第7話

これは中学二年生の時の話。千夏と仲良くなる半年前の夏。地区大会が間近に迫る一番忙しい時期。先輩たちはいつも以上にピリピリしていて、とても話しかけにくかった。勿論、千夏へのイジメも過剰になる。


「オマエ、部活舐めてんでしょ?」

「——すみません」

「謝れば済む問題じゃない。ここで致命的なミスするとかマジで有り得ないから!」

「——すみません」


合奏練習が始まる直前のパート練習。千夏が誤って音を外し、演奏が中断される。パートリーダーの先輩は自分の楽譜を叩き付け、必要以上にミスした千夏を責め立てる。余程機嫌が悪かったのか、ひたすら頭を下げて謝り続ける千夏の髪を雑に引っ張りあげる。


「地区大会まであと何日だか分かってる?」

「あと、一週間です……」

「なのにさ、こんな初歩的なところでミスられたら、こっちは困るのよ」

「はい、すみま——」

「何回も何回もすみませんってうるせぇんだよ‼」

「——っ⁉」


おどおどした千夏の態度が気に食わず髪を引っ張ったのち、そのまま椅子から突き飛ばす。

千夏に対しての先輩たちの横暴さは看過できない。大体、千夏が異常に低姿勢になったのも、先輩たちに脅されているからだ。少しでも生意気な態度を取ったと判断したら、すぐに暴力で体を傷つけるかクソみたいな罵詈雑言で精神を傷つける。


「——」


千夏はどんな酷い暴力を受けようが、どんな酷い暴言を吐かれようが一切泣かない。突き飛ばされて床に転がる彼女は至って平常運転。髪は乱れているが、表情が死んでいる。光を失った目はどこか虚空を見詰めていて先輩たちと一向に視線が合わない。


「ずっと黙ってて気持ち悪っ。なんか痛いとか苦しいとか言えや」


先輩たちは何をされてもいつも無反応な千夏を気味悪がっていた。まるで感情を持たないロボットのようで同じ人間だと思えなかったのだろう。


「早く座って。オマエのせいで二分という大切な時間を無駄にしたんだけど‼」

「すみません……」

「謝る前に早く座れ」


私以外の後輩は先輩たちに洗脳されている。罵倒される千夏に冷たい視線を向け嘲笑う。先輩たちは事あるごとに千夏を何もできないクズとか声が小さい過ぎて言葉が聞き取れないゴミとかピッチが合ってなさ過ぎて音楽の才能がない無能だとか分かりやすい悪口を吹部のメンバーに吹き込む。その悪口にまんまと騙された後輩たちは千夏にだけ冷たい態度を取り、酷い場合は先輩たちと同様に暴力と暴言で彼女を容赦なく傷つける。

私はそれがどうしても理解できなかったし、許せなかった。正直、この状況に憤りを感じている。でも——、


「セラちゃんはホント、可哀想だよ。来年はこの子と一緒に大会に望まないといけないなんて虫唾が走るわ」

「いや、あの……」

「ホント虫唾が走るよね?」

「——は、はい」


私も所詮、先輩たちの言いなりになるクズだ。首を横に振れない自分が腹立たしく殺意を覚える。心の中では先輩たちの暴挙を止めたいという気持ちでいっぱいだが中々、行動に移せない。臆病な性格が邪魔して結局、傍観者となる。


「ごめんなさい……」


何も出来ない自分を恨み、千夏に聞こえるか聞こえないかぐらいの声量で謝る。


「ふふっ……」


気のせいだろうか。隣に座っていた千夏がふと、笑みをこぼす。ほんの一瞬、陰鬱な表情に光が差し込んだ。先輩が訝しげに千夏の表情を窺うが、その時には既にいつもの無の状態に戻っていた。


「今度こそ音外すなよ」


「クソが」と悪態をつきながらパート練習を再開する。一応パートリーダーを務めている先輩がふてぶてしく前の椅子に座り、指揮する。

机に置かれたメトロノームに合わせて慎重に演奏する。空気の悪さが不安と緊張を煽り、みんなの音が硬くなる。譜面通り音を奏でるものの、どこか物取り無さを感じる。どんなにミスせず上手く吹こうが、曲全体は無機質のままだ。傍から聴けば、心底つまらない演奏となっているに違いない。今年も運良く県大会に行けても銅賞か銀賞止まりだろう。地区大会ではうちの学校は強豪校扱いになっているが、全国で見たらレベルが低い。こんな質の低い練習しかしてないのだから仕方ない。特に"期待の星"に嫉妬して潰してしまうのは論外だ。


「――ん?」


パートリーダーが突然、メトロノームを止める。眉を顰め、こめかみにシワを作る。黙ったまま暫く譜面と睨めっこ。

勿論、練習は止まった。ゴクリと誰かが喉を鳴らす。

私はパートリーダーがメトロノームを止めた理由を瞬時に理解する。


「あれれぇ〜、さっきの十五小節目のところ。誰かピッチ外さなかったぁ〜?」


人を小馬鹿にするような口調で犯人探し。メンバーの顔を舐めまわすように見回す。


「今の音、チョ〜汚かった。はっきり言って不愉快」


パートリーダーのドスの効いた声にメンバー全員がビクビクッと体を震わす。中には恐怖のあまり両脚が震え出す人もいた。千夏は相変わらず無表情だ。


「音外したヤツだーれだ? 素直に手挙げて 」


手を挙げるヤツなんかいるわけが無い。挙げた瞬間、パート内の地位は一気に下がり、いじめの標的になる。千夏がいい例だ。いや、千夏の場合はちょっと違うか。


「多分、セカンドの子がやらかしたように聞こえたんだけどぉ〜」


セカンドの担当は二年の私と三年の先輩だ。そして薄々、音を外した犯人は気づいている。


「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ――」


私だ。緊張で気道が狭くなり、息が上手く吐けなかった。

パートリーダーと目線が合い、呼吸が荒くなる。足と一緒にガタガタと歯が震え始めた。


「セラちゃん……」


耳元で微かに聞こえた私の名前。名前を呼ばれた直後、柔らかい手の感触が伝わる。横目で隣を見るとこちらをジッと見詰めてくる千夏の顔が視界に映る。


「——まかせて」


声にならない声でそう言われた。誰にも気づかれないように私の手をそっと握り、優しく微笑む。


「すみません。音を外したのはボクです……」


何が起きたのか分からず呆気に取られていると千夏がいつの間にか手を挙げていた。自分が犯人だと噓をついて。


「おいおい、またオマエか。ちっとも反省しないな!!」

「す、すみません……」


またも千夏の髪を乱暴に引っ張り上げ、床に叩き落とす。洗脳された後輩たちもそれを見てまた嘲笑う。


「わ、わたしが――」


千夏を助けるべく声を上げようとするが、気道が狭すぎて声量が出ない。残念ながら誰も私の声を聞き取ってくれた人はいなかった。


「じゃあ、今から先輩の言う事を一切聞かないこの子にお仕置してきまーす。残りのメンバーで課題曲練習しといて」

「「「はい!!」」」


ニヤリと笑ったパートリーダーは千夏の髪を引っ張りったまま教室を後にする。

もはや日課となった別室での『おしおき』。実際に何をされているのか分からない。

パートリーダーが教室を後にした直後。私は椅子から崩れ落ち、咄嗟に両手で口元を抑える。口内で唾液と胃液が溢れ出て嗚咽する。


「おい、セラ!!」

「セラ先輩、大丈夫ですか!?」


他の先輩や後輩たちが一斉に駆け寄り、私の体調を心配する。


「どうして、どうして、どうして、どうして――?」


千夏が取った行動が理解不能で、吐き気がする。何故わざわざ自分から虐められに行くような真似をしたのか真意を知りたい。

才能がないパートリーダーも千夏が嘘を吐いていることぐらい分かっているはずだ。セカンドのミスだと言ってるくせにサードを担当している千夏をお仕置するのは矛盾している。教室を出る前にパートリーダーが見せたあの不敵な笑みから察するに千夏をどうにかして虐めたかったのだろう。ホントに性根が腐ってる。


「私のせいで――、千夏が……」


悔やんでも、悔やんでも、悔やみ切れない。少し大袈裟かもしれないが、責任を感じやすい私にとっては重大な事件だ。


「クソ、クソ、クソ、クソ、クソッ——‼」


自然と目から涙が零れる。行き場のない憎悪と悲しみを拳に込めて床を叩きつけた。


今の私は先輩に歯向かうことができない“無力”だ——。











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