17

 病院に運ばれたものの、手術に必要な手続きができず、俺は受付で両親に連絡を取ろうと何度も携帯を鳴らしていた。

 一旦未央の家に引き取ってもらった蘇芳エルザに確認したところ、パスポートを持っていないという。当然保険加入もしていなくて、保護者や身元引受人も分からない。

 救急担当の外科医は緊急を要するから準備だけはしておくと言っていたが、俺もまさか彼女が家族も誰もいない孤児だとは思わなかった。

 困っているところを見兼ねたのだろう。相談員の女性がやってきて、代理人として俺が同意書などの手続きをすればいいと教えてもらう。

 保険に入っていない彼女の手術費から入院費まで果たしていくら掛かることになるか想像したくなかったが、仕方ない。

 俺はその提案を受け入れ、書類に自分の名前を書き込んだ。

 手術は背中に突き刺さっている鉄の異物を全て取り除き、損傷している臓器を縫合、その後に穴も縫い合わせることになる、と説明を受けた。幸い、出血量が思ったよりは少なく、手術をしてみないと分からないが、命に別状はないだろうという見立てをしていた。


 市立病院に来たのはいつ以来だろう。元々、俺も両親も怪我もしなければ病気もない。無事これ名馬ではないが、そういう意味では良い肉体を貰ったものだ。

 一方で未央はあの元気さからは想像できないが、病院とは小さい頃から仲が良かった。風邪が流行っていれば必ず一度は罹るし、インフルエンザなどもワクチンを摂取したところでその被害から逃げられない。体のどこかが悪いとは聞かないものの、今でも毎月定期検診を受けていた。

 待合室の椅子に一人座っていると、そこに蘇芳エルザが姿を見せる。赤い花模様をあしらったジーンズに、上は七部丈のライトグリーンのブラウスだ。胸元をリボンで装飾してある。未央の見立てなのだろうが、シンプルでそこら辺にいそうな服装なのに、やはりどこかしら目立ってしまう。それが蘇芳エルザという人間なのだろう。


「ビルは」


 それだけを言うと、彼女は俺の左側のソファに腰を下ろし、もう一度顔を覗き込んだ。栗色の大きな瞳には不安の色が見て取れたが、俺が「大丈夫だろう」と答えると安堵したように微笑に変わった。


「もう、そろそろ」

「何でしょうか」

「ちょうどいいタイミングだから、そろそろ本当のことを聞かせてもらえないだろうか? 蘇芳さん。君はあの黒尽くめの女性について、何か知っているね?」


 彼女は沈黙したまま、目をゆっくりと右往左往させる。考え込んでいるのだ。即ちそれは「知っている」と答えているのと同義だった。


「そもそも転校生というのも嘘なんだろう?」

「何故、そう思われましたか」


 その切り返しにはどこか諦めにも似た吐息が混ざっていた。どうやら蘇芳エルザは答える気があるようだ。


「通常、急な転校生というものは存在しない。何故なら学校という組織は大抵が公的機関であり、色々と面倒な手続きが必要だからだ。いくら突然決まったものだったとしても、一度は本人、あるいはその家族が手続きに訪れるし、どのクラスで受け入れることになるのかといった協議も先生たちの間で行われる。その情報が漏れない、という道理がない。特にうちのクラスには自称情報通の坂口梨華がいる。彼女が転校生の情報を漏らすとは考えづらい。少なくとも前日には誰かしら噂だったとしても、誰かがうちのクラスに入るらしいという話くらいは持ち上がるよ。けれどそんなものは一切なかった」

「でもそういうことも全くない訳ではありませんよね」

「他にもある。君とビルギットはパスポートを持っていない。これは正規のルートで日本に入国していないということだ。そういう人間が転入手続きを行うとなると偽装した証明書の類が必要となるが、もしそれらを作成済みであれば俺が入院の際に尋ねた時にパスポートを持っていないという返答にはならないはずだ。しかもあの時君は“パスポートとは何でしょう”と尋ねた。それはそういうものがあるということすら知らなかったという事実を表している」


 蘇芳エルザはただ微笑を浮かべ、俺の説明を聞いている。


「他にも奇妙なことはまだまだある。俺にデートを申し出たことだ」

「それについては、お互いを知る為と答えたではありませんか?」

「そもそもあれはデートが目的ではなく、その後に話に出た同棲という状況を誘導する為の方便に過ぎない。本来の目的は俺と同居すること。そうだろう?」

「ご明察ですね。それではこちらも一つお尋ねします。何故わたしが信永さまと同居する必要があるのでしょうか?」


 彼女には俺に言い当てられて困った様子は見受けられない。寧ろそれすら見越していたかのように余裕を浮かべ、落ち着いた丁寧な口調でそう訊いた。


「それはさっき未央を誘拐しようとした黒尽くめの連中が関係しているんだろう? あいつらは何者だ? それも一度じゃないだろう、襲ってきたのは」

「信永さまは異世界、というものを信じられるでしょうか?」


 そういえば夢の中で見た彼女もその言葉を口にしていたような気がする。


「異世界。それは言葉通りに受け止めるならこの世界とは異なった世界のことだ。その場合においての“世界”の定義が分からないが、例えばここと物理法則の異なる世界が存在する、と言われたら俺はそういうものも存在しているだろうとは考える」

「わたしがもし、その異世界からやってきたと言ったら?」


 彼女の言う異世界。それはどんなものなのだろう。例えばよくアニメ等で取り上げられる異世界というのは、創作する側にとって都合の良い魔法や舞台装置が整っている世界だ。ゲームとして描かれた世界観を流用したものが多く、中にはそのままゲームの世界に入り込んだように様々なものを数値で表し、利用し、それなりにピンチを迎えつつ、冒険をしたり、生活をしたり、事件を解決したり、果ては王国や都市の建設をしたりするようなものまであると聞く。猛田はそういうものに対して「あれは作者も読者も両方がその設定を受け入れて一緒に楽しむものなんだ」と言うが、俺はどうにも馴染めない。そもそも異世界というなら自分の持ち得るものが通用しない場合の方が多いのではないだろうか。

 だから蘇芳エルザが「異世界」と口に出した時に想像したものも、曖昧だが、そういった人智の及ばない世界だった。

 なので俺は彼女に対し、こう返した。


「君にその話を教えた人物に会わせてもらいたいな」

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