第13話
中島は家に帰ってすぐ、母の仏壇に向かって正座した。なにか恐ろしいことが起きる予感に冒されて、少しでも亡き母に力を分け与えてもらいたいと思ったのだ。
父が日本を発つまえ最後に置いていった、お菓子の詰め合わせが供えられている。出張から帰ってくるまでは、中島が毎日なにをお供えにするか考えなければならない。そうやって悩む時間も故人に思いを馳せる貴重なものなのだろうが、なんせ中島は母のことをほとんど知らなかった。
この仏壇に掲げられた写真はいつも見ているが、声も知らなければ好物も知らない。亡き母を胸に思い描こうとしてもそれは難しかった。
テレビの電源をつけると、十五年前に起きた女子高校生失踪事件についての特集が放送されていた。
事件が起きたのは九州某所。当時、被害者は期末のテスト終わりで昼過ぎに家にいたところを、玄関から侵入した犯人に殺害された。共働き家庭であったため被害者が一人で在宅していたこと、そして何よりも、事件が起きたのが平和な田舎町であり施錠の習慣がなかったことが原因だった。
しかし事件はこれで終わらなかった。犯人は第一の犯行のあとに別の家に押し入り、第二、第三の犯行を重ねたのだ。一時間にも満たないあいだに残虐な殺人が繰り返されたこの事件は、防犯意識を喚起する事例として、一五年経った現在もたびたび言及されている。
元警察官のコメンテーターが話すのをテレビ越しに聞きながら、中島は不吉な想像をして玄関の施錠を確認した。
家で待機しろと山内が釘を刺したのは、この状況を作り出すためだったのだろうか。担任教師なら生徒の自宅住所を把握しているのは当然であるし、一般的に考えれば、高校生の父親が夕方の時間帯に在宅している可能性は低い。
しかしそんな薄弱な根拠で、あの男が誘拐や殺人を計画するとも思えない。
玄関まで行ったその勢いで中島は階段を上り、父の寝室、自分の部屋、物置部屋の窓の戸締りを点検し、念のために父のゴルフクラブを携えてリビングに戻った。
剣でも扱うかのように斜めに振り下ろすと、虚空を鋭く切り裂く音がした。中島はそのクラブをソファに立てかけて再び仏壇に向かい、亡き母の加護を願った。
「どうか無事でいられますように。桃瀬からの連絡がきて、自宅待機が山内の策略ではないと証明されますように」
頭を下げて目を閉じて手を合わせて、この文言を数回繰り返した。
そして目を開けて顔を上げようとした時に、ふと仏壇の下の棚から白い紙片がのぞいているのが見えた。数日前、父に怪しまれないように隙なく後処理はしたはずだったので、余計に気がかりだった。
父か、あるいは誰か別の人間が、この棚を開いたのではないか。
自分が幼稚園に通っていた時に描いた絵を、父は懐かしむように眺めていたように見えた。しかし、それが演技だったとしたら。その場合、どうしてそんな演技をする必要があったのか。理由は不明だが、息子にこの棚を開いていることを知られたくなかったのかもしれない。
もっと悪いのは、誰か別の人間が棚に触れている場合だ。家族の過去の思い出など、部外者にとっては大した価値もないのに、どうして漁る必要があるのか。
不信がさらなる不信を呼ぶこの状況に、中島は疲弊していた。これまで頼ってきた友人も父もいつの間にか消え、最後の希望である恋人の差し伸べられる手もまだ届かず、一人でいるには広すぎるこの家で気を揉んでいるしかない。
出口のない迷路をさまよう亡者のような感覚だった。
突然、インターフォンが甲高く鳴った。テレビの中のアナウンサーの涙声が混じる。
「そんはずがない」
中島はテレビの電源を消し、さっき点灯したインターフォンの画面をのぞく。
いかにも配達員といった格好の男が、薄っぺらい茶色の包装を脇に抱えている。
「この人から荷物を受け取ったことがある気がする」
しかし画面はその配達員らしき男で埋めつくされており、背後に何者かが控えているかは見通せない。たかだが荷物ひとつのために危険を冒したくないと中島は思った。
これはフィクションではなく、現実の出来事なのだ。
と、インターフォンがまた鳴った。続いて、玄関の扉をノックする音がした。
画面の中では、その男が眉を怒らせて玄関扉に耳を近づけている。
「中島さーん、ご在宅じゃありませんかー」
ドアを殴るようなノック、家にいるはずの住人に呼びかける声。
「ご在宅ならお引き受けよろしくお願いしまーす。時間指定の分ですよー」
時間指定の配達。
出張が決まるまえに父が指定したのか。わざわざこんな夕方に。
「中島さーん、ご勘弁願いますよ」
二度インターフォンが乱暴な手つきで鳴らされたが、中島はゴルフクラブを握ったまま無視を決め込んでいた。これほど荷物の受け取りを拒みたくなったのは人生で初めてだった。今回のことで迷惑がかかった分は、無事に今日を終えてから誠心誠意あやまろうと考えていた。
ノック音と声が、ぱたりと止んだ。
配達員が画面から離れると、住宅街のがらんとした道があらわれた。それをしっかりと確認した中島はインターフォンの電源を切り、ゴルフクラブを床に寝かせた。
コップに氷を入れてお茶を満タンに注ぎ、一気飲みして干からびそうな全身を潤す。まだまだ飢餓感が抜けなくてもう一杯飲んだ。
いっそ家から逃げ出してやろうかと中島は考えた。
このまま指定された鳥かごにいるくらいなら、山内の予想もつかないような場所に身を潜めて、桃瀬からの連絡を待つほうが安全ではないか。
しかし実際に行動に移す勇気は出なかった。いまの自分は山内の敷いたレールの上を進み続ける義務があり、脱線したならさらに悪いことが起きてもおかしくない、彼ならきっとやる、という嫌な確信が頭にまとわりついていたのだ。
コップを流しに置いた中島は、棚からはみ出ていた紙片をふと思い出した。
仏壇の近くまで寄って身をかがめ、紙片を抜いてみる。
走り書きで今日の日付が記されている。その数字の筆跡は間違いなく父のものだ。
閉め切っていたはずの棚にこの薄っぺらい紙片が偶然挟まることは、まずありえない。
なにか明確な意図をもって、父はこの行為に及んだのだ。
「父さんは何がしたかったんだ」
戸惑いが中島の手を動かした。棚の縁までうずたかく積み重なった、中島の生育記録ともいえる品々をすべて引き出して、丁寧にひとつずつ整理していく。夏休みの日記やら父の似顔絵やら卒業文集やら、前回急いでいて気付かなかったものにも目がいった。
そうして整理も最終段階に差し掛かったころに、出生証明書やへその緒入りの木箱とはまた別の、初めて見る奇異なものが現れた。
黒い位牌だった。そして、黄金色の文字で次のように彫られていた。
中島家水子之霊位。
衝動に逆らえず、中島が位牌を手に取った瞬間、またひらりと白い紙片が舞い落ちる。
ペンにしては鈍い赤色で紙面いっぱいに、中島の本名が書かれていた。
その事実から恐ろしい真実を推し量ってしまい、中島はそのまま頭から床に崩れた。
一回目になかったへその緒が二回目に見つかり、二回目にはなかった位牌と紙片が三回目に見つかった。しかも今回はわざわざ棚に注意を惹きつけるための工夫がなされ、誰にも邪魔されずひとりで棚を探るための環境も与えられていた。
同じ名前の男がこの世で生きられず、今生きているのは自分。
次に生まれた子供に、亡くなった兄と同名をつけるはずがない。
兄の短かった生を否定して、弟にそれと同じ人生を歩むことを望むはずがない。
同じ名前をつけるのは、亡くなった息子の代わりとして生きてもらうためではないか。
山内は言っていた。
ロボットがつくられるのは、それを求める顧客がいるからだ。
父は言っていた。
自分をロボットだと思っているロボットと、自分を人間だと思っているロボット。どちらが本物の人間みたいだと、人間は思うだろうか。相手が大切な友達だったりした時には、相手が人間だという認識が親密さを感じる度合いに影響してくる。
中島は取り乱して位牌を投げた。窓が割れる音が響いた。
「これはなにかの冗談だ。いたずら好きの父さんが仕掛けたネタなんだろ。ほら、出てきてよ。どこかに隠れてるんだろ」
ゴルフクラブを持った中島は、大人ひとりが隠れられそうな場所をくまなく探していく。冷蔵庫をこじ開け、トイレをのぞき、浴槽の蓋を取り去り、衣装棚の服を突っつきまわし、ベッドの下へとクラブを差し込み、靴箱を開いてはすぐに閉じる。
「どこに隠れてるんだ。これ以上黙っているつもりなら本当に許せなくなる」
白い壁の奥にいやしないかとクラブで殴打してみると、丸い穴があいたので笑いが込み上げてきた。
「ここにいるわけないか」
父は、へその緒をげそのから揚げみたいだと言った時、なにを思っていたのか。
偽物の息子が本物の息子の抜け殻を見つけた時、なにを思ったのだろうか。
「待て、あの時の父の言葉は一切、俺を指していなかった」
赤子、息子、とは言っても、お前呼びや名前呼びすることはなかった。
これは父なりの意地の見せ方であり、自分への通告だったのではないか。
父の仏壇への祈りは、妻だけでなく本物の息子にも向けられていたのだ。
しかし、なぜ今さらになって偽物の息子を否定するのか。十五年間、息子として扱い続けてきたのに、なぜこのタイミングでこんな遠回しに伝えてきたのか。
中島は携帯を掴んだが、どうしても父に聞く勇気を持てなかった。
お前は偽物の息子で、正真正銘のロボットだ、もう必要なくなったから捨てる、などと告げられたら頭が狂ってしまいそうだった。自分が今まで差別し敵視してきた存在だったのだと確定する地獄の瞬間を迎えたくない。
「どうしてこんな仕打ちを受けるんだ。俺はなにもやっていないのに」
母の遺影に目を合わせようとしたが、写真のなかの両目の焦点はどうやっても捉えられなかった。別の誰かに向けられてはいても、偽物はその眼中にないようだった。
「母さんは俺の生きている姿を知っていたのか。それとも母さんが亡くなってから、父さんが独断で俺を買い取ったのか」
前者だと信じられれば、この両目は自分に微笑みを投げてくれると思えた。
携帯が震えた。
中島は画面を食い入るように見た。
桃瀬からだった。
教室で待ってる、できるだけ急いで来て。
待ちに待ったこの返信も、いまの中島には心の処刑への招待状のように感じられた。心の隅にまだ微かな希望の残している自分を地獄に突き落とすために、桃瀬が満を持して教室に呼びつけたのだと思うと足が重かった。
しかし、このままひとりで部屋に閉じこもっている限り、自分の頭で弾きだした推論が答えである状況は変わらない。たとえこの十五年が偽物だったと確定するリスクが高かったとしても、自分は人間なのだと他人にお墨付きをもらえるチャンスがあるのなら、それが砂浜で万札を掘り当てるようなわずかな可能性でも、しがみつくしかない。
「山内が言った通り、俺に選択肢はないんだ」
時計は七時半を回っている。中島がポケットに最低限の荷物だけ詰めて家を出ると、肉厚な満月が空に浮かび、人けのない住宅街を照らしていた。
「今から学校に行っても入れるんだろうか」
しかし桃瀬が言うからには入れるのだと思い直した。これはもはや子供のいたずらの範疇には収まらない、企業に所属する大人たちが仕組んだ計画なのだ。山内を始めとする大人たちがお膳立てしているはずなのだ。
マイケル、山田、欧陽からの連絡がないのを確認してから、中島は全速力で走りだす。下り坂でこけないようになど考えず、ひたすらに少しでも前へと足を運ぶ。
並木道を通り過ぎて、横断歩道を渡り、駅のロータリーに止まったバスから降りる乗客に混じり、改札を抜けた。と、ホームに通じる階段から大勢の人が湧いてきた。
「ちょうど電車が来たんだ」
中島は進行方向を無視して上ってくる客を押しのけながら、階段をほんとんど滑るように下っていった。
「駆け込み乗車は危険です」
駅員の注意がこだまするホームに降り立った瞬間、電車の扉が閉まった。その窓の向こう側には、混雑した車内でしかめっ面をする欧陽らしき男がいた。
青いシャツを着て、ファイルに挟まった書類を集中して読んでいる。
「欧陽、俺だよ」
発進しようとする電車の窓を叩こうとする中島を、駅員が押し返す。
「危険です。次の電車がすぐに参りますから」
「ここに転校した友達がいるんです」
外の騒ぎに気付いて欧陽らしき男が窓を見つめた。電車はためらいなく動きだし、その男の姿は夜の線路に消えていった。
「お客様、困りますよ」
若手の駅員に怒鳴られて中島は頭を下げる。
「すみませんでした」
「電車が遅れると多くのお客様の迷惑になるので、今後もお気を付けください」
舌打ちをした駅員が去っていった。頭を冷やした中島がふと周りを見渡すと、物珍しそうな視線と大量の携帯が向けられていた。つまらない日常に突如として出現した珍獣をみな面白がっているのだ。
中島は顔を伏せて二階にのぼって姿をくらませ、また階段を下り、動画を撮られた場所から離れたところまで移動して列に並んだ。ここまで来れば、誰も自分に関心を抱く者はいないようだった。中島はようやく一息ついた。
あれが欧陽だったのか自信がなくなってきた。神経質になり過ぎて、視界に入ってくるものすべてに意味を与えているような気がしてきた。地球はちっぽけな個人など相手にせずいつも通りに回っているだけなのに、その中心軸は自分の体をまっすぐに貫いているような錯覚をしてしまう。
電車が到着して扉が開いた。中島は濁流のような人波にさらわれて乗り込む。つり革を掴める位置を陣取って顔を上げる。
車内にいる男性たちは欧陽かマイケルに、女性たちは山田に見えた。
目をこすってもう一度見直す。
見るうちに、それぞれの顔の個性が際立ちはじめ、すべて誤解だったのだと安堵した。しかし、それからも人の顔から意識を逸らすと、やっぱり彼らは例の友達たちなのではないかとの疑念が浮かび、確認せずにはいられなくなる。
目が合った人は迷惑がったり、睨み返してきたりするが、中島はやめられない。夏の盛りに人が水を求めるような強迫的な発作なのだった。理性ではどうにも抑えられない本能と化していた。
狂いかけの自分というのはちゃんと客観視できていた。だから発作に駆られた時には、ポケットの中のハートの片割れを握りしめて、残り半分のハートをもつ桃瀬から安心を分け与えてもらおうと試みる。
それでも気持ちの昂ぶりが収まらないのには、理由がある。
桃瀬が、人間なのか、ロボットなのか、分からないからだ。中島の胸の内では、恋人の桃瀬がそのどちらであってほしいかすでに決まっている。
当然、ロボットだ。
桃瀬はロボットでなければならなかった。自分のこの苦悩をともに分かち合うためには、桃瀬は人間であってはならなかった。ロボットの自分だけを取り残して、人間であってはならなかった。
それでなければ、二人で分けた二つのハートは、一つの心になれないのだ。
桃瀬にロボットの疑惑が生じても、見ないふりするか否定してきた中島は、今さらになって桃瀬がロボットであることを誰よりも望んでいる。そんな自分を嫌悪しながらも、否定できないでいる。
中島は感情に振り回される自分に嫌気がさして、山内に与えられた宿題に意識を向けた。
自律型ヒューマノイドによる論理的類推の限界――現実と虚構を隔てる透明な壁。
現実、創作物、マジックミラー、情報の流れ、論理的類推、ロボットと人間の違い。
十分に足りているのかは分からないが、山内の反応からすると、ここまでの推理は当たらずとも遠からずだと思われた。人間であれロボットであれ論理的類推の主体はつねに現実側に立ち、虚構側にある創作物を楽しむのだが、それを鑑賞する際の情報の流れ方に、人間とロボットの認識における差が生まれる。その差というのはマジックミラーの作用原理、すなわち『明るい側』と『暗い側』との非対称性によってもたらされるようだが、これは物理的な現象を指しているわけではなく、比喩的な意味なのだと山内は言っていた。
『明るい側』と『暗い側』の意味を見出せないことには活路は開けない。ずっとここでつまずいて推理を前進させられないでいる。
人工的な明るさに包まれた車内から、暗闇のみが広がるトンネルの内壁に目を凝らし、中島は体をゆすって考える。
『明るい』と『暗い』は対義語であるから、どちらか一方の意味が定まれば、もう一方の意味はおのずと定まりそうだ。この二つのキーワードをそれぞれ『現実』と『創作物』に対応させ、その対応関係を踏まえたうえで『情報の流れる方向』について『論理的類推』と関連させればいい。
そして、山内が最後に出したヒント、お前の心にあるもの、の文言。これはやりすぎかもな、とも口を濁すように付け加えていた。
このヒントが突破口になるにちがいないと、中島は野生の勘で感じとった。
自分の心にあるもの、明るい側、暗い側。
中島はこの二か月を振り返ってみる。
転校ばかりで友人関係に苦労してきて暗い過去があったため、周りの人間と同じスタートラインに立って新しい環境に飛び込めることを喜んでいた入学当初。少ないながらも気の合いそうな友達を二人作り、多少の安心感を覚えた四月。その時にはまだ彼らを信頼しきれず、自分の殻から顔だけ突き出しているような感じだった。
転機となったのは、ゴールデンウイーク明けの登校日。
自律型ヒューマノイドらしき女子高生が踊りながら砕けていく動画が拡散され、ロボットはすでに日本社会に紛れて存在しているとの疑いが出始め、それと時を同じくして中島の人間関係にも変化が現れた。
桃瀬との交際、山田との親交、一ノ瀬と桃瀬との関係への嫉妬、企業見学会での逃避行、マイケルの転校、父との腹を割った対話、一ノ瀬の尾行を通じて築かれた欧陽との信頼、桃瀬との間に走った亀裂、山田による告白と友情の芽生え、欧陽と山田の転校と桃瀬の欠席による世界への疑念、呼び出しをしてきた桃瀬への執着。
中島は胸に手を当てると、その内側でわだかまるものを感じた。
心の闇。二か月から前から持っていて、人との交流で溶けそうになりながらも、消える寸前でまた濃くなってきた闇。
比喩的に明暗を考えろとは、そういう意味なのだろうか。
論理的類推の主体の立つ『現実』が『暗い側』に対応するならば、『創作物』は『明るい側』になる。マジックミラーを通すことで『情報の流れる方向』に非対称性が生まれる。『現実』からは『創作物』への論理的類推が可能だが、逆の流れでは論理的類推が遮断される。
しかし、論理的類推が遮断されるとは何を意味するのか。
中島はちゃんと創作物の内容を理解して楽しんでいたし、そこに何かしらの不自由を感じたことはなかった。他の人が自分と同じように鑑賞しているかについては、原理的に知りえないのだからどうしようもないが。
この『論理的類推が遮断されている』というのも比喩なのだろうか。創作物の内容を理解する以上のことを、この文言は求めているのではないか。
思考を深めているうちに、中島は見慣れた風景に包まれていた。駅に併設された立体駐輪場、市営のテニスコート、乱立するコーヒーショップ。この二か月を彩ってきた様々なものが、桃瀬への接近を感じさせる。
車内にアナウンスが流れ、荷物棚からバッグを引っ張りだす大人たち。中島は出遅れないように強引に人を掻き分け、扉の近くの息苦しい場所に収まる。
ややあって、学校の最寄り駅に電車が停まった。扉が開くと同時に、中島は涼しい外へと飛び出した。左も右も分からないまま、いらぬ雑念は体から抜いて、ただ桃瀬の待つ教室だけを目指す。
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