未来のわたし。@円谷華

 わたしは大学を途中でやめ、家を出た。


 両親は、いろいろと察してくれたのか、特に引き止めなかった。この町に居るのが辛い。そういう風に装った。


 ただ、連絡だけは小まめにしろと強く言ってくれた。


 いろいろあるだろうけど、元気でねと、裕くんのお母さんの笑顔が痛かった。


 結局おばさんには言えなかった。


 裕くんはどうも言ってないみたいだったから。


 だから住所は聞かなかった。


 それから大きな街に向かった。


 裕くんが住んでるかも知れない大きな街だ。


 完全に当てずっぽうだった。


 それで良かった。


 わたしは夜の街で働いた。


 昼間に自由な方が都合が良かったから。


 それに、何の社会経験もない女ができることなんて、限られていた。


 昼間は資格取得の勉強。


 夜は接客業。


 暇があると駄目だった。


 苦学生みたいに振る舞った。


 夜のお店ではすぐに人気が出て、大きなお店に移って行った。


 女の世界の汚さ醜さも、気にもならなかった。あいつの仕打ちの方が、わたしの仕打ちの方が、よほど汚かったから。


 男との付き合い方も、気にもならなかった。


 裕くんを騙した女のままでいた。


 男を騙しても何とも思わない、そんな女に。


 わたしはあのお別れの日に、自分をそんな風にデザインしたのだから。


 心躍り暖かさで彩られる日々はもうこないのだから。


 それから何年も裕くんとの偶然の出会いを期待したけど、そんなものは落ちてなかった。


 それで良かった。


 そもそもこの街にいるかもわからない。SNSでも探さない。


 それで良かった。


 ギャラリーや画廊を巡るがそんなものは掛かってなかった。


 それで良かった。



 夏と冬が来る度に、そう思った。





 今のわたしは相変わらず夜に働き、資産家の情婦として囲われていたりする。


 ブランドものや貴金属やマンション。それらをあてがわれ、飾りたてられる日々だ。


 その対価として体と時間を差し出す。


 一般的に見れば裕福な暮らしなのだろう。


 羨ましがられたりするが、何も満たされない。


 だからこそ、あの日汚れたわたしには丁度良かった。


 だからこそ、あの日から折れて惰性で生きるわたしには丁度良かった。


 でももう30だ。


 人気も陰ってきた。花の命は短い。


 そういうことだろう。


 それにもう疲れていた。


 いや、もうとっくに人生に疲れていた。


 最近は眠れない日が続いていた。


 いや、もう何年もまともに寝ていない。


 薬がなければ。



 そして眠りにつく前にいつも思う。


 せめてあの日に戻れたら。


 せめてあの背中に手が届いていれば。


 せめてあの時打ち明けていたら。


 すぐに大人を頼っていれば。


 今思えば、あいつなんて、幼い頃に怖いと植え付けられた臆病なわたしが過度に大きく見せていただけだった。


 大人になり、それなりに怖い目に遭うとただの悪ガキくらいにしか思えない。


 何よりも大事なものが何なのか。わたしはそれを致命的に間違えただけ。


 本当にわたしは馬鹿だ。


 だから馬鹿な生き方がわたしにはよく似合う。


 そうあの日から思っていた。


 裕くんとの最後の日から、ずっとずっと思っている。


 そして目が覚め、毎日を惰性で生きる。





 結局折れたわたしは、思うだけで何にも動かなかった。


 あの日から何にも変わらない。


 いいえ、違う。


 ただただ、あの裕くんの眩しい笑顔も、あの悲しい顔も、見る勇気がなかった。会う勇気がなかった。探す勇気がなかった。


 ただただ怖い。


 怖いから、偶然にしか縋れない。


 そして偶然出会えたなら。


 いや、多分何にもできないだろう。


 あの頃のわたしはもういないのだから。



 結局ずるくて汚いわたしは、そう思うだけでこの生活もきちんと納得しているんだろう。


 同僚にはもっと辛い目にあった人も、もっと悲しい目にあった人もいた。


 その子達は、みんな与えられた辛さ悲しみよりも、与えてしまった辛さ悲しさの方を悔いていた。


 みんな、それを乗り越え、たらればなんて意味がないと言う。


 それより今を精一杯生きる。そう言っている。


 わたしもそう思う。


 そうは思うけど、やっぱり折れたまま動けない。


 どうやらわたしはまだ拗らせてるようだった。





「やっぱり、やめとこう…」



 裕くんとの最後の日。


 公園で隠れて泣いたあと。


 わたしはあの日、自分を自分でデザインした。


 もっと汚いクソビッチに。


 そう性格をデザインしたのだ。


 厚かましくも、裕くんの口癖を借りて。



 そんな悪女たるわたしには不幸せがよく似合う。


 事実、二度の堕胎でわたしは自分の赤ちゃんとは出会えないのだから。



 性格に気をつけなさい、それはいつか運命になる、は誰の言葉だっただろうか。


 でも、ほんとその通りだ。



 だからタイムカプセルなんて、もう見れない。


 あの時のわたしは、無邪気で、厚顔無恥で、まだまだ裕くんとの未来を信じていた。


 思い願い祈り、厚かましくもあり得ない空っぽの未来を、希望を、願望を、将来を、きっとあるのだと信じて、いけしゃあしゃあと書いたのだから。


 それは悪くてずるくて汚い女には眩しすぎて痛いから。


 あの時の頭の悪いわたしが、ただただ痛々しくて見ていられないから。



「ああ、でも…裕くんには逢いたいな…いや無視される…か…いえ…もう…何とも思ってないよね…」



 結局、そうつぶやくだけで、会には参加しなかった。


 そしてその日を境に頭痛と不眠がさらに酷くなった。


 お酒と薬に強く頼る日々が続いた。


 そんな生活の中、当時の担任の名前で届いたタイムカプセルは、わたしを震えさせた。


 あの日書いた未来の自分への手紙には、過去も今もわたしの望む妄想した眩しい未来が書かれていた。


 わたしはこうなっていたい。わたしはこうしていたい。わたしはこうなってる。わたしはこうおもう。


 わたしは、わたしは、わたしは。


 確認するまでもなく、一つもなってない。


 見るまでもなく、一言一句覚えている。


 だからその原稿用紙は開いていない。



「嘘…」



 でもそうじゃない。


 でもそれじゃない。


 それとは別に、大事なものが入っていた。


 とてもとても大切なものが入っていた。


 なんで一緒に入っているのかも忘れていた。


 なんで今まで忘れていたのかも思い出せなかった。


 そこには一枚の絵が入っていた。


 裕くんにねだって描いてもらったあの絵が入っていた。


 コンクールを受賞した時の絵。


 その模写が入っていた。



「…なんで…忘れて…たの…?」



 あの日のシーンが唐突に強烈に鮮明に脳裏に蘇る。


 小学校の時だ。


 金賞を受賞した時の裕くんは謙遜してて、でも喜びが頬に滲んでて。脇腹つっついたら笑って。わたしもつられて笑って。


 手を取り合って、二人で笑いあって。


 そして抱き合って、笑って。


 照れて、黙って、また笑って。


 そんなわたあめみたいにふわふわとした幸せな思い出の詰まった絵だった。


 それと同時に、別れた時の裕くんの絶望した顔も鮮明に蘇り、重なり、唐突に吐いた。



「ぅおぇぇ…は、はは、は…わたし…わたしは…」



 だからわたしは。


 あの時の裕くんの眩しい笑顔と悲しい顔にガツンと殴られたわたしは。


 あの時信じた裕くんとの未来を、ありえた未来を、そんなものはこの世界線のどこにも無いと、無かったのだと、ああ、違う。


 自ら手放したのだと、自ら手繰り寄せなかったのだと、自ら奪わなかったのだと、強く強く言い聞かせるようにして。



「Fly to the past!! …なんて…あはは…」



 叶いもしない願望を口にしながら。


 たらればを積み上げたこの高層マンションのベランダから逃げるように。


 あの絵。


 あの銀木犀の絵を胸に掻き抱きながら。


 人工の星が広がるこの足元の泥みたいな空に向かって。


 わたしは愛を求めて飛び込んだのだ。

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