帰還の章

さらば異世界

平和な世界で

 知の神の話では、理想の箱が砕けたのは、願いの大きさに耐えられなかったからだという。さらに創造の力は世界再生で大きく消費され、新たなクダリが現れることも――無いだろうということだった。

 悪しき女王が倒れた今、クダリたちは二つの選択を迫られた。一つは、この世界で普通の人間として生き続ける道。もう一つは、自ら再生の大穴に身を投じ、この世界での肉体と神器を捨て、元の世界に戻る道。


 タローの心は決まっていた。元の世界に戻るのだ。若い彼には未来がある。若い彼にとって、この世界はちょっと不便で退屈だ。

 その前に、彼は異世界に来てから今日まで訪れた場所を見て回った。ウィント市、エトラ市、ロクソン村、クス市、トーリ町、クンダ町、そしてルミエ町。本当に世界の全てが元通りになったのかを。

 マリもタローに同行し、その間に自分が進むべき道を決めると言った。


 タローとマリは英雄と呼ばれる資格があったが、二人が自分たちの働きを語ることはなかった。

 何も知らない者たちにとっては、世界は何も変わっていない。偉大な女王がいて、いつもの暮らしが続いている。何があったか話しても、混乱させるだけだ。

 それにタローはこの世界を去るつもりでいる。惜しむような名誉も何もなかった。客人としての待遇にも、今さら未練はない。彼は客人扱いには裏があると学習した。何より、彼は戦いに疲れていた。これから先、ことあるごとに「英雄」としての活躍を求められても困る。自分が死ぬような目に遭うのも、人が死ぬ場面を見るのも、誰かを殺してしまうのも、もう終わりにしたかった。





 タローとマリの二人はウィント市から四日かけてルミエ町に着き、町内の宿で一泊する。

 その夜、マリはタローの部屋を訪ねた。


「タローくん、話があるんだけど……いいかな?」

「はい。どうぞ」


 タローに促されて入室するマリは、パジャマの上に厚いガウンを着ていた。

 彼女は女王を倒してからも、ずっとタローと行動をともにしていたが、口数は極端に少なくなっていた。宿の部屋も別々で、わざわざ夜に話をすることもなかった。

 いったい何を言われるのかと、タローは少し緊張する。


「ちゃんと、お礼を言っておこうと思って。今まで、ありがとう」

「そんなの、いいですよ。オレだってマリさんには何度も助けられましたし」

「そういうことじゃなくて。私、少し前までトウキに頼ってばっかりだったからさ。トウキさえ側にいてくれたら、他には何もいらないって思ってた」


 マリの告白に、そこまで彼に依存していたのかとタローは驚いた。頼りになる人が近くにいてほしいという彼女の願いが、「トウキ」という神器を生み出したこと自体は、自然なことである。タロー自身も、心細さから「ハナ」という神器を生み出したという点では、マリと大差ない。


「でも、私がそれを言うと、トウキはいつも悲しそうな目で私を見たの。きっと彼は分かってたんだと思う。私の言うとおりにしていても、私のためにはならないって」


 マリは窓辺に移動して、夜空を見上げた。

 月も星もない夜の地上を、町の明かりだけが照らしている。

 知の神の曰く、この世界の夜は「黒い太陽」が昇ることによって訪れる。この世界の人々は、それを「昼の太陽」の対となる「夜の太陽」と呼ぶ。月とは異なる、夜空に浮かぶ唯一の天体。


「トウキがいなくなっちゃって……私、どうしたらいいか、なんにも分からなくて。そんな時に、あなたがいてくれたから」


 振り向いて、タローを真っすぐ見つめるマリ。

 タローは返答に困ってあたふたする。


「あぁ、それは、いや、そうなんですけど、そんな……」


 そんな彼にマリは小さく笑って言った。


「タローくんは元の世界に帰るつもりなんだよね?」

「あ、はい、そうです。オレ、学校、行ってたんで。こっちの世界に残っても、まだ働くとか、仕事をするとか、全然」

「学校に行ってたこと、覚えてるんだ?」

「はっきりとは覚えてないんですけど……学校のことは分かるのに、社会人になったとか、会社勤めの記憶とか、全然ないんで。まあ、そういうことなんじゃないかと」

「私も仕事してた記憶はないんだ。高校か、大学か、その辺りも少し曖昧で。タローくんは、元の世界に帰るのに不安とか……ない?」


 まだマリは迷っている。元の世界に帰るのか、この世界に留まるのかを。

 そして……ここで結論を出すつもりでいる。

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