第14話
街灯に薄く照らされた正門まで来て、中島は肩を上下させながら膝に手をついた。
「やっと着いた」
もう部活帰りの生徒もいない時刻らしく、穏やかな風が校舎の窓を震わせる音が聞こえるほどに静かだった。中島は呼吸を整えるための休みを取ることなく、両手で膝を押して反発力をもらい、重い足を引きずるように進み、錆びた黒い正門にもたれかかった。
中島を待ち構えていたように、正門は少しだけ開いた。
「桃瀬は先に来てるんだな」
構内に踏み入った中島は閂を差す。すんなりと開いた校舎の扉も、通り抜けた後にはきっちり内側から鍵を閉める。消火栓の赤いランプは侵入者に警告するかのように鮮やかな光を灯している。中島は切迫した足音を響かせて廊下を突っ切り、階段をのぼる。
二階まで来ると、足の運びが鈍くなった。蓄積した疲れもそうだが、この数十歩先に桃瀬が待っているという現実が体をさらに重くしていた。果てしない不安に乾かされた中島の心が、体じゅうの水分を奪っていく。
一歩いっぽ踏みしめるように歩いた。昼に見慣れたこの光景も、夜に見ると異世界のようだった。学校の廊下を独り占めしている万能感はない。
親に捨てられた孤児がひとり、家のなかを徘徊している気持ちだ。
一年一組の教室の扉が見えてきた。中島は力を込めてポケットの中の半分のハートを握りしめた。窓際の席には外を眺める桃瀬がいる。
教室の前扉はわずかに開いている。中島はそっとその隙間に手を差し入れる。
腕を手前に引いた。
頭に軽い衝撃を受けた。
床になにかが転がった。黒板消しが横向きに落ちていた。
突然のことに顔を真っ青にした中島は、窓のほうへと目をやる。
「痛かった? これはあの日のあのことのお返し」
月光に濡れた髪の下に、桃瀬の微笑みが青く浮かんでいた。
「あの日って」
「中島に襲われた日のこと」
ロボットがもつと噂された、胸の傷を確かめるために桃瀬を傷つけたあの日。あれから数日経ったいま、皮肉にも中島はまた違う動機で、桃瀬がロボットだと確かめたがっている。そして願ってもいる。
「ごめん。直接謝りたかったんだけど、桃瀬はきょう休んでいたから」
「あまり気にしてない。私はもっと中島を傷つけることをしていたから」
桃瀬は椅子ごと中島のほうに回転させる。中島は自分に言い聞かせるようにとぼける。
「それはどういう意味? 俺は桃瀬に傷つけられた覚えはない」
「そうなの? じゃあ私が説明しないと」
「頼むから全部説明してくれよ」
「ううん。答えに導くまでが私の役目だから。あくまで中島が自分で考えて答えにたどり着かないといけない」
「山内にそう言われたのか」
中島がからからの喉から大声を絞りだすと、桃瀬はリュックからペットボトルを取りだした。
「急いできてもらったから疲れたはず。飲んでいいよ」
中島はそれを受け取り、むさぼり飲んだ。喉が吸い込むのが追いつかず、口もとから制服へといくつかの水の筋が垂れていく。半分ほど飲むと、机にペットボトルを置いて席に座り、目を伏せて小さく言う。
「ありがとう」
「呼び出したのは私だから」
桃瀬はふらふらと立ち上がって教壇の右端まで行くと、白いチョークを握った。
「まずどこから始めようかな」
「桃瀬の正体から」
「それはね」
桃瀬はくすんだ黒板に三文字書いた。
「関係者、か。それだと山内に聞いたのと変わらない」
「私に聞かなくても、中島はもう知ってると思ってた」
「知ってるわけがない。自分のことも自分で理解できないのに」
「たしかにそう」
桃瀬は関係者という文字を手の背で消し、つま先立ちで新しく書いた。
仮定、中島=ロボット。
「中島は論理的類推における人間とロボットの違いに気付いた?」
「気付いてない。だからここに来てる」
「どこまでは分かったの」
「暗い側が現実の比喩で、明るい側が創作物の比喩。ロボットは創作物に感情移入することは出来ても、創作物から何らかの情報を取り込むことができない。だから俺がロボットなら情報の取りこぼしがあるってことだろう」
桃瀬は指にチョークを挟んで拍手した。
「山内さんのヒントをうまく処理できてる。でも最後の部分が分かってない。それこそ、中島がロボットたるゆえんなのかもしれない」
「待ってくれ。きっと俺には分かるはずだ」
その点を解き明かせれば自分をロボットだと思わずに済むと、中島は安堵した。この仕組みさえ分かれば、自分をロボットだと錯覚させるために父はいたずらを仕掛けたのであり、自分は両親の血を受け継いだ子供だと自信をもって言えるのだ。
創作物から得られていない情報。ストーリーを理解して楽しむ以外になにがあるのか。
「ちなみに創作物というのは、小説や映画やドラマや演劇やアニメや漫画だけじゃない。今回関係あるのは物語性が作品に埋め込まれているものすべて」
「絵は除外されるのか」
「その通り。言語と時間の流れを介して表現しうる創作物じゃないと、多くの人間のあいだで大まかに共通した物語性をもつことは難しい」
物語性。その創作物内での出来事に鑑賞者が因果関係を見出してしまう仕組み。
桃瀬は苛立ったようにチョークで小刻みに黒板を叩いている。その指から気を逸らさせようと中島は質問する。
「桃瀬、創作物を楽しむということの要件はなんだ?」
「たぶん知ってると思うけど、虚構だと分かったうえで、それを本当のこととして受け入れる鑑賞姿勢かな」
「それだけが要件なら、作者が最低限のルールだけ与えたものも創作物と言えるのか」
固かった桃瀬の表情が和らいだ。
「もちろん。だから週末に行ったお化け屋敷も創作物。物語性がきちんとあって、その物語内に来場者が参加する形。より臨場感のある形態と言えるもの」
「なるほど」
小説などのように元々がっちりと物語性があるもの、そしてお化け屋敷のように参加者の挙動によって物語性に多少の変動が生じるもの。このように創作者の権力を減らしていくと、さらに創作物の範囲は広がるはずだと中島は考えた。
例えば、スポーツやゲームだ。創作者に与えられたルールに従って、プレイヤーが役割を演じることで、物語がリアルタイムで立ち上がってくるのではないか。
「その要件ならスポーツも創作物か」
「スポーツがというより、スポーツの一つの試合が創作物と言えるかもしれない。これですべて材料は揃ったように私は思う」
「推理の材料がこれで全部?」
中島はいまだ決定的な糸口を見つけられなかった。このままでは自分を人間だと証明する手立てを失ってしまうというのに。
「全部、ではない」
桃瀬は言い淀んでから黒板に書いた。
中島がこの二か月で恋人や彼女と体験した、三つの創作物。
「これでどう?」
「二つなら分かる」
桃瀬との初デートで観た映画、桃瀬と遊園地で入ったお化け屋敷。あと一つ。
彼女と体験した、ではなく、友達や彼女と体験した、とわざわざ書いてあるのは、残り一つが友達と体験したものだからではないのか。しかし、中島は彼らと一緒に創作物を楽しんだ記憶はなかった。
思い浮かぶのは、例の女子高生が踊る動画やロボットの脳が切り開かれた動画くらいだったが、それを中島は半ば現実だと認識して鑑賞していた。今になっても、あの二つが現実の出来事なのか、虚構の出来事なのか判断できずにいる。
「うまく頭が回らない」
雪崩のように襲いくる難題と一日じゅう格闘しているせいか、思考が鈍ってくるのを中島は感じていた。が、ここでへばっている暇はなかった。両手で顔をはたいて、意識に覆いかぶさる靄を払う。
「創作物の要件は、虚構だと分かったうえで、それを本当のこととして受け入れる鑑賞姿勢だったな」
「そう。でも虚構だと信じ込むための度合いにも強弱はある」
「つまり、一〇〇パーセント虚構だと思って楽しむ場合、一五パーセントだけ虚構とだと思って楽しむ場合があると。でも一〇〇パーセント信じない虚構とはなんなんだ」
桃瀬は大きくあくびをした。
「現実だと思っていたことを途中で虚構だと感じることってない? 例えば、自分はロボットから逃げているつもりでも、実は誰かが計画したゲームだったとか」
中島はそれを聞いて、地下倉庫で逃げ回ったことを思い出した。
泉谷と名付けられたロボットが人間の命令に背き、中島たちを追いかけてきた。四人で一生懸命に逃げていたのだが、最後にはMLTの社員にすべて嘘だったと明かされた。しかし、この一連の過程の最中はそれを現実の出来事だと中島は信じており、気付いたのは社員に真実を聞かされた時だった。
「出来事に思い当たりはあるけど、俺は現実だと認識したうえで逃げていた。だから桃瀬の言う例には当てはまらないはずだ」
「ほんとうに? 追いかけられて逃げるゲームだと途中で疑わなかったの?」
追いかけられて逃げるゲーム。
鬼ごっこ。マイケルが逃げている途中で強調した言葉。
「もしかして、鬼ごっこ」
桃瀬は嬉々として、鬼ごっこ、と黒板に書いた。
「そう、マイケルくんが強調していたはず」
それを聞いた瞬間、中島は脇から汗が垂れる不快感に襲われた。
「どうして桃瀬がそれを」
桃瀬はあの日、体調不良で休んでいて現場にいなかった。マイケルと直接会話をすることもないはずであるし、山田から聞いたのだろうか。しかし山田は、マイケルが疑われるような内容をほかの人に話していないか確認までしてきたのだ。そんな彼女が桃瀬にそのことを話すだろうか。
桃瀬は首を左右に傾けて考える素振りをした。
「誰かから聞いたはず」
「俺は山田が言うとは思わないな」
と言いながらも、桃瀬の気を引くためなら山田はやりかねないとも中島は考える。山田以外の二人、マイケルと欧陽とは桃瀬は砕けた会話をできる間柄ではないだろう。
「とにかく誰かから聞いたの。でも、いま中島が考えるべきはそんな些細なことじゃなくて、リアルとフィクションの認識についてのこと」
「この二か月で俺が接した三つの創作物。そのときの経験から導き出される論文の内容。それは俺の人生に関わる問題」
まだ汗の止まらない中島はペットボトルの水を飲んだ。
仲間が減っていくパニックホラー映画、未知なるロボットの追われる鬼ごっこ、一人残された女を訪れるお化け屋敷。これらの共通点は、人間の恐怖を喚起する仕組みがふんだんに埋め込まれていること。
が、それだけではないと中島は閃いた。
この三つの創作物へと中島を誘導したのは、桃瀬だった。あの映画をぜひ観たいと希望したのも、二対二で拮抗していた企業選びで最後の決定票を投じたのも、お化け屋敷へ行きたいと子供みたいにごねたのも。
しかし、この三つの創作物へと誘導して何がしたかったのか。それに、五人での多数決をする企業選びに関しては映画やお化け屋敷のときと違って、桃瀬の思惑通りに事が運ぶとも限らなかったではないか。
中島は汗を拭いながら冷静にたずねる。
「桃瀬は俺をこの三つの作品に誘導したのか」
「そう」
「でも企業見学の件は五人の投票の多数決だっただろ?」
「うん」
「じゃあどうやって」
「どう思う、中島は?」
桃瀬は黒板に左から、山田、中島、マイケル、欧陽、桃瀬、と書いていった。
「二人の協力者がいれば行き先を決められる」
中島はその五つの名前の順番を眺めながら息を飲み、企業見学の前日に交わされたやりとりを思い出してみる。
別の企業の見学を希望したのが山田と自分、MLT社の見学を希望したのがマイケル、欧陽、桃瀬。一番怪しいと思っていた山田ではなく、桃瀬と関わりが薄そうなマイケルと欧陽が協力者。そう考えれば、マイケルが地下倉庫で鬼ごっこだと呼びかけていた事実とも辻褄が合う。
「まさか、マイケルと欧陽が」
「マイケルくんが企業見学に行く電車で提案したことが何か覚えてる?」
「マイケルの提案?」
電車の中で山田と中島が軽い口論になり、そこに欧陽が便乗して皮肉を投げて険悪な雰囲気が流れたところで、マイケルがある提案をした。
後日、桃瀬と一ノ瀬の関係を探ればいい。
「桃瀬と一ノ瀬の関係を探ればいいとマイケルは言った」
「その提案はどうなった」
三人で一ノ瀬を尾行する予定だったが、マイケルがいきなり転校していなくなり、欧陽と二人で決行することになった。もしマイケルが桃瀬の協力者だったとしたらあの日転校したのも予定通りで、一ノ瀬をすぐにでも尾行させるため自分に危機感を与えるための演出だったのかもしれない。加えてもし欧陽も桃瀬の協力者だったなら、一ノ瀬の車のタイヤをパンクさせて電車での尾行へと自分を促し、一ノ瀬の本名が山内であると露見させる演出だったのかもしれない。
中島は怖気に震えながら、ペットボトルの水に手を伸ばして飲み干した。そしてふらふらと立ち上がって声を荒げる。
「あの二人は初めから桃瀬の協力者だったのか。友達のふりをして懐に入りこんで、何らかの目的のために俺を操ろうとしていたのか」
教壇のうえの桃瀬は口を結んで斜め下を見ている。
「どうかな。今回はあくまで中島に自分で考えてほしいから」
「ふざけるな」
高校に入って初めてできた心を許せる友達。しかし向こうはずっと陰謀を心に秘めたまま、舞い上がっている自分を観察し続けていたのだ。ときには事件を争いの火種をまき、ときには不審な担任教師を追うための仲間を演じ、最後には跡形もなく姿を消し、残された愚か者を今はどこか遠い場所で見下ろしているのだ。
体が言うことを聞かず、中島は熱病患者のようによろけて椅子にへたり込んだ。心のよりどころを失ったことで、気力も丸ごとを奪われたのかもしれなかった。
「あの二人は俺を欺いていたのか」
制服のシャツを着崩して呻いた中島に対して、桃瀬はさらに追及する。
「これで論文の内容は分かった?」
「とにかく俺はロボットなんだろ。ロボットの俺を試すために、マイケルや欧陽や桃瀬や一ノ瀬が論理的類推に関する実験をしていた」
「そう考えたのね。ところで中島が自分はロボットだと疑い始めたきっかけは何だった?」
仏壇の下にある棚のなかの物の変化。まるで父が偽物の息子に真実を突き付けるような、非情な宣告だった。
「俺の出生に関するヒントだ。父さんもお前らの協力者なんだろ。あるいは今回の計画の首謀者かもしれない。俺を処分するために社の実験に協力したとか」
うなずいた桃瀬は黒板に、協力者一覧、中島父、山内、桃瀬、マイケル、欧陽、と書いた。
「これで全員?」
「もうどうでもいい。今さら誰かにすがりつく気はない」
強がって言った中島だったが、ただひとり山田だけには希望を託していた。いつもタイミングよくロボットについての新しい噂を連絡してきたのは、自分が桃瀬を嫌うように仕向けていたのだと直接伝えてくれたのだ。山田があれほど澄んだ瞳で嘘をつける人間だとは思いたくなかった。
まとめ、論文の内容は?
黒板に撫でるように書いた桃瀬は熱っぽい目で、錯乱する中島を見つめた。
「分かった?」
「分からない、俺はロボットだから。こう言えばお前らの仕組んだ大掛かりな実験は成功に終わるんだろ。この答え合わせが終わったら、屈強な男たちが俺を研究室に連れ込んで解剖でもするのか。別に文句は言わない。ロボットとして生きるくらいなら死んだ方がましだ」
やけくそになった中島が乱暴に言い散らしても、桃瀬はまったく取り乱さない。
「三つの創作物の共通点、情報の流れ、マジックミラーの原理、人間とロボットの違い。これでも分からない?」
中島はペットボトルを口にくわえて水を最後の一滴まで舐めとり、透明な表面がぼこぼこと凹んでもまだ吸いつづけ、顔を真っ赤にしながらペットボトルを窓に投げつける。そして肩に思いきり力を入れ、苦しくなったところで息に乗せて無駄な力を抜いた。
「ああ、さっぱりだ。本当に分からない。俺はこの場の雰囲気でただ泣きわめいてるわけじゃない。一生懸命考えてもやっぱり分からなくて、そんな自分を自分が信じられなくなってるんだ。だって推論できないとロボットであることが証明されるんだろ?」
桃瀬は慎重に首を横に振った。
「この推論能力が備わっていないからといってロボットとは限らない。でも今のところ、すべてのロボットはこの推論能力をもっていない。人間でもこの推論能力を持っていない場合はあるけど」
「慰めてくれてありがとう。でももう諦めたから教えてくれよ。俺には備わってなくて人間には備わっている力を」
中島はポケットからハートの片割れを抜いて机のうえに置いた。
「これは返しておくよ」
それに見向きもせず桃瀬はぽつりとこぼす。
「ロボットは、創作物での出来事を現実に当てはめることができない」
「創作物での出来事を現実に」
「だからマジックミラーみたいだと山内さんは言ってた。現実に身の回りに起きたことは創作物に当てはめて感情移入できるのに、その逆はできないから」
「暗い側は現実で、明るい側は創作物。現実から創作物への情報の流れは滞りがないけど、創作物から現実への情報の流れは遮断されてる。暗い側からだと向こう側を見通せるけど、明るい側からだと鏡になって情報が跳ね返され、暗い側には届かない」
中島はようやく謎が解けて胸のつかえがとれたのも束の間、その原理を適用して自分の状況を把握できないのが焦りになった。
三つの創作物にこの原理を適用できさえすれば、自分がふたたび自分を人間だと信じていたころに戻れるのだ。桃瀬たちに与えられたこの課題をこなしさえすれば。
時計の秒針が狂いなく左に回る音が、二人の沈黙を際立たせるように淡々と響いている。満月の光であっても教壇の端にたたずむ桃瀬までは届かず、暗い輪郭のなかの表情はぼやけている。
蒼い月明かりに照らされた中島は、二人を隔てる透明な壁を壊すために考え続ける。
創作物における登場人物の状況や感情を現実に当てはめる、とは。
映画、鬼ごっこ、お化け屋敷、それらの論理や構造を現実に当てはめようとするも、動揺しているせいか、そもそも能力が備わっていないせいか、手が寒さでかじかんで紐を結べない時のように思考がまとまらない。
桃瀬はチョークを手放してゆるく胸を張り、ポケットに片手を入れている。凛とした鼻筋には力みが感じられたが、それがどんな感情を映し出しているかは中島には読み取れなかった。まるで二人の間にはマジックミラーが立てられていて、桃瀬の心を知るための手掛かりが遮断されているかのようだった。
「やっぱり無理だ。俺には」
「分かった」
桃瀬は肩を落とした。
「三つのフィクションは中島の生きる現実とリンクしてたの。あの映画は仲間が一人ずつ減っていく状況、あの鬼ごっこは未知のロボットに日常を犯される状況、あのお化け屋敷は子供を失った親の状況。あれだけ分かりやすく訴えかけられれば、もし中島が人間なら気付くはずだと思ってた」
中島は無言でうなずくだけだった。
「これは一つずつ段階を踏んでいく実験だった。映画は座ってスクリーンを見るだけの非参加型、鬼ごっこは現実にフィクション要素を少し加えた参加型、お化け屋敷はフィクションに現実の要素をかなり加えた参加型。中島がこの構造に気付く可能性を徐々に高めていく方式で作り上げられたのが、この三つの創作物」
「説明されて理解できた。これではダメなのか」
「うん。中島に気付いてほしかったから私はお化け屋敷を出たあとに、屋敷内でのナレーターが父親という可能性をほのめかした。そうすれば水子と父親の二つ、そして仏壇の下にへその緒が現れたことを中島が結び付けられるかもしれないと思った」
あの時、桃瀬にしては珍しく必死の形相で問いかけてきた。しかし中島はその議論には付き合わず、恋人を自宅に連れ込むばかり考えていたのだった。兄は亡くなっていて、自分はその代わりの役割を担うべく購入されたロボットだとはまったく疑わずに。
「でもそもそも、こんなまどろっこしい実験の目的を推測するのは難しすぎるだろ。普通の人間でもまず無理だ」
中島はそう思うと救われる気がしたし、実際に心からそう思っていた。現実の出来事と創作物の出来事をリンクさせられる想像力豊かな人間が、世界にどれだけいるのだ。
「たしかに。現実に起きたニュースを自分の身に当てはめるのよりきっと難しい」
「だろ?」
「じゃあ今度はこっちで考えればいい」
桃瀬は教壇の左端に行ってまたチョークで書き始めた。
仮定、中島=人間。
「俺をおもちゃにして遊んでいるのか」
「中島が映画を観に行った日に言ってた。結末が分からない時は自分で決めればいいって」
「それは創作物についての意見だ。俺が生きている現実には適用できない」
「でも中島だって自分がロボットという結論で終わりたくないはず。だから今からする推論にも真面目に付き合ってくれる」
中島の心を見抜いているかのような口ぶりで、桃瀬は自信ありげに言った。
「やるよ。どうせ俺には選択肢がない」
「もっと前向きに取り組まないと」
人間の中島を実験の対象にした理由。
桃瀬は黒板を手で叩き、中島は答える。
「誰かがそれを望んだからだ。俺には一人くらいしか思いつかない」
一つの屋根の下で共に暮らしてきた父。彼以外、自分に特別な関心をもつような人間はいないはずだった。
「中島のお父さんね。じゃあどうしてこんな大掛かりな実験を?」
「俺を驚かせたいという理由だけでは大掛かり過ぎる。もっと別な真剣な理由があるのかもしれない」
「ふーん」
軽く返事しながら桃瀬は携帯になにかを打ち込んだ。そして携帯を教卓のうえに置いた十秒ほど後に、中島の携帯が震えた。
LUVLUB社をMLT社が買収したみたい。
山田からだった。
桃瀬の指示を受けて連絡をするには、十秒という時間差は妥当だと思われた。
「山田もそうだったのか」
中島にとっての最後の希望が絶たれた。マイケルや欧陽に桃瀬に裏切られた末に、孤独を埋めるため心のよりどころにした山田さえも虚像だったのだ。転校生活の区切りとなった高校にあっても、実際にはひとりとして心を通わせられた人間はいなかったのだ。
毛先を指で弄びながら桃瀬はささやく。
「心を許せる人たちが消えていく不安。そのたびに強まっていく依存心。それを観察するには中島は格好の被験者だった」
「俺が?」
「これまでの転校生活の反動なのか、中島は高校に入ってから依存心が人一倍強くなったみたい。はじめは人当たりのいいマイケルくんに依存してた。でもマイケルくんが消えると、これまであまり親しくなかった欧陽くんに依存をはじめた。そして欧陽くんも消えると、山田さんに。山田さんが消えた今、中島は誰を依存先にするの? すでに一度中島を裏切った私であったとしても依存しようとする?」
桃瀬は挑発的な仕草でポケットからハートの片割れを取りだした。
「これが最後の希望? 中島に渡した半分のハートにはGPS機能付属の盗聴器を仕組んでたの。こうすれば中島の行動をある程度は把握できると思って」
「だからあの時」
桃瀬はアクセサリーを買った後、トイレに行きたいと言った。それからトイレの前で中島はかなり待たされたのだった。その間に、プレゼントとなる部分に盗聴器を仕込んでいたと考えれば合点がいく。
しかしこの盗聴器の存在が明らかになったのは、中島にとって都合が悪かった。企業見学で渡された名札が位置情報を発信していると気付けた一方で、桃瀬に渡された物を疑うことはできなかった。つまり、フィクションから現実への構造の当てはめに失敗したという新たな例になるのだから。
「説明はもうたくさんだ。俺ごときを監視して何がしたかったんだ?」
怒りを抑えながら中島は顎から滴る汗をぬぐう。
「まずは現状把握、そして最後には教育」
「教育?」
「まずは対象者、つまり中島に自分の現状を把握してもらう。私たちがそれを説明して本人に理解してもらったうえで、問題の症状の改善に取り組んでもらうの。今回の場合は強すぎる依存心の克服」
中島は鼻で笑った。
「現状を本人に把握させるために、わざわざこれほど多くの演者と大きな舞台を用意したのか。この二か月間、俺を騙すためだけに青春の日々を浪費した元友達たちが気の毒でならない」
「それが彼らに与えられた仕事なんだから仕方ない」
「だいたい誰が演者を雇う金を払っているんだ。父さんにそんな大金を払えるわけがない。子どもを実験に差し出したらモニター料金でタダにでもなるのか」
「もし演者の使用にあまりお金がかからないとしたら?」
使用。人間を物のように扱うその言葉遣いに中島は違和感を覚え、桃瀬がその単語を用いた意味を悟った。
「人間を教育するために使用されるのは、みんなロボットなんだな」
「かもしれない」
桃瀬は中島のほうに歩み寄り、机を挟んで向かい合った。
「人間を用いるよりロボットを用いる方がコストがかさまない時代がきてる、のかもしれない」
「すでに人間がロボットを教育する時代は終わり、ロボットが人間を教育する時代が来ているのだとでも?」
中島は語尾を強めて反発したが、どこかその仮説を信じそうになっていた。
限りなく人間に近いロボットを使用することによって、教育対象者の性格的な欠点の矯正をうながす。これはまさしく、父が夕食のとき問いに出した、人間が相手をロボットと思わず人間だと思って接することの利点ではないのか。しかし、ロボットの存在が大々的に噂になった以上、人間の教育とやらは今後効果を失うのではないか。
「中島が信じるかどうかは別として、そういう時代がきているのかも。私はそれを断定的に主張するつもりはない」
「その挑発も俺を教育するためのプログラムの一つか?」
「中島がそう思うのなら、そうかもしれない」
桃瀬はのらりくらりと中島の疑問をかわしていたが、そうされるうちに中島の怒りはますます燃え上がった。
「ずっとその調子で俺を挑発してもてあそぶつもりか」
悪びれる様子もなく、ただ生真面目に桃瀬は言う。
「私に暴力を振るえるかどうか試してみれば、中島は自分がロボットかどうか確認できると思った。それなら私が断定的に答えを教えなくても、中島にとって切実な問題の答えが明らかになる」
これは企業見学の際に聞いた内容だった。製造責任を問われるがゆえに、設計者はロボットの暴力衝動を抑える、安全装置を充実させるなどの工夫を懸命に施しているのだ。
桃瀬はその論理を逆手に取れと言っている。
暴力を振るうことが可能ならば人間である。
あるいはもっと推論を弱めると、暴力を振るうことが可能ならば、優秀な設計者たちの想定を超えた、意思を自在にコントロールできる人間に近いロボットだと証明できると、桃瀬は言っているのだ。
がらんとした教室に沈黙が落ちた。
目の前にいるのが自分を騙しつづけていた偽物の恋人であったとしても、暴力によって自らの心が本物だと信じられるとしても、中島は両腕を机の下から出せなかった。心臓の鼓動より細かい痙攣が全身に広がり、口からほとばしる言葉も震える。
「俺はけっして桃瀬に手をあげられないと知ってるんだろ? でもそのどちらが理由なんだ」
桃瀬は両腕を体の後ろに組んで胸と顔を少しだけ突き出し、とぼけた顔でたずねる。
「どちらの理由?」
「ロボットの俺がそう設計されていて殴れないと思うから? 短い時間でも二人のあいだに絆が生まれていて、俺が殴るのを躊躇すると思うから?」
「中島にはまだ見落としがある」
桃瀬の柔らかな吐息が、中島の鼻づらを撫でた。
「何も分からない、考えられない」
「じゃあ教えてあげる。ロボットが暴力を振るえないのは人間に対してだけ。だからもし私がロボットだったなら、中島は人間でもロボットでも私を殴れるの」
寂しげに言いながら、桃瀬は机のうえにハートの片割れを置いた。
「なにか言い返したいけど、意識が朦朧としてうまく考えられない」
中島は制服のボタンをすべて外し、肌から浸み出してくる粘っこい汗を逃がす。空のペットボトルを掴んで口にあて底を何度も叩いたが、水は一滴も垂れてこない。桃瀬はそれを哀れっぽく見つめて廊下へと歩きだす。
「じゃあ私は行くね。二か月間ありがとう」
「俺は、自分が何者か分かったかもしれない」
鉛のように重く今にも溶けてしまいそうな体を机に乗せ、中島は叫んだ。教室に半身だけ残していた桃瀬は足を止め、振り返って言った。
「ごめん。そのペットボトルの水には、超短時間型の睡眠薬とその効果を強めるためのアルコールを混ぜてあった」
「それで、か」
崩れ落ちる中島の手にぶつかって、桃瀬が置いたハートの片割れが床に落ちた。中島は腕でかろうじて顔を守り、うつ伏せになった。桃瀬の上履きが静かに視界の端から消えていく。
「この二か月間、俺を取り囲んでいた現実はすべてフィクションだったのか」
中島は喘ぐように独り言をいった。
が、自分がロボットであるとは認められず、必死に自分を救い出すため、結論ありきの理屈を並べようとした。
すると突然、混濁した思考のなかに一筋の光が射した。
すべてのヒントが出揃っても、最後まで三つのフィクションを現実に当てはめることはできなかった。しかし、少しのヒントを桃瀬に与えられただけで、フィクションを現実に当てはめられた例もあったのだ。
魔女狩りごっこ、集団デートごっこ、友達ごっこ、探偵ごっこ、恋人ごっこ。
山田、マイケル、欧陽、桃瀬。この四人はさりげなく現実の関係を『ごっこ』と言うことによって、自分にフィクションを意識させようとしていたに違いない。
彼らがくれたヒント。そして桃瀬の助けを得つつ、マイケルと欧陽が演者だと見抜けた自分の推論能力。この二つの事実を踏まえると、自分はフィクションを現実へと当てはめられたとみなせるのではないか。
自分も無意識下では、このフィクションの演者になっていたのではないか。
「俺は人間? マイケル、欧陽、山田はロボット? 桃瀬は?」
中島は震える手で半分に割れた二つのハートをつなぎ合わせて、力なく宙に放り投げた。
月が雲に隠れて暗くなった虚ろな教室に、亀裂の走ったアクセサリーが舞い上がったかと思うと、あるべき場所に戻るように落下しはじめた。
するといきなり、中島のポケットが発した光を跳ね返してハートは輝いた。
中島は携帯の画面に目をやった。
父からだった。
そろそろすべての事情を把握した頃合いか。じつは俺から話すべきことがあって――
綺麗なハート型が、二つに裂ける音が床に響いた。
心はうつろを舞っていて 正條ろぼ @syouzyorobo
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