第4話 サルヴァトール・ダリ的不道徳

「……ついに来た」


 何度目か、何十度目か、何百度目かの死の後に。

 浅見原エリヤは、ガラスの鳴るような声で目を覚ました。


「サルヴァトール・ダリです」


 目を開けると、エリヤにもわかった。その場の陽射しは明らかにこれまでよりも強く、高野流星のプリーツスカートの色合いも、紫を帯びたくっきりとした濃紺になっている。白い脚がほっそりと、黄土色の地面に立っていた。


「あ、これ俺知ってる!時計が溶けてる奴!」

「『記憶の固執』ですね」


 木に引っかかり、艶やかに溶けている時計は目の前でピクリともしない。溶けているのか溶けていないのか、硬いのか柔らかいのか、何だか判然としない光景だった。まるで8Kテレビの映像をでっかく引き伸ばして見せられているだけのようだ。


「【自宅性計測器ホームネスメーター】の針はかなり戻ってきました。この背景がダリの故郷、カタルーニャの風景と言われているからでしょうか。しかし、これはまずいかも」

「何がだよ。ダリ狙いって言ってたじゃん」


 エリヤは高野流星の紺の襟越しに手元を覗き込む。


「というか何それ?」

「帰宅計器セット」

「ってなんだよ」

「【自宅性計測器ホームネスメーター】と【選手計時機プレイヤーズ・クロノメーター】、【定点計時器スタティック・クロノメーター】などのセットです」

「ってなんだよ」

「読んで字のごとしですが」

「俺はまだ【自宅性ホームネス】を理解してないんだよな」


 高野流星は口を開くのも面倒だというように、いくつかの懐中時計が横に並んだようなクラシカルなデザインのそれをじっと覗き込んでいた。それから、小さく溜息をついて、蝶番でパタンパタンと折り畳み、襟の下に収める。彼女のセーラー服の襟の下には、どうやらチェーンでいろんなものが繋がれてしまわれているらしい。


「シンプルに言うと、時計が溶けている世界に来たので、私達が異世界に転移してから何分経ったのか、正確に計ることが不可能になりました」

「えっ……むしろ今まで計ってたの?」

「さっき言ったことも忘れたんですか?エクストリーム帰宅においてタイムは重要な要素なの。時間を計らなくてどうするわけ」

「じゃあ何分経ってたんだ」

「あなたが目覚めた時点で3時間12分40秒。直前の異世界転移の時点で、5時間8分20秒」


 5時間。

 ママに会えなくなってから、5時間。エリヤはゆっくりと、それまでにあった出来事を噛み締める。

 記憶は戻ってこないから、何時に異世界に転移したのかは分からないけれど、一日の中では十分な時間だ。帰宅部は16時には大抵家に着く。5時間経ってれば21時。怪しむには十分な時間だ。 

 自宅で待っているママの姿を、エリヤは思い浮かべる。

『エリヤ、どうしてるのかしら。何があったのかしら。エリヤ、夕ご飯が冷めちゃうわ。せめて連絡を……』


「………ママ、マ”マ、マ”マ””……!!!!!」

 

 エリヤは思わず華奢な高野流星の肩を引っ掴んだ。じゃらり、と襟の下でいろんな器具が鳴る。


「5時間も経ったのかよ!ママが心配してるんだよ!何が異世界ガチャだよ!!!俺を早く帰してくれよ!!!!お前、エクストリーム帰宅の全国大会準優勝なんだろ??!?!?!」

「私も一刻も、早く帰りたいという点では同じです。あなたのような文句ばかりのマザコンといても利はないので」


 高野流星は揺すぶられながらも冷たい声で続ける。


「でも、これは私からしても異常事態なの。異世界に来てしまった時点で、高校大会のレベルははるかに超えてるのよ。それなのにあんたみたいなただの帰宅部おにもつも抱えて……私からしたら、2時間で122回もあんたを殺した腕の方を褒めてほしいんだけど?」


 それと同時に、肩をぐっと振り払われた。エリヤは思わず手を放す。切れ長の瞳は、傲然とエリヤの高い背を見上げた。必要以上にぐっと睨みつけられ、彼は思わず目を伏せた。彼女の丁寧語が取れていることに気が付いた。

 エクストリーム帰宅部長もまた、部長の矜持で己を支えている。それだけだ。


「……それは、やばいよ。1分に1回以上殺してるもんな。殺し屋になれるよ」

「ありがとうございます。なるつもりはありませんが」

「すまんかった。俺はママに会いたいだけなんだ」


 エリヤの低い声は、鮮やかな黄土色の地面にぼとりと落ちた。

 高野流星は黙っていた。それから、ようやく赤い唇を開いた。


「とはいえ、これは【選手計時機プレイヤーズ・クロノメーター】での計時なので。つまり我々の側で流れた時間です。【定点計時器スタティック・クロノメーター】で計測した時間が、私たちの元の世界で流れた時間になります」

「そこ違うの?先にそれを言えよ?!」

「おそらくあなたには相対性理論の初歩も理解できないと思われましたので」


 相対性理論はわからんが浦島太郎くらいは知ってるわ、と口を挟もうとしてエリヤはやめる。ここで再び喧嘩しても始まらない。


「それで、どれくらい経ったんだよ、元の世界では」

「マイナス32分」

「は?」

「マイナス32分50秒」

「は?過去に戻ってんの?」

「だから言ったでしょう、正確な計時ができなくなったって。これが実際に相対性理論で証明可能なタイムスリップなのか、ダリのせいで時計の機能が狂ったのか、私たちに判断する術はありません」


 まあ、ままあることではあります。時計は水が入っても壊れますからね、と高野流星はつぶやいた。


「私たちはとりあえず、もう一度異世界転移をします。次はあなたが頼りです」

「え、俺?」

「『ママ』を念じてください。ここまできたらもう一息ですので、あなたの思念で『聖母』を引き寄せます」

「俺は最初から『ママ』以外念じてないんだけど」

「ダリのガチャテーブルに来てるんです。だからあと一息で行けるはず。『ポルト・リガトの聖母』を引けたら、そこからその絵を収蔵している福岡市を目指します」


 そう言って、彼女は襟の下の鎖から慣れた手つきで何かを外した。何度もエリヤの喉を切り裂いた細身のサバイバルナイフ。柄の尻に銀のチェーンがついて揺れている。ほっそりとした白い指に似合わないごつごつとしたそれは、エリヤの所在なく開かれた手に握らされる。


「あなたが、殺して」

「え」

「多少の手際の悪さは我慢します。私の頸動脈はここです」


 そう言って水仙の茎のようなしなやかな首の中程をとん、と指で叩いた。

 金属的な光沢を放つ異様な世界の中に浮かび上がる、真っ白な女子の首筋。丁寧に拭われてなお、血を吸ってテラテラと鈍く光る手の中の刃。エリヤは己の力が、彼女の皮膚を切り裂き、唇のように真っ赤な血が迸ることを、彼女の白い頬が力を失い、その肢体が己の目の前でぐったりと崩れ落ちる姿を想像した。


「え…俺…やっぱ無理かも、ごめん…」

「さっき、自分が代わるって言ったじゃないですか?」

「なんだろう…あまりに不道徳すぎるというか…俺にはまだ早いような」

「異世界の道徳にお詳しいんですか?」

「そうじゃなくて……あまりに……その、ええと……」


 エロいと思う、という言葉をエリヤは飲み込んだ。その瞬間。


「あああもう時間の無駄ですね。はい、ぐさっと!!」


 刃を握ったその手を引っ掴まれ、無理やりに彼女の首に持っていかれる。あっと思う前にエリヤの目の前を鮮血が染め、


「うああああ!」

「はい、あなたもぐさっと!!!」

「うあああああああああああ!!!!!!」


 彼の心臓からも、同じ色の血が迸る。

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