思春期のブルース。@柏木裕介1st?

 僕は急かされるようにして走っていた。


 何故だか違和感が左足にあるけど、こういう時はあんまり良くない日が多かった。


 思ったところに蹴れないのもあるけど、雨が降ったり、お腹が痛くなったり。成長してからも、関係ないのに手に筆が乗らないことだってあった。


 サッカーだって、あの日を最後にやめたんだ。


 僕が父さんにわがままを言わなければ、あんな事故に遭わなかったんだと思う。


 母さんは違うって言ってたけど、僕のせいだよ。父さんはどうやっても助からなかったって言うけど、僕のせいだと思う。


 あの薄暗い病院のロビーから手術室の方を見ると、怪しく走る非常口のライトがあった。


 その緑色がリノリウムの廊下を、ゆらゆらと手招きしていた。


 それは僕が震えていたからかもしれない。


 でもそう見えた。


 あのピクトグラムは、今思えば秀逸だと思うけど、小さな僕には薄気味悪い感じと、本当に逃げろって言っているのかわからなくさせる、ふざけた感じが混ざったデザインに見えて、そこからは絶対外に出たくないって思ってた。


 そこを開ければ絶対に崖があるって思ってた。


 でも、その時ばかりはそこに逃げたかった。


 ゆらゆらとした手招きに縋りたかった。


 母さんの表情からは生が抜けていて、そのピクトグラムのようで怖かった。


 でも、僕は泣かなかった。


 泣くわけにはいかなかった。


 そして彼女に出会った。


 父さんの死が引き換えみたいで、すごく嫌だけど、僕は君に出会ったんだ。


 僕のなけなしの勇気がついに砕けて、絵を濡らしたのに、それを見ないフリをしてくれた君に出会ったんだ。


 そんな僕を、労るわけでもなく、慰めるわけでもなく、自分の足で立とうって勇気付けてくれた女の子で。


 年上みたいに強がっていて、年下みたいに寂しがり屋の女の子で。


 でも君はあの秋の日を待たずに死んじゃった。


 それからは後悔を色に、思い出を線に、そうやっていつも探してた。


 君に気に入って貰えたらって、出来るだけ素敵な色と線をずっと探してた。


 あの時感じた色をいつも探して筆を走らせていた。


 僕を元気付けてくれた君は、あの時から僕のミューズだった。


 何かの歌にあるように、淡い青の洋服を着て、自分の方が辛いのに、にっこり笑う君の影を踏まなかったのは知ってたのかな。


 一緒に歩いた屋上の夕陽が、僕を燃やしてたのを君は気づいていたのかな。


 さよならなんて、交わせなくて、君に見せたかったあのグズグスの絵の完成を、やっぱりまた濡らして、でも何枚も描いてたんだ。


 そして雲のない夜が訪れた。


 ボクの姿を描いてくれって僕に言ったんだ。


 そんな夢を僕は見たんだ。


 不思議な夢で、とても不思議な色だった。


 淡くて白くて銀色で。


 君の友達みたいで、僕の想いみたいな色。


 マティスみたいに、光の奇跡を信じさせるような色だったんだ。





[キンモクセイくん]



 それが僕が描いた絵のタイトルだった。


 子供みたいなタイトルで、でも君を思って描いたんだ。


 君が喜んでくれたらいいなって。


 金賞なんて出来過ぎだけどね。


 あの金木犀の下で見つけた、ハート型の石を、内緒で潰してまでして描いたのは、多分君に僕の心臓を捧げたかったんだと思う。


 だって君を助けたかったから。


 でも君は助からなかった。


 だから少しずつ削って、少しずつ使って。


 毎日何かを頑張っている、未来に生きる姿を描いてみた。


 そのたびに、君の名前と顔を忘れていくのに気づかなかった。


 気づかずに描き続けていた。


 そして全て使い切ろうとした日。


 中学三年生の秋の日に、君の言っていた、雲のない夜が僕に訪れた。


 ボクの姿をまた描いてくれって僕に露をくれたんだ。


 そんな夢を僕は見たんだ。


 そうして描いた僕の絵は、タイムカプセルに埋めた。


 その時の僕は君を忘れて大事な人ができていた。


 それが初恋だと信じて、僕は未来に奇跡を送ってみた。


 でも、高校二年生の運命の日、それまで描いていた絵が、あの日悲しく光ったんだ。


 だから僕は切り裂いた。


 全て切り裂いた。


 それからはずっとクローゼットの中に僕はいた。


 はは。クローゼットなんて、もう入りたくなんてなかったのに…なぁ……?



「…クロー、ゼッ…ト……ここは……」



 辺りを見渡して見ると、もう春の日を感じさせていた。山の緑が青い。草花に力がある。風は未来を運び、太陽はようやくの出番に嬉しそうだ。


 いや…僕はさっきまで、何を思って走ってたんだ…?



「でもこの香り…は……ッ!」



 僕は駆けた。


 ここがもしも過ぎ去った世界だとしたなら、例えば全て伝えることが、叶えることが出来ないとしても、やはり僕は走るのだと思う。


 現実から逃げて、縋るようにして切り裂いたのは、多分決別ではなく、後押しして欲しかっただけなんだ。


 あの秋の続いた世界が、今ここにあるんだと何故かそう無駄に胸が騒いでいた。


 僕は今、あの香りを頼りに春の道を走ってる。


 そこにはおそらくきっと──

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