赤黄色の金木犀。@柏木裕介1st

「はぁ、はぁっ、はぁっ」



 肺が痛い。足が痛い。


 だけど走る。


 ただ走るんだ。


 あの絵を裂いて白く咲いたのは、おそらく僕が望んだ夢の世界で、華に裏切られた僕が、また君を思って泣いたからかもしれない。


 ここは中学時代だった。


 さっきまでの僕は、華に最後の別れを言ってキャンバスを裂いていた。


 少し記憶の混乱はあったけど、多分夢に見ていた僕の情け無い願望に酔っていたんだろう。


 別にもう恨んではないけど、僕の知る彼女はあんなに色香を振り撒かないし、嘘を言ったりなんかしなかった。


 だから多分もう手遅れなくらい僕の思いも彼女の思いも枯れていて、何だか他人行儀だったよ。


 好きな人がいるって雰囲気で、多分三好なんだろう。


 また寝取られを体験するとは思わなかったけど、いや、僕が気づきもしない間抜けだっただけだよね。


 はは。


 空気は春の日を迎えていて、こんな日に僕は華に告白したんだけど、それは間違いだったんだ。


 だから僕にはもう不必要なはずの過去で、だけど夢の中とは言えないくらいのリアリティが、現実だと教えてくれていた。


 まだ半分は半疑だけど、時間が巻き戻るなんて思いもしなかった。


 過去をやり直すだなんて、良くないと思うけど、この街を出るのに、唯一の心残りだったのは君のことだった。


 何故か顔も名前も思い出せなくて、描いても描いても違う人ばかりになって、でも描き続けていた。


 ずっと探して描いていた。


 あんなにも思い出せなかったのに、今はこんなにも鮮かに瞼に映る。


 変わらない笑顔は、やっぱり僕に安心をくれるんだ。



「あ、柏木くん。もしかしなくてもお見舞いかな? ふふ、それはうれしいなぁ」



 息を切らしてたどり着いたのは、やっぱり思い出の木の下で、そこに彼女はいた。


 そしてやっぱり昔と同じセリフで、僕に笑顔を向けていた。



「でもまだ走っちゃダメだよ…って何で笑って……あっ! こ、この格好はね、無理矢理ののちゃんのお母さんが──」


「薫ちゃん」


「……うへぇ…?」


「はは、変な声、出して、どうしたの?」



 初めて見た君の迂闊なその顔と成長した姿に、なんだか胸がたまらなくなってしまう。


 君はいつもお姉さん風で、僕の手を引いてくれていた。


 その印象は、大人になっても変わらなかったみたいだ。


 君がどうかはわからないけど、僕らの夢が開くのは、おそらくこんな春の日で。


 この季節に、咲かないはずの金木犀が、あの秋の続きと言わんばかりに、白く目に鮮やかに咲き出したんだ。


 その下に立つ君のブルーのドレスがあの日のように、とても綺麗に映えていて。


 僕の凍てついていたど真ん中を、またもや君は撃ち抜いたんだ。


 まるでデリンジャーみたいにして。



「…柏木…くん?」


「薫ちゃん。また会えたね」



 ゆっくりと歩みよる僕に合わせて、彼女もゆっくりとこちらに歩みよっていた。


 そうして昔みたいに手を自然に取り合った二人の、君の大きな瞳からは、大きな粒の涙が流れていて、それはまるであの露みたいな銀色だった。



「あはは、ぐすっ、柏木ぐんだ」



 ああ、なんで君が泣くんだよ。


 泣きたいのはこっちだって言うのにさ。


 また我慢するけどさ。


 もう高校二年生だしね。


 ああ、でもやっぱり無理そうだ。



「何で、君は泣いてるのかな」


「それは、きっと嬉しいからだよ」



 それは伸びた影が一つになってわからなくなるような、どちらがどちらともない混ざり合った問答だった。

 


「あのさ。僕、君が好きだったんだ」


「ッ!?」



 そう言って、僕は君を抱き寄せようとした。すると彼女は、おでこを寄せてきて、二人分のこつんが小さな音を響かせた。


 その音に、銀木犀が答えた気がした。


 そう言えば、この頃は女の子と同じくらいの身長しかなかった。


 君と初めて会った日も、確かこんな身長差があったように思う。


 もしかするとこの為に体は成長しなかったのかもしれないなんて、都合よく考えてしまうけど、ようやく僕は言えたんだ。


 彼女は目を伏せていて、表情は見えないけど、感情は伝わってきた。


 どうやら僕と同じらしい。



「……柏木、裕介くん。私も…ずっとずっと好きでした…………うへへ」


「…うへへ…? な、何その変な笑い…んン──」



 そうやって、僕らは長い長いキスをした。


 暗くなるまでキスをした。

 

 始まりのようで、でも遠く長い旅路の終わりのような、達成感と少しの焦燥感があって、でもそれでいて凍っていた心臓に火が灯るようだった。


 それは、華に裏切られた日から止まっていた、僕の時間だったのかもしれない。


 ただ一つだけ確かだったのは、混ざり合った二人の涙が、こんなにも赤黄色に光った事だった。


 僕らを包む白い銀木犀は、そんな色に変わっていて、どこか嬉しそうで、そして寂しそうだった。

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