3
部屋に入った瞬間、いや、ドアを開けた
「誰だ?」
というくぐもった声が、背中から響く。それと同時に自分の首筋に何か鋭いものが当てられていることに気づいた。
布団の上に例の金髪の女性は眠ったままだ。つまり、別の誰かが、俺の背後に立ち、部屋の主である俺に向かって「お前は誰なんだ?」という質問をしている状況が訪れていた。その声には覚えがない。しかし階段を上る足音は自分のもの以外しなかったし、それならばどうやって二階に上がったのだろう。
ああ、窓が開いている。鍵を掛けていなかったのだろうか。
中途半端に開けたカーテンがはためき、その奥に曇り空が覗いていた。
「姫様に何をした?」
どう答えたものかと
――姫様。
そういうワードを耳にするのは冗談でもこそばゆい。おそらくは金髪の女性に対しての言葉だろうが、彼女は幼少期から周囲に「姫」と呼ばれていたタイプだろうか。まさか本物のお姫様がこの現代で俺の前に現れるとは思えない。
ただ日本人ではないと仮定すると、本当にどこかの国の姫である可能性もまた排除できないが。
「……何も。ただ助けただけだ」
公用語は日本語を使っているのだろうか。知っている範囲ではパラオくらいなものだ。しかも日本では公用語というものは存在せず、慣例的に日本語が使われているだけなので、俺が使っている言葉はこの国の公用語ではないということになってしまう。
「たす、けた?」
「レスキューだ。分かるか?」
疑問符を浮かばせるというのは一方的に優位に立っている相手に対して有効だ。空気が一瞬
「眠っているのは何故だ?」
「睡眠薬でも使ったと、そう考えているのか?」
「あの姫様がこんな無防備な姿を殿方の前に晒すなどありえん。貴様が何かしたと考えるのが道理だ」
情報量が多い。そういう時には質問を投げかけ、時間を稼ぐ。
「姫とは、何だ?」
「貴様に答える義理はない」
「彼女のことか? そもそもあんたは誰だ? 彼女の何だ?」
「知る必要はない。姫様が目覚め次第、ここから消える」
「じゃあ目覚めなかったら?」
殺気というものを感じたことはあるだろうか。
人が人を本気で殺そうとした時の、その内側から漏れ臭う、どうしようもない空気の緊張を、知っているだろうか。
「お前を、殺す!」
俺はそれを今この瞬間、びんびんに感じ取っていた。
喉に当てられた何かに、力が込められる。きりきりとそれは皮膚に沈んでいき、弾力を持った表皮がすっと裂けた。おそらく血が滲んだ程度だろう。
「本気じゃないのか?」
相手を煽るのはあまり得策ではない。けれども、愚策にはしない。怒りという感情はコントロールを容易く失わせる。
今、背後の人間――おそらくは女だ――は相当身体に力が入っていることだろう。
一方、俺は呼吸も正常で、血圧は寧ろ低い。自分でも驚くほど落ち着いていた。
「本気だ」
力が更に入れられる。だがそのまま押したところで、
物事には全て道理というものがある。思っているほどそれは簡単ではなく、水は上から下に流れ、林檎は木から落ちる。
背中越しに相手の体勢はほぼ分かっていた。あまり長くない、おそらくはナイフを握る右手が一番俺の身体に近い。左手は相手が動いた時に対応できるよう、軽く曲げて待機している。体はぴったりと背後に付けている訳ではなく、やや斜に構え、すぐに次の行動に移れるような状態だ。
俺はそこで笑った。
「何がおかしい?」
そう問いかけてくるだろうと思っていたから、相手が「何が」と発音したと同時に頭を思い切り前に倒し、倒立よろしく足を蹴り上げた。うまく
「痛っ」
相手の声に続いて廊下に金属製のものが落ちた音が響いた。
俺は前転しながら部屋に入ると体を捻って起き上がり、入口に正面を向けつつ、背後に布団の女性を確保した。
「貴様」
右手を押さえているのはやはり女だった。
浅黒い肌がワインレッドの衣で見え隠れしている。癖の強い赤茶げた髪を後ろで一つに括り、艶のある小豆色の大きな瞳が二つ、俺を
彼女は俺と後ろの女性、それから転がった刃物の位置を確認すると、右足に体重を掛けた。刃物を手に取ることを選んだようだ。
「動くな」
だがその前に俺は中の麦茶を盛大に床にぶちまけ、空っぽになったグラスを手に取り、それを金髪の女性の首元に当てた。
「何をする!?」
「何もしない。あんたが何もしないと約束をしてくれるならな」
人質を取るのは卑怯者のやることだ。そう親父から云われているが、面倒を避ける為には仕方ない。本気で殺そうとしている訳ではないことは相手にも伝わっているだろう。だからこれはそういう取引だった。
彼女は二秒ほど逡巡した後に「わかった」と低く呟いた。
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