第2話 帰宅の定理

「落ち着きましたか?」

「すまん、さすがに……今のは、俺が、悪かった……、でも、ママに会えないと……ここはママのいない世界だと、思ったら……」

「本気で泣かれると何だか申し訳ない気がするのよ」


 地上に降りてきた高野流星に肩を叩かれ、ようやく浅見原エリヤは立ち上がる。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔は、高野流星の艶やかな黒髪の遥か上にあった。


「ずいぶん身長が高いんですね」

「183cmある」

「高身長でいい声のマザコンというのは迫力のある気持ち悪さがありますね」

「お前、口悪い…」

「エクストリーム帰宅においては帰宅タイムも重要な採点要素ですので。部員のメンタルケアは大事ですが、いつまでも構ってはいられません」


 再び、すっと彼女は宙に浮いた。エリヤの目線をふわりと追い越して美しい頭部がのぼっていく。


「それ、どうやんの?」

「元の世界と同じ物理法則を前提にするから脳に縛られるのです。『あなたは浮けます』」


 そう言われても、エリヤの足は一向に地面から離れない。高野流星は、長い足を無意味にもぞもぞさせたり小さくジャンプするエリヤを黙って見ていたが、やがて冷たく切り捨てた。


「まあいいです。どうせこの世界からはもう出るので」

「まじ?!早く言えよ?!俺が馬鹿みたいじゃん!!!」

「あなたは馬鹿だとは思いますし、元の世界に帰れるとは言っていません」


 再び血の気が引いて倒れそうになる高身長マザコン男を尻目に、高野流星は宣言する。


「今から行うのは、異世界ガチャです」

「異世界ガチャ?」

「帰宅部。帰宅の定理はご存知ですか?」

「聞いたこともねえけど」

「これだから家に帰るだけの輩は。帰宅の定義から始める必要があるじゃない」

「家に帰るだけだろ」


 良く知っている単語から形作られる、聞いたこともない言葉。俺は何の問答をしているんだろう、と浅見原エリヤは首をかしげる。不気味な夕暮れのような風景は、さっきから風が吹き抜ける他の変化もない。

 切り揃えた前髪の翳になった高野流星の切れ長の目が、理詰めの光を帯びていく。


「家とは。帰るとは。あなたはその意味を説明されたことがないんですか?」

「ないけど……」

「そんな様子で帰宅部を名乗っていていいんでしょうか」

「他に何を名乗ればいいんだよ」

「それではよく聞いてください。帰宅の第一歩は、


 その一音一音が、ガラス玉の雫のように、エリヤの耳朶に降り注ぐ。


「……これこそ、帰宅の公理。a=bならばa+c=b+cと同じくらい、揺るがない前提です。でしょ?」


 家ではない場所にいるから、帰る。

 エリヤにも、それは理解できた。


「当たり前だろ。馬鹿にしてんのか」

「公理というのはすなわち当たり前という意味です。公理と定理を積み重ねて形作られる高等数学も、実質的には当たり前です。それともあなたはプリンストン高等研究所に行っても『お前らのやってることは当たり前だぞ、俺を馬鹿にしてんのか』と言えるんですか?あなたはピタゴラスを侮辱するんですか?ユークリッドを、アルキメデスを、プラトンを侮辱するんですか?」


 何かよくわからないがえらい勢いで怒られたエリヤは黙り込んだ。高野流星というこの女、わりと進学校の校内で学力もトップクラスということは聞いていたが、その分どこか怒りのラインがおかしいようだ。


「……それはともかく。そこから導き出される帰宅の定理その1。『帰宅とは、家ではない場所から家に移動すること』」

「はい」

「その1を発展させるとこうなります。その2。『帰宅とは、家ではない場所から、より家に近い場所へと移動し続ける一連の行為である』」

「はい?」

「もうついてこれなくなりましたか?あなたの平凡極まる帰宅も同じでしょう。あなたは一歩踏み出すごとに、家に近い場所へ、家に近い場所へと己の存在を移し続けている。そして最終的に、己の存在と家という二つの点は重なる」


 そう言われればそうかもしれないが、ただ家に帰ることをわざわざそう表現されても、エリヤには戸惑うものがある。


「エクストリーム帰宅において、『より家に近い』という概念はこう定義されます。『A地点とB地点の間で、【自宅性ホームネス】の高さを比較したとき、それがより高い地点のほうが『より家に近い』」

「はい」

「生返事でしょう」

「はい……はい?」


 高野流星はしなやかな瞼を細めて睨みつける。


「【自宅性ホームネス】の概念はエクストリーム帰宅という競技の肝なの。その理屈を一瞬で理解できるほど、あなたは頭が良いようには見えませんね」

「最初っから理解できてねえよ……」

「どこからですか?もう一度説明しますか?」

「いや、いいです」

「じゃあ先に進みます。【自宅性ホームネス】は一般的には、物理的な自宅との距離に反比例しますが、必ずしも常にそうではありません。むしろエクストリーム帰宅においては、『そうではない』ことを前提とした行動が必要となります」

「……家に近づくだけじゃないってこと?」

「多少は理解できますか。そうね、非常に単純な例だけど、エベレストの頂上にいて、日本の方角に一歩踏み出せば家に近づいたことになりますか?ならないでしょう?この場合、より【自宅性ホームネス】が高いのは、自宅の方角ではなく下山口の方向です」

「そう言われりゃそうだけど」

「それで、この異世界ですが。いくつかの状況証拠から見て、おそらく」


 そう言って彼女は、すっと腕を伸ばし、ぐるりと周囲を指さした。長袖のセーラー服の白い袖が、風を受けて紫の翳をはらむ。


「世界中、均一に、【自宅性ホームネス】が著しく低い」

「そりゃ異世界だからな」

「いえ、異世界であっても【自宅性ホームネス】の濃淡があればとっかかりになるのですが……」


 そこまで言って、高野流星は首を傾げた。ああ、そうか、と赤い唇が小さく動く。


「あなた流の言い方ならこうね。『この世界には、そもそもママという概念がない』」

「!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」


 その瞬間、浅見原エリヤの身体が宙に跳ね上がった。それはもう激しく、長い手足が花火のように宙に広がる。喘ぎながら空中でもんどりうって跳ね返って、どうにか彼は高野流星のそばに静止する。


「物理法則のこと忘れましたね」

「理解した。ここが『異世界』という意味を」

「何よりです。『ママという概念がない世界では、ママに近づくこともできない』。つまりこの世界でどこに移動しても無駄ですので、とりあえず世界を捨てます」

「ああ。そうしよう。捨てよう、この世界」


 低い無駄に色気のある声で同意してから、エリヤは、でも、と続ける。


「どうやるんだよ」

「異世界転生のテンプレくらいは知っていますよね。トラックにはねられて死亡です」

「トラック無いけど」

「まあ、死ねばいいので」


 刹那、高野流星はセーラー服の襟の下からきらりと光るものを引き抜いた。あっ、と思う間もなく、宙を切り裂く彼女のスカートの起こす風と、甘い百合の匂いが鼻を突いて。


「はい、御覚悟」


 ビュッ。


 首に閃光のような痛みが走り、エリヤの視界が真っ黒になった。

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