第5話 『ポルト・リガト』の聖母像
先に目を開けたのは、浅見原エリヤの方だった。
背の高い身体で、白い華奢な四肢を抱き込むように倒れていた。意識を取り戻し、エリヤははっとして身を強張らせる。ママ以外の女性の身体が腕の中にある。
白地に紺のセーラー服。臙脂のリボンと襟のライン。黒く艶やかな長い髪が一筋乱れて、傷跡一つないしなやかな項に流れ込んでいる。冷たく甘い匂いがした。払暁に咲く百合の花の香り。細く柔らかいけれども確かな、その身体の重み。
(……やっぱり、やばい、美人だよな、こいつ)
修行僧のごとく目を閉じ、己の中に湧き上がる邪念をその一言で払おうとする。
(ママ、俺は今、女子に親切にしているよ)
彼女を地面に投げ出さないように気を付けながら、エリヤはゆっくりと身を起こした。
夜明けを思わせる、薄暗い空間だった。建物の中だ。床は磨き抜かれた石で、二人が倒れている空間には低い木の壇が置かれていた。高い位置にガラス窓があり、そこからぼんやりと光が差し込んでいる。周囲の空気はひんやりと冷たい。
眼前には、高い台座の上に大理石の彫像。
ローブを被り、髪を隠した美しい女性が、薄明かりの中で手を合わせて祈りを捧げるように立っている。その高さは2メートル半はあろうか。
ああ、ここが『ポルト・リガトの聖母像』の中か。俺が知っているダリとは違う、こんな絵もあったのか。静謐で、昔っぽくて、心安らぐような……
「浅見原エリヤ、ここはどこですか」
すぐ傍から低く緊張した声がした。
「え、ここが、ポルト・リガトの聖母像とやらじゃないの?ほら、聖母っぽい像あるし」
「全く違います」
「……え」
「そもそもこんなのダリじゃないですね。いや、私だってダリの全作品を知っているわけじゃないけれど。これは普通の異世界です」
「普通の異世界ってなんだよ」
「おそらく、ナーロッパ」
「ナーロッパ??」
「異世界転生、というジャンルで最も多く採用されている世界観というか。おおむね中世ヨーロッパ風の世界のことです。魔法や幻想の種族等が存在していることも多いですね。なろう風のヨーロッパ、でナーロッパ」
高野流星は身を起こし、例の計器セットをパカリと開けて目盛りに目を凝らしている。ブラウス地のセーラー服では寒いのか、無意識の様子でエリヤの腕の中に身を寄せた。エリヤは再び身体を強張らせ、聖母像を見上げる。
(ママ。俺は紳士でありたいと思う。ママの前だから)
「俺の学ラン着る?」
「……結構です」
細い背中はエリヤの身体からすっと離れた。
「私達、飛び越えましたね」
「何を?」
「サルヴァトール・ダリの『ポルト・リガトの聖母』を。おそらくここは、実在のポルト・リガトとは全く関係のない、どこかの創作の中にある、同名の『ポルト・リガト』という街の教会です。ざっくり言えば……完全に、異世界です」
そう言った言葉は凛々しいまでに冷たく。
高野流星の背筋は、目の前の、何の宗教の誰とも知れぬ聖母を睨み据えるように、すっくと伸びている。
「もしや、振出しに戻った?」
「そうですね。ただ0が10になりかけたのが、3に戻ったという程度です。よかったですね。ここに文明がある以上は、もう例の異世界ガチャはおしまいです。他の方法を考えます」
「そりゃよかった」
そう言いながら、エリヤは考えていた。俺のせいではないのか。俺の『ママ』への念じ方が足りなかったせいではないのか。あの時ナイフを握った俺に、高野流星の美しさによって呼び覚まされた、雑念があったからではないのか。
俺は、俺自身の『ママ』への愛情を信じてくれた、高野流星を裏切ったのではないか。
彼女の背中は張り詰めたまま、この想定外の事態を前に、今も決して折れまいとしている。
「高野、もしかして、俺、ママの息子失格かもしれない」
「はあ?」
「ママは俺のこと許してくれるかな」
「……はあ…」
薄明かりがだんだんと濃くなっていき、古ぼけた広い大聖堂の全容が明らかになっていく。異世界の朝だった。エリヤの頬を切々と涙が伝う。振り向いた高野流星は、呆れたようにそれを見つめていた。
「……あなたの親御さんのことは知りませんが。私が部長である間、エクストリーム帰宅部員に固く命じていることがあります」
艶やかな前髪が乱れて覗く青白い額に、黄金色の朝陽が広がっていく。
「互いのミスを決して責めないこと。準備不足も勉強不足も注意不足も、それは気のゆるみ。責められても仕方のないことです。ですが、過酷なエクストリーム帰宅の行程の中で、判断のミスというものは必ず発生します。それを責めるのは理不尽で、有害です。私達は人間なんですから。それも、まだ大人にもなっていない」
「……」
「今回の件では、あなたはおそらく、『ママ』ではなく、私の与えた前情報の『ポルト・リガトの聖母』というフレーズを念じすぎました。その結果、異世界ガチャのテーブルを飛び越えてしまった。タンギーやダリのガチャではない、別のガチャを引いてしまったのです。ですがそれは元を正せば、20世紀美術の素養が皆無のあなたに、タイトルだけを与えてガチャを引かせた私の作戦ミスです」
「高野、……」
「あなたは正式には部員ではないから、私のミスを責めるなとは言いません。ですが、あなたがもし、その少々の倫理観で自責の念を感じているのであれば、それは全く不要なものです、浅見原エリヤ」
「若干disが混じってんだよなあ」
はるかに高い天井、毀れたステンドグラス越しの朝の光は、大理石の床に二人の影を淡く落とす。どこの誰とも知れぬ聖母の面差しにも朝が来て、優しい微笑みを明らかにした。
「少なくともこのミスはまだ取り返せる。帰宅は終わっていません。私達は必ず帰れます。次はこの異世界を通り抜けていくだけです」
その朝の光の中で、高野流星は立ち上がった。翳のあった妖しい美しさはいつの間にか、陽射しの中で咲く高原の百合のような明るさを纏っていた。
エリヤはエクストリーム帰宅部長を見上げる。未だにエクストリーム帰宅の全容はさっぱりわからないが、彼女が確固たるリーダーだったということだけは、今ではよくわかる。
「行こうか、高野部長」
「……エクストリーム帰宅部にあなたは要りませんね。ただの帰宅部の基礎スペックでは何の役にも立ちませんので」
「部活のくせに選抜あるのかよ」
「でも、まあ、この帰宅の間だけなら、そう呼んでいただいて構いません。人からの敬意を無碍にするほど、尊大な人間ではないつもりですから」
初めて高野流星は、浅見原エリヤの前で小さく歯を見せて笑った。
「聖母様も見ていますしね」
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