒメはあっさりと肯定の言葉を返してきました。

「でも、そんなイカレた話も、これでおしまい。さっき話した通り、あなたとは今日でお別れだから。」

 そう言って立ち上がった彼女の顔は、俺の知る明美のそれに戻っていました。

「あ……」

 あまりにも突然の変貌だったので、俺は彼女にかける言葉が見つかりませんでした。

「やっぱり、私のこと嫌いになったでしょ?」

 俺の方を振り向き、そう言った明美の表情は、どこか寂しげなものでした。

「それでいいの。頭のイカレた嫌な奴のことなんか、綺麗さっぱり忘れて、あなたの人生を生きて。さようなら、貴文。」

 そう言うと、明美は俺に背を向けて、去っていきました。俺は、自分の中の感情を整理することが出来ず、去り行く彼女に声をかけることすら、出来ませんでした。

 それからしばらくの間、俺は、ベンチに座ったまま、俯いていました。あまりにも多くのことがあり過ぎました。そして、あまりにも無茶苦茶で、荒唐無稽な話を聞かされました。もう何をどう考えてよいのか、自分にも全然分かりませんでした。

 やがて日が沈み始め、辺りに暗闇が立ち込めてきました。俺は、重い身体を引き摺るようにして立ち上がると、まるで酔っぱらいのような千鳥足で、家に帰りました。そうする以外に、どうしようもありませんでした。

 自室のドアを開けると、そこにはもう、明美がいた痕跡すらも残っていませんでした。荷物も私物も何もかも、消えていました。昨日までは微かに感じていた彼女の匂いも、その残滓すら残っていませんでした。まるで最初から、俺一人しか暮らしていなかったかのような、寂しい部屋に戻っていました。多分その時、俺は生まれて初めて、自分の小綺麗な部屋が「寂しい」ものだって感じました。

 唯一、ほんの少しだけ開け放たれた窓だけが、今は遠くに行ってしまった同居人の来訪を囁くように告げていました。俺は、窓辺に近づくと、そこから外の街を眺めました。当然のことですが、明美の姿は、どこにも見えませんでした。

 でも、あの夜の街のどこかには、必ず明美がいるんです。そう考えると、心の中にぽっかりと空いた空白が、足りない何かを求めてゆっくりとその口を広げていくのが分かりました。

 空白。そう、俺はその時、自分の心の中に、真っ白な空白が生まれていることに気付きました。多分、俺の心の中で、明美がいた部分だったんだと思います。彼女を失ったことで、その部分に穴が開き、俺自身にもその喪失感というか、欠落が分かるようになったのかもしれません。

 そして、その空白は生きていました。欠けた部分を探し求めて蠢き、その口を大きく開け続けていました。俺の心そのものを飲み込んでしまうくらい、大きく、力強く、グロテスクに。

「……もう忘れよう。俺には、どうしようもないことなんだ。」

 自分の心の空白が、異様な何かに変わっていくことを感じ取った俺は、自分にそう言い聞かせるようにそう言いました。

 結局俺はその日、「気分が悪い」と言って夕食も取らず、そのまま現実逃避するように、ベッドに潜り込みました。空腹も何も、感じませんでした。ただただ、自分の元に帰ってきた「いつも通りの日常」に対する違和感だけが、俺の心を埋め尽くしていました。

 今にして思えば、俺はとうの昔に、明美と言う存在、その限りなく純粋な闇に、心の内側まで浸食されていたんだと思います。


 翌日、夢うつつの状態のまま登校した俺は、朝のホームルームで、明美が急遽転校することとなった、という話を担任から聞かされました。

 突然のことにクラスメイトは皆どよめき、俺に向かって「知ってたの?」と聞く者もいましたが、全て無視しました。転校なんて真っ赤な嘘だということを、俺は知っていたからです。明美の言葉通り、彼女は今日か、遅くとも近日中には、殺されるのでしょう。そうして、俺とは、もう二度と会えなくなるんです。俺にはどうすることも出来ません。でも、そんなことをクラスメイトに言ったところで、何にもならないし、頭のおかしい奴だと思われるだけです。そんなことのために気力を割く余裕は、その時の俺にはありませんでした。

 俺はふと、田村さんの方を見ました。彼女は横目で俺を見ていましたが、俺と目が合うと、ばつが悪そうに目を逸らしました。恐らくは彼女も、明美に関して凡その事情は知っていたんでしょう。

 俺の中で、微かな苛立ちが火のように燃え立ちました。「何で明美が死んで、コイツ(田村さん)が生きているんだ」という、全く間違った、逆上のような怒りでした。「逆恨みだ、止めろ!」と、心の中で必死にその怒りを抑え込もうとしましたが、逆上の火は、消えるどころか、ますます激しく燃え上がりました。

 何で、明美が死ななければならない。俺の心は、ただその一点にのみ、とらわれていました。彼女が、例え自分にとっては理解不能な怪物だったとしても、ほんの僅かな間とはいえ、生活を共にしていたのは確かなんです。そんな子が、理不尽な理由でこの世から消されなければならないという事実は、俺には到底受け入れられないものでした。

 結局、俺はその日「朝から体調が悪い」と担任に言って、午前中で早退することにしました。無論、嘘です。でも、そうしなければならない程、俺は自分の心を抑えることが出来なかったのは、紛れもない事実でした。

 俺は、昼休みに図書室に向かおうとする田村さんを呼び止め、校舎裏に連れ出しました。

「な、なに……?」

 田村さんは、必要以上に怯えた様子で、俺に問いかけました。

「昨日、明美から全部聞いたんだ。彼女のこと、君のこと、全部ね。」

 自分でもびっくりするくらい、すらすらと言葉が出てくることに、俺は内心、空恐ろしいものを感じました。自分の口が、自分の意思とは別に言葉を紡いでいる、そんな感覚だったんです。

「そ、そう、なんだ……。へ、へぇ~」

 身体をびくつかせながら、田村さんは不器用な愛想笑いを浮かべました。俺の様子や口調から、自分が何かを問い詰められるということを敏感に悟り、恐れを抱いていることは明らかでした。

「明美さ、今どこにいるの?」

 単刀直入に、俺は聞きました。誤魔化しなど許さない、そんな語気で。

「えっと、その……」

 田村さんは、地面に目を落としながら、明らかに言い淀んでいました。何かを知っていることは明らかでした。

「あ、あのさ、昼休み、そろそろ終わるから、私はこれで……」

「俺は午後休み貰ってるから、いくらでも大丈夫だよ。」

「いや、私……」

「君が何? 質問してんの俺だけど?」

 適当な理由を付けて、その場から立ち去ろうとする田村さんを、俺は完全な恫喝でその場に留まらせました。

「その……私のレベルでは、その辺までは分からないというか何というか……」

「じゃあ分かる奴に聞けよ。今すぐに。ほら早く。連絡する方法なんていくらでもあるだろ?」

 田村さんが、適当な理由を付けて誤魔化そうとしているのは明らかでした。俺はここで引き下がる意思はないことを、態度で彼女に示しました。

 逃げられないと悟った田村さんは、意を決したのか、俺をキッと睨みつけると、明らかに慣れていない様子で、脅し文句を口にし始めました。

「あ、あのさ、湊君? 老婆心ながら忠告するけど、あんまりそういう態度はよくないかな~って、私思うな……。金成さんから聞いてるでしょ? 私、彼女程じゃないけど、日本政府のプロジェクトに参加している人材で、そういう人間に対してその態度は……」

 田村さんが言い終わるよりも先に、俺の手が、彼女の喉を鷲掴みにし、力の限り絞めつけました。

「殺されてぇの? さっさとしろよ。」

 自分が言っていることもやっていることも、俺には理解できませんでした。田村さんを呼び出した時から、もう俺の身体と心は、俺自身の意思を離れてしまったかのようでした。

 明美を、取り戻す。その一点のみに、その時の俺という存在は、突き動かされていました。

「あ……がっ! い、言う! 言うから! お願いぃ!」

 命の危険を感じた田村さんは、ようやく白状する気になったようでした。俺が掌の力を緩めると、彼女の身体は、崩れ落ちるように地面に倒れました。

「……港湾の、今は使われていない、芹沢倉庫跡。不要になった人材は、全部そこで、「処理」されるって、聞いた……」

 息を切らしながら、田村さんは切れ切れに、彼女の知っていることを吐き出しました。

 結局知っていたんじゃないか、と悪態の一つもついてやりたかったですが、それを口にするよりも早く、俺の足は、校舎の外へと向かっていました。

 俺は、後ろに蹲る田村さんを一瞥することも無く、目的の場所に向けて一心に走り続けました。


 港湾の倉庫街は場所だけは知っていましたが、そもそもそれまでの人生で行く機会も興味も無かったため、目当ての場所を見つけるのには一苦労しました。

 それでも何とか、田村さんの言っていた倉庫跡地を見つけると、俺は「立ち入り禁止」の表示を無視して鉄柵を乗り越え、敷地内に侵入しました。

 敷地内に入ってみて初めて分かりましたが、人の気配すら感じられない倉庫と言うのは、本当に不気味でした。全く手入れがされておらず、蔦の張ったコンクリートの壁面は、廃屋と言うより、まるで刑務所の塀のように感じました。中に入った者を決して逃がさない、外界との断絶。そして、そこかしこに開け放たれた倉庫内へのドアは、まるで逃げ場のない獲物を丸飲みにしようとしている怪物の口の様にも思えました。

「本当に、こんな所に……?」

 その時ようやく、俺は自分が田村さんに騙されたのではないかという可能性に思い至りました。もし彼女が、明美が言うように、政府関連のプロジェクトに従事する人物ならば、いくら恫喝されたからと言って、全く無関係の一般人に、機密情報を漏らしたりするものでしょうか? 

 情けない話ですが、人気のない場所に一人きりでいるという心細さから、俺は弱気になりつつありました。不安が疑心暗鬼を生み、そして疑心暗鬼が不安を増幅する。完全に負のスパイラルです。

 その時でした。耳が痛い程静かだった敷地内に、微かに響いてくる音に、俺は気付きました。その音、いえ、その歌に、俺は聞き覚えがありました。

「明美の、カクリヨヒメの「歌」――!」

 聞き間違えるはずがありません。あの闇の中で聞いた、カクリヨヒメの歌でした。

 俺は、脇目も振らずにその「歌」を追いかけて、倉庫内に駆け込みました。物品や機械類は搬出した後だったのか、倉庫の中は完全に空っぽで、フロア全体が一望できました。

 フロアの真ん中に、場違いな椅子が一つ置かれていました。明らかに倉庫内の備品ではない、小さなリラクゼーションチェアでした。

 その上に、明美がちょこんと座っていました。

「明美……」

 異様な状況に警戒しながら、俺はゆっくりと彼女に近づき、名前を呼びました。

「……」

 明美は、ゆっくりと椅子を動かし、俺の方を向きました。その瞳は、死にかけた魚のように虚ろで、俺の方を見ているのかどうかすら、分からない有様でした。俺は、そんな彼女の瞳を見たことはありませんでした。

「あの……」

「……何しに来たの?」

 何と語りかけてよいか分からず言い淀む俺に対し、彼女は冷たく返答しました。

「明美……」

「どうしてあなたがここにいるのかは分からないけど、早く逃げて。これ以上関わると、あなたも死ぬことになる。……もっとも、私が見ているのが幻でなければ、だけどね。」

 その時になってようやく、俺は彼女の様子がおかしい理由を察しました。

「明美、君、薬か何か飲まされて……!」

 焦点の合っていない瞳。呂律の回っていない喋り方。何らかの薬物を飲まされたとしか思えませんでした。

 俺は、すぐに明美の座る椅子に飛びつきました。彼女の両手はベルトで肘掛けに固定されており、両足首は手錠で拘束されていました。

「待ってて! 今すぐ、自由に……」

 俺は、明美の両手を拘束するベルトの留め金を半ば力任せに外すと、朦朧とする彼女をそのまま抱え上げました。余計なことを考える暇など全くありませんでした。とにかく、一刻も早くこの場から離れて、明美を病院に連れて行かなければならない。俺の頭には、ただそれしかありませんでした。

「貴文、お願い、待っ……」

 朦朧とした意識で、明美は必死に俺を止めようとしましたが、俺は聞く耳を持ちませんでした。何が起ころうが、俺にとっては彼女を失う以上のことなどなかったからです。

 ですが――彼女を抱えて出口の方を振り返った時、俺の身体は完全に固まってしまいました。

 俺達の背後に、何の気配も感じさせず、男が立っていました。そう、一昨日の夜出会った、あのスーツの男、フクタでした。

「本当に面倒なことになったものだ。」

 何の感情も込められていないような口調で、フクタが言いました。

「湊貴文君だな? 壱姫から聞いている。彼女の同級生だそうだな。何を考えてここまで来たのかは分からないが、君の選択は完全な誤りだ。」

 フクタは、その場に立ち竦む俺に対し、淀みなく言葉を浴びせてきました。壱姫というのが何かは分かりませんでしたが、文脈からして恐らく明美のことを言っていると理解しました。

「君は、一昨日の夜の段階で手を引くべきだった。私はそう警告したし、聞き入れてもらえると思っていた。君が普通の学生であるならば、あそこで身を引く以外の選択肢など無かった筈だ。」

 そう言うと、フクタは一歩だけ、俺に近づきました。

「だが君はそうしなかった。どういう心境によるものかは分からないが、自分の選択には、責任を持ってもらうぞ。」

 フクタの姿が、俺の目の前から消えました。幻覚でも見落としでもありません。本当に、文字通り、俺の目の前から人間一人が消えたんです。

「逃げて!」

 俺の手の中で明美が叫ぶのと、俺の身体が真横に吹き飛ぶのはほぼ同時でした。

 いつの間にか真横に現れていたフクタが、俺の横腹に思い切り蹴りを食らわせたということに気付いたのは、吹き飛ばされて床に転がった後でした。彼は、文字通り目にも止まらぬスピードで、一瞬にして俺のすぐ横まで回り込んでいたんです。俺と明美は文字通り吹っ飛ばされ、受け身も取れないまま床を転がりました。

 俺は、立ち上がることはおろか、息を整えることすら出来ませんでした。何が何だか分からないまま、激痛だけが身体を駆け抜けていました。

「気の毒だが湊君。君と壱姫には共に消えてもらう。恨みっこなしだ。そんな人生を選択したのは、君なのだから。」

 フクタは足音も立てず俺の傍らに近づくと、俺の襟首を掴んで無造作に持ち上げ、そのまま鳩尾に掌底を食らわせました。

「がはっ……!」

 胃袋が破裂するような衝撃を受け、俺は叫ぶことも出来ないまま再び吹き飛ばされ、倒れ伏す明美のそばに転がりました。

「お願い。貴文は助けて。彼は、私が無理矢理巻き込んだの……」

 激痛で言葉を発することも出来ない俺の横で、明美が、消え入りそうな声でフクタに懇願しました。

「できません。」

「お願い、します……」

 無慈悲に拒絶するフクタに対し、明美はプライドを捨てた様な懇願を続けました。

「このような事態になる前に、自分の浅はかさに気付くべきでしたね、壱姫。」

 冷然とそう言い放つと、フクタはゆっくりと俺達の方に向かってきました。止めを刺すつもりだということは、雰囲気だけで十分理解できました。

 フクタの言葉を聞くにつれ、俺の心に、恐怖や混乱とは、全く別の感情が沸き上がって来ていました。息を切らし、半死半生のような状態で床に転がる俺の心は、まるで場違いな程高揚し、かっと熱くなっていました。それは、怒りとも逆上とも、憎しみとも恨みとも違う、心そのものが沸き立つような感覚でした。

 そしてフクタが、俺の目と鼻の先にやって来た時――その熱く焦げるような感覚は一気に消え去り、心の中は真っ白になりました。明美を失った時から、俺の心の中に巣食っていた空白。それが一気に肥大化し、俺の心そのものを飲み込み、白く染めたんです。俺の心、俺の見る世界全てを、どこまでも白く、空っぽに。それはまるで、永遠にどこまでも続く、白い地平のようでした。

 横に倒れ伏す明美が、俺の掌に、何かを握らせました。そしてそれが、俺の中で、何らかの相図になりました。

 次の瞬間、俺の身体は、跳ね上がるようにして宙に舞っていました。全身の筋肉が無意識のうちに躍動し、まるでバネのように俺の身体を無理矢理跳ね起こしたんです。

「!」

 フクタは、俺が突然飛び起きたことに驚いたのか、一歩後ろに飛び退くと、じっと俺の様子を観察していました。

 俺は地に足を付けて体勢を整えると、仁王立ちのような形でフクタと対峙しました。そして先程、明美が俺の手に握らせた得物をその時初めて見ました。

 ナイフでした。奇妙な形に屈曲していて、刃の部分は、まるで鎌のように反り曲がっています。そして、その刃も柄も、まるで、俺の心をそのまま反映したかのように白一色でした。大理石の白い部分だけを抽出したように、薄っすらと輝く白亜の短剣でした。

 心は、真っ白なままでした。感情の動きはありませんでした。身体の痛みも何もかも、消えていました。奇妙な浮遊感を感じ、まるで自分が、夢と現実の狭間に立っているような気分でした。

 心の中に何も無くとも、俺の身体は、自分がその場ですべきことを知っていました。考えるまでも無いことです。相手が俺を殺そうとしているなら、こちらもそれに応じればいい。それだけです。

 フクタが、じりじりと距離を詰めてきました。それでもなお、俺の心には僅かな揺らぎすら起こりません。先程から変わらず、目の前のもの全てに現実感が無く、夢現の狭間にいる様な感覚でした。

 そう――夢か現実か分からないのであれば、遠慮する必要など何も無いのです。思い切り、心のままに暴れてやればいい。目の前の相手が自分の敵ならば、殺してしまえばいい。

 ……今思えば、有り得ないレベルの、滅茶苦茶な考え方です。でもその時の俺は、考えることなどできませんでした。何と言うか、身体がもう、自分がどう動かなければならないか知っていて、心はそんな身体の動きを全部肯定してしまっている。そんな感じでした。

 フクタの左足に、微かに力が込められたのが、見て取れました。その挙動を見て「左側から来る」というのが、直感的に理解できました。

 俺は左手に持ったナイフの刃を、本能が指し示す方向に突き出しました。ナイフの刃は、目にもとまらぬスピードで俺の左側に回り込んだフクタが繰り出した正拳を、無慈悲に抉り抜きました。

「ぐうっ!」

 フクタの右手は深く抉られ、鮮血が噴き出ていました。俺は彼の方に向き直ると、自分でも吃驚するくらい冷静に、次の攻撃に備えました。

 フクタの右足首に捻りが加えられるのを見て「蹴りが来る」ということを見て取った俺は、身体の重心を微かにずらし、彼の右足が突き出されるより早く身を躱しました。そして、空を切るフクタの右足首に向けて、右手に持ち替えたナイフを、思い切り振り上げました。

 振り上げられたナイフは、驚くほど何の抵抗も無く、フクタの右足首を半分くらいまで切断しました。足首の腱や筋肉だけでなく、骨までも両断したような感覚がありました。

 フクタは、短い悲鳴を上げると、身体のバランスを崩しながら、俺と距離を取りました。俺は、彼の様子を確認すると「今ならやれる」と判断し、攻撃態勢に入りました。はい、この時の「やれる」というのは、文字通り「殺せる」という意味です。恐ろしい話ですが、その時の俺は、フクタを殺害することが「当然のこと」と考えていました。先程の「真っ白な空白」に飲み込まれてから、俺の心は完全に自制心を失っていました。

 俺は、狙いを外さないようにナイフを両手で構えると、そのままフクタに向けて突進しました。フクタは防御姿勢を取ろうとしていましたが、右手を抉られ、右足首も千切れかけている状態では、姿勢を整えることすら難しいのは明らかでした。俺はナイフを前面に突き出すと、一切の躊躇いを捨てて、そのままフクタにぶつかりました。

 ぶつかった感覚は、ありませんでした。俺が突き出したナイフは、先程フクタの足首を切り裂いた時と同様、殆ど何の抵抗も無く、彼の脇腹を引き裂いていました。衝撃に備えていた俺は不意を突かれた形になり、そのまま勢い余って地面の上を転がりました。床と天井が俺の視界の中で上下反転を繰り返して、一瞬、意識が飛びかけました。多分、それが俺の精神にとって、逆に良かったんだと思います。慌てて起き上がった時、俺の心の中から、あの不気味な「真っ白な空白」は消え失せていました。俺の心は、いつも通りの「普通の感覚」に戻っていたんです。

「あ、あいつは……⁉」

 正気に戻った俺は、フクタがどうなったのかがまず気になり、後ろを振り返りました。

 フクタは、床に大の字になって倒れていました。ピクリとも動きませんでした。

 俺は、恐る恐る彼に近づきました。そうせずにはいられませんでした。恐怖より、警戒より、不安の方が俺の中で大きくなってきたからです。感覚が正気に戻ってしまったことで、「ひょっとして俺は、取り返しのつかないことをしてしまったんじゃないか」という、今更ながらの後悔の念が、心を押し潰してしまう程、大きくなっていました。

 フクタは目を見開いたまま固まっていました。先程俺が傷つけた脇腹や手足からは、止めどなく血が溢れて、水溜りのようになっていました。俺は一縷の望みをかけ、震える手で、フクタの首筋に手を当て、脈を確認してみました。でも、無駄でした。彼の脈は、完全に停止していました。

 死んでいる――。逃れようのない現実が、俺の目の前に横たわっていました。「自分は人殺しである」という、動かしようのない事実が、俺の目の前に転がっていました。

 俺はただ、その場に立ち尽くしていました。色々なことを考えていましたし、色々な感情が心の中で渦を巻いていました。でも、何も考えられなかったし、何も感じられませんでした。目の前の現実は、俺の心の許容範囲を完全に超えていました。その上、俺はこの現実から逃れることなど決して出来ないのです。

「あ、あ……」

 膝が震えて、俺はその場に崩れ落ちるように座り込んでしまいました。心が、身体が、今自分がいるこの現実を完全に拒絶していました。逃げ出したい、消え去りたい、でも逃げることは出来ないし、この現実を消し去ることも出来ない。そんな絶望が、俺の身体を子供のように震わせていました。

 そんな俺を、明美が背後から、優しく抱きしめました。

「貴文、ありがとう……」

 彼女の温もりが、背中から伝わってきました。壊れそうだった俺の心は、彼女の言葉と温もりで、何とか繋ぎ止められました。

「ありがとう。本当にありがとう……」

 明美は俺を強く抱きしめると、背中に顔を埋め、嗚咽するような口調で言いました。

「そんな……俺は、人を、殺して……」

 俺は、今にも泣きだしそうな子供のような声でそう言いました。だって、俺は人を殺してしまったんです。ありがとうも何もないんです。ただの犯罪者なんです。

「大丈夫。大丈夫だから。」

 明美は、身体を引き摺るようにして俺の前に来ると、不安に押し潰されたように蹲る俺を、今度は正面から力いっぱい抱きしめました。

「あなたは、私を守った。そして勝った。それだけで十分。それ以上、考える必要なんて無い。」

「でも、でも……」

 震える俺の腕から、ナイフが零れるように床に落ちました。不思議なことに、ナイフの刃には、血痕一つ付いていませんでした。まるで新品のような輝きのまま、埃だらけの床に転がっています。血が足りない、もっと血をよこせ。俺にはそのナイフが、そう訴えかけているように感じました。

「今は、何も考えなくていい。ただゆっくり、休めばいい。それでいいの。」

 明美は、床に転がるナイフをそっと拾い上げ、懐に仕舞い込みました。そして、俯いたままの俺の顔を両手でそっと包み込むと、優しく持ち上げました。

「だって、地獄はこれからだもの。」

 俺と目が合った明美の顔は、カクリヨヒメのそれでした。

 不気味な程に大きな瞳と、三日月のように吊り上がった口元が、俺の心の奥底まで貫くように見据えていました。

 その瞳に心を射貫かれるかのように、俺は意識を失いました。


 目を覚ました時、俺は公園のベンチで転寝をしていました。

「えっ……?」

 一瞬、俺は自分が何をしているのか、全く分かりませんでした。

「俺は、確か……」

 すぐに、鮮明な記憶が蘇って来ました。俺はつい先程まで、廃墟と化した倉庫にいて、そこで明美を見つけ、彼女を連れ出そうとしたところでフクタと遭遇し、そして――

「……!」

 そう、俺はフクタを殺したんです。その直後に、明美が慰めるように俺を抱きしめ、そして彼女の、カクリヨヒメの顔を見た瞬間、意識を失ったのでした。

 一体、何が起こったのか? 俺の頭は、疑問と困惑で一杯でした。俺がいたのは、明美と何度か来たことのある、公園のベンチでした。芹沢倉庫跡からは何㎞も離れていて、合理的に考えるのであれば、誰かが意識を失った自分をここに運んだとしか考えられません。

 時計を見ると、時間は夕方の6時を回っていました。俺が最後に意識を失った正確な時間は分かりませんが、倉庫に着いたのが確か午後3時過ぎだったので、2時間以上意識を失っていたのは間違いありません。その間に、誰かが自分をここに運んだことになります。一体誰が? 明美である筈はありません。彼女の腕力で、俺を抱えてここまでやって来ることなどまず不可能だからです。

 訳の分からない状況に頭を抱えていると、母親から電話がかかってきました。よく見ると、スマホには母親からのLINEと着信が何件も届いていました。「学校から午後休むって連絡受けたのに、どこで何をやっているの!」という至極真っ当な怒りの連絡でした。

 俺は「ごめん。体調が悪すぎて公園で休んでいたら、いつの間にか寝ちゃってた。」と嘘八百を並び立てると、ひたすら謝罪の言葉を繰り返し、「すぐ帰る」と言って通話を切りました。

 俺は、改めて自分の周りを見回してみました。何の変哲もない、ただの公園です。周りにいる人たちも皆、何の変哲もない、普通の人たちです。変な所は、何もありません。

 俺は、そんな「普通の風景」に、言いようのない疎外感を抱いていました。だって俺は、人を殺してしまったんです。「普通の風景」とは、最も遠い場所に、自分自身を追いやってしまったんです。

 でも、どういう訳かは全く分かりませんが、俺はそういう「人殺しの自分」という場所から、半ば強制的に「普通の風景」の中に戻されました。そしてそのことに、俺は困惑し、言い様の無い違和感にとらわれていました。「ここは、俺がいるべき場所じゃない」。そんな声が、心の中に反響し、俺の頭を揺さぶっているようでした。

「……何を考えているんだ、俺は。」

 俺は自分自身に言い聞かせるようにそう言うと、心の内側を覆い尽くそうとする違和感を振り払うかのように、足早に帰路につきました。それ以上その場所に留まっていると、恐ろしい考えに心が飲まれてしまいそうでした。

「帰ろう、帰るんだ。俺には帰るべき日常がある。人殺しの自分になんか、帰りたくない――」

 思わず、口に出してしまいました。そうです。俺の心の中には「自分が帰るべきは、人殺しの自分だ」という、全く理解不能で、決して受け入れてはならない考えが浮かんでいたんです。理由は全く分かりません。自分の感覚ではついさっき、自分の人生そのものを失ってしまったのではないかと思う程後悔したはずなのに、どういう訳か俺の心は、自分が帰るべき「普通の風景」の方に、大きな違和感を覚えてしまっていたんです。

 でも、認めるわけにはいきません。そんな恐ろしい考えを、そんな恐ろしい自分を、認める訳にはいかないんです。

 家に帰った俺は、リビングで待ち構えていた両親にこっぴどく叱られました。何で具合が悪いのにすぐ帰って来ないんだ、具合の悪いときに公園で寝る奴があるか、と散々に詰められました。正論過ぎて、反論の余地が無かったので、とにかくひたすら謝ることしか出来ませんでした。ひとしきり怒られた後は、とにかく今日明日は安静にすること、そして明日は必ず医者に行くことを母親に厳命されました。俺は「分かった。そうする。」と大人しく従い、自分の部屋に戻りました。

 部屋に戻った俺は、ベッドの上に転がると、そのまま放心状態になりました。明美と知り合ってからずっとですが、自分の周り、そして自分自身の状況があまりにも大きく変わり過ぎて、頭の処理が全く追いついていませんでした。

 人を、殺した――

 改めて、その事実の重さが、心に圧し掛かって来ました。

「俺、どうなるんだろう……」

 今更どうしようもないことですが、自分の身に関する根源的な不安に、俺はそう呟かざるを得ませんでした。でも、考えた所でどうしようもありません。やってしまったことはやってしまったことだからです。後はもう、成り行きに任せるしかありませんでした。

 翌日、俺は学校を休み、気乗りはしませんでしたが、両親に言われた通り、病院に行きました。単なる仮病なので、当然、肉体的には健康そのものです。医師は、新学期になったことに伴い心身ともに疲れが溜まっていることが原因と判断し、当たり障りのない薬を処方するだけで診察は終わりました。

 薬局で薬を買い、家に帰る道すがら、俺は自分の周りの風景が昨日にも増して現実感を失っていることに気付きました。いつも通りの街並みは、まるで水に濡れた絵のように輪郭を失ってぼやけ、その中を、俺一人が歩いている、そんな感じです。

 そして、「人を殺した」という感覚さえも、そんな失われていく現実感の中に埋もれていって、俺の心の中から消え去ってしまいそうでした。そう、恐ろしいことですが、俺は自分が人を殺したという事実さえも、実感が無い夢のように感じていたんです。よくよく考えれば、人を殺した人間が、その翌日にこんなのんびりと街を歩いているなどということが、ありえるのでしょうか。警察が自分のことを探しているかもしれないというのに、手ぶらで、警戒心の欠片も無く街を練り歩く、そんな人間が果たしているでしょうか。仮にそんな人間がいたとしたら、そいつはきっと、本物の異常者です。怪物と言っていいかもしれません。

 明美が最後に俺に言った言葉が、心の中に蘇ってきました。

 犯罪生理学で言う所の「生来型の殺人鬼」。異常殺人特化型の人間。

 妄想としか思えなかった彼女の言葉が、心を凍り憑かせるほどの現実感を持ち始めていました。だって、今の俺の状態は、客観的に見て彼女の言う通りのものだったからです。

 俺は、自分自身の心、そしてその中で大きくなる得体の知れない感情から逃げるように、足早に家へと戻りました。そしてその日は一日中、自分の周りの全ての現実から逃げるように、ベッドの中で丸まっていました。

 結局、病院で診てもらった結果、何の問題も無かったことで、俺は翌日いつも通り学校に行くこととなりました。気乗りはしませんでしたが、流石にもう仮病は使えないと思い、俺は大人しく登校することにしました。

 教室に入ると、明美の座席が空いたままになっていることが、まず目に留まりました。そういえば、彼女は「転校」したことになっていたんだった、ということを、その時ようやく思い出しました。あの後で起こったことが、色々な意味で衝撃的過ぎたせいで、俺はそのことを完全に忘れてしまっていました。

 自分の席に座った俺は、ふと田村さんのことが気になりました。明美の居場所を聞き出すためとはいえ、彼女に対して暴力を働いてしまったことを思い出し、急に後悔と言うか、罪悪感にとらわれてしまったんです。

 今からでも、謝ろう。そう思って教室の中を見渡しましたが、田村さんの姿は見当たりませんでした。彼女の隣の席の子に聞くと「なんか昨日、しばらくお休みするって話があったよ」と教えてくれました。

 俺の周りから、明美に関係する人や物が、消えていく――不気味な感覚が、俺の心の中で墨汁の染みのように広がっていきました。自分の日常が、崩れていく。自分自身の記憶すら、疑わしく思えてきました。昨日から感じていた非現実的な感覚は収まるどころか、深刻さを増していくようでした。このままでは、自分の心が本当に壊れてしまう。俺は本気で、それを心配し始めました。

 俺は、とにかく明美に連絡を取ろうと思いました。彼女は無事なのか、それとも彼女の言葉通り消されてしまったのか、それだけでも確かめたかったんです。でも、ありとあらゆる方法で連絡を取ろうとしましたが、いずれも空振りに終わりました。電話も繋がらないし、メールの返信もありません。LINEも未読のままです。俺は、明美との繋がりが、完全に断たれてしまったように感じました。

 放課後、俺はいてもたってもいられず、あの忌まわしい港湾の廃倉庫を再び訪ねることにしました。もうあの場所以外に、明美の痕跡を辿れる場所はありませんでした。「止めろ、危険だ」と心の中で止める声がありましたが、自分の心を飲み込む寸前まで肥大化した不安感――自分の見るもの、感じるもの全てから、現実感が喪失していく異様な不安感――を拭い去ることが出来ず、俺は半ば突き動かされるように、港湾地区へと向かいました。

 後で知ったんですが、犯罪者には、自分が犯行を犯した現場に戻って来てしまう傾向があるんだそうです。その時の俺の行動は、まさにそんな犯罪者的行動そのものでした。俺は、自分でも気付かない内に、明美が自分に対して言った「生来型の犯罪者」という言葉を、自分自身の行動で証明してしまっていたんです。

 俺は、数日前に訪れた時と同様、周囲に人の目が無いことを確認すると、鉄柵を乗り越えて、芹沢倉庫の敷地内に侵入しました。2度目の不法侵入になりますが、俺の心は、不思議と平静そのものでした。自分でも違和感を覚えるくらい、俺は手際よく、軽やかな足取りで目的とする区画まで走り抜けると、あの悪夢のような事態が起こった倉庫内へと滑り込むように侵入しました。

 屋内は、耳が痛いくらい静まり返っていました。数日前に来た時と同じく、塵一つ落ちていない平坦なフロアが目の前に広がっていました。唯一の違いは、明美がいないことでした。

 俺は、フロアの中央まで来ると、明美が拘束されていた椅子が置いてあった場所に立ちました。数日前、ここには確かに明美がいました。それは間違いありません。でも今は、何もありません。椅子が置かれていたという痕跡すらありませんでした。

「……いや、待て。何か変だ。」

 その時になってようやく、俺は屋内の異状に気付きました。無くなっていたものは、明美が座っていた椅子だけではなかったんです。

「無い……血の跡が、何も。」

 数日前、俺がフクタを刺殺した時に出来た血溜まりが、跡形もなく消えていました。僅かな痕跡すらも確認できませんでした。あまりにも綺麗さっぱり無くなっていたため、恥ずかしい話ですが、俺自身最初は全く気付けなかったくらいです。

 よくよく考えれば、死体が無いということも変です。これはつまり、何者かが死体を運び出し、血痕も含めて全て消し去ったということに他なりません。一体誰が? 警察でないことは確かです。警察が死体を発見したのであれば、現場は保全されるはずですし、何より敷地内には非常線が張られ、立ち入りなどできない筈です。そもそも殺人事件が起こったなら、ニュースになっていなければおかしい筈です。一昨日からずっとニュースアプリやニュースサイトをチェックしていましたが、この倉庫で死体が発見されたという報道は全くありませんでした。

 立ち眩みを起こす程の眩暈を感じながら、俺は明美の言葉を思い出していました。

 警察にできることは、事件化せずに揉み消すことだけ。

 この状況が、まさにそうだというんでしょうか。

 俺は、自分の周りの風景が捻転するような眩暈と頭痛を覚え、耐えきれずその場から離れました。

 フラフラと歩き続けるうちに、作業員のような男性と出くわしました。

「君、こんな所で何やってるの⁉」

 作業員の男性は、俺の姿を見ると驚いて声を上げました。

「あ、いや、その……」

 頭痛と眩暈のせいで、注意力散漫になり過ぎていました。俺はこの敷地に不法侵入している身なんです。見つかったらただでは済みません。

「す、すみません! ちょっと、迷い込んでしまって……」

 俺は頭の中を整理することが出来ず、明らかに動揺した様子で、説得力の欠片も無い嘘を口にしました。

「出鱈目を言うんじゃない。立ち入り禁止になっていただろう。」

「あ、はい……」

 当然、そんな口から出まかせは、作業員の男性には信じてもらえませんでした。

「あの……廃墟の中とか、見てみたくなって……本当にすみません。」

 こうなれば、あらぬ疑いをかけられない範囲で、本当のことを言うしかありませんでした。俺は頭を下げて、本当に申し訳なさそうな態度で、作業員の男性に謝りました。

「……君いくつ? もういい加減、分別のつく年だろう。」

「はい、本当に、すみません……」

 作業員の男性が、呆れた様子で言いました。最もな反応過ぎて、俺は反論することが出来ず、ひたすら頭を下げ続けました。

「取り敢えず、すぐに出ていきなさい。入口の所までは送るから。」

「すみません……」

 作業員の男性は溜息をつきながらも、俺に付いて来るように促しました。俺は、取り敢えず面倒な事態は避けることが出来たことに安堵すると、大人しくその後に従いました。

「二度とこんなことしちゃ駄目だからな。ここはもう、来週には取り壊すんだから。」

 鉄柵で封鎖された入口の脇にある開閉スペースを開けて、俺を送り出した作業員の男性が、念を押すようにそう言いました。

「取り壊す……」

 俺は、思わず同じ言葉を反芻しました。

「そう。だから最後の点検をしているんだ。」

 点検ということは、屋内に備品等が残っていないかも含めて確認している筈です。でも、死体が見つかったというニュースはありませんでした。つまり、死体は「見つからなかった」のです。

 そこまで考えて、俺は「待てよ」と思いました。フクタがこの場所を明美の殺害場所として選んだということは、国はこの場所を「他者の目の届かない安全地区」と考えているからに他なりません。つまりこの区域は、国の管理地区と考えなければ辻褄が合いません。田村さんも、この場所で不要な人材が何人も処分されていると言っていましたし、この考えに間違いは無い筈です。

「あの、ここって、国が管理しているとかじゃないんですか?」

「国? 何言ってんだ。前の所有者は倒産しちゃったし、買い手もつかないから、管理する奴もいなくて危険なんだよ。お前みたいなのが入り込んだりとかな。で、都の負担で取り壊すことが決まって、先週からずっと作業しているって訳。分かったら早く帰んな。」

 作業員の男性はそう言うと、面倒臭そうに扉を閉め、さっさと立ち去っていきました。

 俺は一人、その場に立ち尽くしました。

 一体全体、何がどうなっているのか。俺は自分の正気そのものを信じられなくなりました。

 先程の男性は、明らかに委託を受けたただの作業員でした。どう見ても政府関係者のようには見えません。彼等が取り壊しのための点検作業を先週から行っているのに、死体が見つからないなどということがあり得るのでしょうか。仮に死体を倉庫の外へ運び出すとして、作業員の目に触れずにそんなことが出来るのでしょうか。血痕も含めて、完全な証拠隠滅など出来るのでしょうか。そもそもにおいて、取り壊しのための点検作業を行っている場所を、殺人の現場に選ぶなどと言うことがあり得るのでしょうか。

 考えれば考える程、疑問しか浮かんできませんでした。俺が一昨日この場所にやって来たことすら、疑わしく感じました。誰の目にも触れず立ち入り禁止区域に侵入し、そこで人を殺し、気が付くと公園で寝ていた。冷静に考えると、ありえないの一言です。あまりにも馬鹿馬鹿しい話で、他人に話したところで誰も信じてはくれないでしょう。そして俺自身、自分の記憶そのものに対する不信感の方が強くなっていました。

「俺は――おかしいのか?」

 そんな独り言を呟きながら、俺はふらつく足で、家路につきました。


 両親に怪しまれないよう、俺はなるべく遅くならないよう家に戻りました。「ただいま」と言って家に入ると、リビングから「おかえり」と母親の声が返ってきました。どうやら俺を心配して、早めに帰って来ていたようでした。

「どう? 体調は大丈夫?」

 心配そうな様子で、母親が聞きました。

「うん、問題ない。多分、気分的なものだったんだと思う。」

 吃驚する程すらすらと嘘を、しかも自分の親相手に並べ立てる自分に、俺は我が事ながら非常に嫌な気分になりました。

「そっか。まあ新学期になって色々とストレス感じることもあるだろうけど、身体にはくれぐれも気を付けてね。」

 そう言うと母親は、台所に戻って夕食の準備に戻りました。

「あんたも彼女の一人でも出来れば、少しは毎日が楽しくなるのにねぇ。」

 台所で野菜を切りながら、母親が何の気なしにそんなことを言いました。

「えっ……」

 俺は一瞬、母親が何を言っているのか分かりませんでした。だって彼女は、以前明美が俺と一緒に家にやって来たことを知っていますし、何よりその時俺は「自分の彼女だ」と紹介までしているんです。俺に彼女がいることを、知らない筈がありません。

「ちょ、ちょっと待って、母さん。この前、明美に会ったよね?」

「どうしたのよ、そんな血相を変えて?」

 困惑して問いかける俺を、きょとんとした表情で母親は見返しました。

「明美って? えっ、ちょっと待って! あんたもしかして、もう彼女いるの⁉」

 心底驚いた表情で、母親が叫びました。

「いやだって、この前家に来て……」

「ちょっとちょっと! もう家にまで呼んでたの⁉ なんで紹介してくれなかったの!」

「……会ってなかったっけ?」

「会った訳無いでしょ! もう、そういう重要なことはすぐに教えなさいよ! 本当にこの子は。」

 母親は嘘を言っている様子も、俺をからかっているようなそぶりもありませんでした。明らかに、俺に彼女がいる、ということを今初めて知った反応でした。

 つまり、俺の記憶とは、完全に齟齬していました。

 俺は適当な言葉でその場を誤魔化すと、すぐに自分の部屋に戻りました。背後では、母親が息子に彼女が出来たことをまるで我が事の様にはしゃいでいましたが、そんな母親の声は、ただただ、俺の背筋を冷たくするだけでした。

 部屋に入った俺は、改めて殺風景な自室を眺めました。ほんの数日前まで、自分の彼女と一緒に暮らしていたとは思えない程、無機質で何も無い部屋が、そこにありました。明美がいたという痕跡は完全に消え失せ、彼女が一緒にいたという感覚すら、俺の中から薄れているようでした。

 いや――そもそも、彼女は本当にここにいたんでしょうか?

 根源的で、根本的な疑問でした。そしてその時の俺にとっては、抑え込むことが不可能な程、心の内側を蝕む自分自身への不信感でした。

 考えてみれば、明美と知り合ってから今日までの出来事は、あまりにも常識外れで、あまりにも非現実的なことばかりでした。学校に不審者が乗り込んできて、その時偶然知り合った子が都市伝説に囁かれる怪物「カクリヨヒメ」で、しかもその怪物が引き起こす怪異は日本政府が裏で糸を引いている秘密計画で、さらにそのカクリヨヒメたる明美が言うには、彼女が俺に近づいたのは、俺を自分の仲間の怪物として引き入れるためだと言うんです。そして俺は、そんな意味不明な状況に翻弄された挙句、人を殺してしまった。でもそんな証拠はどこにも無く、そもそも俺と明美がひと時の間、一緒の時間を過ごしていた記憶すら真実のものなのか怪しい――。

 冷静になって考えてみれば考えてみる程、おかしなことばかりでした。いえ、おかしいなどというレベルではありません。はっきり言って、自分の正気を疑うに足る程、異常な記憶ばかりでした。そして現に、その記憶の正当性は本当に疑わしく、原因が俺自身の異常性によるものではないかという疑念が、心を押し潰してしまう程大きくなっていました。

「俺は――おかしいのか?」

 廃工場を出た時から、ずっと心の中で呟き続けてきた言葉。その言葉が、また口をついて出てしまいました。

「全部、俺の妄想なのか? 明美と知り合ってからのこと、全部が?」

 疑念が疑念を呼び、俺は心が罅割れていく感覚に蝕まれました。

 自分の部屋の中にいる時ですら、現実感を失っていく感覚にとらわれました。そして俺は、ずっと感じているこの「現実感を失っていく感覚」こそが、正気の感覚なのではないかとさえ、思うようになっていました。だってそうじゃないですか。俺が見ていた筈の景色も、俺が覚えていた筈の記憶も、全部その実在が疑わしいものなんです。だとしたら、俺が体験している現実に対する不安定感と喪失感みたいなものこそ、自分の心が正気の世界に戻ろうとしている兆候なんじゃないかって考えてしまうんです。

 ……大分話が混乱してきましたね。でも、本当に申し訳ないんですけど、俺自身の感覚を、偽ることなく話そうとすると、どうしても混乱した内容になってしまうんです。すみません。

 結局俺は、混乱する自分の心を落ち着けることはおろか、自分自身に対する不信感を僅かに拭い去ることすら出来ませんでした。混乱した心の置き所が俺の中のどこにも無かったんです。周りの風景から現実感が無くなっていく感覚は消えるどころか、ますます強くなってきています。風景だけじゃなく、自分の記憶にも靄がかかって、同じように段々と現実感が無くなってくるような気分です。

 俺が今日ここに来た理由は、今話した通りです。

 俺は、おかしくなっているんでしょうか? 正気を失っているんでしょうか? 俺が今こうして話していることは、現実なんでしょうか? 先生や看護師さんは、本当にそこにいるんでしょうか? 俺は、本当にここにいるんでしょうか?


 貴文が話し終えると、天海はゆったりとした口調で、彼に話しかけた。

「成程。分かりました。」

 天海の表情は、話を聞いている間も、聞き終わった後も、柔和なまま殆ど変化が無かった。患者を緊張させまいとする、彼なりの配慮なのかもしれないが、貴文は逆に居心地の悪さを感じていた。血を吐くような苦悩と感情の吐露に対し、そういった態度を示されると、自分の懊悩が「取るに足らないもの」と言われているような気がしたからである。

「自分自身の記憶と、周囲の状況との間に、ズレが生じている。そしてそのことで、君は自分の方が間違っているのではないかと苦悩している。そういうことでよろしいですか?」

 貴文の居心地の悪さを敏感に察したのか、天海は医者の顔になり、彼の「病状」と真摯に向き合う姿勢を見せた。

「……はい。」

 天海は貴文の返答に頷くと、デスクの上に置いたノートPCを貴文の方に向け、話を続けた。

「まず、最初に君が話してくれた、中学校への不審者侵入事件と、その犯人が取調中に脱走し、トラックに跳ねられて死んだ事件。これは実際に起こったことです。こうしてニュースの記録が残っています。」

 天海が示したPC画面には、須藤による中学校敷地侵入事件と、彼が警察署から逃走しトラックに跳ねられて死んだ事件に関するニュースが表示されていた。

「そして、東池袋盗難車両暴走事件の犯人、宝田秀重が自宅で変死した事件。これも実際に起こったことです。」

 天海はPCを操作し、別のニュース映像を表示した。宝田宅の前で、彼が急死した旨を告げるニュース速報の映像であった。大仰なテロップと、アナウンサーの興奮した様子が映し出されている。静まり返った診察室には、全く似つかわしくない喧騒であった。

「少なくとも、君の話の中に出てくる2つの事件に関しては、実際に起こったことです。そして君の言う「カクリヨヒメ」という話も、都市伝説としては確かに存在しています。」

 PC上に、カクリヨヒメの検索結果一覧が表示された。怪しげなニュースサイトから個人サイト、SNSの書き込み等が延々と表示されている。

 貴文は、感情のこもっていない瞳で、ただそれを見ていた。

「そして湊君。ここから先は、少し難しい話になります。君個人の話、君の記憶に基づく話になるからです。」

「はい。」

 緊張した面持ちで、貴文が答えた。

「君の話に出てくる金成明美さんですが、彼女が君のクラスメイトで、転校していった、というのは、間違いないですか?」

「クラスメイトだったのは間違いありません。転校して行ったのも事実です。周りの子たちも、彼女の転校には大分驚いていましたから。……最も、俺が見たもの、知っているものが事実であれば、ですけど。」

「彼女に、連絡などは?」

「何度もしています。でも、何の返信もありません。そもそも、俺が知っている彼女の連絡先は、本当に彼女のものだったのかな……?」

 貴文は俯きながら、苦しげに言った。自分自身の記憶や正気すら信じられない苦悩が、ありありと見て取れるようであった。

「分かりました。ありがとう。」

 これ以上この話を続けるのは、患者の精神衛生上良くないと判断した天海は、話題を変えることにした。

「自分の記憶に自信が持てない、ということですが、むしろそれは自然なことです。人間の記憶は、記録とは違います。見る、聞く、覚える。全てが主観的なものであり、現実の事物と乖離してしまうことは、珍しくありません。同じものを見ていても、人によって感じ方や印象、それに基づく記憶が異なっているというのは、よくあることなんです。」

「……俺の場合、そういうレベルの話じゃないと思うんですけどね。」

 貴文の苦悩を和らげようとする天海の言葉に対し、彼は胡乱げな目を向けた。

「本当に、信じられないんです。自分が覚えていること、知っていること。それが本当のことなのか、自分でも全く分からないんです……」

 顔を両手で覆い、嗚咽するような口調で、貴文が自分の苦しみを吐露した。

「少し難しい話になりますが、記憶の改竄というものは、ふとしたきっかけで誰にでも起こりうるものなのです。昔読んだ小説や、昔見た映画を後年見返した際、覚えていた筈の場面が無い、あるいは記憶に無い場面が出てくる、という体験をした人は少なくないと思います。これは人間の記憶に短期記憶と長期記憶の2種類が存在し、さらに内的・外的な様々な要因が重なることにより……まあ、難しい話は置いておくとして、湊君の言うような記憶と現実の乖離と言うのは、それほど異常な現象ではないんです。」

「……」

 貴文は顔を上げ、天海の言葉に聞き入っていた。「君が特別おかしい訳ではない」という言葉が、僅かばかりではあるが、彼の救いになっているようであった。

 天海は、言葉を続けた。

「君は、不審者の学校侵入事件に巻き込まれ、そしてその犯人が目の前で死ぬところを目撃した。中学生くらいの年頃だと、心に深い傷を負いかねない出来事だと思います。自分でも気付かないうちにね。そしてそのことが、事件前後の君の記憶を大きく歪めてしまった可能性が考えられます。無論、あくまで可能性の話ですが。」

「つまりその……須藤の事件が原因で、俺は自分の記憶を、捻じ曲げてしまった……?」

「あくまで、その可能性が考えられる、という話です。」

 次第に話に食い付いて来る貴文に対し、天海は念を押した。人の心は不可思議なものであり、断定的なことは言えないのが、精神科医のセオリーである。それに断定口調で話してしまえば、後々トラブルにもなりかねない。

「ここから先は、完全に私個人の解釈になります。その点に気を付けて聞いてください。湊君が一番懸念している、港湾の芹沢倉庫で人を殺してしまったかもしれない、という点に関してですが、これは現実に起こったこととは考え難いと思います。」

 貴文は、固唾を飲んで天海の説明に聞き入っていた。

「通常、あのような立入禁止区域となっている場所は、監視カメラや防犯設備等により24時間体制でセキュリティ管理されている筈です。そんな場所が殺人の場所として選ばれたり、中学生である君が容易に侵入出来たりということは、常識的に考えてあり得ません。」

「……つまり、倉庫での一件は、俺の妄想かもしれないと?」

「その可能性が高いと私は思います。そう思う根拠はまだあります。君はその倉庫で殺人を犯した後、○○区の公園のベンチで目覚めた、と言っていましたね? 意識喪失した状態で移動できる距離ではありませんし、誰かが君を運んだとしても、あんな人目の多い場所にわざわざ運んで、そこに放置する理由がありません。前後の繋がりを考えるなら、君はそもそも、その日の午後はずっとその場所にいたのではないかと思います。」

「……」

「そして、2度目に倉庫に訪れた際の状況も、個人的には少しおかしいと思います。先程述べた通り、君が一人で難なく侵入できたのも変ですし、何より気になるのは、君を見つけたという作業員です。」

「作業員の人が、何か?」

 貴文が訝し気に聞いた。

「話を聞く限り、作業員はその方一人だけだった、ということでよかったですか?」

「ええ。」

「あの広さの敷地を点検するにあたって、作業員が一人だけというのは、明らかに不自然です。その作業員の方以外に、人の姿は見かけませんでしたか?」

「……見ませんでした。」

 天海の言わんとする所を理解した貴文は、唇を微かに震わせながら答えた。

「さらに言うのであれば、不法侵入者である君をそのまま見逃すというのも、彼等の業務内容を考えるならば、有り得ないと思います。たとえ相手が子供であってもね。つまり湊君、君が2度目に倉庫を訪れたという話も、やはり現実に起こったこととは考えにくいと、私は思います。」

「……」

 貴文は唇を固く結び、天海の言葉を心の中で何度も反芻していた。天海の言葉を否定できるだけの根拠が、彼の中には無かった。実際、2度目に廃倉庫を訪れた際には、自分の中の現実感が喪失していく感覚が心の大部分を占めていたため、自分の見たもの・聞いたものが真実である実感が、貴文自身の中でもあやふやだったからだ。

「……君の話が真実なのか、あるいは何らかの理由で記憶が改竄されたものなのか、確定的なことはまだ言えません。しかし、現時点において、君が犯したと思っている殺人はニュースにもなっていなければ、警察が動いている様子も無いんですよね? それはつまり、客観的な視点で考えるならば「何も無かった」ということになると思います。無論、私は警察でもマスコミでもありませんから、現時点で分かっている範囲で判断すると、という断り付きですけどね。」

「そう、ですね……」

 天海の言葉は、貴文の心の混沌を少なからず解きほぐしたようであった。先程までと比べて、貴文の顔には、年頃の少年らしい面持ちが戻りつつあった。

「取り敢えず、湊君の悩みについては、凡そ理解できました。時間も時間ですので、今日の診察はここまでとしたいと思いますが、大分思い悩んでいるようですので、しばらくの間、経過観察を行いたいと思います。帰りの際、受付で次の診察の予約をなさってください。」

「はい。」

 頃合いだと思った天海は、話を切り上げ、貴文の反応を慎重に確認した。患者の中には、医師の判断で診察を終えることに強い拒否感を示す者もおり、慎重な対応が要求される場面であった。だが貴文は、特に不満そうな態度を見せることも無く、天海の言葉に従った。

「眠れないとか、身体に不調が出るレベルで不安が取れないということであれば、薬を処方したいと思いますが、どうしますか?」

「いいえ、大丈夫です。」

 自分の中の不安や疑問を全て吐露し、さらに天海との会話である程度の安心感を得られたのか、貴文は微かに朗らかな表情を見せて、天海の申し出を断った。

「もし突発的に不安を感じたら、予約日を待たずすぐに電話してください。可能な限り、配慮しますから。」

「ありがとうございます。じゃあ、失礼しました。」

 天海の言葉に、貴文は深々と一礼すると、診察室を出て行こうとした。だがドアノブに手をかけた時、彼は不意に、どうしても天海に確認しておきたかったことを聞き忘れていたことを思い出した。

「そういえば」

 振り向きながら、貴文は天海に聞いた。

「明美が俺に言っていた「生来型の殺人鬼」って、あれ、実際にそういうものがあるんですか? いや、俺の記憶が正しければ、ですけれども……」

「19世紀の犯罪生理学者であるチェーザレ・ロンブローゾという人が、そういう学説を発表したことはあります。」

 天海は慎重に言葉を選びながら、貴文の質問に答えた。

「彼は、刑務所に収監された犯罪者や、処刑された死刑囚のべ数千人を調査し、その身体的特徴や犯罪傾向、親族の罪歴や遺伝的形質をデータベース化しました。そして、重大な犯罪に手を染める者には似通った身体的・精神的特質が見られることを発見したんです。つまり、その人間が犯罪者になるかどうかは、生まれ持った資質で分かるというのが、ロンブローゾの主張です。彼は自分の仮説を体系化し、「犯罪者生来説」という学説として発表しました。」

「……」

「無論、この学説に対しては、当時から強い批判が多かったそうです。まあ当然です。人の身体的・精神的特徴は先天性のものだけでなく、後天的な要因でいくらでも変質しうるものだからです。犯罪との因果関係についても、恣意的な解釈ととられて仕方がないものでした。当たり前ですが、現在ではロンブローゾの学説は殆ど受け入れられていません。犯罪者の成因は、生育環境や社会的環境に起因するものだとする考え方が主流になっています。」

「はあ……」

 話が専門的になり過ぎたため、貴文はきょとんとした表情で頷くだけであった。

「ああ、すみません。少し難しい話になってしまいましたが、要するに「生まれながらの犯罪者」なんて話は、単なるホラ話だと思ってください。心配する必要は何も無いよ。」

「そう、ですか……」

 どこか狐につままれたような表情で、貴文は診察室を後にしていった。

 彼が受付で再診予約を済ませ、院外に出て行ったのをそれとなく確認した後、カルテの入力を行っていた看護師が天海に言葉をかけた。

「先生、さっきの子が言っていた、金成明美さんって確か……」

「何だい?」

 天海は、ノートPCに何かを打ち込みながら答えた。

「確か、定期的にここを受診している子でしたよね? 名前を見たことがあります。」

「ああ。凄い偶然だな。」

 看護師の方を見ることなく、天海が他人事のような口調で言った。

「何か、凄く特殊な症例ってことでしたよね? その金成さんって子。あの湊君って子も、その子に感化されて……」

「患者さんのプライバシーに関して、余計な詮索をするのは良くありませんよ。医療人としての資質を疑われる行為です。」

 天海は興味本位で話し続ける看護師を咎めるように言った。

「す、すみません……」

 叱られたような格好となった看護師は、慌てた様子で天海に謝罪した。医師の不興を買っては、明日以降の業務に差し支えてしまうからだ。

「ちなみに、金成明美さんに関しては特殊な症例故、診察に私以外の者は立ち会わせていない筈だが、何故君が彼女のことを知っているんだい?」

 天海は看護師の方に顔を向けることなく、詰問するような口調で訊いた。

「え、えっと……」

 この病院に定期通院している患者の中に、その症例の特殊性故に、天海が一人で診察にあたっている者がいる。院内で働く者の間では公然の秘密であると同時に、その秘密性がために様々な下世話な噂が広まっていた。そして、その噂を聞いた看護師は、興味本位から診察記録の一部を盗み見しており、明美の名前を知っていたのだ。

 だが、そんなことを正直に言えるような雰囲気ではなかった。彼女は口籠り、誤魔化すように天海から目を逸らした。

「成程。君は金成さんに関する診察記録を無断で閲覧していたという訳か。二重の意味で運が良かったようだ。湊君の話だけでなく、そっちの記憶も消さないとな。」

 天海は、そんな看護師の狼狽を無視するようにそう言い放った。看護師は、何のことやらまるで分からず、目を瞬かせた。

黄泉よもつ殲徒せんとか……。本当に、運命なのかもしれないな。」

「あの……」

 天海は困惑する看護師には目もくれず、一人呟いていた。一体全体何の話をしているのか全く分からず、途方に暮れた看護師が彼に言葉をかけようとした刹那、何の前触れもなく診察室のドアが開いた。

 ドアを開けて入ってきたのは、スーツ姿の一人の男であった。男は一言も発しないまま、天海の方へと近づいた。

「あ、あの、すみません。今日の診察はもう……」

 受付から、湊貴文の後の診察があるとの連絡は聞いていなかったし、時間的にも診察時間は既に終了していた。看護師は突然の出来事に眉を顰め、男を静止すべく立ち上がった。

 そんな彼女に対し、男は懐から取り出した銃を突きつけた。文字通りの銃口を、看護師の方へと向けたのだ。

「えっ」

 看護師が小さな声を上げたのと同時に、銃口から発射された麻酔弾が彼女の腹部に突き刺さった。空気圧による射出なのであろうか。火薬の炸裂は無く、小さく乾いた破裂音が診察室の中に響いた。

 看護師は、声を上げる間もなく、床に崩れ落ちた。

「お役所仕事とは思えない速さだな。」

 その様子を見ていた天海は、スーツの男を咎めることなく、訳知り顔でそう言った。

「連絡が迅速かつ正確で助かった。しかしまさか、湊貴文が君の所に来るとはな。」

 機械的な口調で、スーツの男が天海の言葉に答える。本当に機械が喋っているかのような平坦な口ぶりであった。

「私も驚いている。天命というものは本当にあるのかもしれないな。」

 そう言うと、湊は引き出しの中から取り出したガスマスクを着用した。

「受付の子は?」

「既に眠っている。」

 天海の問いに対し、スーツの男は端的に答えると、自身もガスマスクを着用した。

 診察室の床に、目に見えないガスが充満し始めていた。


 病院を出た貴文は、足早に帰路についていた。両親よりも早く帰って、保険証を元の場所に戻さなければならなかったからだ。もしメンタルクリニックに通っていたことが両親に露見すれば、余計な詮索をされることは火を見るよりも明らかであった。

 天海に心の中の不安全てを打ち明けたこともあってか、来た時と比べて貴文の心は軽くなっていた。頭の中も、少しずつであるが冷静さと明瞭さを取り戻しつつあるようであった。余計な感情の霧が晴れつつあるのを、彼は確かに感じていた。

「あ、貴文?」

 全く不意に背後から声をかけられて、貴文は反射的に振り返った。聞き覚えのある声であり、そして遥か昔に忘れ去ったような声であった。そしてそんな一瞬の困惑は、彼の目に飛び込んできた眼前の光景に、一瞬で吹き散らされた。

 貴文の前に、明美が立っていた。紛れもない、金成明美であった。

「あ……」

 貴文にとっては、全く、予想だにしない光景であった。あまりにも突然の邂逅であったため、頭の中には「何故明美がここに?」という疑問すら浮かんでこなかった。彼はただ、目の前の事実に圧倒され、立ち竦んでいた。

「久しぶりだね。元気?」

 まるで、久しぶりに会った友人に対する挨拶のような言葉をかける明美を、貴文はただ呆然と見つめることしか出来なかった。

「なん、で……?」

 貴文は、何とか疑問の言葉だけを絞り出した。それ以外の感情は、頭の中で整理すら出来ず、言葉にならなかった。

「何でって、私もほら、さっき貴文が出てきた病院で定期検診を受けてるの。」

 明美は背後にある、先程貴文が診察を受けたメンタルクリニックを指さして言った。

「……!」

 愕然として、貴文は明美の顔を凝視した。

「ああ、それから、連絡取れなくてごめんね。色々と面倒な事後処理があって、貴文からの連絡に返信とかできなかったの。」

 明美は、眼前で凍り付く貴文の様子を無視するように、淡々と続けた。

「いや、それはいい。そんなことより……」

 そう言いながらも、貴文は次の言葉が見つからなかった。頭の中は混乱の極みにあり、一体全体何から話していいのか、彼には見当もつかなかったのだ。

「やっぱり、運命なんだね。」

 どこか愛おしげな瞳で、明美が言った。貴文はその瞳に、安心よりむしろ、底知れぬ恐ろしさを感じた。彼女の目は、愛する者を見るそれと言うよりは、まるで獲物を見つけた蟷螂の眼球のようにさえ思えた。

「そろそろ迎えに行こうかとは思っていたんだ。でも驚いた。まさか君の方から、天海先生の所に来るなんてね。先生から連絡を貰って、ここに来るまで私も半信半疑だったんだよ? だって、こんな偶然あり得ないじゃない。」

「今、何て……?」

 明美の口から出た、聞き捨てならない言葉に、貴文は頭の中がかっと熱くなるのを感じた。

 天海先生から連絡を貰った。

 彼女は確かにそう言った。つまりあの医者も、グルだったのだ。貴文は自分でも知らない内に、全くの偶然から、再び明美の側に捕らわれてしまっていたのだ。

「運命なんだよ、やっぱり。」

 貴文の当惑を無視するかのように、明美は陶酔した表情で先程と同じ言葉を繰り返した。

 貴文は、もう限界であった。地面を蹴り、喋り続ける明美の隣をすり抜け、彼は天海がいるメンタルクリニックまで一直線に駆け戻った。とにかく今は、天海にこのことを問い詰めずにはいられない心境であった。そうしなければ、自分の心の中の憤激で、頭が破裂してしまいそうであった。

「やっぱり君は、そうするんだね。逃げるんじゃなく、向かって行く。」

 貴文が自分の傍らを駆け抜けてから、数瞬遅れて吹き抜けた風に髪を揺らしながら、明美は彼の後姿を見送った。


 入口のドアを突き破るほどの勢いで、貴文はクリニック内に駆け込んだ。

 待合室の中は、不気味な程の静寂に包まれていた。受付にもソファにも人の姿が見えなかったが、それだけが理由ではない。そもそも室内の空気と言うか雰囲気が、病院のそれではなかったのだ。どこか不自然で、異様な空気が院内全体に満ち溢れていた。

「なんだ……?」

 貴文は最初、自分が感じている奇妙な違和感に戸惑ったが、すぐにその理由が分かった。

 匂いである。

 病院内では必ずと言っていいほど感じる、あの薬品と清浄な空気が混じり合ったような匂い――つい先程訪れた時は確かに感じていた匂い――が、完全に消え失せていた。代わりに、鼻腔の奥をくすぐる様な匂いが、院内に充満していた。

「この匂い……」

 その匂いを、貴文は確かに覚えていた。明美が、最初に自分の家に訪れた時、残り香のように部屋に残っていた、あの匂いであった。

「どうして……?」

 訳の分からない状況に困惑する貴文の目の前で、診察室のドアが開き、二人の人物が彼の目の前に現れた。

「おや、湊君。戻ったのかい?」

 ガスマスクをつけた天海が、何てことない様子で、貴文に声をかけた。そしてその隣にいたのは――

「自分から再び「こちら側」に飛び込んで来るか。やはり君は素質があるようだ。」

 その声も、スーツを着込んだその姿も、間違える筈がない。貴文が殺したはずの、フクタであった。

「なんで……?」

 貴文は絶句した。自分の目に映る光景を、自分の置かれている状況を、どう理解すればよいのか全く分からなかった。彼を取り巻く現実は、奇怪千万な騙し絵のように、認識も理解も拒むものであった。

「びっくりさせてごめんね、貴文。」

 いつの間にか彼の背後に現れていた明美がそう声をかけた時も、貴文はもう反応することすら出来なかった。

「彼を些か以上に混乱させてしまったようだ。壱姫、記憶処理の関係でここはしばらく封鎖する。彼と一緒に外で待っていてくれないか。」

 貴文の呆然自失とした様子を見たフクタが、淡々とそう言った。

「湊君、来院初日にこんなことになってしまって本当に済まない。精神科医として、その点に関しては心から君に謝りたい。だが、本当に済まないが、この一件に関しては私個人の判断を超えるものなのだ。そして、隣の彼が言う通り、君達は一旦ここを出た方がいい。これから色々と、面倒な処置があるものでね。」

 天海は、先程の診察の時と同じような口調で、貴文に語りかけた。最も、今の貴文には、その言葉を言葉通り受け取れるような余裕は全く無かったが。

「貴文、行こう。」

 貴文の肩にそっと手を置き、明美が優し気に言った。

 だが、彼は動けなかった。フクタと天海が、受付台の裏で「何か」を動かそうとしている様子に、目が釘付けになっていたのだ。

 やがて彼等は、その「何か」をゆっくりと慎重に持ち上げ、受付台の陰から姿を現した。その「何か」は、先程受付で、貴文の対応にあたっていた女性事務員であった。彼女は目を見開き、口から涎を垂らしながら、まるで死んだように身体を弛緩させていた。

 その光景を目にした時、貴文は耐えきれず、意識を失った。


 頭痛が、地割れのように頭の中を揺すっていた。

 貴文は、自分の心が真っ二つに引き裂かれる音を聞いているような気がした。

 もう、元には戻れない。もう、後戻りはできない。

 底無しの縁に佇みながら、彼は目の前にぽっかりと穴をあけた、果て知らぬ闇の淵を見つめていた――


「よかった。目が覚めた。」

 目覚めと共に、明美の顔と声が、心の中に飛び込んできた。

「……」

 貴文は、何も答えなかった。彼はもう、考えることに疲れていた。ただ目の前の現実、自分の目に映るものをありのまま受け入れる、そんな諦めの境地に達しているようであった。

「起きられる?」

 明美は介助するように貴文の背に手を回し、ゆっくりと彼の上体を抱き起した。

 貴文のぼやけた視界に、自分が今いる場所の風景がうっすらと映り込んできた。そこは、彼の知らないどこか広い部屋の中であった。壁も床も天井も一面真っ白で、床の上には真っ黒なテーブルとソファが規則正しく並んでいた。白と黒しかない、モノトーンの空間。その中の一つのソファに、貴文は身を横たえていた。

 一体何故自分がこんな場所にいるのかは分からなかったし、もう考えることすら、貴文には厭わしかった。もうどうにでもなれという投げやりな気分だけが、今の彼の全てであった。

「ガスの影響が少し出ちゃってるね。まだ少し眠いでしょう?」

「ガス……?」

 貴文の脳裏に、先程のクリニック内で嗅いだ、あの匂いの記憶が蘇ってきた。

「そうだ、あの匂い……。あの病院の中の匂い、確かに知っている。君が、初めて家に来た時の……」

 異常事態の連続で萎れ切っていた頭の中に、再び血が巡ってくるのを、貴文は感じた。そう、匂いである。つい先程、あのクリニック内に充満していた匂いは、貴文が明美を最初に家に招き入れた時に感じた、あの匂いと同じであった。

「気付いてたんだ。そう、あの時使ったのと同じ、特殊型麻酔ガスだよ。短期的な記憶を消したり、改竄したりするためのものなの。」

 明美は、貴文から目を背けることなく、淡々と語り続けた。

「あの時はまだ、君のお母さんがどんな人なのか分からなかったから、保険として記憶を消させてもらった。変に騒がれたりすると厄介だからね。最も、その心配は杞憂だったけど。」

 明美がそこまで説明した時、全く不意に、背後から天海の声が響いた。

「さっき説明したとおり、人間の記憶は記録とは違う。特に短期記憶は、その言葉通り短期間で消えてしまう。君が嗅いだあの特殊型麻酔ガスは、そこに少し手を入れて、人為的に記憶を操作するためのものだ。」

 突然背後から声をかけられた貴文は、思わず後ろを振り返った。

 フクタと天海が、何の気配も感じさせず、彼等の後ろに立っていた。

「お前等……!」

 貴文の頭の中が、かっと熱くなった。怒りとも憎しみとも微妙に違う、それでいてそれらの感情よりずっと激しい激昂が、彼の心を焼き焦がすようであった。

「貴文、落ち着いて!」

 一触即発の雰囲気を感じ取った明美が、貴文が立ち上がるよりも早く、彼を制した。

「落ち着けるか! 一体何なんだよ、この状況は!」

 貴文はヒステリックに叫んだ。だがそれも無理からぬことであった。先程まで親身になって相談に乗ってくれた医師が、実は自分の人生を狂わせた少女と裏で繋がっており、その上記憶消去だなんだと訳の分からないことを言っている。しかも彼等の傍らにいるのは、自分が先日殺害した筈の男なのだ。考えれば考える程、異常極まりない状況であった。

「天海先生! あんた、俺を騙していたのか? 最初からこいつらとグルだったのか? え⁉」

 今にも殴り掛からんばかりの勢いで、貴文は天海に対し言葉を投げつけた。

「湊君、本当に済まない。謝っても謝り切れることではないし、君が私に不信感を抱くのは止むを得ないことだと思う。だが、これだけは信じてほしい。精神科医として、君の心の不安を可能な限り取り除き、心穏やかでいて欲しいと思っているのは、医師の職責にかけて本当だ。そして、私がそこにいる金成明美さんやCTS00298と共に、日本政府のメタ=トランス計画に参加しているのは事実だが、君が今日、私のクリニックを訪れたのは、本当にただの偶然からなんだ。私自身、君が目の前で金成さんやカクリヨヒメの話をし始めた時、あまりの偶然に耳を疑った。」

「……偶然だろうが何だろうが、俺のことを訳の分からない連中に密告したのは事実だろ!」

 天海の語り口は、診察の時と同じく、ただ聞いているとそのまま心を包まれてしまいそうな柔和さであった。貴文は、その手には乗らないとばかりに、罵声を吐きつける様な勢いで反論した。よく分からない横文字の単語も幾つか出てきたが、意味不明過ぎるので取り敢えず意識の片隅に追いやった。

「……そうだ。」

 天海は、微かに苦渋を滲ませた表情で頷いた。

「私は精神科医であると同時に、メタ=トランス計画に従事する者の一人でもある。君が私のクリニックに訪れたことを、私一人の胸にしまっておくことは出来ないんだ。壱姫からどこまで聞いているのかは知らないが、君は黄泉よもつ殲徒せんとの候補として選ばれた。言わば現時点における計画の重要人物だ。そんな君が私の前に現れた以上、彼等に報告する以外の選択肢は無かったんだ。」

 天海は眉間に皺を寄せ、ちらりと横にいるフクタを見やった。深い苦悩が伺える表情であったが、貴文は逆にそんな天海に対し、怒りの感情の方が大きくなっていた。

「そんな風に被害者ぶられても困ります。信頼関係をぶった切ったのはあなたの方なんだから。」

 貴文は、吐き捨てるようにそう言った。

「それからその、もっと根本的なことについて話してくれませんか? 何で、死んだはずの人間が生きているんです? それに、さっきから話に出てくるメタ何とかとか、ヨモツ何とかとか、一体何の話なんですか?」

 怒りで心が能動的になったためであろうか。貴文の中で、フクタの存命に関する疑問や、先程から天海の言葉の中に出てくる不可解な単語の数々への関心が無視できない程大きくなってきていた。貴文は、天海の隣にいるフクタを睨みつける様にして問い質した。

「そうだな。ここから先は、私の方から話そう。天海、君は外してくれ。」

 フクタは貴文の怒りを全く意に介していない様子でそう言うと、天海に退席を促した。天海は、貴文に一礼すると、そのまま部屋の外へ出て行った。

「湊貴文君。」

 フクタは、テーブルを挟んで貴文の向かい側に座ると、彼の両目を見据えて静かに口を開いた。ただ自分の名前を呼ばれただけにも関わらず、貴文は凄まじいまでの威圧感を覚えた。

「大まかなことは先日、彼女――壱姫が説明したとおりだ。」

 フクタは、貴文の隣に座る明美の方を見やりながら言った。

「前から気になっていたけど、その壱姫って何なんです?」

「既に聞いていると思うが、カクリヨヒメは彼女以外にも何人か存在している。区別するため、番号を付けてそう呼んでいる。それだけだ。」

 貴文の疑問に対し、フクタは簡潔にそう答えた。

「国の政策で、そんな化け物を何人も使っているって言うのか? 何でそんなことを?」

「化け物、ね。」

 思わず口を突いて出てしまった言葉に、隣にいた明美がじろりと貴文を睨んだ。

「あ、ご、ごめん。」

 彼女の視線に気圧された貴文は、情けなくも謝罪の言葉を口にした。

「彼女は怪物ではない。あくまで、普通の人間だ。」

 フクタが相槌を打つように、そう答えた。

「そして君が感じている数々の疑問に関してだが、それに一言で答えるのは難しい。非常に入り組んだ話だからな。何より、国家機密に属する話だ。軽々しく口には出来ない。」

 フクタの言葉は、字面だけでは単なる拒絶に聞こえるが、貴文は自分に対する「試し」だと受け取った。目の前の男は、自分の反応を試している。何故だか分からないが、彼にはそんな確信があった。

「この前の明美の話だと、俺を引き込むために色々動いていたってことだけど?」

「ノーコメントだな。」

「あんた達は、明美を使って何か後ろ暗いことをやっている。しかも国ぐるみでだ。そしてそんなヤバい仕事に、俺を引きずり込もうとしている。」

「……」

 一歩も引きさがらず、言葉を投げかける貴文を、フクタは無言で見つめ返した。

「でも変な話だ。本当に国家機密だって言うなら、こんなどこにでもいる唯の子供に、ベラベラとそんなことを話す理由が無い。何も言わずに放り出せばいいだけだからな。そして今更、国家機密がどうとかで話すのを渋る理由も無い。」

 フクタは、瞬き一つせずに、貴文を凝視している。まるで彼の次の言葉を待っているかのようであった。

「本当はもう、俺をあんた達の側に引き込むことは「決まっている」んだろう? 決まったうえで、俺がどんな人間なのか、試しているんだ。違うか?」

 フクタは無言のまま、貴文を見つめていた。だがその瞳に、微かではあるが、感情の動きが見て取れたように、貴文は感じた。

「成程、期待通りだ。君は我々の側に対し、逃げるのではなく、向かってくることを選べる。そういう人間だ。」

 ゆっくりと、だがはっきりとした口調で、フクタが言った。僅かばかりではあるが、喜びが含まれている様な声色であった。

「期待通りか。そりゃどうも。」

 どこか擦れたような口調で、貴文が言った。

「じゃあついでに教えてやる。俺は、こういう人間だ!」

 その言葉と同時に、貴文はテーブルの上に飛び乗ると、そのままの勢いでフクタに殴り掛かった。

 あの、廃倉庫でフクタと対峙した時と全く同じ感情が、貴文の身体を支配していた。純然たる殺意。目の前の相手は、ただ純粋に排除するだけの「敵」であるという、乾ききった空白の心。それでいて、怒りや憎しみという言葉すら陳腐に感じてしまう程の、激烈な感情であった。何故殺したはずのフクタが生きているのかは分からないが、どうせここまできたら、一人殺すのも二人殺すのも同じだと、貴文は割り切っていた。

 だが、貴文の拳がフクタを打ち据える瞬間、彼の腕はまるで凍り付いた様に静止した。彼の拳は、フクタの眼前数cmの所で、見えない壁にでもぶつかったかのように動きを止めていた。

「止めて、貴文。」

 明美が、彼等の方に手を伸ばしながら言った。貴文が目を凝らすと、彼女のリストバンドから、髪の毛のように細い糸が無数に伸びているのが分かった。その糸が、彼の腕に巻き付いて動きを止めていたのだ。

 貴文は渾身の力で腕を動かそうとしたが、肩口から先はまるで自分の身体ではないかのように硬直し、ピクリとも動かなかった。彼の腕を縛める糸は、単なる糸ではなく、工業用の鋼線を思わせる頑強さであった。

「お願い、貴文。ここは抑えて。私達の話を聞いて。」

 もう一度、明美が懇願した。貴文の肩に手を置き、彼の中の激情をその掌で抑え込むかのようにして、彼女は囁いた。

「……」

 貴文は、無言で腕の力を抜いた。まるでそれが相図だったかのように、彼の腕を拘束していた鋼線は縛めを解き、まるで蛇の如くうねりながら、明美のリストバンドに収納されていった。

「私を殴るのも殺すのも君の自由だが、話を聞いてからでも遅くはあるまい。ついて来たまえ。君の疑問に答えよう。」

 フクタは何事も無かったかのように立ち上がると、二人に自分の後に付いて来るよう促した。

 貴文は、じっと窺うような瞳で、フクタの背中を凝視した。フクタは貴文達の返答を聞くことも無く、さっさと歩を進め、既にドアの前まで進んでいた。こちらに選択の余地はないということを、その背中が雄弁に物語っていた。

「行ける?」

 明美が貴文の手をそっと握り、聞いた。

「行くよ。ここまで来たら、もう引き下がる方が怖い。」

 諦めの境地のような気分で、貴文が答えた。


 フクタに先導されるように、貴文と明美は狭く薄暗い通路を歩いていた。照明はあるのだが、光量が大分下げられているのか、蝋燭程度の灯りにしかなっていなかった。通路には窓も無いため、今が昼か夜かも分からない。

「ここ、どこなんですか?」

 こちらを振り返ることすらせず、黙々と進み続けるフクタの背中に、貴文は疑問の声を投げかけた。

「霞ヶ関の地下だよ。」

 フクタではなく、貴文の隣にいた明美の方が彼の疑問に答えた。

「霞ヶ関の、どこ?」

「地図には載ってない。対外的には「存在しない場所」なの。」

 貴文の疑問に対し、明美はどこか楽しそうに答えた。

「霞ヶ関の地下には一般には秘密になっている空間がある、ってアレ?」

「そう、それ。」

 あくまで都市伝説の範疇ではあるが、そんな噂を貴文も聞いたことがあった。

「厳密に言うのであれば、我々の属する国家安全保安局庁舎の地下にあたる。最も、壱姫の言う通り秘密区画だ。出入り出来る者は限られている。」

 明美の言葉を補足するように、フクタが前を向いたまま言った。

「確か、一昨年くらいに新しく設立された省庁ですよね? 名前しか聞いたことなかったけど。」

「名前通りの官庁だ。我が国の安全保障に関する業務を担っている。」

 貴文の問いに対し、またしてもフクタは前を向いたまま、簡潔な返事を返した。必要以上の動作も発言も行わないのが、彼のポリシーのようであった。

「安全保障と、カクリヨヒメと、一体何の関係が?」

「ついて来れば分かる。」

 彼等がそんな会話をしていると、前方から人影が近づいてきた。薄闇の中で、次第に近付いてくるその人影に目を凝らした貴文は、灯りに照らされたその顔を見て、思わず声を上げてしまった。

 向こう側からやって来たその人影は、フクタであった。見間違えようもない。貴文達の目の前を歩く人物と寸分違わぬ人物が、向こう側から現れたのだ。

 貴文とは対照的に、フクタと明美は件の人物にまるで驚いた様子が無く、軽く会釈をするだけであった。フクタと同じ顔の人物も同様で、軽く会釈するだけで、何事も無かったかのように、貴文達の隣を通り抜けていった。

「い、今の人……!」

 驚きのあまり、素っ頓狂な声を上げながら、貴文は明美に聞いた。

「見ての通り、フクタと同じ人。正確には、フクタと同じ複製された人間。」

「複製……?」

 意味が分からず困惑する貴文に対し、フクタが背後を振り返らずに話しかけた。

「CTSシリーズ。私同様、国の安全保障業務に関わる複製人間の総称だ。事務仕事から諜報活動、破壊工作まで、多岐の業務に従事している。私はCTS00298。今すれ違ったのはCTS00312。事務仕事を主に行っている者だ。」

「……じゃあ、この前、倉庫で俺が殺したのは……」

 フクタの補足説明に、貴文は自分の周囲で起こった奇怪な現象の一つに関して、凡そのことを察した。

「その通り。あれはCTS00298-B。私と同型でなおかつ全ての身体能力が抑制された劣化版だ。君の力を測るための「噛ませ犬」にふさわしいと判断し、あの場に派遣した。」

「噛ませ犬って、同じ人間に対してよくそんな……」

 あまりにもあまりなフクタの言い分に対して、貴文は怒気を露わにした。

「先に述べた通り、我々は人間の模造品に過ぎない。特殊処理が施されていて、死ねば体液も含めて塵の如く風化し、跡形も残らない。そういう存在だ。君という存在の力を証明できた上で死んだのだから、00298-Bもむしろ本望だっただろう。」

「……死体が跡形も無かったのは、そういう理由か。」

 疑問の一つが、また氷解した。貴文の常識を遥かに超えた答えであったが、実際に同じ人間が複数いるのを目の当たりにした以上、信じない理由はなかった。

 と、同時に、貴文の脳裏にもう一つの疑問が浮かんできた。

「待てよ。じゃあ、結局あの倉庫の中であったことは、全部本当だったってことか?」

「全部本当のことだよ。倒れた貴文を運ぶの、大変だったんだから。」

「君達を乗せて車を運転したのは私だ。」

 間髪入れずに、フクタが補足した。掛け合い漫才のようなタイミングであったが、貴文はとても笑う気にはなれなかった。

「まあ、それもそうだったね。あ、でも公園に放置しちゃったのはごめんね。あそこ以外にいい場所が思いつかなかったんだ、うん。」

 明美がどこか楽しそうに言った。

「公園にいた他の人たち、変な目で見たりしなかったの?」

「全然? みんなそんなに他人のことなんか気にしてないよ。ちょっと担いで行って、ベンチに置いて来るだけだったし。」

 貴文は、呆れたように溜息をつきながら、次の疑問を口にした。

「じゃあ、その後で会った作業員は……」

「彼も政府関係者の一人だ。天海も言っていたと思うが、あの広さの敷地の点検を作業員一人で行うことなどあり得ない。隠蔽工作の一環だよ。君はまんまと騙された訳だ。」

 フクタの言い方に、自分が馬鹿にされたように感じた貴文は、不満そうに口を尖らせた。不満に思うあまり、彼がどうやら自分と天海の会話を盗聴していたらしいということにまでは、思い至らない様子であった。

「……どう見ても、そんな感じの人には見えなかったけど……」

「何故君にそれが分かるんだ? 素人の目で見破れるような人間に工作員が務まる訳があるまい?」

「まあ、そうですね……」

 ぐうの音も出ない正論を返され、貴文は閉口した。

「……なんだか、本当によく分からなくなってきた。嘘と真実がごちゃまぜになっていて、一体どう考えればいいのか……」

「君の感覚は正しい。まさにそれこそが、我々の狙いだ。」

 そう言うとフクタは、通路の突き当りにあるドアを開けた。ドアの向こう側は、ほんの少し先も見通せない程の闇で満ちていた。

「ついて来たまえ。」

 フクタに促され、貴文は明美を伴って闇の中に歩を進めた。躊躇する気持ちが無い訳ではなかったが、それ以上に「もう引き下がれない」という不退転の気持ちが、彼を動かしていた。

 部屋の中は広い空間になっていた。不思議なことに、闇で満ちている筈なのに、視界には全く問題が無かった。ドーム状の室内は、蛍光よりもさらに淡い燐光で細部が彩られており、目を凝らさなくても、中の様子を把握することが出来た。海中に揺らめく夜光虫のように、燐光は貴文達の周囲で瞬いた。まるで、彼等の来訪を歓迎するかのようだった。

「なんなの、これ……?」

 思わず嘆息しながら、貴文が隣の明美に聞いた。

「私にも分かんない。ここは初めて来るからね。」

「そ、そうなの?」

 明美の答えは意外なものであった。貴文はてっきり、彼女とフクタがよく知っている場所に連れていかれるものと思い込んでいたからだ。

「ええ。つまり、そのくらい重要な話ってことだよね、フクタ。」

「そうだ。」

 フクタが彼等の方を振り返り、神妙な表情で言った。闇の中、揺らめく燐光に照らされたその顔は、より峭刻に見えた。

「この場所が、何に見える?」

 不思議な燐光を身に纏わせながら、フクタが聞いた。

「この光、放射線が水中を透過する時に見せるチェレンコフ光に似ているね。ひょっとして原子力発電所の中とか?」

 明美の答えを聞いた貴文は、ぎょっとして彼女の方を見た。

「いや、まさか……そんなことないよね?」

「当たらずとも遠からずと言ったところだな。前の方をよく見るといい。」

 動揺する貴文を半ば無視するようにフクタはそう言うと、前方の一点を指し示した。

 貴文と明美は、目を凝らして、フクタが指示した先を見た。目を凝らすと、燐光がまるで血流のように、前方の空間へ縦横無尽に流れていくのが分かった。そしてその先には、心臓を思わせる巨大な構造体が鎮座していた。

「あれが、発電炉だ。原子力発電とは違うが、既存の如何なる発電システムとも違う。この空間に満ちる燐光はその副産物だ。なに、問題ない。人体に影響が無いことは確認済みだ。」

「いや、でもここ、霞ヶ関の地下ですよね⁉」

 貴文は困惑した口調で、当然と言えば当然の疑問をフクタにぶつけた。

「そうだ。正確に言えば、国家安全保安局庁舎の地下17階の空間に存在している。」

「そんな都心のど真ん中に、こんな発電所を⁉ どうして? それに一体いつ造ったんですか?」

 フクタの返答はさらなる疑問を惹起するだけのものであった。貴文はまるで小学生のように次々と疑問を投げかけた。

「ここが侵されるようなことがあれば、それはつまりこの国の終わりを意味する。だからむしろ、最終防衛ラインとしてこの立地は丁度いいのだ。それに、現実的な話をすれば、今更動かすことも出来ない。この発電炉は、とある事情により第二次世界大戦以前からここにあるものだからな。」

 貴文は、気の遠くなるような思いで天を仰いだ。闇の帳にしか見えない天井には、燐光が戯れるように踊っている。

「なんか、ケーブルみたいなのが色んな方向に伸びているけど、ここで発電した電気をどこかに送っているの?」

 貴文と同じように天を仰いでいた明美が、静かに口を開いた。そう言われて、貴文が目を凝らすと、確かに発電炉からは血管のように至る方向にケーブルが伸びていた。その様子は、さながら本物の心臓のようであった。

「いい所に気付いたな。そう、ここで発電された電気は日本アルプスの高良発電所と甲府盆地の塩沼発電所に送られ、あくまでそこで発電された電力として使用されている。」

「新しい再生可能エネルギー発電施設って名目で造られたところだよね、二つとも。」

「そうです。」

「つまり……再生可能エネルギー発電っていうのは、完全なデマってこと?」

 明美とフクタの会話を聞いていた貴文が、驚いた様に口を挟んだ。

「その通りだ。」

 何の憚りも無く、フクタが断言した。

「どうしてそんな……」

「エネルギー関連事業は、いつの時代においても世界情勢の行く末を占う重要なファクターだ。故に、各国の情報機関がまず間違いなく目を向ける部分でもある。」

「どういう意味なんです?」

 フクタの言わんとしていることが全く理解できず、貴文は質問を繰り返した。

「要するに、外国のスパイを炙り出すための「誘蛾灯」として利用するために、再生可能エネルギー発電所をでっち上げたってことでしょ?」

 要領を得ない貴文に対し、明美が横から補足した。

「その通り。そうして炙り出したスパイを、カクリヨヒメが始末する。正確に言えば、始末したことにする。君達の仕事にとっても重要なことなので、今日教えることにした。」

 その言葉を聞いた貴文は、以前フクタから明美に送られたLINEの中にあったメッセージの一つを思い出した。

「そう言えば、明美に送られていたLINE。あの中にあった、再生可能エネルギー事業の巨額詐欺事件って……」

「そう。表向きは詐欺事件となってはいるが、実態は会社ぐるみでの産業スパイ案件だ。」

 ここにきて、フクタはようやく、貴文と目を合わせた。暗闇の中でも、その瞳の鋭さは一切衰えておらず、貴文は心身を切り刻まれるような思いで、彼と対峙した。

「……持って回った言い方をしていないで、そろそろ本題に入ってくれませんか? あなた方がやっていること、俺を巻き込もうとしていることは、一体何なんです?」

 フクタの眼光に気圧されながらも、貴文は何とか踏みとどまり、直球の言葉をぶつけた。

「そうだな。では、本題に入ろう。」

 フクタは貴文から一切目を逸らすことなく、淡々と言葉を紡いでいった。瞬きすらしていないように見えた。

「カクリヨヒメとは「虚像」だ。既に壱姫から聞いていると思うが、人の魂を地獄送りにする死神など存在しない。彼女はカクリヨヒメを演じているだけで、実際には我々が処理対象の人間を始末している。我々国家安全保安局が国土防衛計画の一環として創り上げた「虚像」。それがカクリヨヒメだ。そして君には、その「虚像」の一つとなってもらう。」

「虚像?」

 フクタの言葉に、貴文は戸惑った。先に明美に聞かされていた話から、カクリヨヒメなる超常的な存在が実在するわけではなく、実際は国策として抹殺した人間の死を「カクリヨヒメの仕業」として偽装しているということは薄々感づいていた。だが、自分もその「虚像」の一部になるとは?

「そう。君にはカクリヨヒメと同じ、虚像の一つとなってもらう。生来型の殺人鬼にして、カクリヨヒメの剣たる「黄泉殲徒」にね。」

「ちょっと待て。その話は、全くの出鱈目だってさっき天海先生が……」

「その通り。フェイクだ。だからこそ、虚像なのだ。」

 全く意味不明なフクタの回答に、貴文は面食らった。一体目の前の男が何を言っているのか、見当もつかなかった。

「天海が言った通り、ロンブローゾの学説に謳われる生来型犯罪者などという概念はとうの昔に否定されている。虚妄の仮説だ。だが君は、そんな虚妄を自らの心身に「真実」として受入れ、結果、私の分身を撃破するという成果を上げた。つまり君は、生来型の殺人鬼という虚像を自らの真実、己の真の姿とした。そういう資質を持った人間なのだ。」

「意味が分からない……だって、そんな話は嘘なんだろ? 嘘はどこまで言ったって嘘じゃないか! 俺がもう一人のアンタを殺せたのは、その、無我夢中だったというか……」

 フクタの意味不明な理屈を否定しようと、声を荒げながら反論する貴文であったが、次第に口が回らなくなってきた。思考を巡らせれば巡らせる程、彼の言葉が、自分の心に刺さるもののように感じられたからである。

 あの廃倉庫でフクタ(正確にはフクタのさらに複製品)を殺害した時、自分は間違いなく、相手を殺すことだけを考える殺人鬼であった。そしてその惨劇から普通の生活に戻った後は、本来自分が帰るべき場所であった筈の日常に違和感を覚え、現実感の喪失に苛まれた。これはつまり、フクタの言葉通りのことが、自分に起こったのではないだろうか。即ち、自分は――

「……違う、ありえない!」

 自分の中に芽生え始めた、フクタの言葉に対する理解と、自分自身への疑念を振り払うように、貴文は叫んだ。

「真実と嘘に、価値の相違は無い。」

 混乱する貴文を、どこか宥める様な口調で、フクタが言った。

「何故なら、真実も嘘もそれ自体では意味を持たないからだ。その価値を決めるのは、受け取る側の人間だ。そして君は、嘘の側に立てる人間なのだ。嘘を己自身の真実と出来る人間と言い換えてもいい。我々は壱姫と接触してからの君の動向を逐一観察していた。間違いない。君は彼女同様、虚像兵器メタ=トランスとしての資質がある。」

「虚像、兵器……?」

 呆然と、フクタが口にした言葉を繰り返す貴文の手を、隣に立った明美がそっと握った。

「そう。一言で言えば「嘘」を利用した兵器体系のことだよ。」

「嘘……?」

 全く訳が分からず、貴文は明美の顔をそのまま見返した。

「核兵器というものを知っているだろう。人類が生み出した兵器の中で最も高い破壊力・殺傷力を持ち、そして放射能による甚大な二次被害、三次被害を生じさせる。強力すぎるが故に、その使用には極めて高い制限が設けられている。「持っているだけで使えない武器」と揶揄されることもあるが、裏を返せば「所有しているだけで抑止力となる兵器」でもある。」

「……?」

「つまり、真に強力な兵器とは、それを有しているだけで相手に対する威圧効果を生じる。使用する必要が無いのだ。さらに突き詰めて考えるのであれば、「強力な兵器を有している」という威圧感を相手に与えることが出来るなら、その兵器は実在している必要もない。」

「まさか……」

「そう。実在しない「虚像」を創り上げて、その理解不能かつ不明瞭な恐怖をもって、この国を守る兵器とする。それが私達、虚像兵器メタ=トランスの役目。」

 明美が、どこかうっとりとしたような口調で言った。貴文の横顔を見つめるその表情は、明美ではなくカクリヨヒメのそれに変わっていた。

「実在しない、嘘でしかない存在を、兵器として利用する……?」

「そうだ。だからこそ、先程挙げたような国外のスパイを対象とした「処理」は、我が国の潜在的敵対国に対する牽制として極めて有効だ。」

 貴文の中で混沌と混乱の渦の中にあった点と点が、静かに繋がり始めていた。

「……つまり、この発電炉云々も、あんたの言葉が本当かどうかは分からないってことか。」

「理解が早いな。その通りだ。さらに言うなら、私が知っていることが真実かどうかも分からない。虚像兵器とは、そういうものだ。」

 フクタが、微かに口の端を歪めながら答えた。笑っているのだ、ということに貴文が気付いたのは、数瞬後のことであった。それ程いびつで、人ならざる笑みであった。

「俺に、そんな恐ろしいことの片棒を担げと……?」

「そうだ。」

 フクタはそう言い切ると、あまりのことに唇を震わせている貴文に向かって、一歩足を進めた。

「君には、カクリヨヒメの従者にして剣たる黄泉殲徒として、働いてもらいたい。」

 フクタは瞬き一つせず、じっと貴文の目を見据えながら言った。

「……正気で言ってんのか? 子供に人殺しの手伝いをしろって言ってんだぞ!」

 貴文は大声を張り上げ、拒絶の意思を示そうとした。だが、言葉とは裏腹に声は上ずり震え、彼の心の中に迷いと逡巡があることを、その場にいる全員に悟らせた。

「正気だとも。」

 貴文とは真逆に、フクタの言葉には一切の迷いも淀みも無かった。最早勝負は決したとばかりの余裕すら伺えた。

「壱姫から君を推薦された時は私も半信半疑だった。だが、君の行動を観察し、その精神的傾向、咄嗟の場合の行動力を見るにつけ、彼女の判断が正しいという考えに傾いていった。」

 フクタの言葉は淡々としていたが、まるで貴文を褒め称えているかのような印象を与えるものであった。

「決定的だったのは、芹沢倉庫跡で00298-Bを撃破したことだ。私としては、ある程度君の実力を見極めることが出来れば、そこで00298-Bを撤退させるつもりだった。だが君は、そんな私の予測を超えて、彼を完全に打ち負かした。驚くべき、などという言葉では足りないくらいの快挙だ。」

「じゃあやっぱり、明美が殺されるって話も、何もかも全部……」

「その通り。君が壱姫と知り合って以降のことは、全て我々が仕組んだことだ。君が本当に我々の求める人材足りえるか否か。それを見極めるために、壱姫と一緒に一芝居うたせてもらった。」

「……!」

 明美が殺されるという話。フクタの分身を殺してしまったこと。その後、現実と非現実が交錯する正気と狂気の世界に心が引き裂かれそうになったこと――。先に明美から聞かされていた話だけではない。何もかも全て、最初から仕組まれていたという事実に、貴文は戦慄という言葉すら生温い程、心が慄くのを感じた。

 貴文は呆然と、隣に立つ明美を、否、彼女の身体を借りたカクリヨヒメの方を見た。彼女の大きな瞳が、心を抉り取る程の鋭さで、彼の顔を見つめていた。笑っているのか、泣いているのか、怒っているのか、何の感情も抱いていないのか。その瞳からは何も伺えなかった。

「珍しく今日は饒舌だね、フクタ。」

 カクリヨヒメは何も言わずに貴文から目を逸らすと、ぎょろりと瞳をフクタの方に向け、茶々を入れた。

「饒舌になるとも。それだけの逸材なのだ、彼は。」

 フクタはそう言うと、さらにもう一歩、貴文に向かって歩を進めた。貴文は、そんなフクタに圧倒されるように、思わず後ろに一歩下がった。

「その後の君の動向も確認し、我々は君こそが、カクリヨヒメの傍らに立ち、ヒメの御身を守る誅戮者――黄泉殲徒にふさわしいと判断した。」

「……勝手に決めないでくれ。」

 絞り出すような声で、貴文が言った。今の自分は圧倒的に劣勢であり、言葉のやり取りでさえ、目の前の相手に抗う術など無いことは彼自身もよく分かっていた。それでも、そう言わずにはいられなかった。

「倉庫街での出来事の後、君は君の日常に帰ることも出来た。だが君は、君が属していた筈の日常に拭いきれぬ違和感を覚えるようになっていた。そして最終的には、自分の意思で、我々の側に向かってきた。」

「天海先生の病院に行ったのは、ただの偶然だ!」

 貴文は逆上したように叫んだ。

「それだけではない。天海が我々の仲間であると知った時、そして先程の私との会話の時。君は逃げるのではなく、向かってくることを選択した。それ以前もそうだ。君はありとあらゆる場面で、日常の側に戻ることが出来たのに、我々の側に向かってくることを選択した。君は我々の――虚像の側に立てる人間なのだ。」

「……イカレてる……」

 埒が明かないフクタとの会話の応酬に嫌気がさしたのか、吐き捨てるように貴文が言った。

「そう、狂気だ。いつの世も変わらぬことだが、日常の裏側には常に狂気の世界があるのだ。」

 そう言うとフクタは、まるで最後通告のように、口を開いた。

「君に、最後の選択肢を与えよう。我々の側に来るか、それとも日常の側に戻るかだ。」

 貴文は、沈黙した。常識的に考えれば、この状況でフクタが彼に選択権を与えることなどあり得ない。ここまで話をした以上、貴文を彼の言う虚像兵器として取り込むことは、既定路線なのだろう。それに、貴文にとっては腹立たしいことであったが、フクタが語った湊貴文という人物についての所見は、的を射すぎていて彼自身にも全く否定できる要素が無かった。だからこそ彼は、感情的な否定の言葉を返すことしか出来なかったのだ。

 だが、ここで屈する訳にはいかない。貴文の中にある、動物的な最後の意地のような感情が、フクタの言葉に屈従することを拒否していた。

「あんた達の側には行かない。俺がそういう選択をしたとしたら?」

 必死に心を落ち着けながら、貴文は挑戦的な口調でフクタに言った。

「君は元いた日常の側に戻る。そして、君がしでかした数々の行いも当然、日常の側に戻る。」

「何だって?」

 フクタの言葉の意味が分からず、思わず貴文は聞き返した。

「暴行、殺人、不法侵入。我々が「無かったこと」にした君の数々の犯罪行為も、君の日常の側に戻る。君は一介の犯罪者として処断されることになる。」

「そんなバカな! だってあれは……」

「「無かったこと」に出来るのだから、「あったこと」にも出来るのだ。当然だろう?」

 反論しようとする貴文に対し、フクタは有無を言わせぬ力の論理をぶつけた。

 貴文は絶句し、その場に立ち尽くした。

「……結局、選択肢なんて無いじゃないか。」

「厳密に言えば、君は君自身の選択の積み重ねの結果、今ここにいるのだ。」

「……」

 最早貴文には、戻る道も、別の道も残されてはいなかった。だがそれは、フクタも言う通り、彼自身の選択の結果でもあったのだ。仮に、明美とフクタが彼の行動を誘導していたとしても、自身の進むべき道を決めたのは、貴文自身なのだ。

「……分かったよ。分かる以外に、無い。」

 諦めきった口調で、絞り出すように貴文が言った。

「協力に感謝する。湊貴文君。」

 フクタは、悄然と項垂れる貴文を見下ろすようにして、そう言った。

「壱姫。彼にアレを。」

 フクタに促され、カクリヨヒメは音も無く滑るように床を移動すると、貴文の眼前に立った。

「黄泉殲徒、これを。」

 貴文に向けて差し出された彼女の掌には、先にフクタの分体-CTS00298-Bを殺害した、あの白亜のナイフが握られていた。

「ラクロワール。あなたの牙であり、刃でもある。大切にしてね。」

 貴文は、ラクロワールと呼ばれたそのナイフを、カクリヨヒメから静かに受け取った。

 ラクロワールの柄は、以前手にした時以上に、彼の手に吸い付くようであった。まるで貴文という人間に握られることを、刃自身が渇望しているかのような薄気味悪さを感じてしまう程の密着感であった。

「ほら、ラクロワールの方も、あなたに会えて喜んでいる。」

 カクリヨヒメは、貴文の心の裡を見透かしたような言葉を、嬉しそうに口にした。

「……これも「嘘」か?」

 貴文は、心の中に感じた疑問をそのまま口にした。フクタの言う通りであるならば、彼等の語る黄泉殲徒も、自分が手にしているこのラクロワールというナイフも、全てが嘘。虚妄の産物である筈である。だが――

「いや、確かに感じる。このナイフは、俺を求めている……」

 ラクロワールから伝わってくる、貪欲なまでの希求。飢え、焦がれ、求めている。血を、破壊を、死を、惨劇を、破滅を。貴文に「殺戮を為せ」と、一点の曇りも無く、求めている。その残忍極まりない欲望を、確かに貴文は感じ取っていた。

「先程説明したとおりだ。君は嘘の側に立てる人間。嘘を、己の真実とすることが出来る人間だ。君が今、そのラクロワールに対して感じているもの。真偽の別に関係なく、それは紛れもない、君自身の真実だ。」

 ラクロワールに触れているうち、貴文は自分の心が、自分でも信じられない程急激に、冷静さを取り戻していくのを感じた。

 人殺しの魂――。自分自身の真実と、現実に身を置く己自身とが、貴文の中で合一していった。まるで、遠い昔に無くした心の欠片を、ようやく見つけ出したかのような感覚であった。そして彼の中では、その欠片が実像か虚像かという分別は、最早意味の無いものになっていた。

「どうやら「虚像」としての自分自身に、少しずつ順応してきたようだな。」

 貴文の様子を見ていたフクタは、どこか満足げに言った。

「買い被り過ぎだよ。俺はあんた達のことなんて微塵も信用していない。馬鹿げた妄想に取りつかれた集団としか思っていない。」

 そう言いながらも、貴文の口調は遥かに滑らかに、そして饒舌になっていた。彼の心の中で、何らかの変化が生じたのは、傍目にも明らかであった。

「その意見は正しい。君が今いるのは、虚像の世界だ。君の前にいる私も、模造された偽物。戸籍も無ければ名前もマイナンバーも存在しない。死ねばそのまま消え失せる。少し意味は違うが、君達と同じ虚像だ。そしてそれこそが、君の生きていく世界となる。」

「名前はフクタ……ああ、そうか。複体ふくたいって意味か。」

 名前が無い、というフクタの発言に一瞬戸惑った貴文だったが、すぐに「フクタ」という名の意味するところに思い至った。同一の単体を複数張り合わせて出来る図形――確かに目の前の男にぴったりの名前であった。

「その通り。よく分かったね。」

 隣に立った明美が、少し驚いたような表情で貴文を見ながら言った。彼女はいつの間にか、カクリヨヒメから普段の明美の顔に戻っていた。

「まあでも、フクタっていうのは私が勝手につけた名前だけど。」

「意思疎通がスムーズに済むのであれば、私は自分の呼び名にはこだわらない。」

 本当に自分の名前になど何の関心も無いような態度で、フクタが明美の軽口に答えた。

「じゃあ、本物のあんたは一体どこにいるんだ。」

 どこか牧歌的な様子で語り合う明美とフクタに冷や水を浴びせかける様な口調で、貴文が言った。

「分からない。私の本体に関する情報を、私は持っていない。そもそも「本当の私」というものが実在するのかどうかも、定かではない。」

 フクタは淡々と答えた。その表情に嘘は伺えなかったが、貴文は信用せず、さらに突っ込んで訊いた。

「その言葉も「嘘」か?」

「さてな。確実に言えることは、人間に真実を見通す瞳など無い、ということだけだ。」

 一切動じることなく、フクタが答える。これ以上、彼から何かを聞き出すことは出来ないと察した貴文は、彼に背を向けた。

「……今日はもういいだろ? 今何時かは知らないが、遅くなると家族に怪しまれる。」

 とにかく今は、この場から離れたかった。これ以上この場所に留まると、自分の身体が周囲を包む暗闇の中に溶けてしまうような不気味な予感が、貴文にはあった。そして自分が、その闇を一切恐れていないどころか、むしろ待ち望んでいるという事実も、彼を暗澹とした気持ちにさせた。とにかく今は、一刻も早く自分の見知った世界へ帰りたかった。

「構わない。今日、君に話すべきこと、君と決めるべきことは全て完了した。今後、君には正式に我々の指揮下に入ってもらうが、詳細な流れについては追って連絡する。ああ、君の連絡先は既に把握済みだ。心配しなくてもいい。」

 フクタは、貴文の申し出を素直に認めた。勝者の余裕なのであろうか。貴文は彼の表情や口ぶりに、微かに朗らかな印象を受けた。

「案内するね。迷ったら大変だから。」

 明美が貴文の前に立ち、エスコートするように、彼の眼前を歩き出した。彼女の心が、新しい仲間を得られた嬉しさで溢れていることは、その小気味良くスキップするような足取りだけで分かった。

 自分のクラスメイトをこんな地獄めいたことに巻き込んでおいて、随分と嬉しそうだな。貴文は心の中でそう言って毒づいたが、不思議と明美に対する怒りや憎しみは微塵も湧いてこなかった。彼女と出会い、生活を共にし、数々の異常事態に巻き込まれる中で、その常識破りで破天荒な性格や行動力を、十分すぎる程見せつけられたためかもしれなかった。

 貴文は大人しく彼女に従い、燐光に溢れる部屋を出た。


 狭く、薄暗い通路を抜け、エレベーターの前まで来た時、明美は何かを思い出したように、貴文の方を振り返った。

「そういえばさ、屋上とか、行ってみたい?」

「屋上?」

「うん。このビルの屋上。割と眺めがいいんだよ。」

 子供のような表情でそう言う明美に、貴文は苦笑した。彼が今まで見てきたのとはまた違う、彼女の顔であった。新しい玩具を買ってもらって喜ぶ子供のそれのように、貴文は感じた。それでもいい、と彼は思った。

「そうだね、行こう。」

 明美にとって自分が、奴隷や玩具のような存在であったとしても構わない。貴文の心は今や、そんな境地に達していた。共に過ごした時間はほんの僅かなものであったが、その短い時の中で、彼の心は彼女に完全に魅入られていた。そして貴文は今、そんな自分の心の裡を完全に自覚し、受容するに至っていた。

 諦めとも絶望とも違う、不思議な感覚であった。暗く淀んだ感情ではなく、どこまでも清冽で、茫漠とした心持であった。フクタの分身を打倒した時、貴文の心を塗りこめた、あの「真っ白な空白」に、似ている気がした。あの時と違うのは、空白の中にあるのが殺意ではなく、歓喜に近い感情であることであった。貴文には、自分の心が、嬉しげにスキップを踏む明美の表情と重なっているようにさえ思えた。

 俺も、彼女と一緒になれて、心の中では喜んでいるんだろうか――

 そんな事を考えながら、貴文は明美に続いて、エレベーターに乗り込んだ。

 貴文と明美の二人を乗せたエレベーターは、本当に動いているのか疑ってしまう程静かに屋上まで登って行き、小さな到着音を立てて扉を開けた。

「ほら、来て。」

 明美が貴文の手を引き、エレベーターの外へ出た。二人はそのまま、落下防止の柵の近くまでやって来て、周りの風景を見渡した。

 屋上は、都内を一望出来る高さにあった。林立するビル街が、沈む太陽に照らされて、薄っすらと影を濃くしていた。

「私ね、暇な時はよくここに来るんだ。なかなかいい眺めでしょ?」

「ああ、そうだね。」

 遠くを見るような目で、貴文が言った。実際には、この場所よりも見晴らしのいい展望台は都内にいくらでもあるだろうが、今日という日――自分の人生が一変した日――に見る景色としては、彼にとって決して忘れられないものとなるであろう。

「あ、でもそろそろ、日が沈みそうだね。もう帰んないといけないか。」

「気にしなくていいよ。さっきああ言ったのは、単にあの場所を離れたかっただけだから。」

 貴文が、苦笑しながら言った。まさかそんな些末なことを明美が気にしていたのは、彼にとって意外であった。

「そう。」

 屋上なだけあって、風はやはり地上よりも強く吹いていた。明美は、吹き抜ける風に髪を揺らしながら、少しの間、物思いに沈んでいる様子であった。

「……貴文はさ、どう思う? 私のこと。」

 全くだしぬけに、明美が貴文に聞いた。

「確か、前も同じようなことを聞かれたっけ。」

 あれはいつのことであったか。つい最近の筈なのに、貴文にはもう、遠い昔のことのように思えた。あの時の彼はまだ、明美の本性も、自分が置かれている状況も、全く理解していなかった。今は違う。

「率直に言って、異常だと思う。こんな嘘と暴力にまみれた世界に身を置いて、そんな態度でいられるのは、俺には理解できないし、心の底から恐ろしいと思う。」

 貴文は、自分の思いの丈を、偽ること無く直截彼女に告げた。

 明美は何も言わず、貴文の方を見ることもなく、ただ自分の髪を風に靡かせていた。

「でも、今日気付いた。俺も、そんな異常な人間の一人だって。それに気付いたら、君に対してもう一つ、別の感情が生まれてきた。」

 貴文は、明美の方を見て、どこか決然とした口調で言った。

「君のことを、もっと知りたい。君はどうして、カクリヨヒメをやっているんだ? どうして、こんな狂った世界に身を投じたんだ? 教えて欲しい。」

 明美は静かに、貴文の方に向き直った。その顔は、いつもの明美のそれであったが、微かな苦渋が浮かんでいるようにも見えた。

「知りたいの?」

「俺は君の従者であり剣でもある「黄泉殲徒」なんだろ? だったら、自分が仕える相手に対して最低限のことは知っておくべきだ。」

 見つめ合う貴文と明美の間で、数瞬の間、沈黙が流れた。

「あの歌――あなたも聞いた、カクリヨヒメの黄泉流しの歌。あれはね、私のお父さんの故郷で歌われている、お囃子が元なの。」

「お父さん?」

 貴文は、以前明美から「両親は二人ともいない」と聞かされたことを思い出していた。

「そう。私のお父さんとお母さんは、私が9歳の時に、二人とも死んだ。お父さんの故郷に一緒に帰省して、お祭りを見て帰る途中だった。」

 明美は、遠い所を見るような目で、話し続けた。

「車の中で、お父さんに聞かされたんだ。故郷のお祭りで歌われているあのお囃子は、飢饉とか、疫病とか、不幸な死に方をした人たちの魂が、この世を恨まずに天国に行けるための「祈りの歌」だって。でもお父さんは、その歌のもう一つの意味も教えてくれた。あのお囃子は、この世に恨みや呪いをばら撒いた人間に対しては、その魂を地獄に送るための「呪いの歌」にもなる、ってね。」

「……」

「その直後だった。私達が乗った車の後ろから、猛スピードで別の車が追突してきた。ぶつかってきたのは、近くの町で轢き逃げ事件を起こして、警察に追われていた男の車だった。私達の車は衝突の衝撃でひっくり返った。お父さんとお母さんは、血まみれになりながらも必死で、私を車の外に押し出してくれた。その時、私の目の前に、ぶつかって来た車の男が立ち塞がったの。」

 貴文は、無言で明美の話を聞いていた。

「轢き逃げの挙句、追突事故まで起こしたせいで、その男はもう正気を失っていたんだと思う。男は、私を蹴り飛ばすと、手に持っていたスパナで、やっと車から上半身を出しつつあったお父さんとお母さんを、滅茶苦茶に殴りつけた。血が、辺り一面に飛び散って、お父さんもお母さんも、すぐに呻き声すら上げなくなった。」

 明美は、そこまで喋ると、一瞬、声を切った。

「その時思ったんだ。あのお囃子を、あの歌を歌わないと、って。お父さんとお母さんの魂は、このままじゃ天国に行けない。今すぐにあの歌を歌わないと、って。私はお祭りで聞いた歌を、覚えているまま、歌い続けた。男は滅茶苦茶に殴りつける手を止めて、ぎょっとした表情でこっちを見ていた。当然だよね。両親を目の前で殺されているのに、その傍らで歌を歌うなんてイカレてる。でもね、私にとってはその歌を歌う以外、考えられなかった。だって、お父さんの言った通りなら、その歌は「呪い歌」でもあるんだから。救いたい両親と一緒に、呪われるべき相手も目の前にいる。だから私は歌った。」

「……」

「犯人は呆然として、気付くのが遅れちゃったんだろうね。横転した車からガソリンが漏れていた。私が歌い終えるのと同時に、ガソリンに引火して、犯人を巻き込みながら車は吹っ飛んだ。お父さんやお母さんの遺体も一緒にね。天に昇っていく火の粉を見て、私はお父さんとお母さんの魂が、天国に昇っていったと確信した。」

「……犯人の魂は、地獄に堕ちた?」

 貴文が、呟く様にして聞いた。

「もちろん。私がそう決めたもん。」

 晴れ晴れとした表情でそう言う明美であったが、口調はどこまでも空虚であった。

「その話をどこからか聞きつけたお偉いさんが、私を虚像兵器メタ=トランスの一人としてスカウトして「カクリヨヒメ」が生まれたって、そういう訳。」

 話し終えた明美は、貴文の方を見て「これでOK?」と聞いた。

 貴文はそれには答えず、ただじっと、明美の顔を見つめていた。

 掴み所の無い彼女の性格の、本質と言うか根源的理由が薄っすらと分かった気がした。この子は、壊れているのだ。狂った世界に心を壊され、そして今もまだ、狂った世界にその身を利用されているのだ。そして彼女を利用している者達は、あろうことか彼女の苦悩を、壊れた心を、「嘘」に仕立て上げるという侮辱行為を平然と行っている。人の死により心を壊された彼女を、今も人の死に縛り続けている。

 貴文の心が、再び「真っ白な空白」に飲まれた。フクタの分身を屠った時と同じ、怒りや憎しみすら超越した殺意が、その一身に満ちた。

「貴文?」

 黙ったままの彼に怪訝そうに声をかけた明美の身体を、貴文は思わず抱き寄せた。

「いつか……」

 嗚咽するような声で、貴文が明美の耳元に囁きかける。

「いつか必ず、君をこの地獄から助け出す……」

 脆弱な肉体と軟弱な心では、決して果たせない願い。つまり今の彼にとっては、手を伸ばすことすら出来ない夢も同然であった。だが貴文は、そう言わずにはいられなかった。

「ここが地獄なら、私の還るべき場所なんだけどな。」

 貴文の抱擁の意味が分からず、明美はきょとんとした表情でそう返した。

 だが――彼の眦を流れ落ちた涙が、彼女の頬を濡らした時、明美は遠い昔に忘れてしまった「何か」が、心の彼方に、微かに見えた気がした。

 黄昏を染め上げる薄闇の中に、微かな光芒が、見えた気がした。


 カクリヨヒメ――

 いつの頃からか、巷で囁かれるようになった都市伝説。大罪を犯した人間とその親族関係者の命を狩り立てるという、少女の似姿を持つ死神。

 どういう訳か、今では諸外国においても「現代日本の怪異」として取り上げられることが多くなった、怪奇譚。

 ある時から、その噂に一つの尾鰭がつくようになった。

 曰く、カクリヨヒメの傍らには、常に亡霊の如き姿の少年が付き従っている。

 その少年は、暗闇の中でもそれと分かる程、白く澄んだ瞳を持ち、ヒメの行く手を阻まんとする者に対しては、苛烈なまでの誅罰を与えるのだという。

 名を、黄泉殲徒。

 黄泉の国より来たりしカクリヨヒメの従者にして、現世の誅戮者。カクリヨヒメの繰る断罪の鎌にして、彼女を守る刃――。

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カクリヨヒメ 時田宗暢 @tokitamunenobu

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