16
「はーい」
一番に声をあげ、応対に出たのは俺ではなく未央だった。勝手知ったる我が家のように振る舞う様は幼馴染というよりも姪っ子みたいなものだが、俺にとってもそれはあまりにも日常の光景だったので、つい咎めることなく彼女に対応に出てもらった。それよりも思考は如何にして同棲を回避するか、という難題に向けられていたが、
「あの?」
疑問の声に続いて響いた未央の悲鳴により、それは中断された。
「未央?」
声を出すよりも早く俺の足は廊下へと出る。玄関に向けた視界は開け放たれたドアの向こうに黒尽くめの何者かが未央を担ぎ上げ、走り去っていく姿が一瞬だけ映ったのだ。
「おい、どうしたんだ、信永」
「まずい。未央が攫われた」
「はぁ? 今時玄関開けたら一分で人攫う奴がいるかよ」
「いたんだからどうしようもないだろ! とにかく追うから警察に連絡頼む」
俺は猛田にそう言うなり玄関へと向かい、スニーカーに足を通すと一気に外まで走り出る。
「信永さま」
その俺の隣にいつの間にか現れた蘇芳エルザは、俺と共に逃げ去る犯人の背中を見た。
「ビルに追わせます」
「けど」
「大丈夫。ビルならすぐに処理してくれますから。ビル、お願いします」
「御意」
その声は背中から響いたはずだが、振り返ってもビルギットの姿はどこにもなかった。
「蘇芳さんは未央たちと一緒にいるんだぞ」
とにかくそれだけ言って、俺は走り出す。
しかし相手は軽いとはいえ未央を担いだ状態にもかかわらず、もう姿が豆粒くらいになっている。ゆっくりと曲がった住宅街の狭い路地で、幾つか脇道もある。走っていってもとても追いつけそうにはないが、体力だけには自信があった。
何時間でもかけっこして、相手が疲れたところを捕まえればいい。
そんな考えもあったが、
「あれ……」
五百メートルほど走ったところの十字路を左に曲がったところで、ゴミ置き場に頭から突っ込んでいる黒尽くめの姿があった。未央は既にビルギットに助けられ、涙を浮かべた目で俺を見る。
「信永ぁ」
駆け寄ってきたのを胸元で抱き留め、「怖かったよぉ」と鼻水を
黒尽くめはゆっくりとゴミの山から自身の頭を引き抜くと、近づいてきたビルギットを見て慌てて立ち上がる。逃げようと背を見せたが、ビルギットは素早く相手の体を押さえるとその首にナイフを当て、一気に喉元を切り裂こうとした。
「ビル」
だがそのコンマ数秒前に、耳馴染みのある声が響く。
「姫様。しかし」
「良いのです。こちらの世界では安易に殺すことはなりません」
「ですが……あっ」
その一瞬の隙だった。
黒尽くめはその衣服を脱ぎ、ビルギットの手から抜け出し、下半身に薄いショーツをつけたような半裸状になって塀に上ると、俺を一度だけ見てから、首から下げていたペンダントをむしり取り、それを呑み込んだ。
「まずい」
ビルギットはそう言うが早いか、蘇芳エルザではなく何故か俺の方へと駆けてきた。彼女の手にしたナイフを見て、俺は――刺される? ――という嫌な想像をしてしまったが、避ける間もなく体は衝撃を感じ、背中から倒れ込んだ。
何が起こったのだろう。
そう考えようとした刹那、大きな爆発音が耳を劈き、目の前を強烈な光が襲う。
十秒ほどしてから開けた瞳は、空にゴミが舞ったのを捉えていた。
――自爆?
俺は黒尽くめの女を確認しようとしたが、自分の首の辺りに何やらざらついた別の感覚が触れていることに気づき、そちらに視線を向けた。赤茶げた癖の強い髪が鼻先にある。ビルギットだ。彼女の体が俺に覆いかぶさっていた。
その髪に砂や小さな紙くずが付着している。俺は右手でそっと、それを払い落とした。けれどビルギットは動かない。
「あの、紅石さん?」
声を掛けてみるが、反応がない。
「ビルギット?」
俺は名前を呼び、自分の体を起こす。
彼女を抱きかかえるような形になったが、目を閉じ、首がだらりと下がった。
すぐにその胸に耳を当てる。鼓動はあった。死んだ訳ではなさそうだ。
ただ自分の右手が、彼女の背中を抱きかかえるその手が、べっとりと濡れている。
俺はまず周囲を見回した。塀は破壊され、ゴミ置き場の黄色に塗られた鉄製の籠はどこかに消し飛んでしまっている。
蘇芳エルザは心配そうにこちらを見ているが、彼女の着ていた未央の服もその布面積を半分程度に減らしていた。破れ、旗のように残った部分が風で揺れている。
「ビル……」
その彼女の目が俺ではなく、俺の抱きかかえているものへと注がれる。俺も釣られるようにして自分の手が支えている部分を覗き込むと、真っ赤に染まっていた。ビルギットの背中からには大量の細かな釘にも似た鉄の棒が突き刺さり、その全てから出血している。
「蘇芳さん、救急車」
しかし蘇芳エルザには声が届かなかったのか、何の反応もない。
「くそ。スマホは……」
家に置いたままだ。
「あの、誰か! すみません! 救急車をお願いします!」
俺は集まってきたスーツ姿の会社員風の男性に、必死に助けを求めた。
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