ママ・アイムホーム―EX帰宅部長とマザコン男子、異世界から帰宅します―
@mrorion
序章 はじめにシュールな世界ありき
第1話 その美少女はママではない
英文法の教科書に「I woke up to find myself in trouble」という文が載っている。これは「起きたら困ったことになっていた」と訳さなければならない、と教わったけれど、それでは雰囲気が出ない、と浅見原エリヤはいつも思っていた。
「俺はトラブルの中にいる自分自身を見つけるために目覚めた」。間違った訳し方といわれるこっちのほうが、正しく思える。まだ寝ていてよかったのに。寝ていた方がよかったのに。
わざわざ、こんな状態にある自分を見つけるために目を覚ましてしまった。
ああ、ママ。俺、起きちゃった。
エリヤは身体を起こした。灰白色のぬめぬめしたゲル状の液体が、砂漠のように見渡す限り広がっている。学ランにべっとり張り付いたぬめぬめは、手で撫でると砂のように剥がれる。空は淡い紫色と青の中間、砂漠の間に建物の残骸のような白いものが突き出している。夕暮れのようだ。影は暗い紫になって纏いつく。
見たこともない風景。脈絡のない状況。
俺はどうしたんだ。今は朝か昼か夜か。ここはどこだ。エリヤは頭の奥に意識を集中した。しかし何も思い出せない。頭を捻りに捻ってやっと、金曜日の夜に入ったバーガーキングの看板に蛾が泊まっていたことを思い出した。バー蛾ーキング。ちがう。今それはどうでもいい。
考えがまとまらない。脳みそが半分どこかへ行ったみたいに。
どうしよう。どうしよう、ねえ、
「ママ……」
思わず口にすると、答えが返ってくる。
「私はあなたのママではないですね」
振り向けば少し離れたところに、セーラー服を着た少女が砂に腰まで埋もれていた。切り揃えられた長い髪と臙脂のリボンが、白いブラウスに妖しい翳を落として揺れている。
不定形で不気味な風景の中で、長い睫毛の影が紫に瞳を縁取って。
「……え」
思わず声が漏れるほど、冷たく端整な顔。
見惚れられるのにも慣れた彼女は、唇の端だけを吊り上げて、繰り返す。
「私はあなたのママではないですね」
凍り付いていたエリヤの頬は、その言葉で動き出した。
「……そうだ、違うぞ!!お前は俺のママじゃない!お前はママじゃない!!ママじゃない!!!」
「共通認識のようで何よりです」
「何返事してんだ?なあ?俺はママを呼んだんだが??」
「浅見原
「お前は、お前は……えーっと」
「エクストリーム帰宅部の高野流星。ご存知でしょう。あなたも帰宅部だったんだから」
「あーっ!」
その瞬間、英文法とバー蛾ーキング以外の記憶が一つ帰ってきた。
エクストリーム帰宅部。全国大会常連の強豪だったという、その部を支えていたエースこそが2年生の高野流星だ。北方領土四島及び恐山に配置された各部員を3時間20分で神奈川県相模原市の自宅に全員帰宅させ、夏の全国高校帰宅選手権団体戦の部・準優勝を勝ち取った絶技は、校内で知らない者はなかった。
「北方領土もまとめて『帰宅』させたかったのですが、今後の課題とします」
彼女は夏休み明けの全校集会でそう述べ、残暑厳しい校庭を一瞬、北の果ての空気で冷やしたのだった。
しかしエリヤの記憶には、もっと別の情景が浮かんでいた。
「お前ら、毎日毎日帰宅部の邪魔を」
「仕方ないでしょう、帰宅部は帰宅の邪魔なんですから」
そう、学校の名を全国に知らしめた彼らの横暴を、校内で止められる者はなかった。そしてエクストリーム帰宅部の目の敵こそ、ただの帰宅部だったのだ。
通学路は我々のトレーニングルーム。そう言って憚らない彼女らは、校門に電気柵を仕掛け、道に象を放ち、JR横浜線の駅前ロータリーを無限回廊にした。
部活動のある生徒たちの下校時刻には、エクストリーム帰宅部も部活動を切り上げるので問題はない。結果的に、部活動の時間に帰宅する帰宅部だけが、毎日彼らの暴虐に巻き込まれていた。
どこからともなく現れた灰色の幼稚園児数十名に取り囲まれ、黄色い幼稚園カバンで袋叩きにされた記憶。横断歩道がダメージ床のようになっており、「トラマナ使えないのに帰ろうとするんじゃねえぞ!」と野次られた記憶。道一杯に鴉の食い荒らした
「お前らは……お前らこそが帰宅部の敵……」
「感謝してください。今は私だけがあなたの頼りですよ」
高野流星はばっさり遮る。
「は、なんで?」
「あなた、ただの帰宅部のくせにここからどうやって『帰宅』するつもりなんです?ここがどこかもわかってないのに」
さすが、エクストリーム帰宅部長。
ここまでの異常事態から、早速帰宅しようとしていた。
一瞬感心しかけたエリヤは、そこで正気に返る。
「いや、ここどこなんだよ」
砂に埋まった流星は、そのまますっと上空に浮かび上がった。
「まず、こうする」
「え?物理法則無視してない?」
「ここでは無視していませんね。あなたが寝ている間に、私はある程度この世界の法則を推測しました」
「この世界ってなんだよ」
「この世界はこの世界です。そう、ただの帰宅部はそれすら気づけないの。何というタイムロス」
灰白色のぼやけた光の中で、高野流星のひざ丈のスカートがゆらりゆらりと上空で揺れる。膝までのスパッツを履いた太ももが、紺のプリーツの蔭から覗いていた。
「ここは異世界です」
「―――異世界?」
「私達は異世界に転移しました」
こともなげに言い捨てる、宙に浮いたクール・ビューティーの女子高生。
古いガラスのベルを鳴らすような、わずかに罅割れて深く響く声。
荒涼とした砂漠に、この世のものとは思われぬ玄妙な青と薄紫の空。
その情景の異様な美しささえ、エリヤの脳では処理しきれず。
「異世界?」
「エクストリーム帰宅にはインカレもありますが、さすがに異世界からの帰宅が出題されることはありません。しかしすべての応用は基礎から始まりますから、基礎がしっかりしていればどこからも帰れることの証明としたいですね」
「……異世界??」
「記録を取りたいのですが生憎初期の持ち物制限がきついようですし、私は生徒手帳のメモ欄を常日頃大いに活用しているので空きページがあまりありません。浅見原エリヤ、あなたのページも借りたいんですが、生徒手帳は持っていますか?」
「………異世界???」
「もしこれが悪い夢なのではないかと考えているならそれも結構です。ただ、結局のところ醒めない夢というのは異世界と同様ですから、アプローチはやはり変わりません。私はエクストリーム帰宅部長として、部員やパーティメンバーを放置するという行為はできませんので、貴方には意思に関わらず付いてきてもらいますからそのつもりで」
「ママぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!!!!!!!!!!」
突如、エリヤは魂の慟哭を発した。
冷然とした高野流星すら、その麗しい眉根をぎょっとしたように吊り上げるほど。無駄にイケボの低音ボイスが腹の底から共鳴し、その痛ましい咆哮は異世界の砂漠に広がっていく。
慟哭が果て、エリヤはゲル状の砂漠に顔を埋める。肩が震えていた。温度も匂いもない異世界の風が二人の間を抜けていく。
ようやく、声を絞り出したのは高野流星のほうだった。
「……私はあなたのママではないですね。その前提はとりあえず大丈夫ですか?」
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