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「まずはドアを閉めてもらおう。あ、ナイフはそのままだ」
渋々といった様子で彼女は部屋に入り、ドアを後ろ手に閉める。
まだ金髪の女性の方は目覚める様子はない。もし今ここで彼女に起きられでもしたら、二対一という非常にまずい構図が出来上がってしまう。
「俺は
失礼なことをしているのはお互い様だが、そこで脅迫や強要によって相手から情報を得ても仕方ない。可能な範囲で紳士的に振る舞うことが大切だ。
「ビルギット」
小さな声だったが、確かにそう聞こえた。
何語だろうか。少なくとも日本人の名前ではなさそうだ。ハーフ、あるいはクォーターという線もある。
「こっちの、あんたが“姫”と呼んだ彼女は?」
「姫様、だ!」
ついで、という訳ではないが、流れで聞けると思ったのに、思い切りビルギットに睨まれてしまった。
「じゃあ、とりあえず“姫様”としようか。それで、何故俺は襲われたんだ?」
「姫様に何かしておいて貴様!」
明らかに表情の変化から言葉としてそれが発されるよりも、彼女の体が動く方が早かった。右拳で殴りかかってきたビルギットのそれを右掌底でやり過ごすと、そのまま腕を固め、彼女の体を大きく回転させて床に組み伏せた。
「何する!」
「それはこっちの台詞だ。対話というものの文化がないのか?」
俺は彼女の背中側に曲げた腕を思い切り締め上げる。
「こ、この程度、私が屈すると思ってか!」
「別に屈してくれなくていいが、一言話す度に襲い掛かられても困る。あんたは何もしないという約束を守るつもりはないのか?」
「それとこれとは別だ! 姫様に関してだけは約束よりもずっと大切なものがある!」
「だからそれは何だと聞いているんだ」
しかしビルギットはそこで黙り込んでしまう。
まるで江戸時代の隠密のようだ。それこそ金髪の彼女は本物のお姫様なのかも知れない。
名を知らない国は多い。そもそもその存在が知られていない国、あるいは国と呼んでいいのかどうか分からないものまで含めれば、一体どれほどの数の未知国家があるのか、誰も知らないだろう。
オリンピックの参加国だけでも二百はある。
彼女がそのどこかの国の王室関係者だ、と云われたところで俺には信じるか、信じないかの二択になってしまい、確かめることは難しいだろう。
「分かった」
俺は諦めたように言うと、ビルギットに「危険な真似はするな」と念を押してから、彼女を解放してやる。すぐに立ち上がり、距離を取ったビルギットは警戒を緩めないものの、右腕をさすりながら「姫様には手出しするな」と、あちらも念を押してきた。
「彼女が本当にお姫様だとして」
「本物だ」
「じゃあ、本物の姫様としてだな、何故突然俺の前に現れた?」
日本語が理解できなかったのだろうか。ビルギットは怪訝な表情を俺に向ける。
「目の前に光の球ができて、そこから彼女は出てきたんだ。出たというか、落ちたというか。無視していく訳にもいかんし、仕方なくここに運んだという訳だ。しかも全裸だったしな」
「全裸……そういえば」
ビルギットは何度も彼女と俺を見比べた。
「貴様!」
今度は何を勘違いしたのだろう。拳ではなく、彼女の引き締まった右足が俺の前髪の先を掠めた。厳密には一秒前まで俺の額があった場所を彼女の足先が通り抜けていった。目の前で、まるで鋭利な刃物のようになった爪先が空を切る。それを見て、俺は彼女が履いているものが靴下ではなく、靴なのだと理解した。薄く、金属の糸か何かで編み込んである。目を掠めていたなら、失明してした可能性があったことに思い至り、俺は流石に顔を顰めた。
「何もしていない、という日本語は分かるな?」
「ニホン語のことは知らないが、本当に何もしていないのだろうな?」
「君たちが信じるのが何の神様か知らないが、そっちの神に誓って何もしていない。それどころかここまで運び込んで危険を回避した上に貴重な冷えた麦茶まで与えようとしたのだから、こちらには感謝してもらいたいくらいだね」
「かみ、さま? むぎ、ちゃ?」
やはりこの国の者ではないようだ。神も麦茶も知らない日本人を、俺は知らない。
「俺の方は今以上の説明はできない。見た通りを語れば今の通りだ。それより、そっちの事情というか、そもそもあんた、どうやってここに入った?」
ビルギットは顎を少し上げ、背後を見るように促す。
窓が開いていたが、本当にそこから入ってきたのだろうか。ベランダはない。少し庭があり、その先は塀に続いて狭い道路が左右に伸びている。梯子でも使ったというのだろうか。
俺は数歩後ずさり、ちらりと窓の外を覗いた。
当然そんなものはない。
だとすれば、壁をよじ登ってきたのか。何か足がかりになりそうなものはあるかと探したが、
「おい」
その
ぴったりと密着して分かるのは彼女の鍛え上げられた胸筋だ。お姫様を背負った時とは雲泥の差で、危機感の壁がそこにあるという印象だ。
いや事実、危機だった。
「やめ……ろ」
「不審者はさっさと消すのが常道。貴様もそれくらいは理解できるだろう?」
「どちら、が、不審、者……」
「姫様の前ではほとんどの者が不審だ」
力が入らない。脳に血液が回らない。このままでは意識が途切れてしまうだろう。
俺は諦めと共に、背中の方へと倒れ込む。全体重を掛けてから、両腕を振り上げ、反動を利用して両足を持ち上げる。慣れていても七十キロ弱が一気に振りかかればバランスを崩すのは道理だ。そこから壁を蹴りつけ、思い切り彼女ごと、背中から床に叩きつけた。
腕が一瞬緩む。そこに右拳を差し込み、一気に首を引き抜くと、その右腕で相手の顎を抑え込み、俺はビルギットの上に馬乗りになった。
「頼むから、話しくらいはさせてくれ」
そう呆れ顔を突きつけたが、彼女に睨まれただけだった。
「そうですよ、ビル。そもそもこちらの方は不審者ではありません。ねえ、そうでしょう、凰寺信永さま」
涼やかな声に振り返ると、そこには布団の上で正座をして微笑している、あの金髪の女性がいた。
目覚めたのだ。
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