心のずっと奥の方。@柏木裕介
そのマンションには屋外型の非常階段があった。
古いタイプのマンションで、地上階から屋上階まで伸びていた。
扉の鍵は開いていたからそのまま駆け上がった。
完治というかリハビリもまだな上に、突然の階段ダッシュとか、普段使わない筋と肉と骨が悲鳴を上げているのがわかる。
途中、あの女とすれ違ったが、捕まえる気も、捕まえれる気もしなかった。
華が心配だったのもあるが、その女の表情がやばかったのだ。
◆
三階まで登りきった時だった。
あの女が音も無く上から降りてきた。
「……ッ!」
「廃……誰か…誰に…誰を…」
虚な表情で、ぶつぶつと呟いていた。
まるでリストラくらった陰鬱なOLだ。
やはり伽耶まどかに似ている。似ているが、おそらく僕が知っている彼女とは違うと思う。
なぜなら年が随分と上に見えるからだ。
母、あるいは親類かもしれない。
それぐらい似ている。
そもそもこの女は、一番最初は僕に用事があったはずだ。だから話しかけられるかと身構えた。
用件も気にはなるが、もしここで何かまごまごとしたアクションがあれば、華が危ないかもしれない。
今の僕は虚弱だが、泣き喚いてでも振り払う気だった。
「…見つけ…と…他の…でも…」
だが、その女は僕が目に入らないのか、そのままそう小さな声で呟きながら通り過ぎていった。
「……なんなんだ…あの女は…ヤバすぎるだろ…」
そして、激しいバトルのせいなのか、何故かあのキツい金木犀の香りはもうしなかった。
◆
僕はやっとの思いで屋上階に辿り着いた。
息は途切れ途切れで、おまけに足がオーバーヒート。
だがそんなことはどうでもいい。
祈るような気持ちで僕は屋上に出た。
「…華…?」
そこには華が倒れていた。
あの女が持っていた鞄を抱いて、倒れていた。
「華ぁ!? は、華…?」
その鞄には、おそらくあの銀色が刺さっていた。
「これ…キリンの…僕が…あげた…捨てた…」
銀色はあのペーパーナイフだった。
華にさよならをし、瞳さんに返してもらって、あのコンクールの絵…あの金木犀の絵を引き裂いたペーパーナイフだ。
「金、賞…いや、待て…そんな願望──」
ない。あるし、ない。そうとしか思えない記憶が、キリンの柄に触れた途端にグジュっと滲むように、僕の脳内を駆け巡った。
思考が上手くまとまらない。
考えが考えられないとしか言いようがない。
というかなんで僕は真っ先にこれに触れた? 華の無事が先だろ?
あかん、これ以上は無理だ。
ピザりそう。
なんでだよ!
僕は柄から右手を放した。
「おぇ、はぁ、はぁ、はぁ…なんなんだ…おおぇっ…」
僅かしか触ってなかったのか、それとも10分以上触っていたのか、それがわからないくらいぼうっとしていた気がする。
誰かの希望か、何かの願望か、あるいはいつかの絶望か。そんなものを一気に見せられた気がするが、そんな記録みたいな記憶が、思い浮かべようとすると、端から順にするりと薄れていく。
「なんだこれ…こっわ…」
頭が妙にジンジンする。
脳が嫌がってるのがわかる。
サイコメトラーかよ、僕氏。
怖えよ。
つーか僕はあの時、賞を取ってない…ないよな…?
このナイフ…今現在は…華が持ってるよな…?
もう触っても何も見せてこないが、何かに思考が誘導されそうになる。
だが、精神を強く保てば抗える。
ふざけんなよ! 伊達に長年社会人やってねーんだよ!
「ってそんな事より華だ!」
ナイフが突き刺さったままの鞄を投げ捨て、華の身体を確認するも、それらしい傷はない。
心拍も息もある。血色も悪くない。
どうやら眠っているようだ。
「鞄で防いだのか…」
ナイフは鞄を少し突き抜けていたのだが、大きな胸と鞄で隙間が出来ていたのだろう。
スタイルが良かった。
違う違う。
「運が…良かったんだな…はぁ───」
ほっとした僕は、その場で華の横で跪いた。
膝が今になってガクブルきたんだよぉ。
10階建ダッシュとかサッカー部でも死ぬってぇ。
というか僕の過去どうなってんだってばよぉ。
「はぁ……ほんと…良かった…本当に良かった」
というか急にバトルものとか今世はいったいどうなってんだよ。
あのバトル自体は、いつも流星と彗星を見てるからか、もうそこまで違和感はない。
華のスペックを全て把握しているわけではないが、まんきん…本気でのドツき合いならあそこまでいけそうな気はする。
現に森田さんとの肉体言語はさっきのようにまるで暴風だったし、三好を葬る華は俊敏で苛烈だった。
ただ、バトる動機と理由がわからない。
ナイフ出した意味なんか全然わかんない。
「……いったい何が…起きてんだ…? いや、華が無事ならどうでもいいか…」
華の吸い付くような柔肌。頬に、おでこに、顎に、心配で触れる。
労りで撫でる。
愛おしさで愛撫する。
まだ三月でしかも屋上だ。僕と華の汗も冷えている。
けど、確かに華の熱はここにある。
SFはわからないけど、君はここにいる。
それだけでいいか…
「………?」
僕の右の手のひらに、冷たさに同居するかのような不思議な熱を感じる。
消えた。
気の…せいか?
まあ、元々幼児並みに体温高めだしな、こいつ。
僕もさっきまで最悪の事態を想像してたし、極度の緊張で手汗が酷くて、それが冷えて冷たくなってたんだろう。
とりあえず僕のリュックを枕にしてやった。
華はすやすやと寝ているが、白目じゃなくて安心する。
ん? いや、この場合どっちだ…?
大丈夫なのか?
いつも白目だからわかんねーだろ!
まあ、安らかだが、死の雰囲気みたいなものは感じないし、大丈夫だろう。
僕の場合は両親どちらともの死を経験している。死人からは生命力みたいなものの存在が抜け落ちていて、生きてるかどうかなんて、すぐにわかるようになるものだ。
まあ、実際は意識してないだけで、表情筋とか生きてる証である微細な変化を勝手に読み取っているだけだろうが。
「というかめちゃくちゃびびったじゃねーか…今になってドキドキしてきた。焦ったし…ほんとなんなんだ、なんなんだよ…だんだんムカついてきたぞ…」
いやいや、落ち着け、落ち着け柏木裕介。
誰に当たればいいかわからない鬱屈とした気持ちの逃し方は、大人なら誰しもが体得しているものだ。
「……ってんなもん知るか! タイムリープ神! 絶対お前だろ! 出てこいや! ──ないか、ないよな……とりあえず救急車呼ぶか…」
警察は…どうしようか。
合格発表日に警察沙汰とか洒落にならないか…とりあえず、まずは病院で検査だ。
そう思ってリュックに手を伸ばしたら、華の大きな瞳がパチリと開いた。
そしてすぐに僕の右手を取り、音もなく上半身だけムクリと起こした。
体幹すごくて怖えよ。
瞬きしてなくて怖えよ。
そう驚いてびくっとする僕氏。
そして何故か一瞬ブルリと体を震わす華。
何か…お互いが…何か心のずっと奥の方で少し──繋がったような──不思議な感覚が──
「裕くん」
「な、なんだ?」
そんなに真剣な目をして、いったい何を言う気だ。
「わたし………て、貞節です」
「起き抜けにお前は何を言ってるんだ」
どうやら無事のようで安心した。
ただ、定説はやめれ。
デキてたら責任取るって言っただろ。
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